上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

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利根郡昭和村貝野瀬の田岸の宝篋印塔。

田岸の宝篋印塔 (1)
田岸の宝篋印塔は宝永4年(1707年)の造立で、高さは1.7m。旧糸之瀬村内に5基あったうちの最古のものだが、原型を留めているのは本基のみである。他の3基は塔身の上下がチグハグ(違う)、もう1基は銅製であったため先の大戦時に供出されている。

この宝篋印塔が建っている場所は個人宅の裏庭(?)のようで、なんとも見学しづらい場所だ。県道沿いなので個人宅へ入り込むことはないが、ちょっと気を遣う必要がある。

田岸の宝篋印塔 (2)
田岸の宝篋印塔は昭和村の重文に指定されている。そのため解説板が隣にあるのだが、読み始めていきなり違和感。「蓬栄四年」って? 「宝永四年」の間違い。原稿作成時の変換ミスだろうが、そのままのようだ。まあ、昔の年号など普通は知らないからね。


利根郡昭和村貝野瀬の赤城山川龍寺。

川龍寺 (1)
川龍寺は天正18年(1590年)沼田・成孝院の意岩建春和尚が自身の隠居寺として泉龍庵を建てたのが始まり。その後、寛永18年(1641年)成孝院5世・不岸建鎖和尚が開山となり赤城山泉龍寺とした。元禄11年(1698年)火災により焼失。再建に際し現在地に移り、泉を川に変え川龍寺としている。

川龍寺 (2)
川龍寺 (3)
川龍寺 (4)
参道脇に石仏・仏塔類、庚申塔類が数多く並んでいる。

川龍寺 (5)
「禁売買芸術の碑」。安永9年(1780年)の造立。境内で歌舞伎や音曲などの見世物や物売りを行ってはいけないという禁止の触書(みたいなもの)。「禁葷酒山門の碑」(酒の持ち込みや酔っ払いの入門禁止)は各地に多く見られるが、禁芸碑は少ないらしい。

川龍寺 (6)
長屋門は嘉永元年(1848年)の建立。昭和48年(1973年)に屋根の改修を行っている。現在は物置となっており、貝野瀬武尊神社の舞殿の舞台装置が保管されている。
(「昭和村貝野瀬・武尊神社」参照)

川龍寺 (8)
川龍寺 (9)
本堂は当地移転後の文化14年(1817年)に再度火災により焼失。現在の本堂は文政3年(1820年)の再建。昭和48年に屋根の改修を行っている。嘉永6年(1853年)に増築した庫裏(旧庫裏)が本堂と一体化しており曲がり屋形状となっている。

川龍寺には開山や開基と並び、岡上次郎兵衛景能が功労者として位牌が祀られている。景能は承応3年(1654年)当地の検地代官として寺地の年貢を免除するなど、寺の財政の基礎をつくってくれたからという。

景能は「笠掛野御用水」の開削(現みどり市周辺の新田開発)や「榛名山北麓」の原野の開発(現東吾妻町周辺)を行ったことでも知られる。同じく昭和村川額の雲昌寺も、同様の理由で景能の位牌を祀っている。(「昭和村川額・赤城山雲昌寺」参照)


利根郡昭和村貝野瀬の武尊神社。

貝野瀬武尊神社 (1)
貝野瀬武尊神社の由緒は不詳。上野国神名帳に「利根廿二坐 従一位保宝高明神」とあるのは当社とされる。また、慶長19年(1614年)に社殿を再建した記録や、承応3年(1654年)の神領免許(年貢免除の土地)が残っている。

