高崎市東町の高崎五万石騒動義人堂。

五万石騒動義人堂 (1)
義人堂は高崎五万石騒動と呼ばれる農民一揆で犠牲になった農民代表を慰霊・顕彰するために、昭和38年(1963年)に建立されたもの。

五万石騒動は年貢の軽減を訴えた農民一揆。一揆と言っても「要望書」を提出しただけ。当時の高崎藩は幕末の下仁田戦争(水戸天狗党との戦い)などの戦費がかさみ、農民に重税を課していた。明治2年(1869年)農民が高崎藩主(大河内輝聲)に直訴に及び、後に農民の要求は認められたが大総代3名が斬首、その他獄死4名など多くの犠牲者が出ている。

五万石騒動義人堂 (2)
レリーフのような碑は水原徳言氏の設計。水原氏はブルーノ・タウトとも親交があった建築家。他に頼政神社の内村鑑三の碑の設計者としても知られる。彫刻は元武蔵野美大教授・田中栄作氏。

五万石騒動義人堂 (3)
五万石騒動義人堂 (4)
五万石騒動の記録や犠牲者名がはめ込まれている。

五万石騒動義人堂 (5)
この彫刻は何を表しているのか、オレにはよく分からない。

当所は大総代3名が斬首された場所で、当時は無縁堂という高崎藩の荼毘所であった。毎年大総代2名が刑死した2月4日前後に「義人祭」が行われ、大総代を始めとした犠牲者の慰霊が行われている。

五万石騒動義人堂 (6)
義人堂の脇に猿田忠夫の墓(その他5名の名も)がある。猿田らは水戸天狗党の資金調達のため桐生・藤岡・下仁田などを荒らしたため、元治元年(1864年)高崎藩に捕縛され、翌元治2年に斬首されている。ここに猿田らの墓があるのは、無縁堂があった名残である。

ところで、上野群馬之助という名が刻まれているが、本名とは思えない。最後まで名前を含め口を割らなかったのかな?

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