上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

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太田市新田反町町の瑠璃山照明寺。

照明寺  (1)
照明寺の由緒は不詳だが、永禄年間(1558~70年)に由良成繁が市野井村字杉の「杉立山照明寺」を反町館(反町城)の西側に移し、時の住職・慈光が山号を「瑠璃山」と改めたという。そのため照明寺では開山を慈光、開基を由良成繁としている。

正徳4年(1714年)に火災で焼失。享保元年(1716年)に現在の反町城本丸跡に移転・再興されている。このときの住職・祐泉を中興開山としている。
(「太田市新田反町町・反町館跡」参照)

ご本尊の薬師如来石像(反町薬師)は奈良時代の高僧・行基の御作とも伝えられ、そのため照明寺(当時は薬師堂)の開山を行基とする説もある。厄除・開運・子育にご利益があるとして、広く信仰を集めている。

照明寺  (2)
照明寺  (3)
「新田義貞公古城跡」(標柱)と「左中将新田公城趾之碑」。新田義貞の居城であったことを示す標柱や碑が複数建っている。

照明寺  (4)
照明寺  (5)
本堂は明治11年(1878年)の建立。ご本尊は秘仏となっており、毎年1月4日の大縁日のみご開帳される。

照明寺  (6)
本堂前の小坊主さんの銅像。参拝者が頭を撫でていくようで、頭頂部の下地が露出している(笑)。

照明寺  (7)
照明寺  (8)
鐘は自動鐘撞き装置付き。梵鐘には「反町薬師尊」と刻まれている。

照明寺  (9)
照明寺  (10)
大師堂。弘法大師(空海)を祀っている。

照明寺  (11)
弘法大師像。平成3年(1991年)の造立。

照明寺  (12)
鐘が置かれている。殿鐘のような位置づけかな。サイズ的には梵鐘と呼んだ方がいいかもしれないけど。

照明寺  (13)
参籠堂(こもりどう)。お札の受付・授与やお守りの販売などを行う施設。実際に「お籠もり」をするわけではないようだ。

照明寺  (14)
参籠堂の裏に庚申関係の石塔が並んでいる(青面金剛塔・庚申塔)。紀年銘が確認できたものは寛永3年(1626年)、元禄8年(1695年)、享保9年(1724年)、寛政8年(1796年)、寛政12年(1800年)。

照明寺  (15)
本堂左奥、境内の北西隅の赤城神社跡。中興の祐泉が享保年間(1716~36年)に市野井村から勧請したとされる赤城神社があったが、明治42年(1909年)生品神社に合祀されている。


太田市新田反町町の反町館跡。

反町館跡2 (1)
反町館跡2 (2)
反町館の築造年代は明らかではないが、鎌倉時代から南北朝時代と考えられている。その後、室町時代に金山城の支城となり、戦国時代には三重の堀を巡らす城郭に拡張されたと推定される。

新田義貞がここに移り住み、後には大舘氏明、新田義興、矢内時英が住んだという説もある。天正18年(1590年)豊臣秀吉の北条攻めで廃城となっている。

東側の堀(1枚目の写真)は道路改修の際に拡張されたもので、2倍以上の幅に広げられている。館跡の平面形は凸字形で、南側120m・北側73m。東西南側に「折」を持っている。

