みどり市大間々町高津戸青木の山田氏および里見兄弟の墓。

里見兄弟の墓 (1)
高津戸峡の東側に、標高約270mの要害山がある。そこに平安末の寛治2年(1088年)、山田七郎平吉之が高津戸城を築いた。しかし、山田氏は室町時代初めの観応2年(1351年)、桐生国綱によって滅ぼされたといわれている。

その後、天正5年(1577年)里見勝政、勝安兄弟が、桐生氏に謀殺(形の上は自害)された父の仇を討つため、上杉謙信の支援を受けて高津戸城を再興し立て籠もった。

しかし、北条を後ろ盾とする太田金山城の由良氏の怒りを買い、宿願を果たせぬまま、兄弟は壮烈な最期を遂げている。天正6年(1578年)のこと。

里見兄弟の墓 (2)
里見兄弟の墓 (3)
道端の阿弥陀堂脇には、30数基分の五輪塔があり、山田氏や里見勢(里見兄弟含む)の墓といわれている。

里見兄弟の墓 (4)
里見兄弟の墓 (5)
里見兄弟の墓 (6)
里見兄弟の墓と称される五輪塔は、凝灰岩製であり形式的には鎌倉時代から南北朝時代にかけてのもので、時代が一致しない。また、勝政、勝安兄弟が、里見氏の系譜に見られないことなどから、里見兄弟にまつわる史話は、伝承の域を出ないとされている。

でも、こういう伝承が残っているのは、これに類似した事実があったからだと個人的には考えている。まるっきりオリジナルの戦記もの作るのは、けっこう大変だと思うからさ。