高崎市新町の神流川合戦戦死者の供養塔。

新町の街中に閻魔堂がある。と言っても今回ここに行った理由は閻魔堂ではなく、隣に建っている供養塔。これは「神流川合戦戦死者供養塔」。

神流川合戦の供養塔。昭和39年(1964年)の建立。
神流川の合戦とは、織田家・滝川一益と北条氏直・氏邦が争った、戦国時代を通じて関東地方で最大の野戦といわれている。
天正10年(1582年)本能寺の変で織田信長が急死したため、近畿に戻ろうとした滝川一益と、これを機に上野国へ侵攻しようとする北条軍が、神流川付近で激突したもの。北条軍5万6000に対し、滝川軍は2万弱といわれている。結果は、北条軍の勝利に終わり、滝川軍は4000人が討ち死にしたという。
国道17号の神流川橋たもとに、神流川合戦碑がある。
(「高崎市新町・神流川古戦場跡の碑」参照)
この供養塔建立は、明治44年(1911年)の出来事がもとになっている。前年の烏川の大洪水時に流入した土砂の除去作業を行っていたところ、「堂場の塚」から多数の頭蓋骨が見つかった。骨の状況(腐敗度)から300~400年前のものと推定された。
堂場の塚は神流川の合戦の首塚であるとの伝承が残っており、戦死者の首と考え堂場墓地に埋葬・供養した。その埋葬地付近へ供養塔を建立したもの。堂場墓地は最初の写真のブロック塀の向こう側になる。

現在「堂場の塚」跡には「境野清衛翁碑」が建っている。境野清衛翁は養蚕技術の研究・開発に功績のあった方のようで、昭和57年(1982年)に建碑されている。
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