高崎市新町の於菊(おきく)稲荷神社。



天正10年(1582年)の神流川の合戦の際、勝利した北条氏が社殿を建てたのが始まり。言い伝えでは、白キツネが現れ北条氏を勝利に導いたので、稲荷神社を建てたという。


この稲荷神社が「於菊稲荷神社」と呼ばれるようになったのは、江戸時代の宝暦年間(1751~63年)のこと。
宿場町となった新町に「於菊」という名の美しい遊女がいたが、医者からも見放されるような重病にかかり、悩み苦しんだ末この「稲荷神社」に救いを求めたところ、不思議に病はすっかり治ったという。
その後、於菊は稲荷神社の巫女となり、作物の出来具合や人々の吉凶などを言い当てたことから、誰からともなく「於菊稲荷」と呼ぶようになったという。

拝殿内の「遊女参拝図」。
遊女6名と妓楼の者4名が於菊稲荷神社を参拝している様子を描いたもの。遊女6名の袖には名前が書いてあり、丸富楼の千代吉、か津、いさ、ぎん、小千代、米吉。
当時の遊女(飯盛り女)が信心深かかったことは、倉賀野神社のところでも書いたけど、まあ神仏にすがる気持ちも分かるよね。(「高崎市倉賀野町・倉賀野神社」参照)
江戸時代末には、吉原の遊女も参拝に訪れていたという。



天正10年(1582年)の神流川の合戦の際、勝利した北条氏が社殿を建てたのが始まり。言い伝えでは、白キツネが現れ北条氏を勝利に導いたので、稲荷神社を建てたという。


この稲荷神社が「於菊稲荷神社」と呼ばれるようになったのは、江戸時代の宝暦年間(1751~63年)のこと。
宿場町となった新町に「於菊」という名の美しい遊女がいたが、医者からも見放されるような重病にかかり、悩み苦しんだ末この「稲荷神社」に救いを求めたところ、不思議に病はすっかり治ったという。
その後、於菊は稲荷神社の巫女となり、作物の出来具合や人々の吉凶などを言い当てたことから、誰からともなく「於菊稲荷」と呼ぶようになったという。

拝殿内の「遊女参拝図」。
遊女6名と妓楼の者4名が於菊稲荷神社を参拝している様子を描いたもの。遊女6名の袖には名前が書いてあり、丸富楼の千代吉、か津、いさ、ぎん、小千代、米吉。
当時の遊女(飯盛り女)が信心深かかったことは、倉賀野神社のところでも書いたけど、まあ神仏にすがる気持ちも分かるよね。(「高崎市倉賀野町・倉賀野神社」参照)
江戸時代末には、吉原の遊女も参拝に訪れていたという。
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