上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

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藤岡市藤岡の富士浅間神社。

藤岡浅間神社 (1)
富士浅間神社の創建年などは不詳だが、当地を治めた古代の有力者の墳墓(古墳)に祠を設け、上郡御霊明神としたのが始まりと伝わる。その後、文永11年(1274年)に日蓮上人が佐渡から鎌倉に戻る途中、木花開耶姫命の御霊を当神社に遷したという。以来、富士浅間神社と社名を改めている。

明治3年(1870年)常岡神社と改称したが、同36年(1903年)に富士浅間神社と復称している。明治41年(1908年)上浅間神社、秋葉神社を合祀している。

藤岡浅間神社 (2)
藤岡浅間神社 (3)
一の鳥居は平成24年(2012年)の建立。扁額は「富士山」。

藤岡浅間神社 (4)
大きな灯籠は明治2年(1869年)の奉納。

藤岡浅間神社 (5)
藤岡浅間神社 (6)
碑の写真の上は「富士登山六十六度大願成就の碑」で大正8年(1919年)の建立、下は「富士登山三十三度記念碑」で明治26年(1893年)の建立。

江戸時代から昭和の初めにかけて富士講(富士を拝み、富士山霊に帰依し心願を唱え、報恩感謝するという教え)が広まったことから、富士登拝(登山)が盛んに行われた。それにしても66回とか33回とか、すごい回数の富士登山歴だ。

藤岡浅間神社 (7)
参道脇には灯籠がずらっと並ぶ。正面に見える(横向き)のが二の鳥居だ。

藤岡浅間神社 (8)
藤岡浅間神社 (9)
二の鳥居は昭和3年(1928年)の建立。

藤岡浅間神社 (10)
二の鳥居から社殿へは石段を上る。由緒にある「古代の有力者の墳墓(古墳)に祠を設け」をイメージしやすい。

社殿が鎮座するのは浅間山古墳(藤岡町1号古墳)。直径約38m・高さ約4.5mの円墳。慶応2年(1866年)に社殿への石段・玉垣が整備され、古墳形状は大きく変貌したと考えられる。

藤岡浅間神社 (11)
藤岡浅間神社 (12)
藤岡浅間神社 (13)
藤岡浅間神社 (14)
天正18年(1590年)藤岡領主となった芦田康勝が、藤岡城(芦田城)の北面の守りとして社殿を大規模に拡張・改修している。

その後、社殿は昭和40年(1965年)に火災で焼失。同44年(1969年)に再建されている。平成8年(1996年)には屋根瓦の葺替えが行われている。拝殿扁額は「冨士」(うかんむりの冨)。

藤岡浅間神社 (15)
拝殿前の狛犬は大正12年(1923年)の奉納。

藤岡浅間神社 (16)
神楽殿は慶応3年(1867年)の建立。

藤岡浅間神社 (17)
参集殿に置かれている宮神輿。夏の藤岡まつりなどに出御する。

富士浅間神社には神輿をかつぐ行列が描かれている絵巻物が宝物として伝わっている。浮世絵師・菊川英山の作。絵巻は4mという長さで、行列の人数は357人。藤岡市の重文に指定されている。

ところで、鎌倉時代の後半まで藤岡市の辺りは「常が岡(ときがおか)」と呼ばれていた(このため明治の一時「常岡神社」と改称されていた)。当社が富士浅間神社となったことをきっかけに「富士岡」と呼ばれるようになったとされる。ただ「富岡」と紛らわしかったため「藤岡」としたといわれる。


藤岡市牛田の真道山医光寺。

医光寺2 (1)
医光寺は元和元年(1615年)僧・真海の開創とされる。明治41年(1908年)に字川除の宝蔵寺を合併している。

医光寺2 (2)
山門脇の六地蔵。昭和60年(1985年)の造立。

医光寺2 (3)
医光寺2 (4)
本動は平成12年(2000年)に屋根の改修を行っている。

医光寺2 (5)
旧屋根に乗っていた瓦が境内に保存されている。

医光寺2 (6)
医光寺2 (7)
医光寺2 (8)
境内の薬師堂。由緒などは分からない。

医光寺2 (9)
歴代住職の墓域に立派な宝塔がある。宝暦14年(1764年)の造立。

医光寺2 (10)
医光寺2 (11)
板碑は鎌倉時代末の延慶3年(1310年)の建碑。上部に阿弥陀三尊種子、中央に阿弥陀賛仰の旬があり、16人の発願により建立されたことが記されている。秩父産の緑泥片岩製で、高さ253cm・幅52cm・厚さ6cm。藤岡市に現存する板碑の中で最大である。

