高崎市吉井町吉井の吉井山玄太寺

玄太寺 (1)
玄太寺は慶長5年(1600年)吉井藩主・菅沼定利の開基、仁叟寺10世・月峯牛雪の開山。菅沼氏の祈願所となった。

玄太寺 (2)
門標横には地蔵菩薩像。

玄太寺 (3)
本堂は昭和30年(1955年)に焼失、同32年(1957年)に再建されている。

旧吉井町役場(吉井支所)の近くにあり、街中のため境内は非常に狭い(昔は広かったんだろうけど)。パッと見、境内中お墓と思えるほど。

玄太寺 (4)
本堂前の菅沼定利の墓。菅沼定利は領内で検地を実施し、六斎市を催すなど治政の安定化に努めた。関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠軍の一員として信州上田城の真田昌幸攻めに参加している。ただ、これが原因で秀忠軍は関ヶ原に遅参している。

定利は慶長7年(1602年)に死去すると、同じく吉井町の仁叟寺に葬られたが、宝暦6年(1756年)末裔・菅沼定用により玄太寺に移されている。

玄太寺 (5)
観音堂。観音堂は玄太寺より古く、菅沼定利が関ヶ原出陣時にこの観音さまに戦勝祈願を行い出陣している。定利は戦中に危ういところ難を逃れたので、この観音さまを大いに信仰し玄太寺を創建したとされる。

玄太寺 (6)
玄太寺 (7)
玄太寺 (8)
本尊の聖観音像は弘法大師の御作とされる。弘法大師が修行中のまだ25歳のとき、大病を患い一命が危うい状態となった。その際、観音さまの霊夢を感じ観音像を彫り祈願したところ、たちどころに快癒したという。その観音像を守護し巡国中、当地に堂庵を結び観音像を安置したという。

観音堂は天保5年(1835年)焼失、明治13年(1880年)の再建。扁額はほぼ読めない。

玄太寺 (9)
観音堂境内の弘法大師像。

玄太寺 (10)
宝塔。立派な宝塔である。ただ、紀年銘などは見てこなかった。

玄太寺 (11)
阿弥陀三尊石像。中央の阿弥陀如来像は後背が一部欠損している。他の二尊は観音菩薩坐像、勢至菩薩坐像と思われる。上部が欠損しているが、いずれも阿弥陀如来の脇侍と思われる。鎌倉時代の作と推定されている。

相当風化が進んでおり、屋根だけでなく、覆屋で防護するなりの対策が必要だと思う。