邑楽郡邑楽町篠塚の五位堂。

五位堂の由緒は不詳。細谷秀国が新田義貞の鎌倉幕府倒幕の恩賞として「従五位右馬助」に叙任され、人々が秀国のことを五位殿と呼んでいたことに由来すると伝わる。
細谷氏は新田宗家5代・政氏の長男・国氏が細谷に領地を得たことから細谷氏を名乗っている。ちなみに、新田宗家は政氏の5男・基氏が継いでいる。基氏の孫が歴史に名高い義貞である。
秀国は細谷氏の祖・国氏の孫で、新田義貞(宗家8代)とは「はとこ」の関係。延元3年(1338年)の義貞討死後も再起を図ろうと丹後国(京都府)に身を潜めていたが、正平2年(1347年)帰郷している(北朝では貞和3年)。太平記に「天下の人傑、武略の名将」と評されるほどの人物。


堂内には阿弥陀如来像を中心に千一体仏が安置され、子授け仏として信仰を集めている。現在でも木製の小さな仏像を借り受け、子宝に恵まれると返す習わしがある。

秀国の墓所(?)。邑楽町教育委員会設置の五位堂の標柱の側面に墓所とあったので。写真の塚のようなものがそうなのかな。
ただ、五位堂のすぐ隣に細谷家累代の墓地があり、この中にあるかなぁとも思った。立派な宝篋印塔も数基あったし。

五位堂と細谷家墓地を覆うように大きなシラカシがある。樹高18.5mで根回りは6.6mの巨木。幹は4本に分かれ、幹周りは最大2.6m。


五位堂から北に数百mのところに、秀国にが帰郷後に居住した館跡がある。細谷館や右馬助館と呼ばれる。
遺構は東西160m、南北130mに及び、末裔が天正18年(1590年)に帰農するまで、在地武士の本拠となっていた。年代的に由良氏に従い北条方となっていたようだ。

県道沿いに塁濠跡が残り、中世豪族の屋敷構えをよく伝えている。
細谷氏、ならびに秀国に関して何も知らなかったので、この記事を書くにあたっていろいろ調べたことで、非常に勉強になった。
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