高崎市箕郷町の満行山善龍寺。

善龍寺 (3)
善龍寺 (1)
善龍寺 (2)
永禄9年(1566年)箕輪城落城後、武田信玄は重臣である内藤昌豊を箕輪城主として、西上州の経営にあたらせた。その際、焼失した善龍寺を満行山と改号させ再建させた。

善龍寺 (4)
その後、昌豊は天正3年(1575年)長篠の戦いに参陣。昌豊は戦況不利を悟って、武田勝頼に撤退を進言したが受け入れられず、出撃して壮烈な戦死を遂げた。享年54歳。

嫡男・昌月は、家臣の大熊備前が持ち帰った首級をこの地に葬った。昌月も天正16年(1588年)に逝去し、昌豊の側に葬られた。(右が昌豊、左が昌月。)

善龍寺 (5)
善龍寺にはあちこちに、武田家紋・武田菱と内藤家紋・下がり藤が見られる。

内藤塚は善龍寺から100m位離れているが、昔はここまで善龍寺の境内だったのかな。だとしたら、相当な伽藍のお寺だったということになる。

善龍寺には長野業正の長男とされる長野吉業(よしなり)とその長子・福田五郎左衛門の墓もある。訪問記はこちら「長野業正の長男 吉業の墓・満行山善龍寺 その2