上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

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多野郡神流町船子のいち子岩。

いち子岩 (1)
いち子岩 (2)
いち子岩は平家の落人「いち子姫」にまつわる伝説のある巨岩である。

寿永4年(1185年)の壇ノ浦の合戦で平家は敗れた。平家の「いち子姫」も追っ手から逃れ、従者ともどもこの地まで落ち延びてきた。いち子姫たちはあてもなく彷徨っているうちに、とうとう追っ手に見つかってしまった。いち子姫は近くの岩によじ登り、深い淵に身を投じた。

後の人々はいち子姫を哀れに思い、この岩を「いち子岩」と呼ぶようになった。また、いち子姫を葬ったところから美しいツツジの花が咲いたという。

いち子岩 (3)
いち子岩の前には石宮がある、いち子姫を祀っているのだろう。

いち子岩 (4)
いち子岩のすぐ後ろは船子川が流れている。現在は大石がゴロゴロといった感じ。

神流町には万場八幡宮にも平家の落人伝説がある。万場八幡宮は梶原景時の創建とされるが、他説として平家の落人が源氏の追求を逃れるために、八幡宮を勧請しカモフラージュに使ったとの伝承もある。(「神流町万場・八幡宮」参照)


多野郡神流町黒田の不動の滝。

不動の滝 (1)
不動の滝は「神流七滝」のひとつで、滝の沢川にある滝である。滝は一の滝・二の滝・三の滝と3つある(ようだ)。

「道の駅 万葉の里」手前(国道462号沿い)に「不動の滝」の案内板がある。「200m 10分」とあったので、手軽そうに感じたので寄ってみた。

不動の滝 (2)
遊歩道がきれいに整備されている。ごく最近の設置だと思われる。

不動の滝 (3)
不動の滝 (4)
途中に小型の「丸岩」の様な岩がある。山側から落ちてきたものだろうか。

不動の滝 (5)
2つめの岩の横が一の滝。落差約5m。

不動の滝 (6)
一の滝の先は少し登りになるが、それでも遊歩道が整備されており問題ない。

不動の滝 (7)
不動の滝 (8)
遊歩道の終点が二の滝。落差約13m。岩が多いが滝壺脇まで行ける(自己責任で)。季節柄しようがないけど、もう少し水量が多いとオレのような素人には見栄えが良く思える。

ここで遊歩道は終了。さて、どこから三の滝に行けるのだろう? どこかに分岐があったのだろうが、気づかなかった。まだ整備されていないようだ。ところで、「不動の滝」の名前の由来は三の滝の岩陰に不動尊が祀られているから。

想像通りお手軽に滝が見られる。とは言え、軽い登りではあるので靴はきちんとしたもので行きましょう。


多野郡神流町黒田の万葉大吊橋。万葉と書いて「まんば」と読む。

万葉大吊橋 (1)
万葉大吊橋 (2)
万葉大吊橋は「道の駅 万葉の里」と神流川を挟んだ対岸を結ぶ吊り橋で、平成5年(2023年)に開通している。歩行者専用の橋で長さ89m・幅1.5m。

万葉大吊橋 (3)
管理協力金として往復100円で渡ることができる。「スリル体験料金」という触れ込み。通行料ではないので、寄付みたいなもの。

万葉大吊橋 (4)
この協力金箱は、投入口のあるボックス部以外は板状の平面。丸太の絵が目の錯覚で奥行きがあるように見える。

万葉大吊橋 (5)
万葉大吊橋 (6)
橋板の中央を開けており、下部に張られた金網越しに神流川が見える。これがけっこう怖い。さらに歩くたびに意外と揺れる。たまたまオレひとりしか渡っていなかったのだが、それでも揺れる。元々高いところが苦手なため足がすくんだ。欄干と言うかワイヤーを手放すことができず。

万葉大吊橋 (7)
頑張ってワイヤーから手を離し、下を流れる神流川の写真を撮った。

万葉大吊橋 (8)
万葉大吊橋 (9)
向こう岸間際には紐を引くとシャボン玉が出る(らしい)装置がある。メンテ中とあったのでスルー。早く渡りきりたかったので。ちなみに、ペアで紐を引くとハートの形になる。