この板碑は明治時代末に神流川の土中から発見され、医光寺に移されている。昭和41年(1966年)に台風による倒木のため倒れ、上部90cmのところで折れてしまったが、昭和44年(1969年)に修復されている。


藤岡市牛田の天保ききんの碑。

天保ききんの碑2 (1)
天保ききんの碑2 (2)
碑自体は「積木神社之跡」を示す碑で、昭和20年(1945年)に建立されている。当地は積木神社が鎮座していた旧地で、積木神社は明治42年(1909年)に椿社神社(藤岡市本郷)に合祀されている。

天保ききんの碑2 (3)
石宮が積木神社の名残を残している(石宮以外に常夜灯が1基あった)。

当碑が「天保ききんの碑」と呼ばれる所以は、碑の裏面に天保8年(1837年)の穀類の価格が刻まれていることから。それによると「一両二 コメ二斗、ムキ四斗、小ムキ三ト、マメ5ト」(原文ママ)とある。平年の相場が金一両で米1石とされるので、5倍も高騰価格ということになる(1石=10斗)。

天保の大飢饉は天保4年(1833年)に始まり、天保6~8年にかけて最大規模化している。主な原因は天保4年の大雨による洪水や冷害による大凶作。このような農作物の高騰は各地で一揆や打ちこわしを引き起こした。

有名なのは天保8年(1837年)大坂の大塩平八郎の乱。また、群馬でも国定忠治が私財を投げうち貧民救済にあたったといわれている。

ところで、なぜ昭和20年に建立された碑の裏面に、100年以上前の天保8年の穀類価格が刻まれているかというと、この石は元は付近の橋として使われていた(緑泥片岩製で高さ260cm・幅107cm・厚さ13cm)。

そして天保8年当時、この石橋の下に僧が住み付いていたという(今で言うところのホームレス)。この僧が食糧難による物価高の実情を石橋の裏側に刻んだものとされる。

地元の人たちは「積木神社之跡碑」を建立したのだが、知ってか知らずか「天保ききんの碑」を建立していたということになる。結果的に当時の世情を伝える貴重な資料となっている。


藤岡市緑埜の千部供養塔。

千部供養塔2 (1)
千部供養塔2 (2)
千部供養塔は天明3年(1783年)の浅間山大噴火の模様と、その被害状況(各地の降灰量や凶作による諸物価の高騰など)を刻んだ供養塔である。安山岩製で高さ80cm・幅31cm・厚さ21cm。大噴火の9年後の寛政4年(1792年)に旗本・松平忠左衛門の代官・斉藤八十衛門雅朝の建立。

千部供養塔2 (3)
左右面・裏面に降灰や被害状況、米麦・大豆などの物価高騰状況が刻まれている。当時の世情を伝える貴重な資料である。

記載されている降灰状況は前橋で7~8寸(約21~24cm)、高崎・藤岡で一尺(約30cm)、松井田では3尺(約90cm)とある。米は金一両三斗二升、麦は金一両四斗五升(これがどれくらい高いのかピンとこないが)などと記されている。

天明3年7月8日の浅間山大噴火は「浅間焼け」と呼ばれ、浅間山史上最大級の噴火・爆発とされる。鎌原村(現嬬恋村)では高台の観音堂に逃げ延びた僅かな人々を残して、集落は壊滅するほどの被害となった。

関連
 「嬬恋村鎌原・鎌原観音堂


吾妻郡高山村中山の田んぼアートは、残念ながら中止となりました。

平成21年(2009年)に始まった「田んぼアート」。毎年6月初旬に村内外か集まったボランティアの方々手で、約20アールの田んぼに田植えが行われていた。7月から8月になると道の駅「中山盆地」から見下ろせるため、多くの人が見物に訪れていた。