反町館跡2 (3)
土塁も残されており、基底部で10~13m、高さ4~6mある。

反町館跡2 (4)
反町館跡2 (5)
「新田義貞公古城跡」(標柱)と「左中将新田公城趾之碑」。新田義貞の居城であったことを示す標柱や碑が複数建っている。

反町館跡2 (6)
反町館跡2 (7)
現在、館跡は瑠璃山照明寺の境内となっている。照明寺に関しては別記事で紹介する。

反町館跡2 (8)
照明寺本堂裏には「不鳴の池」がある。義貞が軍議を開いた時に、池で鳴いているカエルを一喝したら鳴きやんだといわれる。

反町館跡2 (9)
反町館跡2 (10)
東の堀に面して藤棚が作られている(藤の木は3本)。樹齢などは不明だが、幹周りは3本すべて2m以上あるように見える。


太田市新田小金井町の大字山放光寺。

放光寺 (1)
放光寺は元文5年(1740年)東雲寺14世・徹音の開創と伝わる。

放光寺 (2)
境内入口の地蔵像や如意輪観音像。

放光寺 (3)
放光寺 (4)
本堂の建立年などは分からないが、まだ新しい。本尊の地蔵菩薩を祀る。

放光寺 (5)
境内の青面金剛塔・庚申塔・馬頭観音塔。馬頭観音塔には天保10年(1839年)の銘が読み取れた。

放光寺 (6)
石宮があったが詳細は不明。お寺にも屋敷神は祀られているので、それかな?

放光寺の西側に接して般若坊屋敷と呼ばれている戦国時代に遡る伝承をもつ屋敷跡がある(現在は宅地と畑になっている)。古記録に「戦国時代に紀州根来の僧・般若坊が戦に敗れて当大字に来て住みついた」とある。また別の古記録には、当地に来たのは「享禄2年(1529年)」とある。

放光寺には般若坊の位牌が保管されており、天正3年(1575年)入寂とある。般若坊と放光寺との関連は不明だが、放光寺の前身となる庵のようなものがあったのかもしれない(勝手な推論)。


太田市新田小金井町の中溝・深町遺跡。

中溝・深町遺跡 (1)
中溝・深町遺跡 (2)
平成6年(1994年)から平成8年(1996年)にかけて行われた新田東部工業団地造成に伴う埋蔵文化財発掘調査において、古墳時代前期(4世紀末~5世紀初頭)の居館跡を中心とする遺跡が発見された。現在は「小金井史跡公園」として約1万平方mが保存されている。

中溝・深町遺跡 (3)
公園のレイアウト。赤枠で囲んだ部分の遺跡跡を紹介。

中溝・深町遺跡 (4)
中溝・深町遺跡 (5)
丸太が立っているところが建物跡(丸太は柱跡を示している)。東西・南北とも8mで、柱が二重に巡る特殊な構造をしている。手前の敷石のところは井戸跡(2基)。井戸跡から出土した土器の年代から、右(南側)が古く左(北側)が新しいという。

中溝・深町遺跡 (6)
中溝・深町遺跡 (7)
太い柱を使った2棟の大型掘立柱建物跡(2棟)。2棟の建物は東西対称に配置されている。

中溝・深町遺跡 (8)
貴重な遺跡なのだが、視覚的にその重要性が理解できないのが遺跡保存の難しいところ(ただの野原に見えてしまう)。周りは工業団地となっている中、せっかく史跡公園として保存しているのだから、案内板の絵のような小屋を作ったら(堀は無理として)違ってくると思うのだが。

中溝・深町遺跡 (9)
群馬県指定の史蹟を示す標柱の横に「ゴルフ禁止」の看板を立てないといけないのは、とても残念に思う(実際にゴルフをする人がいるかは別にして)。


太田市新田村田町の金珠山宝蔵寺。

宝蔵寺 (1)
宝蔵寺は至徳3年(1386年)に頼覚法印が開山したと伝わる。開基は村田氏とされる。村田氏は岩松時兼の庶長子・頼兼を祖とする岩松氏系の一族。享保11年(1726年)に中興されている。

なお開基については大舘氏明とする説もある。大舘氏明は興国3年/康元2年(1342年)に伊予国(愛媛県)世田にて討死しているので、大舘氏明が開基の場合の宝蔵寺創建は、正慶2年(1333年)もしくは延元元年(1336年)としている。