五重塔 (1)
五重塔 (2)
対岸には神流町が「神流杉」や「神流檜」のPR拠点とする「フォレストベース」の整備を予定している。現在は令和4年(2022年)建造の木造の五重塔とあずまやがある。これはクギを使用せず地元産木材と伝統工法を用いて建てられている。大工の棟梁を育成する「大工志塾」が実技研修の一環として手掛けたもの。


多野郡神流町塩沢の塩沢ダム。

塩沢ダム (1)
塩沢ダム (2)
塩沢ダムは神流町(旧万場町)の治水・利水のため、赤久縄山を水源とする一級河川・塩沢川に建設されている。平成7年(1995年)の完成。堤高38m・堤体長157mの重力式コンクリートダム。

2枚目の写真は撮影用の枠(顔ハメパネルみたいな感じ)だけあったので、それを通して撮ったもの。でも、これだと誰が撮っても同じような景色になるので、枠の向きを変えられる様にしてくれるとうれしいかな。

塩沢ダム (3)
堤の上から下を覗いてみたが、さすがに38mもあると怖い。あまり高いところは得意ではないので。

塩沢ダム (4)
新緑の時季、ダム湖周りの景色はきれいだ。

ダム湖は「蛇神湖(へびかみこ)」。ダム湖完成時、町民からの公募で命名されている。写真右に映っている橋は「蛇神橋(へびかみはし)」。その昔、神域であった赤久縄山には大蛇が棲んでいて、村を守ってくれる神であると崇められていたことから。

塩沢ダム (5)
天端道路の突き当たりにモザイク壁画がある。タイル張りで縦8m・横30mと、かなり大きい。神流町を象徴する「神流川・御荷鉾山・鯉のぼり」を題材にした抽象画らしいが、年数を経てかなり色落ちしてしまっている。


多野郡神流町塩沢の力くらべ石。

力くらべ石 (1)
力くらべ石は塩沢村の大正院(黒澤源内)とその柔術の師匠・九蔵が、力くらべのため塩沢川上流から担いで運んだ石といわれる。江戸時代の文化年間(1804~17年)のこと。

力くらべ石 (2)
大正院の石(左)は高さ77cm・幅60cm、九蔵の石は高さ85cm・幅70cmで、重さは150kg超と推定される。

大正院は修験者で柔術や剣術を学び、後に剣術では門弟200人を持つまでになった(剣術は馬庭念流・樋口定高の門下)。昭和2年(1927年)刊の「多野郡誌」には「奇人」と紹介されている。内容は「風貌魁偉、その力量絶倫鬼神を凌ぐ」(意訳;体格が人並み外れてたくましく、その力は抜群に優れている)、「奇行怪力、実に想像の外に出たということ」だそうだ。

江戸後期から明治にかけて力くらべ・力試し(力石を持ち上げる大会)が数多く行われていた。当時は鍛錬を兼ねた娯楽の一種であった。現在も神社(玉村八幡宮八斗島稲荷神社六供八幡宮)などに「力石」が残されている。


多野郡神流町生利のみかぶ帯の枕状溶岩。

万場高校
枕状溶岩 (1)
群馬県立万場高校のすぐ南側を流れる神流川(万場高の対岸)に枕状溶岩がある。

枕状溶岩 (2)
枕状溶岩 (3)
秩父古生層の「みかぶ帯」に属する厚さ10~20mのもので、玄武岩や凝灰岩を主に石灰岩、粘板岩、チャートなどの薄い層がまじっている。海底火山活動により次々に流れ出た溶岩が海水で冷却されて枕状に固まって形成されたもの(上部が川面に露出している)。

この辺りは往古は海であり、時代が下るにつれ隆起したもの。同じく神流町の「瀬林の漣痕」は、海岸のさざ波が化石化したものといわれる(現在は崖のように切り立っている)。そこにある複数の穴が「恐竜の足跡」と見なされている。
(「神流町神ヶ原・恐竜の足跡 & 恐竜センター」参照)

神流川の対岸、しかも上から写真を撮っているので、どれが枕状溶岩がなのか良く分からなかった。見当違いの写真だとまずいので、神流町のHPから拝借した写真も載せておく。

枕状溶岩 神流町
「枕状溶岩」の写真(神流町のHP)。


多野郡神流町万場の福聚山慈恩寺。

慈恩寺 (1)
慈恩寺の創建年などは不詳だが、悦堂保禅の開山と伝わる(悦道との資料もある)。悦堂は応永9年(1402年)の生まれとされる。悦堂が諸国修行のおり、西御荷鉾山中腹の池の薬師に参拝し薬師如来の功徳を感じ、里に慈恩寺を開いたという。

