Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

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邑楽郡大泉町城之内の小泉山成就院。

成就院 (1)
成就院は元慶年間(877~85年)龍賀和尚の開山、築比地次郎良基の開基と伝わる。永正年間(1504~21年)に富岡直光(富岡氏の祖)が小泉城内へ移している。

開基の築比地次郎良基は、佐貫荘の荘官だった佐貫弾正良綱の次男である。元慶7年(883年)に小泉神社(当時は長良神社)を創建している。
(小泉神社は「西邑楽の総社 -小泉神社-」参照)

成就院 (2)
成就院 (3)
参道の六地蔵と青面金剛像。六地蔵は昭和63年(1988年)の建立。

成就院 (4)
本堂は天正年間(1573~93年)、文政11年(1829年)に火災で焼失。現在の本堂の建立年は不明だが、昭和49年(1974年)に改築されている。本尊の不動明王は弘法大師の作とされ、数度の火災からも難を逃れたといわれる。

成就院 (5)
境内の不動明王の剣の石碑。

成就院 (6)
成就院 (7)
子育て観音。由緒などは分からない。

成就院 (8)
鐘楼には梵鐘がない。先の大戦時に供出し、再建されてないのかな。

成就院 (9)
本堂前の弘法大師像。弘法大師1150年御遠忌記念。昭和59年(1984年)の建立。

成就院は大泉町で現存する最古のお寺とされる。

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邑楽郡大泉町城之内の赤城山正眼寺。

正眼寺 (1)
正眼寺は永禄2年(1559年)富岡秀高の室・妙智尼が正眼庵を開創したのが始まり。ちなみに秀高は富岡氏5代目。寛永年間(1624~45年)に僧・慈恩が一寺を建立、正眼寺となる。

正眼寺 (2)
正眼寺 (3)
門前の聖観音像と六地蔵。いずれもまだ新しい。

正眼寺 (4)
正眼寺 (5)
本堂は昭和61年(1986年)の建立。

正眼寺 (6)
正眼寺 (7)
境内の十王堂。堂内には十王の他3体置かれている。中段の奪衣婆しか分からない。

十王は道教や仏教で地獄において死者への審判を行う10王(尊)。閻魔大王が有名だ。現在も初七日から49日(77日忌)や100か日(100日忌)などの法要を行う。これらは十王の裁きを受けることに対し、死者への減罪の嘆願とされる(宗派によって様々ではあるが)。

元々ここは聖観音(小泉観音)を祀る観音堂だった。正眼寺は東上州観音霊場の第10番札所になっている。現在、聖観音は本堂内に祀られている。

門をくぐると手水舎がある(写真はないけど)。これは境内に赤城神社が守護神として祀られていた名残りと考えられる。山号の赤城山もここから来ている。赤城神社は明治初年の神仏分離により、他へ遷されたのだと思う。

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邑楽郡大泉町城之内の八幡宮。

城之内八幡宮 (1)
城之内八幡宮は延徳元年(1489年)小泉城主・富岡直光(富岡氏の祖)により、小泉城本丸の西北塁上に城の守護神として祀られている。

城之内八幡宮 (2)
現在の石祠は昭和7年(1932年)の建立。

小泉城は延徳元年に富岡直光により築城されている。現在は本丸と二の丸の一部が城之内公園として整備され、町民の憩いの場となっている。
(「富岡氏の居城 -小泉城址-」参照)

以前の訪問は平成24年(2012年)だが、相変わらず綺麗な公園だ。前回と同じような写真だが、いくつか撮ってきたので。
城之内公園 (1)
城之内公園 (2)
城之内公園 (3)
城之内公園 (4)
訪問日はちょっと暑い日だったが、芝生にテントを張って遊んでいる家族連れや木陰で読書をしている人など、それぞれの楽しみ方で過ごしていた。

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高崎市宮沢町の抜鉾山長光寺。

長光寺 (1)
長光寺は永禄5年(1562年)長野氏家臣・清水主膳貞義の創建。開山は英光法印。抜鉾山の山号から見ると、抜鉾神社の別当寺だったのかと思う。
(宮沢抜鉾神社は「高崎市宮沢町・抜鉾神社」参照)