明治11年(1878年)に諏訪神社、稲荷神社、阿津摩神社、八幡神社、十二神社、厳島神社などを合祀、同42年(1909年)には神明宮、八坂神社を合祀している。

貝野瀬武尊神社 (2)
貝野瀬武尊神社 (3)
貝野瀬武尊神社 (4)
社殿は寛延3年(1750年)の建立(棟札が残されている)。

貝野瀬武尊神社 (5)
貝野瀬武尊神社 (6)
舞殿は文政3年(1820年)の建立。元は社殿正面に建てられた割拝殿であったが、先の大戦後に現在の場所に移されている。回り舞台の仕掛けがあり、それらの道具は近接する川龍寺に保存されている。

貝野瀬武尊神社 (7)
貝野瀬武尊神社 (8)
境内社の諏訪神社。お社は宝暦13年(1763年)の造営とされる。

貝野瀬武尊神社 (9)
貝野瀬武尊神社 (10)
境内社の摩利支天尊。

貝野瀬武尊神社 (11)
貝野瀬武尊神社 (12)
境内社の大神宮。

貝野瀬武尊神社 (13)
貝野瀬武尊神社 (14)
境内社の稲荷明神。

貝野瀬武尊神社 (15)
境内社それぞれにも末社の石宮があり、その中に双体道祖神も多い。明和(1764~72年)などの紀年銘が読み取れた。

貝野瀬武尊神社のご祭神は日本武尊だが、貝野瀬地区には日本武尊にまつわる伝説が2つ残されている。ひとつは貝野瀬の地名で、日本武尊が東征のおり片品川沿いが「貝の背に似ている」と言ったからとされる。

もうひとつは、日本武尊が当地を通ったのが二の未(ひつじ)の日だったことから、武尊神社の祭典は2月・9月ともその月の第二の未の日に行うことになったという。


太田市由良町の正英山威光寺。

威光寺2 (1)
威光寺は元徳2年(1330年)新田義貞の次男・義興の開基、吽海法印の開山で、正永山医光寺として開創。応永年間(1394~1428年)に横瀬貞氏が義興の冥福を祈るために伽藍を修復、義興の法名「威光寺殿従四位下前武衛傑伝正英大居士」から正英山威光寺と改称している。

威光寺2 (2)
威光寺2 (3)
門前の六地蔵や庚申塔類。六地蔵は天明8年(1788年)の造立。庚申関係(如意輪観音塔)には文化8年(1811年)の紀年銘があった。

威光寺2 (4)
威光寺2 (5)
本堂は平成12年(2000年)の新築建立。

威光寺2 (6)
境内の宝塔。寛政2年(1790年)の造立。

威光寺2 (7)
境内の隅に池があり、その奥にお堂がある。堂内を見ることができなかったので、詳細は分からない。

威光寺2 (8)
威光寺2 (9)
威光寺2 (10)
不動堂。本尊の不動尊像は一尺八寸(約54cm)の木像で、東大寺開山・良弁僧正の真作と伝えられる。新田義貞が上洛時に入手し当寺に寄進したという。

不動堂は明治42年(1909年)に火災に見舞われているが、その際猛火の中から檀家の方が不動明王像を運び出したという。お堂の再建は大正4年(1915年)。

威光寺2 (11)
威光寺2 (12)
威光寺2 (13)
弘法大師堂。木造の大師像を祀る。

威光寺2 (14)
新田義興の墓など3基が並んでいる。中央が新田義興の墓、右は義興の母・臺(台)姫の墓、左は義興従者の墓。

威光寺2 (15)
義興は義貞の次男で、義貞が北陸にて奮戦中の建武4年(1337年)奥州の北畠顕家の挙兵に呼応して上野国で挙兵。吉野で後醍醐天皇に謁見し元服、義興の名を賜る。鎌倉を一時奪還する等の戦果をあげたが、正平13年(1358年)江戸多摩川の矢口渡で謀殺される。享年28。

威光寺2 (16)
義興の生母・臺(台)姫の墓。由良光氏の娘で義貞の側室。法名の自性院は威光寺の院号になっている。

謀殺された義興の怨霊を鎮めようと祠を建て新田大明神として祀ったのが、東京都大田区矢口にある新田神社である。ここは破魔矢の発祥の地としても知られる。「新田神社」のHP内に、その由緒(義興のことや神社由来)が紙芝居風の動画で紹介されている。興味のある方は是非。


