前回に引き続き、伊勢崎市宮子町の紅厳寺跡。
紅厳寺は跡部氏の菩提寺で、跡部氏累代の墓がある。

跡部家累代の墓 (1)
跡部氏累代の墓。
跡部氏は甲斐源氏の流れをくみ、信濃国佐久郡跡部を本貫地としたことから跡部を名乗っている。

跡部氏で有名なのは跡部勝資(かつすけ)。武田信玄・勝頼に仕え、武田家中では山県昌景、春日虎綱と並ぶ侍大将であった。また、外交・領国支配の双方で力を発揮した重要側近であったと考えられている。

しかし長篠の戦いでは、勝頼に主戦論主張し大敗を招き、結果的に武田氏没落の原因となった奸臣との評もある。

と、跡部勝資のことを書いたが、ここに跡部勝資の墓があるわけではない。(オレが知ってるのが勝資だけだからという理由)

跡部家累代の墓 (2)
跡部良直と正室の墓。
正室の戒名に「紅岩」とあるので、紅厳寺は正室が良直を弔うために創建したのかもしれない。

跡部家累代の墓 (3)
跡部家累代の墓 (4)
良直の養子・良保と正室の墓。

墓の前に石標が建っているものが2つあり、調べてみた。

跡部家累代の墓 (5)
良顕という徳川吉宗の時代の旗本。多数の著書を発刊している神道家。

跡部家累代の墓 (6)
もうひとつは良弼。
天保の改革を行った老中・水野忠邦の実弟で、跡部氏に養子に入る。兄の威光で出世し、大坂東町奉行時代には米価高騰に何ら手をうたず、大塩平八郎の乱の引き起こしたといわれる。とにかく傲慢な人間だったらしい。

跡部氏累代の墓は、左から古い順に並んでおり、右端が良弼。良弼は明治元年(1868年)に亡くなっているので、紅厳寺が廃寺(?)になったのは、それ以降ということになる。

勝資の弟・良直が武田氏滅亡後徳川家康の仕え、宮子に700石を領していたことから、良直家系の累代の墓がある。