上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

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太田市藪塚町のジャパンスネークセンター。
(財)日本蛇族学術研究所というところが運営しているらしい。

スネークセンター (6)
毒蛇の研究及び利用を主目的としている他、飼育している蛇類を展示・公開している。また、国内で唯一ヤマカガシの血清を製造・保管しており、咬症が発生した際はここから血清が運ばれる。

スネークセンター (3)
スネークセンター (1)
スネークセンター (2)
ひたすら蛇の写真を撮ってきた。種類はよく分かんない。素人目に珍しいようなものを3枚だけ載せるけど、写真はいっぱいある。

スネークセンター (4)
資料館には骨格標本や透明標本、剥製などが展示されてる。

スネークセンター (5)
園内には昭和46年(1971年)に建立・開眼が行われた「白蛇観音」がある。これは飼育、採毒実験等で死亡した蛇の供養を目的としたものらしい。


太田市藪塚町の三日月村。

三日月村 (1)
作家・笹沢左保の作品で、テレビで人気番組となった「木枯し紋次郎」の舞台・上州新田郡(ごおり)三日月村を再現したテーマパーク。

村内は面白不可思議ゾーンと歴史ゾーンに分かれていて、面白不可思議ゾーンのアトラクションは、入村料以外に料金が必要(入村料とのセット券もある)。

三日月村 (5)
三日月村 (7)
有料アトラクションの絡繰り屋敷。
1部屋ごとに仕掛けが施されており、仕掛けをクリアしないと次の部屋に行けない。壁や襖や床柱を押したり、引いたり、持ち上げたり。発想の転換が必要で、まさしく「押してもダメなら引いてみな」。

三日月村 (4)
三日月村 (3)
三日月村 (2)
その他、怪異現洞と不可思土蔵が有料。
怪異現洞は探検施設と言う触れ込みだが、探検というレベルではない。不可思議土蔵は平衡感覚が狂い、斜め歩きになる。そう、土蔵自体が傾いているから。ちょっと気持ち悪くなった。

三日月村 (9)
三日月村 (11)
江戸時代後期の街並みを再現した歴史ゾーン。江戸時代の農家を移築したという、紋次郎の生家や、旅籠、水車、炭焼き小屋などがある。

三日月村 (6)
村内は現在のお金は使えず、入口で「文(もん)」と両替する。100円で1文。余ったら、帰りに再両替してくれる。

しかし垢抜けてないテーマパークだなぁ~。B級とはこういうものを言うの典型。でもB級はB級なりに楽しめた。


藤岡市本郷の葵八幡宮。

葵八幡 (1)
葵八幡 (3)
畑の中にポツンと言う感じで、小さなお社がある。八幡宮と言うが、このお社のみである。葵八幡という名から分かるように、源義仲の愛妾・葵御前を祀っているといわれている。

葵御前は寿永2年(1183年)の倶利伽羅峠の戦いに女性ながら参戦し、無念の戦死を遂げている。倶利伽羅峠の富山県側(小矢部市)に、葵塚というお墓がある。

義仲の父・義賢が多胡郡に住んでおり、義仲はそこで生まれたという説もあるので、その関係からここに(藤岡市)葵御前を祀る八幡宮があるのかな?

葵八幡 (5)
葵八幡 (4)
葵八幡宮の両側に板碑がある。実はこっちの方が、藤岡市の重文になっている。

向かって左側の板碑には、阿弥陀如来像が浮き彫りにされ、高さ148.5cm、幅40.5cm、厚さ6.5cm。右側の板碑には、阿弥陀如来の種子の下に勢至菩薩と観世音菩薩の種子が配され、大きさは高さ157.5cm、幅33.5cm、厚さ4.5cm。

板碑は1300年代初頭のものと推定される。鎌倉時代末には、既に葵御前をここに祀っていたということかな?

追記 
再訪記はこちら 「葵御前伝説・葵八幡宮 その2




藤岡市上戸塚の戸塚神社古墳。

戸塚神社古墳 (1)
戸塚神社古墳 (10)
神流川左岸の平坦地に造られた前方後円墳で、全長53m、前方部幅41m、後円部径30m、前方部の高さ4m、後円部の高さ2.5m。6世紀後半の増築と推定される。前方部の墳頂には戸塚神社が建ち、通称「おくまん様」と呼ばれている。

戸塚神社古墳 (5)
戸塚神社古墳 (7)
後円部に横穴式石室が開口しているが、フェンスで囲まれているので、内部を見ることはできない。石室は、全長7m、玄室長4.5m、玄室最大幅2.45m、羨道幅1m。

石室周りの傷みが激しいみたいで、石室内壁も一部崩れ、土砂が流入しているらしい。そのための安全措置として、フェンスで囲ってある?