太田市由良町の飯玉神社。
由良飯玉神社 (1)
由良飯玉神社の由緒は不詳。明治41年(1908年)に稲荷神社、八坂神社、宗像神社などを合祀している。一の鳥居は明治38年(1905年)の建立。

由良飯玉神社 (2)
由良飯玉神社 (3)
鳥居は計4基あり、2基目(二の鳥居と言うべきか)は元禄9年(1696年)、3基目は天保8年(1838年)の建立。

由良飯玉神社 (4)
由良飯玉神社 (5)
社殿の建立年など、詳細は分からない。

由良飯玉神社 (6)
由良飯玉神社 (7)
社殿の裏の境内社は、大黒さまの像が置かれていたので増殿神社かな。古くから大国主命と混同・習合しているので(増殿神社のご祭神は大国主命)。

由良飯玉神社 (8)
由良飯玉神社 (9)
社殿横には石宮が並ぶ。詳細は分からない。

由良飯玉神社 (10)
「敬神虔道」と書かれた碑があった。揮毫は近衛文麿なので昭和初期(1940年ころ)の建碑かな。3文字目は「けん」と読むらしい(手前の枝が邪魔をしているが)。「神を謹んで深く敬え」というような意味だろう。あまり見たことがない碑だ。


太田市脇屋町の脇屋義助館跡。

脇屋義助館跡
脇屋義助館跡といわれる地に建つ「脇屋義助公居館跡」の碑。昭和13年(1938年)の建碑。

脇屋義助は新田義貞の弟で、義貞の挙兵以降副将として奮戦している。義貞討死後は後村上天皇(第97代にして南朝2代)の勅命を受け四国・伊予(愛媛県)に渡ったが、病により興国3年(北朝は康永元年、1342年)36歳で死去している。

平成9年(1997年)刊の「太田市史 通史編 中世」によると、「桑畑中に脇屋義助館跡の碑が建っているが、館の堀跡も土居も片影すら見ることができない」とあり、当時すでに遺構などは確認できなくなっていたようだ。さらに現在では多くが住宅地化されており、逆に農地の方が少なくなっている。時の移ろいは早いものだ。

往時は義助の館に隣接し、正法寺が建っていたとされる。正法寺は万治年間(1658~61年)の火災により現在地(館跡から約1kmほど離れた場所)に移っているが、昭和23年(1948年)の開墾作業中に層塔などが出土している。それらは現在の正法寺に置かれている。

この開墾事業により、館跡の遺構はほぼ消滅したようだ。

関連
 「太田市脇屋町・脇屋山正法寺


太田市脇屋町の脇屋山正法寺。

正法寺2 (1)
正法寺は山城国醍醐寺開山の聖宝僧正が東国遊化の際、延喜年間(901~23年)に創建。創建時は萬明山聖宝寺と称していた。元暦年間(1184~85年)新田義重が堂宇を修理し、元弘年間(1331~34年)に新田義貞の弟・脇屋義助が寺領と大般若経600巻を寄進している。

興国3年(北朝は康永元年、1342年)義助が伊予(愛媛県)国府にて病没(享年36)すると、寺僧が「正法寺殿傑山宗英大居士」という法号とともに遺髪を持参、以来脇屋山正法寺と改称した。なお、法号と遺髪を持参したのは児島高徳との伝承もある。

万治年間(1658~61年)に火災に遭い、観音免と呼ばれる地から現在地に移転したといわれている。観音免には脇屋氏の館もあったとされる。

正法寺2 (2)
正法寺2 (3)
仁王門は貞享2年(1685年)の建立。享和3年(1803年)に改築されている。昭和28年(1953年)には解体・基礎の打ち直しなどの大改修を行っている。

