藤岡市緑埜の堀越三右衛門の墓。
堀越家の墓所内にある。


たまたま信号で止まって、ふと目に入ったのが、お疲れの案内板(?)。「義民 堀越三右衛門の墓入口」。
ただ、堀越三右衛門って誰?状態だったので、調べてみた。
江戸時代の初めころ(徳川家綱の時代)、この辺一帯は(藤岡市と吉井町の境あたり)旗本・倉橋内匠の知行地だった。こいつがとんでもないヤツで、江戸の屋敷に住み、農民のことなどまったく考えずに、年貢は取れるだけ取るということをやっていた。
凶作が続いて農民は食べるものがないというありさまでも、年貢の取り立ては厳しさを増していった。この窮状をなんとかしようとしたのが、旧緑埜村(現、藤岡市緑埜)の名主・堀越三右衛門。
この時代、知行所に頼んでも何とかなるものではなく、最後は幕府への直訴しかない。しかし直訴は死罪である。三右衛門は直訴に成功するが、死罪となった。寛文7年(1667年)のこと。
それでも、倉橋内匠はより一層過酷な取り立てを行ったため、黒熊村(現高崎市吉井町黒熊)名主・三木市右衛門が2度目の直訴に及ぶ。残念ながら事前に露見し、8年間の投獄の末、所払いとなる。
しかし、2人の身を捨てた訴えは幕府に届き、年貢を減らす処置がとられ、倉橋内匠は追放となった。
上毛かるたに出てくる、杉木茂左衛門が有名だけど、各地に死を賭して訴えた義民がいたんだね。
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