高崎市棟高町の胸形神社。

胸形神社 (1)
胸形神社 (2)
胸形神社の創建年などは不詳。上野国神名帳記載の「従四位下胸形明神」は当社のこととされる。詳細経緯は不明だが、もとは宗像大社から勧請された胸形明神であったが、あるときから八幡神社となっていたようだ。

胸形神社へ改称(復称)は明治7年(1874年)である。確かにご祭神には宗像三女神(田心姫神・湍津姫神・市杵島姫神)が祀られている。

石鳥居は享保13年(1728年)の建立。

胸形神社 (3)
胸形神社 (4)
参道を進むと朱色の二ノ鳥居。

胸形神社 (5)
灯籠は天明5年(1785年)の奉納。

胸形神社 (6)
胸形神社 (8)
現在の社殿かは不明だが、宝暦2年(1752年)の棟札が残っている。

胸形神社 (7)
拝殿の奉納額には弓が納められている。胸形神社には正月の行事として「水的の儀」が伝わっている。これは弓矢で的を射て、その年の作物の豊凶、降水量などを占うもの。それに関する弓だろうか。

それとも、もとの八幡神社の主祭神である誉田別尊は応神天皇の化身とさるが、応神天皇は弓の達人とされている。そのことから武勇の神として多くの武士(特に源氏一門)からの信仰を集めた。その弓だろうか。

胸形神社 (9)
胸形神社 (10)
明治41年(1908年)に近隣の神明宮や琴平宮を合祀している。写真は境内社・末社の秋葉大権現と稲荷社など。

胸形神社は治承4年(1180年)に焼失したといわれる。その後再建された際に、当地を勢力下に治めていた新田氏一門の影響により八幡神社となったのかもしれない。また、地名の棟高は宗像(胸形)から転じたともいわれる。音(おん)が似ていると言えば似ているが。