宝蔵寺 (2)
宝蔵寺 (3)
本堂は平成17年(2005年)の建立。

宝蔵寺 (4)
境内の松。

宝蔵寺 (5)
宝蔵寺 (6)
鐘楼と梵鐘。

宝蔵寺 (7)
新旧のお堂が2つ並んでいる。詳細は不明。古い方は中を見ることができたが、仏像や仏具が置かれていた(安置しているという感じではなかった)。

宝蔵寺 (8)
宝塔や普門品供養塔など。普門品供養塔は法華経のうちの観音経を一定回数読誦した記念に建てる供養塔で、宝永4年(1707年)の銘がある。


太田市新田市野井町の生品神社。

生品神社2 (1)
生品神社の由緒は不詳。上野国神名帳には「従三位 生階明神」と記載されていることから、平安時代には存在していたと思われる。創建に関しては、豊城入彦命が新田地方の開拓に際し大己貴命(大国主命)を祀ったとの伝承がある。また、天喜年間(1053~57年)に源義家が当社で戦勝祈願をしたとも伝わる。

明治36年(1903年)・同42年(1909年)・同44年(1911年)に、市野井・反町・村田の各村内の八幡宮・稲荷社・赤城神社・菅原社など13社を合祀している。

生品神社は「太平記」にも記されている新田義貞が元弘3年(1333年)鎌倉幕府討伐の旗を挙げた地とされ、昭和9年(1934年)に「新田義貞挙兵伝説地」として国の史蹟に指定されている。その後、平成12年(2000年)には「新田荘遺跡生品神社境内」として面積を広げて指定されている。

生品神社2 (2)
新田義貞の顔はめパネル。

生品神社2 (3)
生品神社2 (4)
生品神社2 (5)
二の鳥居・三の鳥居。

生品神社2 (6)
生品神社2 (7)
生品神社2 (8)
社殿の建立年などは分からないが、昭和45年(1970年)に修築が行われている。扁額の揮毫は陸軍大将・鈴木孝雄。終戦時の首相・鈴木貫太郎の弟。昭和13年(1938年)から昭和21年(1946年)まで靖国神社の宮司をい務めている。揮毫はその関係かな。

生品神社2 (9)
地元の地酒・太平記の里(山崎酒造)。奉納酒なんだろうが、樽だけだと思われる。

生品神社2 (10)
社殿前のクヌギの古木。新田義貞が挙兵の際、大中黒の新田旗をこのクヌギに掲げ戦勝を祈願したと伝えられている。かつては樹高30m以上、幹周り6mの巨木であったが、明治37年(1904年)に倒れてしまったという。平成11年(1999年)に覆屋を新築、同時に樹脂加工による保存処理を行っている。

生品神社2 (11)
境内末社群。大きな石宮(左端)は白山大権現とあった。その他、八幡宮・稲荷社・赤城神社・菅原社など。

生品神社2 (12)
新田義貞旗挙塚(はたごつか)跡。義貞が旗を挙げた場所と伝えられる。碑は昭和10年(1935年)の建碑。平成11年(1999年)に修復されている。

生品神社2 (13)
新田義貞床几塚(しょうぎつか)跡。義貞が陣を構えたと伝えられる場所。

生品神社2 (14)
皇太子殿下行啓記念碑。明治41年(1908年)とあったので後の大正天皇。

生品神社2 (15)
生品神社2 (16)
歴史的な史蹟でもあるため、有名政治家が揮毫した標柱や碑が建っている(良い悪いは別にして)。「新田義貞公挙兵 六百五十年記念」(中曽根康弘元首相、上の写真)、「新田義貞公並一門挙兵之地址」(福田赳夫元首相、下の写真の左の標柱)。

生品神社2 (17)
境内には義貞の銅像があったのだが、平成22年(2010年)2月に盗まれてしまった。この銅像は昭和16年(1941年)に地域の子どもたちなどの勤労奉仕作業、及び廃品回収作業の収益金により建てられたものだった。確か、現在も犯人は捕まっていないと思う。