慈恩寺 (2)
石段下の六地蔵は昭和57年(1982年)の造立。

慈恩寺 (3)
慈恩寺 (4)
慈恩寺 (5)
本堂には巨大な龍に向き合う僧侶が描かれた額が掲げれている。これは慈恩寺に伝わる「龍女伝説」を描いている。平成19年(2007年)の奉納。

少し長くなるが伝説を紹介する。
ある日、弓の名人といわれた弥四郎という狩人が御荷鉾山の方へ狩りにいったときのこと。弥四郎は山の中腹で大蛇と出くわしたが、得意の弓矢を使ってその大蛇を退治した。

数年後、慈恩寺にひとりの美しい姫が訪ねて来て「三年前に矢に当たって亡くなった夫の血脈をもらい、菩提を弔ってあげたい」と言う。悦堂は見たことのない姫を不審に思い、「どこから来たのか?」と尋ねると、姫は「御荷鉾の池ノ平」と。しかしその辺りに家はない。悦堂は「本当の姿を見せるなら血脈を与えよう」と言うと、その姫は「明日の明け六つにお寺の庭に参ります。どうか血脈をください」と頼むと帰って行った。

翌朝雷が鳴り響き、大蛇がお堂を幾重にも巻いて鎌首を悦堂の方へ向けていた。その姿を見てすべてを悟った悦堂は、約束通り大蛇に血脈を授けたという。その夜、悦堂の夢枕ににあの姫が立ち「村の人が日照りで困ったときは薬師の池の水がえをすれば雨を降らせます」と言って消えたという。

伝説の内容は大蛇だが、「龍女伝説」とされている。また、池の薬師での雨乞いは昭和20年(1945年)の終戦後まで行われていた記録が残る。

*血脈とは師から弟子へと代々仏法を正しく伝えることを言う。

慈恩寺 (6)
慈恩寺 (7)
子育て地蔵。大正時代に上屋が作られたとあった。当時の住職は22世・黙禅代。

慈恩寺 (8)
本堂に黙禅代の絵姿が奉納されている。檀家・住民から慕われていたのだろう。


多野郡神流町万場の神流川河川敷で開催された「鯉のぼり祭り」。

鯉のぼり祭り2025 (1)
神流町の「鯉のぼり祭り」は、毎年5月連休(GW)中に開催される。今年は5月3日から5日まで開催された。約800匹の鯉のぼりが神流川の両岸に張られたワイヤーに掲げられる。新型コロナの影響で中止もあったが、今年で40回目となる。

昭和56年(1981年)に町内の有志団体(当時は万場町)が2本のワイヤーロープに鯉のぼりを100匹ずつ揚げたのが始まり。その数は年を重ねる毎に8ラインにまで増え、昭和62年(1987年)には鯉のぼり800匹となっている。

鯉のぼり祭り2025 (2)
鯉のぼり祭り2025 (3)
鯉のぼり祭り2025 (4)
鯉のぼり祭り2025 (5)
鯉のぼり祭り2025 (6)
約800匹の鯉のぼりが大空を優雅に泳ぐ風景は壮観だ。意外と名入りの鯉のぼりが多い。おじいちゃん、おばあちゃんがお孫さんのために注文してくれるのかな。

ところで、鯉のぼりを見に行ったのはお祭り終了後。5月5日(月)までがお祭りだが、鯉のぼりの撤収は11日(日)なので、10日(土)までは普通に見られるのだ。イベントには参加できないが、駐車場も空いているし、見学者も少ないしのんびり見られる。

神流町の鯉のぼりを見に行ったのは今回で2回目。前回は令和元年(2019年)だったが、やはりお祭り終了後。鯉のぼりを眺めるだけなら、これで十分だね。


藤岡市白石の吉良上野介陣屋跡の井戸。

吉良上野介2 (1)
吉良氏は寛永5年(1628年)ころから三河国(愛知県)の本領の他に白石村(藤岡市白石)に840石を領し、村の中央部に陣屋を置き家臣の長船氏に治めさせていた。陣屋の遺構として「汚れ井戸」と称する古井戸が残っている。

