館林市北成島町の大谷休泊の墓。

大谷休泊の墓 (1)
大谷休泊の墓 (2)
大谷休泊は戦国期の農政家。関東管領・山内上杉憲政の下で、農業事業や開拓事業を執り行っていたが、天文21年(1552年)に平井城が北条氏に攻められ憲政が越後に逃げると、館林城の長尾顕長に招かれ、館林周辺の開発事業を行った。

渡良瀬川から、後に「上休泊堀」と名付けられる堀を掘り、新田開発を進めた。また、多々良沼からも「下休泊堀」を掘り、同様に開墾を進めた。その結果、多くの新田が誕生し農業生産力は飛躍的に向上した。

さらには、150万本もの松を植林し、「大谷原山林」を造成。これは防風林としての役目を果たし、現在もその一部が残っている。

大谷休泊の墓 (3)
墓地は「大谷休泊記念公園」として整備され、休泊の事業を示す大きな解説板も立っている。

休泊は天正6年(1578年)57歳で没している。