前橋市三河町の狐雲山正幸寺。
真田家改易後、沼田の再検地を行った高須隼人のお墓があるので再訪した。
(以前の訪問記は「前橋市三河町・狐雲山正幸寺」参照)

真田家沼田藩5代・真田信利が、本家松代藩の跡継ぎ争いに破れ、本家と対抗するため表高3万石に対して実高14万4000石を強引に打ち出したことから領民は飢餓に苦しみ、杉木茂左衛門の直訴騒動を起こし信利は改易された(別要因もあり)。
(「伝真田信利の墓・迦葉山弥勒護国寺 その2」参照)

高須家は前橋藩主・酒井家の家老職の家柄で、忠世・忠清などが老中として江戸にいることが多かったため、実質地元を取り仕切っていた。代々「隼人」を名乗っている。

真田家改易後、沼田は幕府の天領となり、再検地を行ったのが5代目高須隼人である。

高須隼人の墓 (1)
高須家墓所。寛永6年(1629年)から延享4年(1746年)までの37基の石殿型石塔がある。

高須隼人の墓 (2)
5代目隼人の墓。名を広儒(ひろもと)と言う。
旧真田沼田藩の再検地で、実際以上に重くなっていた年貢が大きく軽減されることになったので、沼田領民からは「お助け縄」と呼ばれ感謝された。5代目隼人は、正徳3年(1713年)に亡くなってている。

酒井氏の姫路転封(寛延2年:1749年)に伴い、高須家も姫路へ移っている。高須家のその後の詳細は不明であるが、天保年間(1831~45年)に断絶したと伝えられている。