生品神社2 (18)
生品神社2 (19)
銅像の盗難を受け、地元有志らで作る「新田義貞公銅像再建委員会」が発足。太田市内を中心に全国の約1,100の個人・団体から寄付が寄せられ、平成24年(2012年)5月に新像が完成した。

新像は高さ約1.8m、重さ310kgで、盗まれた銅像(0.8m)の2倍強の大きさ。義貞の弟・脇屋義助の24代目子孫に当たる彫刻家・脇谷幸正さんが、1年をかけて制作したものである。

赤御影石で作られた高さ1mの台座上に凜々しく鎮座する姿は、まさしく「源氏の貴公子、総大将としての姿」(脇谷さん談)だ。


太田市新田市野井町の宝珠山福蔵院勝光寺。

福蔵院 (1)
大正2年(1913年)に福蔵院と勝光寺が合併し福蔵院勝光寺となっている。この時は旧福蔵院地。大正4年(1915年)に旧勝光寺跡地(現在地)に移転している(合併・移転の経緯はもう少し複雑だが、簡略化して記載している)。通称は「福蔵院」。

旧勝光寺は貞治元年(1362年)足利鶏足寺の僧・猷助が住職に就いたとの記録が残る(これが創建かは不明)。旧福蔵院の由緒は不詳。

福蔵院 (2)
福蔵院 (3)
本堂は旧勝光寺のものを使っている。現在の本堂は再建されていると思われる。

福蔵院 (4)
本堂前の弘法大師像。昭和62年(1987年)の造立。

福蔵院 (5)
福蔵院 (6)
梵鐘は先の大戦時に供出。現在の梵鐘は昭和59年(1984年)の鋳造。

福蔵院 (7)
福蔵院 (8)
六地蔵と石仏・仏塔類。下の写真の右から2番目のお地蔵さまの頭部がすげ替えられている。事情により頭部が取れてしまったのだろう。ただ新しい頭部との組み合わせは、ちょっと不気味に見える。

本堂裏に福蔵院古墳があるのだが、すっかり失念しており見てこなかった。円墳で現在の規模は径11m・高さ2m。墳丘の周りに埴輪片などは認められず詳細は分かっていないが、その規模や周辺の古墳の状況などから、後期古墳に属すると考えられている。


太田市新田市町の神明宮。

市神明宮 (1)
市神明宮は寛文年間(1661~72年)の勧請と伝わる。当地は岡上景能による笠懸野の新田開発に伴い「市野井新田」となり、その時に勧請したとされる。その後、元禄15年(1702年)ころ「市村」として独立したと考えられている。明治42年(1909年)に八坂神社を合祀している。

市神明宮 (2)
市神明宮 (3)
お社は2つあり、手前が神明宮内宮、後ろが外宮。両宮とも内部はシンプル(写真は内宮)。

市神明宮 (4)
ご神木の切り株。ご神木は勧請時の植樹と伝承されているが、昭和57年(1982年)に倒木の危険性から伐採されている。

市神明宮 (5)
市神明宮 (6)
明治42年(1909年)に合祀された八坂神社。由緒などの詳細は不明。

市神明宮 (7)
市神明宮 (8)
本殿には見事な彫刻が施されている。

市神明宮 (9)
市神明宮 (10)
境内の薬師堂。これは神明宮の南側にあった輿留山浄光寺(廃寺)の施設。文化12年(1815年)銘の薬師如来坐像が安置されている。

新田市町神明宮は「市の神明さま」と通称されていることからも分かるように新田市町にある。当然だが、地図を確認しても新田市町内にある。しかし住所検索をすると、どうやっても新田市野井町の番地が出てくる。この番地でナビ設定をしたらたどり着けたので良かったのだが、どういうことなんだろう。


太田市新田金井町の金山神社。

金山神社 (1)
金山神社の由緒は不詳。大正4年(1915年)に厳島神社・大山祇神社・稲荷神社を合祀し、同時に南東約400mから現在地へ移転している。旧所在地の北にあたる旧字名の鍛冶街道付近は、その昔新田氏の御用鍛冶職人が居住していたところで、金山宮を氏神としていたという伝承がある。

