高碕市新町の神流川古戦場跡の碑

神流川古戦場跡 (2)
神流川古戦場跡
神流川の合戦は天正10年(1582年)織田信長が本能寺の変により倒れた後、織田方の滝川一益と北条氏直・氏邦が争った戦い。別名「金窪原の戦い」とも言う。金窪原は埼玉県側の地名。

信長の弔いに出陣する一益を阻止し、関東の支配権を確立しようとした北条方がぶつかったもので、北条方5万超・滝川方1万8千とされる。戦国時代を通じて関東地方で最大の野戦といわれる。

滝川方はよく戦ったが、最終的に一益は倉賀野城を経て厩橋城に退却し、城下の長昌寺において戦死者の供養を行った後、箕輪城で上州衆との別れの酒宴を開いたとされる。その後、清洲を経て自領の伊勢長島に帰還している。

ただ、信長の後継者を決めた清洲会議には間に合わず、戦いにも敗れていたため織田家内での地位は急落している。織田家内では柴田勝家に与し反羽柴秀吉の立場を取ったが、最終的には秀吉に降伏、出家している。しかしその後秀吉方に参陣し功を成し大名(1万5千石)に返り咲いている。

勝利した北条氏は関東一円を支配下とし、北は沼田城までを手中に収めている。しかし名胡桃城に手を出したことで秀吉の勘気に触れ、天正18年(1590年)攻め滅ぼされている。