今年も高山村の「田んぼアート」を見に行こうかなと思い、「今年の絵柄は何だろう?」と調べてみた。すると残念なお知らせが目に飛び込んできた。

「高山村の恒例イベントとなっていた「『田んぼアート』が今年、人員不足などを理由に中止されることになった。村職員の有志8人でつくる『田んぼアート研究会』が運営してきたが、昨年度に会長を含む2人が退会し、本業で要職に就く会員も増え、活動の継続は困難になっていた。増員や後継団体設立のめどは立っておらず、事業は事実上の終了となった」(上毛新聞5月25日)。

平成27年(2015年)から毎年見に行っていたが、残念なことである。手元にある写真で過去の「作品」を振り返って、感謝の意としたい。

田んぼアート2015
「ぐんまちゃん & くまモン」 平成27年(2015年)

田んぼアート2016
「真田ぐんまちゃん & 申」 平成28年(2016年)

田んぼアート2017
「ぐんまちゃん & 鳥(酉)」 平成29年(2017年)

田んぼアート2018
「ぐんまちゃん & つぼみちゃん & ポチッとくん」 平成30年(2018年)

田んぼアート2019
「イノシシ? & ネコ?」(ネズミとタヌキ?) 令和元年(2019年)

田んぼアート2020
「アマビエ & 祷」 令和2年(2020年)

田んぼアート2021
「鳳凰 & 鳳」 令和3年(2021年)

田んぼアート2022
「しまじろう」 令和4年(2022年)

田んぼアート2023
「ウサギ & 三並山(小野子山・中ノ岳・十二ヶ岳)」 令和5年(2023年)

田んぼアート2024
「ドラゴンボール:一星球(イーシンチュウ)を持つ龍」 令和6年(2024年)

ちょうど10年間楽しませてもらった。復活することを願っています。


藤岡市小林の風天神社。

風天神社 (1)
風天神社 (2)
風天神社の由緒は不詳。ご祭神は級長津彦命と級長津姫命で、風の神と女神である。風天は仏教における十二天のひとりで、風を神格化したもの。神道と仏教が融合した名称となっているようだ。

鳥居は令和元年(2019年)の建立。

風天神社 (3)
社殿前の灯籠は昭和3年(1928年)の奉納。

風天神社 (4)
風天神社 (5)
風天神社 (6)
社殿は昭和31年(1956年)に改築されている。

風天神社 (7)
社殿前の狛犬は昭和32(1957年)の奉納。

風天神社 (8)
遙拝所を示す標柱。方向(南西を向いている)から伊勢神宮の遙拝と思われる。

風天神社 (9)
風天神社 (10)
風天神社 (11)
境内社の稲荷神社。鳥居は平成5年(1993年)の建立。天皇陛下(当時は皇太子殿下)ご成婚記念とあった。

文政4年(1821年)に市河米庵によって著された「上野国志」に「五行神社当郡にあり」とある。五行神を祀る神社として「小林村に風天社、本郷村に土主明神、小浜村に小松社(木神なり)、戸塚村に水宮あり。但し火神の社なし。東平井村に雷電祠あり、これ火神なるか」と記載されている。

各地で神道と仏教、神道と五行信仰が結びついた現象が見られる。これもその一例だと考えられる。ちなみに多野郡誌(昭和2年:1927年)の比定は下記。
 木神 椙山明神(椿杜神社
 火神 波与明神(風天神社)
 土神 土師明神(土師神社
 金神 丹生明神(浄法寺丹生神社
 水神 水沼明神(水沼神社

多野藤岡地方誌(昭和51年:971年)では下記。
 木神 椿杜神社
 火神 風呂輪明神(神田浅間神社へ合祀)
 土神 土師神社
 金神 風天神社
 水神 水沼神社