長光寺 (2)
門前には二十二夜塔などが並んでいる。

長光寺 (3)
長光寺 (4)
本堂は明治11年(1878年)に焼失。翌年、境外所有地(現在地)に再建されている。旧地は小学校用地とされたというが、現在の宮沢小かは分からない。

長光寺 (5)
ぼけ封じ観音像。「何とかぼけのない楽しい老後を過ごせますよう」建立したとある。

長光寺 (6)
墓地入口にあった、とあるお宅のご先祖供養塔。家系縁由が書かれており、南北朝期に活躍した北畠顕家の末裔という。その後、近江国に在ったご先祖様は延暦寺から迫害されていた本願寺蓮如を助けたため、延暦寺から狙われたので当地に逃れてきた、と言うようなことが書かれていた。

北畠家は村上天皇の第7皇子・具平親王(ともひらしんのう)を祖とする源氏の一族。すごいご家系だね。

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高崎市宮沢町の抜鉾神社。

宮沢抜鉾神社 (1)
宮沢抜鉾神社 (2)
宮沢抜鉾神社は貞観3年(861年)甘楽郡抜鉾神社(貫前神社)の分霊を字大間に勧請したと伝わる。その後現在地(字行人塚)に遷座している。上野国神名帳記載の抜鉾若御子明神は当社とされる。

鳥居は享保(1716~36年)の建立。奉納者のお名前もまだしっかり読める状態。

宮沢抜鉾神社 (3)
境内奥側の入口にも鳥居が建っている。

宮沢抜鉾神社 (4)
宮沢抜鉾神社 (5)
拝殿の建立年は不明だが、ちょっと老朽化気味。

宮沢抜鉾神社 (6)
経津主神を祀る本殿(上屋)は大正5年(1916年)の建立。

宮沢抜鉾神社 (7)
宮沢抜鉾神社 (8)
社殿横の建屋。中にあるのは相殿4座(天照大神、建御名方神、八坂刀売神、倉稲魂命)だと思われる。

宮沢抜鉾神社 (9)
現在も創建時の石祠があるとのことだが、そこまで古いものは見当たらなかった。写真は明治期に合祀されたと思われる境内社。

ちょっと草が生い茂っていて難渋。まあ、例祭前などは刈られるのだろうが。

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高崎市箕郷町西明屋の照明山光徳寺。

光徳寺 (1)
光徳寺 (2)
光徳寺 (3)
光徳寺は応永2年(1395年)然哲和尚の開山。明治2年(1869年)に火災により古墳書などを焼失し由緒詳細は不明(群馬郡誌)。

箕郷町誌には誓願上人が保渡田・西願寺から箕輪に移り大信寺を創建。井伊時代に大信寺は高崎に移り、その跡地に光徳寺が建立されたとある。だいぶ年代が違うが、応永2年に創建されていた光徳寺が移転したのか、大信寺移転後に新規に創建されたのかは分からない。

光徳寺 (4)
光徳寺 (5)
光徳寺 (6)
境内の秋葉宮。遠州(静岡県)の秋葉山本宮神社から勧請(勧請年などは不明)。火の神である火産霊神(ほむすびのかみ)を祀る。覆屋・内宮などは昭和63年(1988年)に改修されている。

当地では火災が多く、防火の願いを込め光り徳寺境内に祀られたと考えられている。

ちなみに、火産霊神は伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)の間の子だが、火の神であるため出産時に伊邪那美の陰部が火傷し、これが元で伊邪那美は死んでしまう。その後、怒った伊邪那岐は火産霊神を殺してしまうというバイオレンスな神話になっている。

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高崎市吉井町本郷の西蓮山弘福寺。

弘福寺 (1)
弘福寺は延宝3年(1675年)覚忍上人の創建。

弘福寺 (2)
弘福寺 (3)
本堂には本尊の五大尊明王を祀る。五大尊明王とは、不動明王・隆三世明王・軍茶利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王の五明王のこと。真言宗の伝承される密教(東密)の形態である。

