上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

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多野郡神流町麻生の閻魔大王像と奪衣婆像。

閻魔大王と奪衣婆 (1)
ここには長安寺という曹洞宗の寺があったが、明治11年(1871年)頃に焼失、後に廃寺となった。

像は元禄14年(1701年)に、信州高遠の3人の石工が制作したものと伝えられている。閻魔大王像は85cm、奪衣婆像は80cm。

奪衣婆
奪衣婆は、三途川の渡し賃である六文銭を、持たずにやって来た亡者の衣服を剥ぎ取る老婆。亡者の衣の重さには、その者の生前の業が現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされる。

閻魔大王
閻魔(えんま)は仏教・ヒンドゥー教などで地獄の主。冥界の王・総司として亡者の生前の罪を裁くといわれている。亡者が閻魔大王の前に連れて来られると、そばの鏡に生前に犯した罪が映し出され、その罪の大きさにより色々な地獄に落されることになる。

生前に、死後の裁きを軽くしてもらうよう、また身内で不幸があった時など、良い判決がくだされるよう、この像を拝んだんだろうね。

ところで、この2像は神流町の重要文化財になってるんだけど、写真を見ても分かるように、あまり手入れが行き届いていない。土に埋もれ苔が生え、雑草に覆われ・・・・・。

もうちょと保護した方がいいんじゃないの?


多野郡神流町魚尾の丸岩。

丸岩
神流川の真ん中にある周囲50m、高さ15mの巨岩。何がどうなって、こんな大きな岩が川の真ん中にあるのか知らないが。山側から落ちてきた?

太古の昔、丸岩で休んでいる神様に村人が鮎を添えて麦飯を差し出したところ、鮎の尾まで召し上がり日本一の鮎だと喜んで、この地を魚尾と名付けたと伝えられている。

ところで、丸岩の横あたりの道に解説板が立っているのだが、道が非常に狭く、車を停めるところもなく、ゆっくり見ることもできなかった。ちょっと離れたところに車を停めたのだが、解説板まで歩いていくのも面倒だったので・・・。

神流町、特に旧中里村の道は狭いね。主要幹線道路なのに、車がすれ違えない所があるんだもんな。


多野郡上野村楢原の全国郷土玩具館。

全国郷土玩具館 (1)
平成9年(1997年)の開館。古来日本で親しまれてきた、各地の郷土玩具を約15,000点収蔵している。今では廃絶してしまった、貴重な郷土玩具も多く含まれている(らしい)。

全国郷土玩具館 (3)
からくりモニュメント。全国に伝わるからくりを取り入れ作られている。下のハンドルを回すと、各層の人形が動く、というもの。上の羽(プロペラ?)が周り、ボールがレールを転がってくる、中ほどの力士が相撲を取る、といった感じ。

全国郷土玩具館 (4)
全国郷土玩具館 (5)
日本各地の郷土玩具を都道府県別に展示している。北海道から沖縄まで、文化や民俗、習俗の違いから生ずる玩具の素材等を比較できる。

全国郷土玩具館 (2)
凧なんかは、形は違えど全国共通なんだろうけど。

全国郷土玩具館 (6)
しかし、入ってすぐ目に入るのは、宇和島の牛鬼!(入り口にある)悪魔をはらい福を招き入れる縁起物ということだが、小さい子どもは泣くんじゃないか?


太田市大原町の笠懸山長建寺。

長建寺 (5)
長建寺 (1)
長建寺 (2)
貞亨4年(1687年)創建で、本尊は阿弥陀如来。

長建寺 (3)
長建寺 (4)
本堂外陣欄間の彫刻。ガラス越しなのできれいに写ってないが、鐵拐仙人が彫刻されている。

この他、外陣には大瞬、楊香、内陣には火焔龍や波間に千鳥など、中国の伝説が題材となっている。作者は岸亦八、養子の太輔、太輔の養子・幸作で、文久3年(1863年)の作品である。

前回の全性寺と同じ作者による欄間彫刻が施されている。
(「太田市大原町・宮林山全性寺」参照)

やはり、ガラス越しにしか見ることができずに残念だった。



太田市大原町の宮林山全性寺。

太田・全性寺 (1)
太田・全性寺 (3)
貞亨4年(1687年)の創建で、本尊は大日如来。

太田・全性寺 (4)
太田・全性寺 (5)
本堂の向拝龍と大瓶束。

太田・全性寺 (6)
本堂外陣欄間の彫刻。ガラス越しなのできれいに写ってないが、「史記」の 韓信の股くぐりが彫刻されている。

韓信の股くぐりとは、韓信が若い頃、町で無頼の青年に辱められ相手の股を くぐったが、後に大をなしたという故事。大志のある者は目前の小事には忍耐 して争わないという例え。 この他、外陣には黄石公・張良(授受の図)、内陣には鐵拐仙人や麒麟など中国の物語や伝説が描かれている。

この作品は、彫刻家・岸亦八と養子の太輔の手によるもので、弘化4年 (1848年)の作である。

本堂のガラス戸が閉まっていて、直接見られなかったのが残念。 (戸が閉まっているのは当たり前なんだけど・・・・・。)


多野郡上野村楢原の旧黒澤家住宅。

旧黒澤家住宅 (3)
旧黒澤家住宅 (4)
江戸時代、現在の上野村・神流町などは幕府の天領であり、黒澤家はその一部(神山郷)の大総代(大庄屋役)を努めた旧家である。

旧黒澤家住宅は、19世紀中ごろの建築と考えられ(18世紀中ごろとの説もあり)、間口22m、奥行き16mの総二階の切妻造り。屋根は簡単に手に入り、水に強い栗の木が使われている。