正法寺2 (4)
正法寺2 (5)
仁王像は阿像・吽像ともに像高2.6mほどで彩色されている。昭和63年(1988年)の解体修理の際、背面と顔面裏から銘文が発見され、貞享2年に京都の大仏師・左京入道勅法眼康祐の作と確認されている。

正法寺2 (6)
大鰐口は2m、530kg。貞享2年の鋳造(仁王門・仁王像とともに作成されたようだ)。しかし先の大戦時に供出。現在の鰐口は昭和57年(1982年)の鋳造。

正法寺2 (7)
正法寺2 (8)
本堂は文化4年(1807年)の脇屋大火により焼失。以降、観音堂を本堂としている。そのため扁額は「観音堂」。観音堂は享和3年(1803年)の建立。

正法寺2 (9)
新田氏の大中黒紋が輝く。

正法寺2 (10)
脇屋義助の石像。平成17年(2005年)の造立。

脇屋義助は兄・新田義貞と生品神社での挙兵から行動を共にし、義貞の死後も軍勢をまとめ奮戦している。興国3年には後村上天皇から中国・四国方面の総大将に任命され、四国に渡るも伊予国(愛媛県)で発病しそのまま病没している。

正法寺2 (11)
正法寺2 (12)
義助の遺髪塚(向かって右)。左は義助の墓とする資料もあるが、後に造立された供養塔。見づらくて申し訳ないが、暦応3年(1340年)とある。これは北朝の年号であり、南朝では興国元年になる(一部資料には義助の没年を興国元年としているものもある)。南朝方として奮闘したのだから、せめて元号は南朝の興国を使わないといけないだろう。

正法寺2 (13)
移転前の旧地から出土した層塔。旧地は現在地から1kmほど離れた観音免と呼ばれる場所。昭和23年(1948年)の開墾作業中に見つかっている。その他にも五輪塔、承安2年(1300年)銘の板碑などが出土している。

正法寺2 (14)
正法寺2 (15)
本堂裏の宝物庫(らしき建物)。「文化財観音」とあったので、普段は本尊の聖観音像が安置されていると思われる。本尊の聖観音像は高さ155cmで鎌倉時代初期の作と考えられており、群馬県の重文に指定されている。伝承では行基が香木に彫刻した等身大の立像といわれるが、行基は奈良時代の僧なので時代が合わない。聖観音像は午年(12年に1度)のみご開帳される。

正法寺2 (16)
濡れ金仏地蔵。高さ205cmの銅製地蔵坐像。宝暦10年(1760年)下野国(栃木県)佐野の鋳物師・丸山孫右衛門清光の作。

正法寺2 (17)
大正天皇が皇太子時代に行啓された記念碑。揮毫は陸軍中将・川岸文三郎(太田市出身)。明治41年(1908年)近衛師団機動演習に際し、当寺でご休憩されている。

正法寺2 (18)
三鈷の松とあった。標柱には「中国北京 明の十三陵より」とあるので、そこからの移植だと思う。一般的に「三鈷の松」は弘法大師が唐から帰国するときに投げた三鈷杵が、高野山の松の木に引っかかっており、以降この松の木は「三鈷の松」と呼ばれ、葉が3葉になっており御利益があるといわれる。

葉を確認したわけではないし探してもいないが、3葉を見つけたら相当縁起が良い。


太田市脇屋町の赤城神社。

脇屋赤城神社 (1)
脇屋赤城神社 (2)
脇屋赤城神社は鎌倉時代に新田義重が創建したと伝えられる。新田氏、脇屋氏から篤く崇敬されたという。

脇屋赤城神社 (3)
脇屋赤城神社 (4)
脇屋赤城神社 (5)
社殿の建立年などは不明だが、昭和27年(1952年)に改築されている。

脇屋赤城神社 (6)
社殿裏の境内社・末社群。貴船社、粟島社、稲荷社、熊野社、北野社など。

脇屋赤城神社 (7)
社殿の周囲は芝が敷き詰められ、しかも綺麗に刈られている。余りの綺麗さに驚いたが、よく見ると所々にピンフラッグが立っており、ティーグランドらしきものもある。