周りが宅地化され、だいぶ削られてしまっており、保存のためにも石室周りを中心に、きちんと補修をしてほしい。

藤岡市の文化度が試されるぞ。


藤岡市中大塚の平地神社古墳。

平地神社古墳 (3)
平地神社古墳 (4)
平地神社境内にあり、鮎川右岸の平坦地に造られた径33m、高さ3.5mの円墳で、墳頂部に稲荷祠が祀られている。

平地神社古墳 (1)
平地神社古墳 (2)
横穴式両袖製石室で、全長9.7m、玄室長5.3m、高さ1.9mで、玄室は羽子板状でわずかに胴張りが認められる。玄室側壁は転石と棒状の片岩による模様積みで、羨道は川原石の乱石積み。

石室からは、人骨・人歯、直刀・鉄鏃・金環・刀子・馬具等が出土しており、石室の構造、出土遺物から6世紀後半の築造と推定される。模様積み石室の中では、藤岡市最大規模を誇る。

残念ながら、石室入り口は鉄格子で塞がれており、中には入れない。藤岡市の古墳って、入れたりは入れなかったりするけど、何か基準がある?(安全上の問題??)


大室公園最後は旧関根家住宅。

旧関根家住宅 (3)
旧関根家住宅 (1)
旧関根家住宅 (2)
赤城南麓地方にみられる典型的な養蚕農家 。屋根の正面中央部が切り落とされているのが「赤城型民家」の特長。これは屋根裏で行う養蚕の採光と通風を得るための仕掛けである。

旧関根家住宅 (6)
正面入り口から入ると、左手には田の字型に配置された4つの部屋がある。表側の室は上手がコザ、下手をオモテザシキと呼び、来客や冠婚葬祭などに使われた。

旧関根家住宅 (9)
旧関根家住宅 (8)
屋根裏はニケエと呼ばれ、主に養蚕のために使われていた。梁等の横材は曲がりくねった1本の木材で、江戸時代住居の特徴である。

下の写真は2階奥にある一種のつり天井(乗ると床が抜ける)。泥棒除けだと管理人さんが言っていた。

旧関根家は江戸末期に建てられたと言われており、前橋市が関根順次氏(前橋市飯土井町)から寄贈を受けて、大室公園内に移築・復元したもの。茅葺きのまま現存する民家は非常に少なく、貴重な文化財である。


引き続き、前橋市西大室町の大室公園。

大室公園 (1)
古墳群の配置のおさらい。

前二子古墳 (6)
前二子古墳 (1)
今回は前二子古墳。
全長148m、前方部の幅65m、後円部の径69m、墳丘の高さ14mで、墳丘は2段築成の前方後円墳。上段墳丘には葺石がある。6世紀前半の造営と推定される。

前二子古墳 (2)
前二子古墳 (3)
前二子古墳 (5)
石室は全長14.5m、奥壁幅5.15m、高さ1.35mと細長い横穴式。ここと後二子古墳のみ石室が公開されている。

ちなみに、この前二子古墳は豊城入彦命の墓との伝承がある。豊城入彦命の墓との伝承があるところはけっこうあって、オレが行った所では総社二子山古墳、伊勢崎・権現山がある。
(上毛かるた紀行、「しのぶ毛の国 二子塚」)
(上州まったり紀行、「伊勢崎市豊城町・権現山」)

これで大室公園の古墳関係は終了。でも、あと1つ大室公園関係があるので、もう1回だけ続くよ。


引き続き、前橋市西大室町の大室公園。

大室公園 (1)
古墳群の配置のおさらい。

中二子古墳(4)
中二子古墳 (3)
今回は中二子古墳。
全長170m、前方部の幅79m、後円部の径66m、墳丘の高さ15mと、大室公園内では最大の規模を誇る。6世紀前半の造営と推定される。

中二子古墳 (1)
中二子古墳 (2)
発掘調査で幅の広い2重の周堀の存在や墳丘と一部の中堤に葺石が用いられ盾持人物埴輪が中堤上に密に設置されていたことが分かった。