弘福寺 (4)
庚申塔と甲子塔。井池堂とあるので、応処斎渕臨の書(揮毫)と思われる。
(応処斎渕臨に関しては「高碕藩絵師・応処斎渕臨の墓」参照)

弘福寺 (5)
普門品供養塔と光明真言百万遍供養塔。普門品供養塔は法華経のうちの観音経を、光明真言供養塔は光明真言(梵字23文字)を一定回数読誦した記念に建てた供養塔。光明真言供養塔には寛政(1789~1801年)の銘がある。

弘福寺 (6)
六地蔵は平成16年(2004年)の建立。

弘福寺 (7)
弘福寺 (8)
十三仏巡り。令和元年(2019年)の造立。三途の川(石積み)も模してあった。

弘福寺 (9)
斎藤利安の墓。宝暦10年(1760年)本郷村の生まれ。幼時から学問を好み、農業を営むかたわら私塾を開き門弟を育てる。応処斎渕臨の書の師匠にあたる。天保5年(1834年)74歳で死去。弟子たちが墓石を建立している。

弘福寺には円空仏(高崎市の重文)がある。昭和50年(1975年)に位牌堂に安置されているのを発見された。寺伝では近くの民家にあったものを寺に納めたものといわれる。

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高崎市吉井町上奥平の百庚申塔。

上奥平の百庚申 (1)
上奥平の百庚申塔は寛政12年(1800年)名主・茂原三郎左衛門が中心となり造立されている。

上奥平の百庚申 (2)
上奥平の百庚申 (3)
上奥平の百庚申 (4)
東西に走る尾根に沿って、様々な形の庚申塔が置かれている。実際にいくつあるかは分からない。山道はきれいに整備されている。

上奥平の百庚申 (5)
尾根最高部にある親庚申塔。高さ2.3m。裏面には願主の茂原三郎左衛門の名が刻まれている。

上奥平の百庚申 (6)
親庚申塔を囲むようにも庚申塔が置かれている。

上奥平の百庚申 (7)
親庚申塔の隣には、御獄大神・三笠大神・八海山大神の塔がある。

明治期に庚申信仰は迷信とされ、多くの庚申塔が撤去されている、また道路脇の庚申塔などは近年開発の影響で、やはり撤去や移転を余儀なくされている。そんな中、失礼ながら田舎の尾根沿いという立地条件から、多くが造立時の状態で残っているのは貴重である。

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高崎市吉井町上奥平の茂林山宗伝寺。

宗伝寺 (1)
宗伝寺は延宝2年(1674年)上奥平村名主・茂原氏の開基、高崎下之城・徳昌寺8世芳瑞快喜和尚の開山。開基の茂原氏は関東管領・上杉憲政に仕え黒熊村(現吉井町黒熊)を所領していたとされる。その後、上奥平村に土着・帰農している。

宗伝寺 (2)
門前(と言うか道路沿い)には馬頭観音塔や青面金剛像などが並ぶ。

宗伝寺 (3)
宗伝寺 (4)
本堂の建立年などは不明。

宗伝寺 (5)
一段高いところに六地蔵。

宗伝寺 (6)
宝篋印塔(不完全)と二十二夜塔(如意輪観音)。二十二夜塔には天明6年(1786年)の銘がある。

宗伝寺には明治7年(1874年)奧平学校が開設されている(現、岩平小学校)。また境内に舞台があったが、明治末に奧平小学校建設資材とするために取り壊されている。

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高崎市吉井町吉井の愛宕神社。

吉井愛宕神社 (1)
吉井愛宕神社 (2)
吉井愛宕神社の創建は不詳。愛宕神は往古より火防の神として庶民の崇敬が厚い。鳥居は昭和46年(1971年)の建立。

吉井愛宕神社 (3)
吉井愛宕神社 (4)
鳥居は北向だが、社殿は東向き。社殿は昭和24年(1948年)の建立。近年に修復されているようだ。境内が狭く、正面からの写真が撮れなかった。

