多野郡上野村新羽の天守山宝蔵寺。

宝蔵寺 (1)
宝蔵寺の由緒は不明だが、天真という僧が当地を行脚中、野栗沢川の川底から阿弥陀如来像を見つけたことから、それを本尊として創建したと伝わる。

天真が天真自性だとすると、南北朝期(1370~80年)の僧なので、その頃の創建か。

宝蔵寺 (2)
宝蔵寺 (3)
意外に(失礼)立派な山門。よく見ると2階に梵鐘が吊されており鐘楼門であった。

宝蔵寺 (4)
宝蔵寺 (5)
本堂側から見ると梵鐘がよく見える。階段がついているので登らせてもらった。

宝蔵寺 (6)
宝蔵寺 (7)
由緒にある本尊の阿弥陀如来を祀る本堂。本堂の扁額は「救世殿」。

宝蔵寺 (9)
宝蔵寺 (10)
宝蔵寺は南毛観音霊場の32番札所である。写真は観音堂だと思われるが、扁額は「御巣鷹山」。上野村は江戸時代「山中領(天領)」で、鷹狩り用の鷹を育てていた場所。そのため御巣鷹山という地名(山)がある。

JAL機が不幸にも御巣鷹の尾根に墜落したため、御巣鷹山の名前は全国区になってしまった。

宝蔵寺 (8)
宝蔵寺 (9)
参道脇の木地師の墓。

木地師とは轆轤(ろくろ)を用いて椀や盆、木鉢、杓子などの木工用品を加工・製造する職人のこと。文徳天皇(在位850~58年)の第一皇子・惟喬親王が木工技術を伝授したといわれる。

木地師は材木が豊富な場所を10~20年単位で移動し、里人などとの交易で生計を立てていた。木地師は惟喬親王の家臣の末裔を称し、「菊の紋章」の使用が許されていた。そのため、戒名の上に菊の紋章が彫られている。