金山神社 (2)
金山神社 (3)
鳥居は昭和26年(1951年)の建立。

金山神社 (4)
鳥居前の灯籠は明和5年(1768年)の奉納。灯籠の下部は土中に埋まっている。

金山神社 (5)
金山神社 (6)
金山神社 (7)
社殿内には明治23年(1890年)ごろ旧金山神社のご神木で造った木製の獅子頭が3体が保管されている。この獅子頭を神輿のように担いで村中を廻ったという。

金山神社 (8)
境内末社の菅原社・稲荷社・秋葉社・阿夫利社・浅間社・金平社・諏訪社。写真の3宮がどれかは不明。


太田市新田金井町の医王山長明寺。

長明寺 (1)
昭和28年(1953年)に医王山長福寺と無量山明源寺が合併し、各一文字づつ取り長明寺となっている。現在地は旧長福寺である。

長福寺は永禄3年(1560年)重円の開山、寛延3年(1750年)覚了の中興開山とされる。明源寺の由緒は不詳だが、寺号の「明源」から大慶寺開山の明源坊空覚との関連が推測される。空覚の入寂は応永19年(1412年)であることから、それ以前の創建と考えられる。(大慶寺は「太田市新田大根町・妙満山大慶寺」参照)

長明寺 (2)
長明寺 (3)
境内入口の六地蔵と庚申・月待ち講関係(二十二夜塔・二十三夜塔、如意輪観音像、青面金剛塔など)。二十二夜塔は文政6年(1823年)の造立。また、二十三夜塔の揮毫は新田俊純とあった。俊純は江戸末から明治にかけての岩松家当主。明治16年(1883年)に政府から新田家嫡流と認められている。

長明寺 (4)
宝篋印塔は天明元年(1781年)の造立。

長明寺 (5)
長明寺 (6)
本堂は平成4年(1992年)の建立。

長明寺 (7)
本堂前の弘法大師像。

長明寺 (8)
長明寺 (9)
薬師護摩堂。詳細は分からない。

明源寺跡 (1)
旧明源寺は長明寺(旧長福寺)から約300m南に位置する。現在は住宅に囲まれた墓地になっている。旧明源寺は明治16年(1883年)に火災により焼失しているので、それ以降再建されなかったのかな。

明源寺跡 (2)
明源寺跡 (3)
墓地の一角に阿弥陀堂がある。

明源寺跡 (4)
阿弥陀堂だが中に安置されているのは如意輪観音。観音像はまだ新しいようだ。


太田市新田大根町の妙参寺沼親水公園。

妙参寺沼親水公園 (1)
妙参寺沼親水公園 (2)
妙参寺沼は農業用の溜池で明治9年(1876年)の地図に既に描かれているので、江戸時代に開削されたと考えられている。平成22年(2010年)には農水省選定「ため池100選」に群馬県内で唯一選ばれている。

周辺は「妙参寺沼親水公園」として整備されており、綺麗な遊歩道がある。周りは桜が植樹されており、春には桜の名所としてお花見客で賑わう。

妙参寺沼親水公園 (3)
沼にはカワセミ・カイツブリ・カルガモなどの鳥類や、クレソンなどの半水生植物などが確認されている。

妙参寺沼親水公園 (4)
妙参寺沼親水公園 (5)
池の北西部に鳥居と石宮がある。詳細は分からないが、石宮には昭和11年(1936年)の紀年銘があった。

妙参寺沼の名称になったのは、沼の東側に隣接して円通山妙参寺があったから。妙参寺は慶安2年(1649年)の開創で、開基は伊野塚隼人、開山は楚俊。明治20年(1887年)に火災で焼失。現在も本堂・庫裏など何もない。本尊などは寺跡裏のお宅で保管しているという。

