館林市足次町の赤城神社。



足次赤城神社は、建仁2年(1202年)新田義重が三夜沢赤城神社の分霊を勧請し、新田氏代々の守護神としたと伝えられる。義重は新田氏の祖である。
しかし「吾妻鏡」の建仁2年1月29日の記に、北条政子が源頼家(鎌倉幕府2代将軍)に対し、義重が死去し20日も経っていないのに蹴鞠に興じるのは不謹慎だと叱る記述がある。これを信用するなら、義重は新年早々死去したと考えられ、足次赤城神社の創建年はちょっと怪しい。

現在の社殿は平成3年(1991年)に修復されている。
拝殿内には「ムカデと梅樹絵馬」と「千匹ムカデ絵馬」がある(どちらも館林市の重文)。ムカデは赤城神の眷属といわれ、赤城神社とムカデの関わりを示す資料となっている。
(関連 「赤城山が御神体 -赤城の百足鳥居-」参照)
拝殿を覗けば、この絵馬は見ることができる。ただ右側に飾られているのと、ガラス付きの額に納められているようで、どうしても写真がうまく撮れなかった。正面や額のガラスに外景が反射してしまい、絵馬にカブってしまうのだ。残念! (絵馬は、これ以外にも多数飾られている)





本殿の彫刻は素晴らしい。
ちなみに、「ムカデと梅樹絵馬」の作者は北尾重光である(願主は別人)。
(北尾重光は「浮世絵師・北尾重光の墓 -覚応寺-」参照)
コメント
コメント一覧 (2)
貴重な情報をありがとうございます。参考になります。
ただ少し違うのは、新田義重勧請により上野に二社、下野に二社とあります、足次は足利領分だったこともあったようで、もしかして、下野二社は「上渋垂」と「足次」だったのかも?
因みに「上渋垂」本殿は足利市重要文化財に指定、現存する本殿は江戸後期のもののようです。
新田氏一族は、赤城神社(三夜沢・西宮)を崇敬していたようで、義重以下の後裔の関与があったようです。
新田義重勧請は、仮託ではないでしょうか。