吾妻郡中之条町大塚の大塚観音堂。
西向きに立てられているので、通称・西向観音と呼ばれる。

大塚観音堂 (1)
大塚観音堂は弘仁年間(810~24年)に榛名山大坊満行院菩提寺よりこの地に分かれ、無量山菩提寺として創建されたと伝わる。その後衰退していたが、大永年間(1521~28年)に再興されている。

詳細は不明だが、この時に観音堂のみとなったのかな。それとも、元々無量山菩提寺が観音菩薩を本尊とする寺院だったのか。

他説では、再興は江戸時代に入ってからの元禄3年(1690年)に、林権左衛門幸盛ら9名によるともされる。

大塚観音堂 (2)
観音堂の建立年は不明だが、昭和51年(1976年)に道路拡幅工事に伴い若干移動しているようだ。

大塚観音堂 (3)
大塚観音堂 (4)
堂内の観音さま。聖観音菩薩だと思う。

大塚観音堂 (5)
境内には常夜灯や石塔・石仏などが置かれている。左の常夜灯は寛政4年(1792年)の奉納。

大塚観音堂は吾妻33番観音札所の33番霊場にあたる。吾妻観音霊場は永延2年(988年)に整備されたとされる。その由来は坂東の聖地を巡礼していた花山法皇以下11名の高僧の元に熊野権現が現れ、「吾妻の人々の心は荒んでいて、このままではみな地獄へ墜ちてしまいます。私が道案内しますので、人々をお救いください」と懇願したと言う。これにより法皇らは吾妻の地を巡り、吾妻観音霊場(33ヶ所)を整備したとされる。

花山法皇(天皇の出家後の尊称)は、熊野から33ヶ所の観音霊場を十数年にわたり巡礼し、その33ヶ所は現在も「西国33所巡礼」として継承されている。永延2年は花山法皇が出家して3年目にあたり尤もらしい年代だが、さすがに法皇が坂東の吾妻まで下ってくることはないだろう。

関連
 「高山村尻高・熊野神社