レーダー探査・電気探査の結果、後円部に横穴式石室の存在が確認されている。なぜ発掘調査をしないのか知らないが、是非お願いしたいところ。

しかし大きすぎて写真では全景が撮れないし、実際も木々が鬱蒼としていてやはり分かりづらい。大きい古墳を見学するのは、草木が枯れる冬がいいのかなぁ~。

大室公園編はまだ終わらず。つづく。


引き続き、前橋市西大室町の大室公園。

大室公園 (1)
古墳群の配置のおさらい。

後二子古墳 (1)
後二子古墳 (2)
今回は後二子古墳。
全長106m、幅80m、墳丘の高さ11.1mの2段築造の前方後円墳で、盾形に全周する周堀を持っている。6世紀中頃から後半にかけての造営と推定される。

前方部の北側から馬形埴輪に付けられた装飾部品が出土しており、これは大阪四天王寺の宝物とされる人物が乗る馬の装飾部品とそっくりだという。

後二子古墳 (3)
後二子古墳 (4)
石室に出入りするために、石室前に0.9mの深さ、幅2m、長さ12mにわたって溝のように地面を掘り込んだ墓道がある。

後二子古墳 (5)
石室は全長8.9mの横穴式で、両袖形/羨道、玄室からなる単室構造。石積みは奥壁は1石2段積で、左右側壁は2、3段。

石室が見られると、何か得した気分になる。

大室公園編はまだ終わらず。つづく。


前回に引き続き、前橋市西大室町の大室公園。

大室公園 (1)
いろいろオブジェもあったのだが、あまり興味がわかずさっさと古墳群へ。広いので公園内の案内板をもとに歩いていく。

小二子古墳 (1)
小二子古墳 (2)
まずやってきたのは小二子古墳。
全長約38mの前方後円墳。雑草が生い茂っていて形が分かりづらいが、きれいな前方後円墳。2段構成で下側は帆立貝形をしている。6世紀後半の造営と推定される。

小二子古墳 (3)
石室は全長6m、奥壁部で幅1.8m、高さ1.8mの横穴式。発掘時には既に破壊されていたらしい。入口は石で塞がれている。

これくらいの大きさの古墳の方が、全体像(形)がよく分かっていいね。大きいのは航空写真じゃないと、分かんないからね。

まだまだ大室公園編が続く。


前橋市西大室町の大室公園。

大室公園 (3)
赤城南麓の中央にあたり、赤城山の眺めもすばらしい。この辺りは遺跡の多い場所で、前二子古墳・中二子古墳・後二子古墳・小二子古墳など史跡もたくさん残されている。

M1号古墳 (1)
M1号古墳 (2)
北側(だと思う)の駐車場から入ると、すぐに帆立貝式古墳が目に入る。M-1号古墳。
全長約37m、幅約39mで、2段に造られている。6世紀後半の造営と推定される。

でも、発掘調査を基にした想像復元。この下には古墳がそのままの形で残されてはいるが、誰かの想像。違う人の想像を基にしてたら、違う形になってたかも?

墳丘上では女の子が楽しそうに踊って(?)いた。本当に楽しそうだった。女の子の様子を伺いながら古墳を1周してみたけど、楽しさのネタは分からず。高いところでアイドル気分を味わっていたってとこかな。オレはジュリアナのお立ち台を思い出した(古っ!)。

ということで、大室公園は広いうえに古墳を中心にいろいろあるので、何回かに分けて紹介していく。


甘楽郡甘楽町小幡のこんにゃく博物館。

こんにゃく製品製造会社・ヨコオデイリーフーズが、工場の一角を博物館として公開している。2011年6月のオープン。

こんにゃく博物館 (1)
こんにゃく博物館 (2)
こんにゃく博物館ということで、何が展示されているんだろう、なんて考えながら、建屋の中に。2階に上げると、受付が。受付の女性もちゃんといた(残念ながら、写真はないよ。)

こんにゃく博物館 (3)
こんにゃくに関するミニ知識的な展示(というか解説板)が何枚かある。

こんにゃく博物館 (4)
こんにゃく博物館 (5)
そこを過ぎると、両側からこんにゃく製品の製造工程が、窓越しに見学できる。しばらく見ていたのだが、何をやっているのかさっぱり分からず。ここでこそ、解説が必要じゃないの?