風天神社は「多野郡誌」では火神、「多野藤岡地方誌」では金神に比定されている。どちらも断定はしていないけどね。


藤岡市立石の立石神社。

立石神社 (1)
立石神社 (2)
立石神社は元は天正9年(1581年)に松本氏が勧請した琴平宮で、松本氏の氏神である。明治43年(1910年)に若宮八幡宮を合祀し立石神社と改称している。なお、若宮八幡宮は明治41年(1908年)に八幡宮に菅原神社・飯玉神社・八幡宮・稲荷神社・石神社を合祀し改称したもの。

鳥居は木造鳥居の柱部をコンクリート化し補強・修理したようだ。

立石神社 (3)
社殿前の狛犬は昭和56年(1981年)の奉納。

立石神社 (4)
立石神社 (5)
立石神社 (6)
扁額は金毘羅大権現。元が琴平宮であることを思い起こさせる。

立石神社 (7)
向拝の龍の彫刻。おそらく後付け。

立石神社 (8)
立石神社 (9)
拝殿の奉納額。文字と小判のような絵は文化8年(1811年)、「司馬温公の瓶割り」だと思われるものは嘉永5年(1852年)の奉納。

立石神社 (10)
立石神社 (11)
神楽殿。

立石神社 (12)
立石神社 (13)
立石神社 (14)
境内社の八幡宮と天満宮(相殿)。彫刻も施されている立派な社殿だ。

立石神社 (16)
境内の「立石さま」。立石地区の地名の元になったとされる大石(推定約750kg)。

村人は不思議な霊験があるとして村内に祀っていた。江戸時代、前橋藩主・酒井雅楽頭が前橋城に移そうとしたが、途中で石が重くなり運ぶことが出来なかったといわれる。元に戻す時は軽くなり、容易に元の場所に戻せたという。

以来、「立石さま」は立石村を護る神様なので、むやみに動かしてはいけないとされてきた。永らく個人宅に置かれていたが、令和6年(2024年)立石神社境内に移設している。動かして大丈夫?


藤岡市立石の立石山崇近寺。

崇近寺 (1)
崇近寺 (2)
崇近寺 (3)
崇近寺は慶長年間(1597~1614年)訊誉上人の創建。

崇近寺 (4)
門前の庚申塔類。左の細い塔は二十二夜塔。あまり見かけない形状だ。

崇近寺 (5)
六地蔵。昭和13年(1938年)の造立。

崇近寺 (6)
厄除け延命地蔵尊。

崇近寺 (7)
崇近寺 (8)
本堂は平成13年(2001年)の建立。

崇近寺 (9)
本堂前には桜の木がある。4月にはきれいな花を咲かせる。

崇近寺 (10)
境内の端に「忠犬チビの碑」がある。昭和41年(1966年)の建碑。交通事故で亡くなった幼い主人を慕い、毎日墓参りに通ったという「チビ」を称えたもの。

この時代は高度成長期が始まり、クルマが増加の一途をだどっていたころ。安全面の対策が追いつかず昭和45年(1970年)には約1万6,000人が交通事故で犠牲になっていた(昨年は約2,600人)。


藤岡市東平井の満重山高源寺。

高源寺 (1)
高源寺は天正14年(1586年)に高山定重が父・満重の菩提を弔うため、室田・長年寺9世学州是芸を開山に迎え創建。高山氏の子孫には明治時代に高山社を創設し養蚕業の発展に寄与した長五郎がいる。

高源寺 (2)
山門脇に碑が建っている。「萬劫久栄重慶山門」とある。非常に永い年月において栄え慶ぶといった意味か。

高源寺 (3)
山門前の庚申塔や馬頭観音。明和5年(1768年)や寛政12年(1800年)の銘が読み取れた。

高源寺 (4)
六地蔵。

高源寺 (5)
本堂は文化4年(1807年)に焼失したが、同13年(1816年)に再建されている。

高源寺 (6)
高源寺 (7)
境内の宝塔や仏塔・石仏など。

高源寺 (8)
高源寺 (9)
梵鐘は先の大戦時に供出したが、昭和52年(1977年)に再鋳造している。

高源寺 (10)
高山満重の墓。永禄3年(1560年)とあったので、満重の没年だろうか。


藤岡市上大塚の飯玉神社。

上大塚飯玉神社 (1)
上大塚飯玉神社 (2)
上大塚飯玉神社は天正10年(1582年)の神流川の戦い時、社殿及び書類等をことごとく焼失したため、創建年や由緒などは不詳となっている。鳥居、灯籠は平成8年(1996年)の建立。

