高崎市吉井町多比良の瑠璃山普賢寺。
普賢寺は延喜年間(901~23年)に比叡山13世座主・法姓坊尊意が当地で修行中に開山したという。明治末から大正年間に、近隣の柳谷阿弥陀堂、諏訪前観音堂、西浦大日堂などを合併。昭和30年(1955年)には清瀧寺、瀧の前観音堂を合併している。
山門は昭和30年に合併した清瀧寺から移築したもの。それまでの山門は元禄年間(1688~1704年)建立。老朽化のため取り壊されている。
堂宇は永禄6年(1563年)の武田信玄の西上州攻略時に焼失(直接は新堀城落城時の火災)。貞享年間(1684~87年)に再建されている。現在も本堂下や付近を掘ると、焼けた瓦や土が出てくるという。(関連「武田信玄の陣城跡・天久沢観音堂」)
鐘楼は昭和13年(1938年)の再建。梵鐘は先の大戦中に供出されたが、再鋳されている。
元の梵鐘には次のような伝説が残されている。江戸時代に大飢饉に見舞われた時、村人は鐘を吉井宿商人に質入しようと天久沢の下まで運んだが、そこでどうしても動かせなくなった。鐘が行くのを嫌がっていると思った村人は元へ戻すことにした。すると鐘は自ら転がり元に戻ったという。
境内の宝篋印塔。相輪部がない。寛保3年(1743年)の銘が見て取れた。
境内の天満宮。中には天神様(菅原道真)と思われる像がおられる。祠は平成20年(2008年)の新築建立。合併された清瀧寺から遷されたもの。
清瀧寺は菅原道真ゆかりの寺で(真偽不明だが)、境内には道真が幼少時に苦学したところと伝わる「天神の井戸」があった。また、道真直筆とされる法華経が伝わっており、これも普通賢寺に移されている。
ついでの話として、清瀧寺の本堂は昭和31年(1956年)に神流町(当時は万場町)柏木の大林寺に移築されている。
(「神流町柏木・永松山大林寺」参照)
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