こんにゃく博物館 (7)
こんにゃく博物館 (6)
その先(3階?)には、こんにゃくの手作り体験ができるスペースあり。予約制らしいけど。

案内板を見ると、オープン記念でこんにゃく料理が、バイキング形式で無料で食べられるとある。ちょっとしたものなのだが、10種類以上のこんにゃく料理があった。これがけっこうおいしくて、しかもこんにゃくが腹にたまり、完全に1食浮いてしまった。

博物館という名前だけど、博物館ではない。こんにゃく製品の工場見学といったところかな。メインはこんにゃく料理のバイキング?帰り際にアンケートに答えたら、お土産(こんにゃく!)までくれた。

いやぁ~、1食浮くくらい食べた上に、お土産までもらってしまって恐縮。

*平成26年(2014年)4月に「こんにゃくパーク」に発展・拡大、閉館(というか廃館)になっている。


藤岡市緑埜の千部供養塔。

千部供養塔 (1)
千部供養塔 (3)
千部供養塔 (2)
千部供養塔には天明3年(1783年)の浅間山大噴火の様子と、降灰による凶作のため諸物価が高騰した状況が克明に記されている。(裏面や側面に書かれている。)

安山岩製で角柱形をし、高さ80cm、幅31cm、厚さ21cm。大噴火の9年後に当地の斎藤八十右衛門雅朝が建立したもの。

天明の大噴火では、鎌原村(現、嬬恋村)の被害が有名である。高台の観音堂に逃げ延びた僅かな人々を残して、集落は消滅した。泥流に巻き込また者もいれば、地下深くに埋没した者もいた。

鎌原の観音堂にも、そのうち行ってみよう。


前橋市堀越町の無量山月照院養林寺。

養林寺 (1)
養林寺 (2)
養林寺は天正18年(1590年)に大胡城主・牧野康成が父・成定の菩提を弔うため開山として明誉唱空上人を招き、近戸山養修寺を創建したのが始まり。寺号は成定の法名「養修院殿」から。

その後、慶長9年(1604年)に大胡氏の念仏の旧跡があることを知り、その地(当地)に堂塔伽藍を建立し無量山養林寺を創建。実質的には養修寺の移転だが、養修寺は廃寺となっている。

山門は創建当時のものとされる。本堂は昭和30年(1955年)の再建。

養林寺 (3)
養林寺 (4)
本堂脇の墓地内に、門扉の付いた牧野家の墓所がある。中央が牧野康成の墓である。

牧野家墓所には7基の墓碑がある。実際に養林寺に葬られているのは牧野康成本人とその室、父・成定の室の3名。墓碑だけあるのは父・成定、康成嫡男・忠成、忠成室、忠成娘の4名。

牧野康成は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、德川秀忠軍に属し真田昌幸が守る信濃上田城攻めに参加している。でも、このため秀忠は関ケ原に遅刻するんだけどね。

同年代に徳川家康の伊賀越え(本能寺の変の時、堺にいた家康が伊賀を超えて、本領の三河に命からがら逃げた)に随行した牧野康成(やすしげ)という武将がいたらしい。調べていて混乱した。資料の中にも、明らかに混同しているものもあった。牧野氏自体がそんなに有名じゃないから、しょーがないかもね。


前橋市堀越町の豊国山長善寺。

長善寺 (1)
長善寺 (2)
長善寺は大胡城主・大胡太郎藤原重俊が護法大雲大和尚を開山に請して、赤城南麓の白草地区寺沢窪に開創した(創建当時の山号は赤城山)。その後、弘治・永禄年間(1555~70年)に現在地へ移転している。移転時の住職は瑞誉和尚で後開山と呼ばれる(護法大雲大和は前開山と呼ばれる)。

豊国山の山号は豊臣秀頼から贈られている。後開山・瑞誉から3世にあたる南江道根は常時大坂城に出入りできる立場であったらしい。そして「たまたま」秀頼から自筆の豊国山の山号書を賜ったとされる。以降、山号を豊国山と改めている。

それにしても、一応天下人であった秀頼から「たまたま」もらった? どういうこと?

長善寺 (5)
長善寺 (4)
本堂の西にある墓地のほぼ中央部に、大胡太郎の墓と伝わる石塔がある。向かって左側のものは、奥方の墓といわれる。

大胡太郎の墓といわれる石塔は、上から宝珠に請花があり、次に屋蓋、塔身と続き、これらをしっかりとした基台で支えている。このうち屋蓋が小さいことから、異形多宝塔の形式と見られる。貞和3年(1347年)の銘がある。このことから、長善寺の開創は室町時代初期(南北朝期)と考えられる。

大胡氏は鎌倉時代から室町時代にかけて、赤城山南麓で勢力を持った一族である。藤原秀郷の子孫で、藤姓足利氏の庶流にあたる。足利成行の庶子・重俊が、大胡太郎を称したのに始まる。(藤姓足利氏とは、藤原秀郷の子孫を言い、源氏の足利氏とは関係ない。)

ちなみに、藤原秀郷は俵藤太の通称で知られ、三上山の大百足退治の伝説で有名である。

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