吉井愛宕神社 (5)
右側が火産霊神と思うが、左側は分からない。

吉井愛宕神社 (6)
社殿前の灯籠には天明6年(1786年)の銘があった。

当社で毎年行われる祇園祭は神輿の渡御と花車の町内巡幸がある。昭和30年(1950年)代までは「吉井のあばれ神輿」と呼ばれ、世良田村(現在太田市世良田)八坂神社の天王祭と並び称された。その後、神輿は子供神輿となり、往時の激しさはなくなっている。まあ、それはそれで時代の流れというもの。
(世良田八坂神社は「世良田祇園 ー八坂神社ー」参照)

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高崎市吉井町長根の補陀落山常行院長福寺。

常行院 (1)
常行院 (2)
常行院は文保2年(1318年)の開創と伝わる。

常行院 (3)
良源(慈恵大師)を祀る大師堂。良源は一般的に元三大師(がんざんだいし)の名で知られる。平安時代の天台座種(天台宗の最高位)で、比叡山延暦寺の中興の祖とされる。

常行院 (4)
本堂から一段低いところに観音堂がある。観音堂は寛延2年(1749年)の再建との記録が残っている。最近では平成元年(1989年)に修復されている。

本尊は千手観音で「袂(たもと)観音」と呼ばれ、康暦2年(1380年)行基の作とされる。ただ行基は奈良時代の人なので、年代がまったく合わないのはご愛敬。また康暦は南北朝の北朝の年号で、南朝では天授6年となる。

袂観音と呼ばれるのは、ある長者の娘の逸話からのようだ。ある長者の娘が望まぬ結婚を強いられ家を出てしまい、慌てた父母は後を追い多胡郡長根村で娘に追いつき、逃げようとする娘の袂(和服の袖付けから下の袋のように垂れた部分)を引っ張ったが袂は千切れてしまった。千切れた袂が堂内に入ったので調べたが、堂内には千手観音像があるだけで、娘の姿は消えてしまった。それ以来、千手観音は袂観音と呼ばれるようになったという。

また、堂内には狩野法眼が奉納した馬の絵馬がある、この絵馬にも逸話が残っている。絵の中の馬が夜中に抜け出し田畑の麦などを食い荒らし、村人を困らせた。そこで法眼が草を描き添え、馬に鼻綱を付けて杭に止めたら、馬の野荒らしがなくなったという。

常行院 (5)
観音堂前のラカンマキ。目通り2.3m、根元周り2.5mで、樹齢は約600年とされる。

常行院 (6)
観音堂境内の板碑。紀年銘などは分からなかった。観音堂の近くには南北朝期の板碑が多数あったが、今は散逸してその数は減ってしまったという。

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高崎市吉井町長根の長根神社。

長根神社 (1)
長根神社 (2)
長根神社は明治45年(1912年)長根村内の5社とその境内社を合併し、新たに長根神社として現在地に創建。長根神社の主祭神は菅原道真なので、合祀したうちの天神社が母体になっているようだ。

長根神社 (3)
長根城の一部(中腹)に位置するため、けっこうな石段を上っていく。
(長根城は「長根氏の居城 -長根城址-」参照)

長根神社 (4)
狛犬は昭和54年(1979年)の奉納。

長根神社 (5)
長根神社 (6)
拝殿は平成23年(2011年)の新築建立。合祀から100年を記念してしてのようだ。拝殿前の灯籠も同年の奉納。

長根神社 (7)
本殿は平成3年(1991年)に改築されている。こちらは合祀から80年を記念しての改築。拝殿も本殿も老朽化したので、合祀の周年記念事業として行ったのだろう。

長根神社 (8)
蚕影山大神塔と己巳塔。己巳塔は弁天さまを主尊として富や福を願い、己巳の日などに集まって供養する巳待講の祈念碑である。

長根神社 (9)
石段脇などに多くの記念植樹がある。「小学校卒業生一同」「卒業生男子一同」「卒業生女子一同」などの名札がかかっている。長根地区にある吉井西小の伝統かな。

