太田市新田木崎町の木崎宿色地蔵。
木崎宿色地蔵は高さ73cmの石地蔵尊で、風邪のはやる季節に亡くなった子ども達の霊を慰め、子ども達の成育を祈願して建立されたといわれている。
台座には施主名などとともに寛延3年(1750年)の銘が刻まれており、平成13年(2001年)に改築された茅葺のお堂に安置されている。
江戸時代の木崎宿には飯盛売女が多数おり、女たちは前借年季奉公で遠出が制限されていたことから、宿はずれのこの地蔵様によく参詣していた。そのため「色地蔵様」と呼ばれるようになったといわれている。
木崎音頭には
「木崎下町の三方の辻に、お立ちなされし石地蔵様は、男通ればニコニコ笑い、女通れば石持て投げる、これがヤー本当の、色地蔵様だがヤー」
と唄われている(らしい)。
コメント
コメント一覧 (2)
ご丁寧にありがとうございます。
旧街道の各宿場にはこの手の境遇の女性が多く、神社などに寄進物が多数残っていることから、
彼女たちの心の拠り所が分かりますね。
越後蒲原どす蒲原で
雨が三年日照りが四年
出入り七年困窮となりて
新発田様へは御上納ができぬ
田地売ろうかや子供を売ろうか
田地は小作で手が付けられぬ
姉はじゃんかで金にはならぬ
妹うろとご相談きまる
・・・・(中略)・・・
青木女郎屋というその家で
五年五カ月 五十五 二十五両
永の年季を一枚紙で
つとめする身はさてつらいもの・・・
「蒲原どす」 蒲原と、どすをつけるあたり、気性が荒いと伝わる上州人の勝手な優越感が読みれますね。「じゃんか」とは、「あばた」という意味でしょうか。
この娘たちは、越後の貧農から5年5カ月の年季25両(今の価値でいえば1両4万円くらいだそう)で人買いに売られて娼妓となり、一人で十人の客をとったと言われます。体の酷使は当然、病気を伴います。瘡気という手足に海の出る腫物の病気が多く、治療もままならず死んでいく子が多かったのです。
「地蔵」と言っても種類があるけれど、「身代わり地蔵」であったなら、この娘らは何を想った?。。。年季が明けても、ほとんどが稼ぎより以上に化粧、着物、食事代やらなんだかんだで借金のほうが多く、一生そこにくくりつけられたようなもの、使いものにならなくなれば放り出され、帰るに帰れず野垂れ死にするものが多かったのです。
酷の一語に尽きます。
哀れな唄です。