吉良上野介2 (2)
吉良上野介2 (3)
赤穂事件で有名な吉良上野介義央の母が伊香保温泉に湯治した帰途、この屋敷に滞在して義央を産んだと伝わる。その際に、この井戸から産湯を汲んだといわれる。井戸は毎月1回赤く染まるので「汚れ井戸」と呼ばれ、飲料水にはしなかったという。

吉良上野介2 (4)
陣屋があったとされる場所は、現在は畑になっている。陣屋跡の遺構は見当たらないが、地元には「陣屋畑」との呼び名のみが残っている。

赤穂事件は「忠臣蔵」として戯曲化され江戸中期以降人気を博したが、白石村では義央を敵役とする忠臣蔵の興行を行うと「火の雨が降る」といわれたと伝えられている。「良くないことが起こる」と言った意味かな。

昔は義央が浅野内匠頭長矩を「いじめ」たことが原因とされていたが、様々な文献研究から現在では大方が否定されている。ただ「忠臣蔵(主君の敵を討つ)」が、日本人に広く受け入れられていることから、義央は永遠の「敵役」になってしまっている。


藤岡市西平井の平井城址。

平井城址2 (1)
平井城址2 (2)
平井城は関東管領・上杉憲実が鎌倉公方・足利持氏との確執から上野国平井へ逃れた際、家臣の長尾忠房に築城させたといわれている。永享10年(1438年)ころとされる。文正元年(1466年)に関東管領になった上杉顕定によって拡張されている。

天文21年(1552年)北条氏康に攻め落とされ、時の関東管領・上杉憲政は越後国の長尾景虎(上杉謙信)のもとに逃れている。北条氏居城時は北条幻庵が治めていたが、永禄3年(1560年)景虎によって奪回されている。しかし景虎は関東における拠点を厩橋城(後の前橋城)に移したため、同年に平井城は廃城となっている。

平井城址2 (3)
現在は藤岡市が関東管領平井城趾公園として整備している。

平井城址2 (4)
平井城址2 (5)
土塁が復元されており、その上に登れるようになっている。遺構が残っているようには見えない。すぐ上の写真の左上に映っている養豚場(養鶏場?)から漂うほのかな香りが鼻先をくすぐる(笑)。

平井城址2 (6)
関東管領・山内上杉氏や平井城の解説パネルがある。

公園の右奥の方には、各種団体や地元の方々が設置した多くの碑などがある。一部を紹介。

平井城址2 (7)
平井城址2 (8)
乳母分霊堂。昭和43年(1968年)の建立。

天文21年(1552年)に北条氏康に攻められ上杉憲政は越後に逃亡したが、憲政は妻子を置き去りにしている。このとき次男・鶴若丸を守るため乳母が奮戦している。結局、鶴若丸は殺害され乳母は自害している。

村人たちは、乳母と若君の亡骸を手厚く葬り、祠を建てて祀った。現在も上杉乳母神社として、地元の方々が守っている(「藤岡市西平井・上杉乳母神社」参照)。

平井城址2 (9)
上杉氏一族の碑。昭和30年(1955年)の建碑。

これ以外に10以上の各種費が建っている(正式に数えたわけではない)。歌碑が多い様に感じた。恐らくこのエリアは藤岡市の整備とは無関係のエリアだと思う(一般の方の墓地もあるので)。

平井城址2 (10)
平井城址2 (11)
東郭エリア。一度城址公園を出て、回り込んで行く必要がある。堀跡に橋が復元されている。えぇ~と、この橋はどういうコンセプトなのかな?

藤岡市によると「整備については発掘調査の結果を基に平井城在城の最終段階と捉えられる16世紀中頃の時期を設定し、復元整備を行っております」だそうだ(藤岡市HP)。


藤岡市本郷の土師神社。

土師神社2 (1)
土師神社2 (2)
土師神社の由緒は不詳だが、上野国神名帳記載の土師明神とされる古社である。この地域に居住していた土師氏(埴輪や土師器を製造する人々)が、氏神として野見宿禰を祀ったのが始まりとされる。明治43年(1910年)に近在の10社を合祀している(他に末社を5社を有する)。

土師神社2 (3)
鳥居から続く参道は杉並木に覆われている。この参道を使って秋の例祭時には、平成14年(2002年)に復活した流鏑馬が奉納される。

土師神社2 (4)
土師神社2 (5)
割拝殿は茅葺き屋根をトタンで覆っているように見える。中には繭(養蚕)の番付表(額)があった。古い物かと思ったら、昭和50年(1975年)前後のものだった。

土師神社2 (6)
土師神社2 (7)
土師神社2 (8)
社殿の建立年などは不明だが、その建築様式(向拝の彫刻や海老虹梁・蟇股の様式など)から17世紀後半から18世紀初期と推定される。

土師神社2 (9)
土師神社2 (10)
拝殿前の狛犬は平成9年(1997年)の奉納。野見宿禰の生誕2,000年を記念してだとあった。どこからの数字だろう?