脇屋赤城神社 (8)
社殿回りは赤城神社パークゴルフ場とのことで、綺麗な芝も納得。太田市がパークゴルフ場を整備し、「赤城神社パークゴルフ愛好会」のみなさんが芝刈りなどの整備を月1回行っているようだ。


太田市藤阿久町の稲荷神社。

藤阿久稲荷神社 (1)
藤阿久稲荷神社の由緒は不詳。明治期に八幡宮を合祀している。昭和51年(1976年)刊の宝泉村誌には「境内の老杉を見ても千年近いものと思われ」と記載され相当の古社と思わせるが、現在は市街地化が進んでおりその面影は感じない。

鳥居は平成27年(2015年)の建立。

藤阿久稲荷神社 (3)
藤阿久稲荷神社 (4)
藤阿久稲荷神社 (5)
社殿の建立年などは不明だが、昭和62年(1987年)に改修を行っている。また、本殿は新田俊純の寄進と伝えられている。俊純は江戸末から明治にかけての岩松家当主。明治維新後、岩松氏が新田氏の嫡流と認められたため、新田に改姓(復姓)している。明治16年(1883年)には華族に列し、翌年は爵位(男爵)を得ている。

藤阿久稲荷神社 (6)
藤阿久稲荷神社 (7)
境内社の八坂神社。

藤阿久稲荷神社 (8)
境内社・末社の石宮が並ぶ。厳島社、生品社、宗像社、諏訪社、天満宮。

藤阿久稲荷神社 (9)
旧鳥居の柱と思われる石柱が、境内にそのまま置かれていた。確かに処分するにはお金がかかるし、地域の神社では負担も大きいから大変だよね。


太田市金山町の大田山義貞院金龍寺。

金龍寺2 (1)
金龍寺は応永24年(1417年)横瀬貞氏が新田義貞の追善供養のため創建したとされる。寺号は義貞の法名「金龍寺殿眞山良悟大禅定門」から。後に横瀬氏(由良氏)は下剋上により岩松氏を退け、実質的な金山城主となっている。そのため金龍寺も横瀬氏の菩提寺として興隆している。

天正18年(1590年)由良氏は常陸国牛久へ転封となり、金龍寺も牛久へ移転している(現在も茨城県龍ケ崎市にある)。現在の金龍寺は慶長年間(1596~1615年)に当地を領した榊原氏によって再興されている。

金龍寺2 (2)
木々に覆われた石段を昇っていく。石段は昭和13年(1938年)に整備・改修されている。

金龍寺2 (3)
金龍寺2 (4)
六地蔵は昭和52年(1977年)の造立。向かいには地蔵像や庚申塔・月待ち講塔などが並ぶ。

金龍寺2 (5)
本堂前の七福神。金龍寺は「上州太田七福神」の毘沙門天を祀る。

金龍寺2 (6)
金龍寺2 (7)
金龍寺2 (8)
本堂の屋根には三つ葉葵紋と由良氏の五三桐紋が掲げられている。五三桐紋は岩松氏も使っているのと、両氏とも新田氏を示す大中黒紋も使っており紛らわしい。

金龍寺2 (9)
金龍寺2 (10)
本堂内部。ご本尊の釈迦如来。

金龍寺2 (11)
金龍寺2 (12)
金龍寺2 (13)
本堂の欄間彫刻。題材は知識がなく分からない。

金龍寺2 (14)
本堂裏にある新田義貞供養塔。供養塔は寛永14年(1637年)の義貞300回忌法要に際し造立されたもの。石英斑岩製の基礎部の上に安山岩製の多層塔を重ねたもの。総高は246cm。

