太
田市出塚町の大和神社・行者堂。
大和神社(行者堂)は、もと長福寺の境内にあったもので、役行者の像を安置している。寛平年間(889~98年)大和から来た僧が、この像を背負って来たという。
役行者は役君小角、役小角、神変大菩薩などとも呼ばれ、奈良時代初期の山岳者呪術者で修験道の祖といわれている。
文化12年(1815年)の大火災で長福寺が全焼、役行者の像も半焼となった。その後、新たに同じ像が一体彫られ、半焼した像は御隠居様と呼んで別の厨子に保存されている。
行者堂はもともと現在地より南西約50mのところにあり、明治29年(1896年)に建て替えが行われた後、昭和14年(1939年)に現在地へ移築されている。この際、大和から運ばれた像に由来することから大和神社と呼ばれるようになったが、地元では古くから行者堂の名で親しまれている。
田市出塚町の大和神社・行者堂。
大和神社(行者堂)は、もと長福寺の境内にあったもので、役行者の像を安置している。寛平年間(889~98年)大和から来た僧が、この像を背負って来たという。
役行者は役君小角、役小角、神変大菩薩などとも呼ばれ、奈良時代初期の山岳者呪術者で修験道の祖といわれている。
文化12年(1815年)の大火災で長福寺が全焼、役行者の像も半焼となった。その後、新たに同じ像が一体彫られ、半焼した像は御隠居様と呼んで別の厨子に保存されている。
行者堂はもともと現在地より南西約50mのところにあり、明治29年(1896年)に建て替えが行われた後、昭和14年(1939年)に現在地へ移築されている。この際、大和から運ばれた像に由来することから大和神社と呼ばれるようになったが、地元では古くから行者堂の名で親しまれている。
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