邑楽郡板倉町板倉の大同山宝福寺。

宝福寺 (1)
宝福寺は用明天皇の御代、聖徳太子の開基と伝わる。用明天皇の在位は585~587年と短いし、このとき聖徳太子は11~13歳という年齢。どういう経緯でこういう伝承になったのか?

ついでに、坂上田村麻呂が東征(征夷)のおり、宝福寺で戦勝祈願をしたという。

宝福寺 (2)
普段は施錠されていて境内には入れないようだ。なので、外から写真だけ撮らせてもらった。

宝福寺 (3)
宝福寺 (4)
現在の本堂は明治期以降のもの。

宝福寺 (5)
安産子育て観音の標柱があったので、隣の建物は観音堂?

宝福寺 (6)
宝福寺 (7)
その隣は太子堂とあった。聖徳太子童子像が安置されている?

宝福寺 (8)
新しくセキュリティもしっかりしていそうな宝物庫。群馬県の重文である性信上人坐像などが納められているようだ。坐像は像高84.5cmで鎌倉時代中期の作。昭和35年(1960年)に板倉町の調査で発見された。

性信は法然に師事し浄土宗を学び、後に親鸞に帰依している。建保2年(1214年)からの親鸞の東国布教に同行。当地で親鸞が「自力本願」から「他力本願」へ回心したといわれる(性信は当地に留まったらしい)。

宝福寺 (9)
墓地入口に建つ碑には「親鸞聖人直作阿弥陀如来像、聖徳太子像、玉日像、性信上人古蹟」と記され、寛政8年(1796年)の銘がある。江戸時代には親鸞と性信の旧跡となっていたことをうかがわせる。

江戸時代の宝福寺は徳川家の庇護の元、広大な寺域を有し三重塔もあったらしいが、度重なる火災により三重塔含め伽藍は焼失。昭和27年(1952年)には板倉高校(当時は館林高校伊奈良分校)開校に伴い敷地を提供したため、往事の約8分の1になったという。

なお、昭和33年(1958年)には仏舎利収納石櫃・舎利容器・舎利が発見され、三重塔があったことがほぼ証明されている(仏舎利収納石櫃などの遺物は宝物庫に保管されている)。