金龍寺2 (15)
金龍寺2 (16)
義貞供養塔の前(と言うか下)には、横瀬国繁から由良成繁に至る歴代の金山城主とその一族の墓がある。由良氏五輪塔は9基あり、安山岩製で紀年銘・法名などが刻まれている。

横瀬氏(由良氏)は新田義貞の3男・義宗の子である貞氏(金龍寺開基)が横瀬氏へ入婿したとし、新田氏の一族であると自称するようになった。最終的には明治政府により、新田氏嫡流は岩松氏とされている。ちなみに、岩松氏は氏祖の時兼の父系が足利氏、母系が新田氏という家系。


太田市金山町の義重山大光院新田寺の2回目。
(1回目は「太田市金山町・義重山大光院新田寺」参照)

大光院2 (1)
前回、大光院の主な建物と呑龍上人、新田義重の墓所などを紹介した。大光院には他にも遺物や伝承にちなんだものがあるので紹介する。

大光院2 (2)
大光院2 (3)
弁天堂。「上州太田七福神」の弁財天を祀る。本尊は厨子の中のようだ。

大光院2 (4)
弁天堂のすぐ裏の雨乞いの池(古い資料には舞雲池とある)。その名の通り、干ばつの時などに雨を降らせる霊験があるという。沐浴の後に阿伽として池の水を呑龍上人(の墓前)に供えると雨を降らせる霊験があるという。

これは呑龍上人が林西寺住職の時、龍神に念仏を唱えることで雨を降らせたという伝承があるので、そこから呑龍上人に祈願すれば雨が降るとなったのだろう。

大光院2 (5)
甘露水の井戸。白水がこんこんと湧き出て、干ばつ時にも涸れることがないといわれる。手にすくい取って口を漱げば香気を感じるという。現在、井戸はなく屋根を付けた土管(?)が置かれているだけのように見える(覗き込んだわけではないが)。

口碑では、越後国高田の老僧・順応が不幸にも悪疫に罹ったが百薬の効なく、最後の頼みとして塩穀を絶ち呑龍上人に祈願した。すると夢のお告げで「御廟の下に霊水あり。これを服し、これに浴し、謹んで怪しむことなかれ」と。順応は霊夢に従い霊水を服し、浴したところ3日で病が癒えたという。以後、この水を甘露水というようになった。

大光院2 (6)
源次兵衛の墓。源次兵衛は武州(埼玉)の郷士の息子で、父の難病を治すため国禁を犯して鶴を猟殺(生き血を飲ませたかった)した若者。

元和2年(1616年)役人から追われる身となった源次兵衛は、呑龍上人に救いを求め大光院へ逃げ込む。呑龍上人は「窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さず」と源次兵衛を庇い、大光院の住職の地位を捨て、源次兵衛とともに信州小諸の山中に身を隠した。

元和6年(1620年)に芝増上寺・観智国師の取りなし(死に際しての幕府への願い)で許され、大光院住職に復帰している。源次兵衛は形の上では出家していたので、大光院で生涯を終えている(詳細は不明)。

大光院2 (7)
大光院2 (8)
源次兵衛の墓を挟み、鶴塚(猟殺された鶴の供養塔かな)と如意輪観音像がある。


太田市金山町の義重山大光院新田寺。

大光院 (1)
慶長16年(1611年)新田氏の祖・義重に鎮守府将軍が追贈されたことから、徳川家康が義重の追善供養のため開山に呑龍上人を招き慶長18年(1613年)に創建。院号の大光院は義重の法名「大光院殿方山西公大禅定門」、寺号は新田氏(元は郡名)から。

家康は自らを源氏の一族であることにするため、義重の4男・義季の末裔を自称していた。義季の子孫が三河国へ移り松平家に入婿し、その8代目が家康ということになっている。

大光院 (2)
吉祥門は慶長20年(1615年)の建立。三つ葉葵の紋がさんぜんと輝く。平成12年(2000年)に屋根の全面修復を行い、建立当時の瓦と推定される「丸に三葉葵」の家紋が入った瓦屋根が復元されている。