上大塚飯玉神社 (3)
通りから長い参道が続く(数百m)。周りは住宅地化している。

上大塚飯玉神社 (4)
上大塚飯玉神社 (5)
上大塚飯玉神社 (6)
社殿前の灯籠は昭和6年(1931年)、狛犬は昭和50年(1975年)の奉納。

上大塚飯玉神社 (7)
境内社・末社の石宮2基。古峯神社のようだ(お札が入っていた)。

上大塚飯玉神社 (8)
上大塚文化財倉庫(左)と神庫(右)。文化財倉庫って、何を保管しているのだろう?

上大塚飯玉神社 (9)
文化財倉庫の屋根には鳳凰が鎮座している。

上大塚飯玉神社 (10)
ヒマラヤシーダー(ヒマラヤスギ)。昭和8年(1933年)の上海事変・満州事変凱旋記念樹とあった。どれくらいの苗木を植樹したか分からないが、樹齢は約90年になる。


藤岡市本動堂の瑠璃光山医王字。

医王寺 (1)
医王寺の創建年は不詳。貞享2年(1685年)4世・澄海教伝法印が再興開山、この時に医王寺と改称している。山門は令和3年(2021年)の建立。

医王寺 (2)
山門前の灯籠と六地蔵。

医王寺 (3)
医王寺 (4)
本堂は令和元年(2019年)の建立。

医王寺 (5)
医王寺 (6)
真新しい本堂には本尊の薬師如来(脇侍に日光菩薩・月光菩薩)を祀る。大正12年(1923年)まで本尊は不動明王といわれていた。薬師如来と不動明王を間違えることはないと思うので、両尊とも安置されていて本尊を間違えていたということかな。

医王寺 (7)
医王寺 (8)
医王寺 (9)
向かって左には石仏が2体。風化が進んでおり像容はよく分からない。右の祠内には木製の蛇像が鎮座していた。けっこうリアルな造りだ。

藤岡市篠塚の愛宕山西宝院。

西宝寺 (1)
西宝院の創建などは不詳。承応年間(1652~55年)に鏑川の洪水被害に遭い、元禄14年(1701年)に現在地に移転している。現在地は芦田50騎のひとりに数えられる戸田氏の屋敷跡とされる。なお、鏑川の南岸に「西宝院塚」(現在は藤岡市篠塚)という地名があり、元地と考えられる。

西宝寺 (2)
西宝寺 (3)
本堂は昭和52年(1977年)の建立。本堂に納められている位牌中に「東照大権現・新儀(徳川家康)」「東照大権現・尊儀(徳川2代から7代の将軍の法名)」がある。なぜ西宝院にあるかは、徳川将軍家との関係性も含めて不明。

西宝寺 (4)
西宝寺 (5)
山門脇に庚申塔や供養塔などが集積されている(なぜかひとつだけ墓石もある)。判読できた限りでは、元文5年(1740年)、寛政8年(1796年)の銘が読み取れた。

西宝寺 (6)
西宝寺 (7)
西宝寺 (8)
上記石塔類の中の如意輪観音像、庚申供養塔、六地蔵石幢(龕部など上部のみ)。


藤岡市中の泡輪(あわ)神社。

泡輪神社 (1)
泡輪神社の由緒は不詳。宝永5年(1708年)に再興されたといわれる。本社は奈良市に鎮座する率川(いさがわ)阿波神社。率川阿波神社は宝亀2年(771年)藤原是公の創建という。

是公は藤原南家の公卿。牛屋大臣と称された。南家は不比等の長男・武智麻呂に始まる。是公は武智麻呂の4男・乙麻呂の長男になる(つまりは不比等の曽孫)。藤原南家の関係者が国司などとして当地に赴任し、率川阿波神社の分霊を勧請したのだろうか。

