吾妻郡高山村中山の三国街道中山宿の本陣跡。

中山宿 (1)
中山宿 (2)
中山宿は本宿と新田宿に分かれ、交代制で業務を営んでいた。これは新田宿本陣跡。

新田宿の本陣は文政年間(1818~30年)に焼失しだが、平形家が問屋であったこともあり、長岡藩主をはじめ三国街道筋の荷主飛脚問屋、その宰領の寄進によって、本陣として復興された。

写真の門屋と母屋の間には殿様が泊まった棟があり、上段の間、違い棚の床の間、畳敷きで木戸の無い風呂場、近臣が控えた次の間、宿札などが当時のまま保存されているという。

中山宿 (3)
中山宿 (4)
本宿の本陣は大正12年(1923年)に火災で焼失し、街道に面した門構のみが残っている。

三国街道は五街道に次ぐ要路として慶長17年(1612年)に整備された。それは天領(直轄地)である佐渡金山の重要性を示している。越後からは金を始めとし、米や海産物が多く輸送されたが、江戸からは「佐渡送り」と呼ばれた金山で労役につく犯罪人や無宿人も多数連行されている。