太田市世良田町の二体地蔵塚。


元弘3年(1333年)、鎌倉幕府執権・北条高時は、西国(近畿地方)の乱を鎮めるため、10万の兵を京都に派遣することになった。その戦費を調達するため、関東各国から臨時の税金を取り立てた。ちなみに、西国で乱を起こしたのは楠木正成。
その際に、新田荘世良田は裕福な者が多いという理由で、特に莫大な税金を課した。その使者を新田義貞が「ふざけんなっ!!」って、斬って首を晒したのがここ。
使者を斬ったのは、新田館(総持寺)であるといわれている。ここから1kmくらい。
(「新田館跡 -総持寺-」参照。)

出雲介親連と黒沼彦四郎入道の2人が使者できたんだけど、何故か斬られたのは黒沼ひとり。なので、黒沼彦四郎入道梟首遺跡となっている。二体地蔵塚の二体のもう一体は、後で別のお寺から移した。
この一件により、義貞は鎌倉幕府討幕へ進んでいくことになる。
でもかわいそうなのは、執権殿の命令を伝えにきただけなのに、斬首されてしまった黒沼彦四郎入道さん。権力をかさに、いろいろやったのかな?
まあ、しょうーがないね。
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