泡輪神社 (2)
泡輪神社 (3)
覆屋内の本殿は立派である。

泡輪神社 (4)
道祖神と石宮が2座。

泡輪神社 (5)
泡輪神社 (6)
万葉歌碑が2基建っている。

「かみつけの おどのたどりが かわぢにも こらはあはなも ひとりのみして」
「かみつけの おののたどりが あはぢにも せなはあはなも みるひとなしに」

上野国東歌の巻14-3405歌と、それが変化した「或る本の歌に曰く」とされている歌らしい。建碑などの経緯は不明。


藤岡市中の宝林山盛勝院。

盛勝院 (1)
盛勝院の創建年などは不詳だが、新田村(現在の藤岡市森新田)に創建。寛保2年(1742年)の鏑川の洪水により本堂が流されるなどの被害を受け、同年以降に現在地に移っている。

盛勝院 (2)
境内は広くないが庭木も良く手入れがされており、非常にきれいな佇まいをしている。

盛勝院 (3)
盛勝院 (4)
本堂の建立年などは不明だが、本堂前の灯籠が平成20年(2008年)に奉納されているので、本堂も同年あたりの建立(もしくは改修)だろうか。

盛勝院 (5)
盛勝院 (6)
六地蔵は平成14年(2002年)の造立。地蔵像は昭和59年(1984年)の造立。

盛勝院 (7)
藤岡市仏教会の会長も務めた佐藤絶海和尚の句碑。平成8年(1996年)の建碑。

盛勝院 (8)
盛勝院 (9)
1kmくらい離れたところに盛勝院の薬師堂がある。主に墓地となっている。当所は藤岡市森新田になり、創建地(もしくはそれに準ずる地)なのかな。現在も鏑川がすぐ北を流れている。

盛勝院 (10)
盛勝院 (11)
盛勝院 (12)
六地蔵、宝塔や二十二夜供養塔(如意輪観音)、聖観音など。


藤岡市上戸塚の戸塚神社と戸塚神社古墳。

戸塚神社 (1)
戸塚神社 (2)
戸塚神社は元は熊野神社で、その由緒は不詳。明治10年(1877年)に村内の神明宮・八幡宮・稲荷神社・諏訪神社・御霊神社などを合祀し戸塚神社と改称している。元熊野神社のため、通称「おくまん様」と呼ばれている。

一の鳥居は昭和60年(1985年)の建立。鳥居前の灯籠は明治2年(1869年)の奉納。

戸塚神社 (3)
戸塚神社 (4)
二の鳥居は平成3年(1991年)の建立。

戸塚神社 (5)
戸塚神社 (6)
戸塚神社 (7)
社殿は昭和11年(1936年)の建立。拝殿は昭和58年(1983年)に改修されている。昭和58年は群馬県で国体(あかぎ国体)が開催された年で、それを記念しての改修らしい。社殿前の灯籠は平成12年(2000年)の奉納。

戸塚神社 (8)
神楽殿。拝殿と同じく昭和58年に改修されている。春の例祭時に太々神楽が奉納される。

戸塚神社 (14)
二の鳥居手前に松尾芭蕉の句碑がある。「春もやや けしきととのう 月と梅」。明治27年(1894年)の建碑。

戸塚神社 (9)
戸塚神社 (10)
鳥居左脇に庚申塔や双体道祖神などが集約されている。

戸塚神社 (11)
戸塚神社 (12)
戸塚神社の社殿は戸塚神社古墳と呼ばれる前方後円墳の前方部に建てられている。戸塚神社古墳は全長53m、前方部幅41m、後円部径30m、前方部の高さ4m、後円部の高さ2.5m。6世紀後半の築造と推定される。

中央部の南面に石室が開口しているが、崩れており危険なため金網で覆われている。石室も崩れているのか土嚢が置かれている。石室からは圭頭大刀・刀子・鉄鏃・鈴・銀環の他、須恵器の短頸壺・提瓶・横瓶、土師器の高坏が出土している。

戸塚神社 (13)
墳丘上に加工された石が置かれている。石室内部の石材の一部だろうか。

地元の人は古くからこの穴(石室開口部)を「呼ばあり穴」と言い、逃亡者や行方不明などがあった時に穴に向かってその人の名を呼ぶと、必ず帰ってくるかまたは生死が判明すると信じていたという。

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