高崎市吉井町小串の一行山光心寺。
光心寺は、義民・堀越三右衛門の霊を弔うため、寛文8年(1668年)に近郊村民が万日堂を建立したのが始まり。その後、元禄13年(1700年)に三木市右衛門の霊をあわせ弔うため光心寺と改められている。
堀越三右衛門が刑死したのは寛文7年(1667年)、三木市右衛門が獄に繋がれたのが寛文8年(1668年)。また、市右衛門が亡くなったのは元禄12年(1699年)とされる。
光心寺は堀越三右衛門が処刑された跡地に建つ。本堂は享保2年(1717年)に焼失したが、寛保2年(1742年)に再建されている。
堀越三右衛門、三木市右衛門の遺徳碑。平成元年(1989年)の建立。
墓地には長谷川勘蔵の墓がある。勘蔵は小串村の名主で、江戸幕府設置(8代将軍・吉宗の時)の目安箱へ意見書を出している。勘蔵の「箱訴」といわれる。嘉永3年(1850年)のこと。
幕末の時勢に対し、太平に慣れた上下とも奢侈(しゃし)に流れ、日光東照宮の華麗さ、武家の奢侈と内実の困窮、役人の専横堕落、飢饉対策の不備、江戸の膨張と地方の衰微、などを訴えたもの。
関連
「義民 堀越三右衛門の墓」
「義民 三木市右衛門の墓」
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