曹洞宗の公式ページから「妙参寺」を検索すると出てくるので、お寺として存続しているようだ。


太田市新田大根町の大根神社。

大根神社 (1)
大根神社 (2)
大根神社は元は稲荷神社で、その由緒は不詳。明治41年(1908年)に赤城神社・矢神社・雷電神社を合祀し大根神社と改称している。大正4年(1915年)に赤城神社(大字上ノ町)を合祀している。

合祀された矢神社は山城国(京都)の加茂神社より勧請したと伝わる。山城風土記に「玉依姫が小川で遊んでいたところ丹塗の矢が流れてきた。これを取り上げて床に置いておくと姫は懐妊し、生まれた子が別雷命(加茂神社のご祭神)である」とある。この故事から矢神社としたといわれる。

大根神社 (3)
社殿前の狛犬は昭和13年(1938年)の奉納。

大根神社 (4)
大根神社 (5)
大根神社 (6)
社殿は明治41年(1908年)の建立。平成11年(1999年)に大規模改修を行っている。

大根神社 (7)
境内末社の秋葉社・矢太神宮・諏訪社・大山祇社など。

大根神社 (8)
神輿庫は平成9年(1997年)の建立。

大根神社 (9)
大ケヤキ。根回り8.5m、目通り5.5mで、樹齢は300年以上と推定されている。戦時中に召集された兵士が大ケヤキの長寿にあやかり、密かにケヤキの皮を剥がし軍服に忍ばせて出征したとの逸話も残っている。


太田市新田大根町の妙満山大慶寺。

大慶寺2 (1)
大慶寺2 (2)
大慶寺は治承4年(1180年)新田義重の娘であり源義平の室である祥寿姫(出家後は妙満尼)が、義平の菩提を弔うため一庵を結んだのが始まりとされる。義平は源義朝の長男で、源頼朝や義経の兄に当たる。

その後、鎌倉時代には新田一族の綿打為氏が館を構えている。為氏は新田義貞の挙兵に従って転戦し、南朝方として奮戦している。明徳5年(1394年)に綿打了安入道という者が、足利・鶏足寺から空覚上人を招いて大慶寺としたという。

大慶寺2 (3)
大慶寺2 (4)
山門横には「綿打入道太郎為氏館跡」の標柱がある。山門横と書いたが、実際は自動販売機とトイレに挟まれた微妙な場所。標柱横には庚申塔が集積されている。自動販売機とトイレは後から設置されたのだろうが・・・。

大慶寺2 (5)
大門。閉まっており、ここからは入れない。

大慶寺2 (6)
大慶寺2 (7)
本堂は大正15年(1926年)に火災でを焼失。現在の本堂は昭和2年(1927年)の建立。

大慶寺2 (8)
弘法大師像を中心に、光明真言供養塔や弘法大師1100年遠忌記念などの記念碑が並んでいる。弘法大師像は平成4年(1992年)の造立。

大慶寺2 (9)
大慶寺2 (10)
鐘楼も本堂と同じ昭和2年の建立。ただ、屋根などを見るともっと新しいようにも見える。

大慶寺2 (11)
大慶寺2 (12)
不動堂には「御影不動」と呼ばれる本尊・不動明王像が安置されている。「新田三不動」のひとつに数えられている。

大慶寺2 (13)
大慶寺2 (14)
「御影不動」は妙満尼が彫った新田義重の肖像が、一夜のうちに不動明王に変化したといわれる。鎌倉時代に入ると新田氏の守り本尊とされた。新田義貞討死時には、その死を悼み涙を流したといわれる。そのため別名「泣き不動」ともいわれる。

大慶寺2 (15)
不動堂横の水かけ不動。平成4年(1992年)の造立。

大慶寺2 (16)
歴代住職の墓域にある五輪塔は、6基に紀年銘が確認されている。年代は室町期から戦国期まで。最も古いのは中興開山・空覚上人の逆修塔で明徳5年(1394年)。

