伊勢崎市境伊与久の雷電神社&雷電神社古墳。
雷電神社は建保6年(1215年)に赤石城主・三浦義澄が創建したと伝えられる。
三浦義澄と言えば、一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦い、奥州合戦に参戦して武功を挙げた、鎌倉幕府初期の御家人。頼朝が死去した後には、2代将軍・頼家を補佐する十三人の合議制のひとりとなっている。上野国に領地を持っていたということ?
元弘3年(1333年)新田義貞が鎌倉攻めに際して、社殿を修理し戦勝祈願を行っている。
雷電神社は前方後円墳(雷電神社古墳)の墳丘上に鎮座している。雷電神社古墳は、6世紀末から7世紀初頭に築造された、全長約50mの前方後円墳と推定されるが、削平・変形により後円部の名残りが見られる程度である。
石室は南に開口する両袖型横穴式で、雷電神社本殿の直下あたりと考えられる。社殿横に上方からの羨道につながる穴が開けてあり、石積みの一部を見ることができる。右側に羨道が延びており、玄室へとつながっている。
玄室は長さ4.7m、奥壁下幅1.35m、中央部幅1.2m、入口幅1.15m。石材は榛名山二ツ岳が噴火した際に噴出したとされる安山岩。
ところで、石室入口の小屋(覆屋?)に「おみこし古墳」ってあり、??状態。よ~く見ると「おみこし、古墳」と、おみこしと古墳の間に「、」があった。そう言えば、中に小さいお御輿が入ってた(吊るされていたような記憶あり)。これは紛らわしいぞ(笑)。
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