大坂城落城の日に山門完成の報告を受けたので、家康が「大坂落城と山門完成の報が同時とはめでたいことである。これは徳川家にとって吉祥であるから、以後その門を吉祥門と名付け長く保存せよ」と命じたとされる。

大光院 (3)
家康の命令で創建されただけあり境内は広大だ。元は義重の父・義国の城地とされる。また境内地を調査した土井利勝らは、当地を「名山勝水古蹟霊場左右山中に烈在する。まさに『四神相応』の聖地」と家康に報告したという。

大光院 (4)
大光院 (5)
本堂は慶長18年の創建時の建立。江戸時代に6回の改修・修復が行われ、近年では大正14年(1925年)に大改修が行われている。扁額の揮毫は江戸末の有栖川宮家の尊超入道親王。

大光院 (6)
本堂前の灯籠。文政10年(1827年)の奉納。

大光院 (7)
大光院 (8)
本堂前の臥竜の松。巨龍が地に臥し、今まさに天に昇ろうとする勢いを表わすような姿から「臥龍松」と呼ばれている。呑龍上人の手植えと伝わることから「呑龍の松」とも。

臥龍松(樹齢700年といわれる)はかなり樹勢が衰えており、夏にもかかわらず幹枝のみの状況。壊死の心配も出てきている。

大光院 (9)
大光院 (10)
開山堂は昭和9年(1934年)の再建。もとの開山堂は明和8年(1771年)の建立。堂内には呑龍上人の尊像を祀る。尊像は元和8年(1622年)に上人自ら斧を取って彫刻したといわれる。高さ4尺3寸(約130cm)で、像容は上人の生き写しとされる。

大光院 (11)
大光院 (12)
梵鐘は明治42年(1909年)鋳造であったが、先の大戦時の供出。現在の梵鐘は昭和33年(1958年)落慶。

大光院 (15)
大光院 (16)
本堂の左奥にある新田義重の墓。元は金山の東麓菅ノ沢にあったものを大光院創建時に移したと伝わる。墓前の灯籠は延宝2年(1674年)幕府老中・安部正能の奉納と、元禄11年(1698年)伊勢崎藩主・酒井忠寬の奉納。ところが、灯籠が写っている写真がなかった・・・。

義重は武家の棟梁として名高い源義家の孫にあたる(義家3男・義国の長男)。父とともに関東に下向し足利荘を開拓。後に新田荘に移り同様に開拓。義重は新田荘を継承し、足利荘は弟の義康が継承した。後に「建武の新政」時に争った新田義貞と足利尊氏は両家の子孫。

大光院 (13)
大光院 (14)
呑龍上人の墓。上人は弘治2年(1556年)武蔵国埼玉郡一の割村(現春日部市)に生まれ、元和9年(1623年)入寂。世寿68。呑龍上人が捨て子などを弟子として養育したことなどの遺徳から「子育て呑龍」と呼ばれ、篤く信仰を集めている。

元和2年(1616年)孝心のため国禁を犯し保護鳥の鶴を殺してしまった源次兵衛を匿まい幕府から譴責されたが、元和7年(1621年)に赦免された逸話もある。本件に関する古蹟もあるので、その他の施設・遺跡も含めて次回ということで。


吾妻郡高山村中山の田んぼアート。

田んぼアート2024 (1)
今年は「龍」。干支の「辰」に因んでいる。「龍」と「辰」は同じものと個人的には考えている(体が長く四足、角を持ち長い髭を生やし、天空を飛翔する伝説上の生物)が、合ってるのかな?