土師神社2 (11)
神楽殿。春の例祭時に太々神楽が奉納される。

土師神社2 (12)
社殿脇に境内末社の石宮が並ぶ。

土師神社2 (13)
土師神社2 (14)
境内の「土師の辻」と呼ばれる相撲の土俵。土俵は高さ160cm、上円部径495cm。「日本三辻」のひとつ。他は摂津国(大阪府と兵庫県東部)の住吉神社と能登国(石川県)の羽咋神社。これが縁で藤岡市と羽咋市は姉妹都市になっている。

土師神社に「土師の辻」があるのは、ご祭神の野見宿禰が関係している。日本書紀によると、垂仁天皇の命により野見宿禰は當麻蹴速と相撲をとって勝ったされる。これが相撲の起源と言われている。

土師神社2 (15)
「土師の杜」という歌碑。裏には「土師縁起」も刻まれている。「土師の杜」の作曲者は服部良一とある。「東京ブギウギ」や映画「青い山脈」などで知られる。

土師神社2 (16)
土師神社2 (17)
北側の鳥居とその前にある御手洗池。

この地は国指定史跡の「本郷埴輪窯跡」がすぐ近くにあることから、5世紀後半から6世紀ころに埴輪の生産地であったとされる(「藤岡市本郷・埴輪窯跡」参照)。

土師神社のご祭神である野見宿禰は相撲の神であるとともに、天皇の死に対してそれまでの殉死を改め埴輪を埋葬することを進言し、その功から土師姓を与えられたとされる(ただし、これは考古学的な見地からは否定されており伝説とされている)。


藤岡市本郷の埴輪窯跡。

埴輪窯跡2 (1)
本郷埴輪窯跡はその名の通り埴輪を焼いた窯の跡。明治39年(1906年)に東京帝大・柴田常恵教授により発見されている。約4m間隔に30個を超える窯が並んでいると考えられた。

埴輪窯跡2 (2)
埴輪窯跡2 (3)
早速「埴輪製造之竈址」の碑が建てられている。揮毫は千家尊福。千家は出雲大社の宮司を務める出雲国造家の出身で、貴族院議員や東京府知事などを歴任している。唱歌「一月一日」の作詞者でもある。

埴輪窯跡2 (4)
窯跡のうち2基について昭和18年(1943年)・19年(1944年)に群馬師範学校(現群馬大の一部)・尾崎喜左雄教授により発掘調査が行われた。その結果、第一窯跡からは人形埴輪の顔面・腕部・円筒部などが、第二窯跡からは主に馬具埴輪が出土している。

埴輪窯跡2 (5)
昭和20年(1945年)に最も保存状態の良かった1基について、上屋が作られ保護されている。併せて「史蹟本郷埴輪窯跡」の標柱が建てられた。発見されてから本格発掘調査、さらには保存用の上屋が作られるまで40年近くかかったことになる。

埴輪窯跡2 (6)
昭和21年(1946年)には尾崎教授の解説による「埴輪窯保存顕彰の碑」が建てられている。

ここで焼かれた埴輪は藤岡市内はもちろん、吉井町や旧八幡村(現高崎市山名町などの南八幡地区)の古墳からも類似品が見られるところから、広範囲で使用されたと考えられる。

当地には野見宿禰を祖とする土師氏が多く居住し、埴輪の製造を担っていたと考えられる。野見宿禰は殉死の風習を廃止し埴輪を埋葬することを考案し、その功から土師氏の姓を与えられたされる。ただし、これは考古学的な見地からは否定されており伝説とされている。


藤岡市矢場の陽向山広沢寺。

広沢寺 (1)
広沢寺は天正2年(1574年)誘翁教訓の開山、黒沢兵部丞の開基である。黒沢兵部丞は武田信玄の家臣。この時期は武田氏が西上州を支配していた。なお、兵部丞は翌天正3年(1575年)の長篠の戦いで討死したとされる。

