吾妻郡高山村尻高の「添うが森」と「添わずが森」。
高山村内を東西に流れる名久田川を挟み、南側に「添うが森」、北側に「添わずが森」が相対している。

添うが森 (1)
名久田川南の森の中に入って行くと、鳥居と石祠が見えてくる。「添うが森」と呼ばれる。

添うが森 (2)
添うが森 (3)
添うが森 (4)
「あわび姫」と呼ばれた女性とその子・小太郎の墓とされる石祠。「添うが森」と呼ばれるようになったのは次の伝承による。

平将門の乱(天慶2年:939年)鎮圧のため当地に下向していた小野俊明は「あわび姫」と呼ばれる女性を慕うようになり、そのせいで出陣の機を逸してしまった。俊明はそのことを恥じて、出家して名を熱退(袮津太江とも)と改め龍海山泉照寺(現、熊野山泉龍寺)の住職となった。

天慶7年(944年)あわび姫は一子・小太郎を伴い熱退に逢いに来たが、熱退は決して逢おうとしなかった。そしてあわび姫に歌を贈った。「美しき花に一足踏み迷ひ 出家の道にかがやきにけり」
*「かがやく」は当地の言葉で「探し求める」ことを言う

あわび姫は大いに悲しみ、小太郎とともに名久田川に身を投げてしまった。その際に一首残している。「半形となるもあわびの片思ひ 未来は深く添うが森せぬ」

村人はあわび姫母子を哀れんで亡骸を葬った。この塚を鳥見塚といい、この塚に願いをかけると必ず叶うというので「添うが森」と呼ぶようになった。

今風に言うと恋愛成就のパワースポットといったところかな。

添わずが森 (1)
「添うが森」から名久田川を挟んだ北側、国道145号脇を上って行くと石祠が見えてくる。「添わずが森」と呼ばれる。

添わずが森 (2)
添わずが森 (3)
この石祠は熱退の墓とされる。

「添わずが森」と呼ばれるのは、熱退とあわび姫の伝承の続きによる。

天延3年(975年)熱退は病に倒れ、「吾れ死なば鳥見塚の相向かいに埋めよ」と遺言し、一首の歌を残して亡くなった。「身を思へば世に名を汚す人々の 迷ひの花を散らしけるらむ」

村人は遺言に従い「鳥見塚」と名久田川を挟んだ向かいの地に葬り、「熱退の塚」と名づけた。その後、熱退の亡霊が悪縁切れない人の夢枕に立ち、「吾れを信ずれば必ず縁を切らせるであろう」と言った。そこで願をかけると縁を切ることができたので、熱退の塚を「添わずが森」と呼ぶようになったとされる。

こちらは逆に縁切り成就のパワースポットかな。