高崎市吉井町多胡の慈雲山龍源寺。
龍源寺は華應存永が多胡村字元屋敷に創建したが、5世・智眼慶察のときに山崩れで堂宇・墓地ともに埋没した。正保3年(1646年)当地領主の旗本・門奈六左衛門の寄進により(開基)、仁叟寺9世・日州寿朔を招き曹洞宗として当地に中興開山。
山門は平成11年(1999年)の建立。
明治26年(1893年)山門以外を焼失。翌年再建されている。火災時に本尊も焼失してしまったため、廃寺となっていた陽福院(埼玉県賀美村)の三仏像を譲り受け、改めて本尊としている。現在の本堂は令和元年(2019年)の新築建立。
本堂前の開基塔。平成31年(2019年)に開基である門奈六左衛門のご子孫の方が建立している。
ご神橋を渡っていくと魚籃(ぎょらん)観音という観音さまが鎮座している。魚籃(魚を入れる籠)を持っているのが特徴。
境内の隅にカヤの木がある。まだ小さいが、龍源寺の本寺・仁叟寺のカヤの木(群馬県の天然記念物)の子株とのこと。(「仁叟寺の三銘木 ー仁叟寺 その4ー」参照)
蚕影山の縁起碑。養蚕にご利益のある蚕影山大権現が、龍源寺脇の山腹に祀られていたが、平成15年(2003年)に本堂内に遷されている。
義民と讃えられる白田六右衛門の墓。
白田六右衛門は多胡村の名主。元禄元年(1688年)に大干ばつが生じ、六右衛門はこの悲惨なありさまを目にして、意を決して領主より保管を命じられていた年貢米の殻倉を解放し、米をすべての人々に分け与えた。穀倉を許可なく開けることは重大な違法行為であり、六右衛門は捕えられ龍源寺前のキュウリ畑にて斬首された。元禄2年(1689年)のこと。24歳の若さであったという。
罪人として処罰されているため、墓石は非常に小さい。また、六右衛門がキュウリ畑で斬首されて以来、白田家はキュウリを作らない慣わしとなっている。
参道には六右衛門の顕彰碑も建っている。
ちなみに、当地を治めていたのは公家から武士に転身したことで有名な鷹司松平信平。まだ7000石の旗本時代。孫の信清が大名(吉井藩主)になるのは宝永6年(1709年)のことである。
コメント
コメント一覧 (2)
いつも貴重な情報をありがとうございます。
改めて撮ってきた写真を見直してみましたが、双体道祖神の写真はありませんでした。気がつかなかったようです。再訪することがあれば確認してみたいです。
Tigerdream
がしました
双体道祖神の研究をしている方がいらして、ここの双体道祖神は非常に珍しいという話を聞けました。というのも、双体道祖神であるはずなのに一体一体が独立して造られ、その上で片割れがいないからです。片割れは行方不明なのだろうと推測していましたが、何にせよ、珍しいと強調されて、貴重な体験を出来た気になれました。また、龍源寺に来訪することがあったとき、是非ご覧になってみてください。
Tigerdream
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