高崎市寺尾町の太白山永福寺。
永福寺は新田氏の祖・義重が開創した永福庵が始まりと伝わる。
堂宇は大正7年(1918年)に火災により焼失。昭和3年(1928年)に再建されている。但し、山門のみ火災を免れ天明3年(1783年)の建立時の姿を残している。本堂屋根には新田氏の家紋「大中黒」が。
梵鐘は享保7年(1722年)に鋳物師・中林儀右衛門惟貞の鋳造。総高106cm、口径64cm、撞座には菊のご紋が使用され、池の間には仏語などが刻まれている。先の大戦時に供出を免れている。
境内の観音堂。永福寺は昭和55年(1980年)に開創された新選高崎33観音の8番札所になっている。
墓地には新田義重の墓がある。
源頼朝が挙兵した際、義重はすぐに参陣せず日和見的な態度をとったため、鎌倉幕府内で新田氏が冷遇される原因となった。頼朝挙兵時、義重は寺尾城(館)に籠もっていたとされ、その「寺尾」には太田・新田荘説と高崎寺尾説がある。どちらも決め手に欠けるのだが、どちらにも地元有志が建てた碑や説明板などがある。
なお、永福寺には義重の法号を記した位牌が残されている。
新田義重の墓関連
「太田市金山町・義重山大光院新田寺」(太田市金山町・大光院新田寺)
「太田市徳川町・伝新田義重夫妻の墓」(太田市徳川町・義季館跡)
「新田氏累代の墓・御室山円福寺」(太田市別所町・円福寺の五輪塔・石塔群の中に義重の墓があるとする説もある)
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