大慶寺2 (17)
大慶寺2 (18)
大慶寺2 (19)
墓地入口の宝篋印塔と六地蔵石幢。宝篋印塔は明和4年(1767年)、六地蔵石幢は寛政7年(1795年)の造立。

祥寿姫(妙満尼)には伝説が残されている。永暦元年(1160年)に義平が平清盛によって処刑されると、六条河原に晒されていた義平の首を秘かに上野国へ持ち帰ったといわれる。その首を埋葬した場所に一庵を結んだのが太田市世良田町の清泉寺とされる。清泉寺には義平の墓と伝わる石塔がある。(「太田市世良田町・義平山清泉寺」参照)


太田市新田上中町の稲荷神社。

上中稲荷神社 (1)
上中稲荷神社 (2)
上中稲荷神社 (3)
上中稲荷神社は寛文10年(1670年)の笠懸野開発により小集落(当時は上田中新田)が形成された際、稲荷社の祠を改築し集落の惣鎮守としたのが始まりと伝わる。上中村となるのは元禄11年(1698年)ころ。

現存する「正一位稲荷大明神安鎮之事」と題する明和4年(1767年)の文書から、集落が形成された寛文10年に社格を得たと考えられる。

大正4年(1915年)に稲荷神社(字新割)、赤城神社(及び末社琴平社・秋葉社・稲荷社)(溜池字村中)を合祀している。

上中稲荷神社 (4)
鳥居前(向かって左側)には庚申塔が集積されている。大黒天や二十二夜塔も混ざっているが。

上中稲荷神社 (5)
鳥居前右側には御嶽信仰関係の碑が2基ある。

上中稲荷神社 (6)
上中稲荷神社 (7)
天明8年(1788年)建立(棟札が残されている)の社殿は、昭和57年(1982年)に火災で焼失。現在の社殿は昭和58年(1983年)に再建されている。

上中稲荷神社 (8)
社殿前の狐像は昭和58年の社殿再建時の奉納。

上中稲荷神社 (9)
神楽殿。昭和12年(1937年)の建立。現在も神楽が奉納されているのだろうか。

上中稲荷神社 (10)
上中稲荷神社 (11)
社殿横の御嶽神社。由緒などは不明。

上中稲荷神社 (12)
御嶽神社裏の御嶽山座王大権現・八海山堤頭羅神・三笠山刀利天宮の碑。明治24年(1891年)の造立。

上中稲荷神社 (13)
境内末社の八坂神社(左)。

上中稲荷神社の伝承には、源義経に関するものも残されている。義経が上野国に逃れた際(奥州への道中?)、当社を深く崇拝したという。義経が奥州へ逃れたのは文治3年(1187年)なので、江戸中期に開拓された地区としては年代的にかなり開きがある。


太田市新田花香塚町の赤城神社。

花香塚赤城神社 (1)
花香塚赤城神社 (2)
花香塚赤城神社は寛永6年(1639年)に宮城村(現前橋市)三夜沢・赤城神社の分霊を勧請したと伝わる。大正4年(1915年)稲荷神社を合祀している。

花香塚赤城神社 (3)
花香塚赤城神社 (4)
花香塚赤城神社 (5)
社殿は嘉永元年(1848年)の建立。拝殿は大正11年(1922年)に屋根の葺替え(亜鉛板)、本殿は昭和55年(1980年)に改修を行っている。

社殿内には4枚の絵馬が残されている。嘉永元年(1848年)神社造営の図、同4年(1852年)気楽流体術連盟の絵馬、明治36年(1903年)油盗人の図、同年伊勢神宮参拝記念の絵馬。いずれも残念ながら見られない。

花香塚赤城神社 (6)
社殿前の狛犬は平成元年(1989年)の奉納。

花香塚赤城神社 (7)
花香塚赤城神社 (8)
花香塚赤城神社 (9)
雀ノ森稲荷神社。詳細は分からない。

花香塚赤城神社 (10)
境内末社の諏訪社・雷電社と庚申塔など。

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