田んぼアート2024 (2)
デザイン画があった。真上から見ることができれば、こう見えるのだと思う。実際の田んぼアートはかなり斜めから見ることになるので、デザイン画とは少しイメージが違うね。

田んぼアートを眺めていたら、ちょうど制作に携わったという人がいて、少しお話をすることができた。稲は5~6色(赤・白・黒・紫・黄だったかな)使っていると言っていた。

今回のこだわりは「ドラゴンボール:一星球(イーシンチュウ)」を持っていることらしい。田んぼアートでは、角度的に☆が分かりづらいのは残念。


利根郡昭和村橡久保の千賀戸(ちかと)神社。

千賀戸神社 (1)
千賀戸神社の由緒は不詳。口碑などでは往昔は大森神社と同神を祀り、橡久保村が森下村から分かれた際に現在地に遷座、併せて日本武尊と千賀戸姫命を相殿として祀ったとされる。明治末期に諏訪神社を合祀している。

千賀戸神社 (2)
千賀戸神社 (3)
一の鳥居は文久2年(1862年)の建立。扁額は「鎮守宮」。

千賀戸神社 (4)
千賀戸神社 (5)
石段横の斜面から土砂が落ちてくるのか、灯籠が半ばまで埋まっている。灯籠は享保(1716~36年)の紀年銘がある。

千賀戸神社 (6)
千賀戸神社 (7)
二の鳥居は合祀された諏訪神社のもの。正徳4年(1714年)の建立。扁額は「諏訪大明神」。

千賀戸神社 (8)
千賀戸神社 (9)
社殿は明和5年(1768年)の建立。拝殿は向拝柱とヌキを鳥居のように見せる技巧を使っている。大工の頭領は金井村・岸豊後守積保。代表作は妙義神社・総門や宝憧院(伊勢崎市)・本堂など。(岸豊後守積保は「宮大工・岸豊後守積保の墓」参照)

千賀戸神社 (10)
千賀戸神社 (11)
本殿の彫刻は中国(北宋)の学者・司馬温公の逸話に基づくようだ。彫刻師は花輪村・星野政八、水沼村・福田助次郎。

千賀戸神社 (12)
千賀戸神社 (13)
合祀された諏訪神社。この諏訪神社は元々森下村で祀られていたが、橡久保村分村の際に両村で祀るようになった(鎮座地が橡久保村となったため)。しかし千賀戸神社に合祀されたため、森下村では新たに諏訪神社を勧請し大森神社に合祀している。
(大森神社は「昭和村森下・大森神社」参照)


利根郡昭和村橡久保の青龍山正禅寺。

正禅寺 (1)
正禅寺 (2)
正禅寺は文永年間(1264~75年)に青峰白元和尚が庵室を営み、阿弥陀如来を安置したのが始まりとされる。その後、元和年間(1615~24年)得岩玄良和尚が月夜野嶽林寺6世・笑岩永伝大和尚を招いて開山とし、赤城山正善寺と称している。

同じく元和年間に現在地へ移転、開創・青峰白元和尚の青峰に因み山号を青龍山と改め、寺号も正善寺から正禅寺としている。

正禅寺 (3)
山門前の庚申塔や二十一夜供養塔、如意輪観音像など。左端の庚申塔は万延元年(1860年)正禅寺18世・恵光和尚の書による。恵光和尚は寺子屋を開き多くの子弟に読み書きを教えるなどしている。左から3基目の二十一夜供養塔は元治元年(1864年)の造立。

正禅寺 (4)
同じく山門前の地蔵像。慶応2年(1866年)の造立。

正禅寺 (5)
本堂は明治23年(1890年)に火災により焼失、大正8年(1919年)に再建されている。

正禅寺 (6)
境内の多宝塔(大乗妙典一千部供養宝塔)。明和2年(1765年)の造立。

正禅寺 (7)
正禅寺 (8)
鐘楼堂は平成21年(2009年)の建立。梵鐘は先の大戦時に供出、後に再鋳造されている。

正禅寺 (9)
大ヤケ木。樹高約17m、幹回り約4.85mで、樹齢は300年以上と推定される。

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