他説では開基を黒沢主計としており、主計は徳川家康の家臣とされる。主計は慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で討死。家康は主計の死を悼み、朱印を贈りその菩提を弔ったという。主計が開基の場合、広沢寺の開創は家康の江戸移封以降となる。

兵部丞、主計とも黒沢姓だが、その関係性は分からない。

広沢寺 (2)
境内入口の六地蔵。平成2年(1990年)の造立。

広沢寺 (3)
広沢寺 (4)
石仏や念仏供養塔などの仏塔類。

広沢寺 (5)
広沢寺 (6)
本堂は寛政5年(1793年)の建立。同年の棟札が残されており、棟梁は群馬郡新井(現榛東村新井)の浅見出羽藤原光命で、木挽きは水戸の長谷川国右衛門義忠と記されている。

広沢寺 (7)
境内の石仏。中央の不動明王像以外は像容がよく分からない。


藤岡市高山の高山社情報館にある高山社2代目社長・町田菊次郎の銅像。

町田菊次郎の銅像 (1)
「富岡製糸場と絹産業遺産群」(富岡製糸場・田島弥平旧宅・高山社跡・荒船風穴)が世界遺産に登録されて、昨年(2024年)で10年が経過した。それを記念して構成資産のひとつである「高山社跡」の学習施設・高山社情報館前に、高山社2代目社長・町田菊次郎の銅像が造立された(昨年11月)。

向かって左は高山社創始者・高山長五郎(1820~86年)の銅像。養蚕法「清温育」を確立し、養蚕技術の向上・普及に大きく貢献した。長五郎の銅像は平成26年(2014年)の造立で、平成28年(2016年)に藤岡市役所から当地(高山社情報館)に移されている。

町田菊次郎の銅像 (2)
右が町田菊次郎の銅像。市民有志からなる実行委員会が寄付を募って造立したもの。

町田菊次郎は緑埜郡本郷村(現藤岡市本郷)の出身で、高山長五郎の「清温育」の講義を聴き興味を持ち、明治8年(1875年)に入門。明治19年(1886年)に高山長五郎の遺志を継いで高山社2代目社長に就任。

明治34年(1901年)には私立甲種高山社蚕業学校を設立(初代校長)。全国から生徒を受け入れることで養蚕の担い手育成に務めるとともに、清温育の普及に尽力した。大正6年(1917年)66歳で死去している。

日本の養蚕農家は令和5年(2023年)現在、全国でわずか146戸だそうだ。このうち群馬県内は55戸(令和6年農水省資料)。最盛期の昭和4年(1929年)には221万戸も存在していたという。繭の生産量も農水省資料で45トン(最盛期は40万トン)。

2人の視線の先に見える景色は、どう映っているのだろうか?

関連
 「藤岡市高山・高山社跡
 「藤岡市高山・高山社情報館
 「高山社2代目社長・町田菊次郎生家
 「高山社2代目社長 町田菊次郎の墓・喜雲山龍田寺


太田市新田赤堀町の八幡宮。

赤堀八幡宮 (1)
赤堀八幡宮 (2)
赤堀八幡宮 (3)
赤堀八幡宮は保元2年(1157年)新田義重が新田荘の開拓に際し、石清水八幡宮の分霊を勧請し守り神としたという。赤堀を含め岩松・大島・新井・大舘・強戸・寺井・田中の各村の八幡宮を「八所八幡」と称する。

明治11年(1878年)村内の八坂神社・神明宮・石神社・琴平神社・稲荷神社・菅原神社などを合祀している。

一の鳥居は大正8年(1919年)、二の鳥居は平成22年(2010年)の建立。

赤堀八幡宮 (4)
赤堀八幡宮 (5)
社殿前の灯籠は平成10年(1998年)の奉納。社殿の建立年など、詳細は不明。

赤堀八幡宮 (6)
赤堀八幡宮 (7)
境内末社の八坂神社・菅原神社、石神社など。いずれも相殿になっている。

赤堀八幡宮 (8)
赤堀八幡宮 (9)
境内には遊具が設置されている。

赤堀八幡宮には元禄年間(1688~1704年)に起源をもつといわれる獅子舞が伝わっている。毎年秋の例祭で奉納される。

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