長根神社には社宝として鰐口がある。天正17年(1589年)に小林豊後守秀政が熊野神社(長根神社合祀の一社)に子孫繁栄を祈願し奉献したもの。秀政6代の孫・久佐衛門秀音が延享4年(1747年)に補修のうえ再献している。

秀政の末裔・小林家に伝わる小林家系図では、秀政の法名を「天祐院殿仁叟貞訓大居士」と記している。これは仁叟寺の開基とされる奧平氏の法名と同一である。奧平氏と小林氏の関係、仁叟寺と小林氏の関係などは分からない。(「奧平氏の開基 ー仁叟寺ー」参照)

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高崎市吉井町本郷の穂積神社。

穂積神社 (1)
穂積神社 (2)
穂積神社はもともとは火蛇神社で、その創建などは不詳。明治42年(1909年)に片山村、小棚村、本郷村の神社を合祀し、新たに穂積神社と改称している。

鳥居は平成8年(1996年)の建立。

穂積神社 (3)
社殿は合祀した片山村の科社神社からの移築。社殿前の狛犬は平成10年(1998年)の奉納。

穂積神社 (4)
穂積神社 (5)
穂積神社 (6)
高床流れ造りの本殿には、龍や鶴の壁画が描かれている(保護用のアクリル板により見づらいが)。

穂積神社 (7)
高崎藩の絵師を務めた応処斎渕臨の神楽「式三番」の奉納額。慶応3年(1867年)の作。すっかり色あせて、何も見えなくなっている。
(応処斎渕臨については「応処斎渕臨の墓」参照)

穂積神社 (8)
穂積神社 (9)
社殿裏の境内社・末社群。どれか分からなかったが、寛永10年(1633年)銘の石祠があるようだ。

穂積神社 (10)
御大典紀念とある。昭和天皇の即位を祝してのものかな。

穂積神社 (11)
ほとんどの灯籠に「キケン さわらないで」の貼り紙が。台座が老朽化し、倒壊の恐れがあるのだろう。写真の灯籠には文政2年(1819年)の銘があった。

穂積神社 (12)
実際にいくつかの灯籠は倒壊している。でも復元するわけでもなく、撤去するわけでもなく。

穂積神社には社宝として、伯耆守信高の刀一振りがある。伯耆守信高は戦国期から江戸前期の刀剣師。3代目は尾張徳川家のお抱え鍛冶となっている。

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高崎市吉井町片山の天蓋山金蔵寺。

金蔵寺 (1)
金蔵寺は天正6年(1578年)の創建と伝わる。

金蔵寺 (2)
門前には立派な松がそびえ立つ。目通り2.3m、高さ13mで、樹齢は200年と推定される。枝張りは東西15m、南北17mに及ぶ。

金蔵寺 (3)
金蔵寺 (4)
門前の六地蔵や石仏群。

金蔵寺 (5)
本堂は近年の建立らしく新しい。あまりお寺の本堂っぽくないが、本尊の愛染地蔵を祀る。また、木彫仏像「十王像及び奪衣婆、地蔵」が計12体ある(高崎市の重文)。

金蔵寺 (6)
三界萬霊塔はツタに覆われている。宝塔の姿はまったく見えない状態。

金蔵寺 (7)
本堂西の道路側にカヤの大木がある。目通り6.6m、樹高16m。道路の電線に届く勢いだ。電線側の枝張りが不自然なので、枝の剪定を繰り返しているのだろう。

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高崎市吉井町片山の応処斎渕臨の墓。

応処斎渕臨の墓
応処斎渕臨は文化2年(1805年)吉井町片山に生まれる。本名は横尾佐十郎義之。江戸に出て江戸御絵所・狩野探渕守真に学ぶ。第一高弟となり、探渕から一文字を受け「渕臨」と号す。

吉井に帰郷後は高崎藩の絵師となり、多くの門弟を育てる。山水・仏画・鶴亀・人物画を能くし、吉井近隣の寺社に現存している。本郷村(現吉井町本郷)の斎藤利安に学んだ書も優れ、「井池堂」と号している。

明治3年(1870年)66歳で没す、横尾家墓地に葬られる。墓碑は門弟らによって建てられている。

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