旧黒澤家住宅 (1)
旧黒澤家住宅 (2)
黒澤家には、玄関が3つある。代官等を迎えるための「式台」、村の行事等に使用された「村玄関」、家族などが日常的に使用した「大戸口」。これは、他に例が見られないもので、黒澤家の当時の役割がうかがえる。

旧黒澤家住宅 (9)
旧黒澤家住宅 (8)
囲炉裏のある「ちゃのま」は31畳半もある。また、主人の座る席の後ろには大きな神棚があり、城郭のような形をしている。

旧黒澤家住宅 (5)
西側には4つの座敷が並んでいる。幕府の代官等がこの地を訪れたときに使用された。「上段の間」「中段の間」「中の間」「休憩の間」。「上段の間」と「中段の間」の境にある欄間は、両面の絵柄が異なるなど、隅々にきめ細やかな意匠が施されている。

旧黒澤家住宅 (6)
旧黒澤家住宅 (7)
2階は仕切りのない広い板の間で、養蚕のために使われていた。現在は、養蚕・機織り・紙漉き・生活(畑仕事・炭焼き等)に分けて民具などを展示している。

当時、上山郷には鷹の保護地区があり、毎年将軍家に「鷹狩り」の巣鷹を献上していた。黒澤家は代々、その御林守として御巣鷹山の管理にも当っていた。


多野郡上野村勝山の森林科学館。

上野村森林科学館 (1)
上野村森林科学館 (2)
「人と森林の関わりあい」をテーマに、森林に関する展示を行っている。

上野村森林科学館 (4)
世界最大級のソテツの化石。上野村野栗地区で発見されたもの。約1億年前のものとされている。

上野村森林科学館 (5)
自然豊かな上野村の森には、ツキノワグマやカモシカ、ニホンジカ等、野生動物が生息しており、その剥製があった。

上野村森林科学館 (3)
上野村森林科学館 (6)
昔の林業の道具に関する展示(ノコギリや鉈)や、上野村の木工品等が展示されている。

確かに、ゆっくり見れば森林についての知識が得られる、かも? でも、寄ったのが夕方近かったせいで、薄暗く誰もいなくて不気味だったので、そそくさと退散。

道の反対側の「道の駅 上野」には、人がけっこういたのに・・・。


藤岡市譲原の三波石峡。

三波石峡 (1)
下久保ダム直下の神流川に、約1kmにわたり巨岩・奇岩が並ぶ。三波石は青味の中に、水で洗われた石英が白く浮き出た美しさが特徴で、古くから庭石として珍重され、全国的にも有名である。

三波石峡 (2)
三波石峡 (3)
三波石峡 (4)
江戸時代末期には、それぞれに名前のついた「銘石四十八石」が存在し、三波石峡を訪れる人も多かったなど、歴史も古い。当時は、旅人相手の案内を生業にしていた村人もいたといわれる。

三波石峡 (5)
三波石峡 (6)
しかし、三波石峡も下久保ダムの完成(昭和43年)により、渓谷を流れる川の水が枯渇し、石には苔が生え黒ずみ、川底に葦などの雑草が繁茂し、見るも無残な姿になってしまっていた。

33年後の平成13年(2001年)、ダムの表面取水設備からの導水管を分水し、ダム直下に放流できるようになった。やっと川に清流が戻り、それに伴い三波石峡も、かつての姿に戻りつつある。

治水、利水、発電等、ダムの重要性を疑う余地はないが、こういう副作用もきちんと事前に考えておかないとね。


多野郡上野村楢原の慰霊の園。

昭和60年(1985年)8月12日、御巣鷹の尾根に墜落した日本航空123便の犠牲者520名の御霊をお祀りしている。

慰霊の園 (9)
慰霊の園 (1)
合掌を形どった慰霊塔。奥の納骨堂には、身元識別不可能として、この地で荼毘に付された犠牲者のご遺骨が123の壷に納められている。

慰霊の園 (2)
慰霊の園 (3)
聖観音を始め、慰霊の像や碑がある。

慰霊の園 (8)
一角にある資料館には、全国各地から贈られた慰霊の想いが展示されている。また、当時の状況を記録した写真や書籍も。

慰霊の園 (4)
慰霊の園 (5)
慰霊の園 (6)
慰霊の品々や当時の写真を見ていると、胸が締め付けられる思いだった。

慰霊の園 (7)
事故機に搭乗していて、犠牲になった九ちゃんのレコードジャケットも。

上野村には何回か行っているけど、慰霊の園へは行ったことがなかった。あえて行かなかった。それは、部外者が入り込んでいいものかという気がしていたから。

今回、思い切って寄らせてもらった。非常に厳かで厳粛な空間であった。思わず涙が・・・・・。

520名の方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。


利根郡みなかみ町藤原の利根川に建設された藤原ダム。

藤原ダム (3)
藤原ダム (5)
堤高94.5m、堤頂長230mの重力式コンクリートダムで、利根川の治水と首都圏への利水を司る利根川水系ダムとしては県内最古である。昭和26年(1951年)着工、昭和32年(1957年)完成。

藤原ダム (1)
藤原ダム (4)
藤原ダム (2)
ダムによって出来た藤原湖は、奥利根湖(八木沢ダム)、洞元湖(須田貝ダム)とともに奥利根三湖を形成している。この日は水が濁っていて、あんまりきれいじゃなかった。

さらに、ダム上に通じる道の側壁工事中で、片側交互通行になっていてゆっくり車を停めて見学って雰囲気じゃなかった。

慌ただしく何を見るでもなく、写真を数枚撮って終わり。まあ、特別ダムが好きってわけでもないので、別にいいんだけどね。


利根郡みなかみ町藤原の利根川水系楢俣川に建設された奈良俣ダム。

奈良俣ダム (5)
昭和53年(1978年)より着手され、平成3年(1991年)に完成した。

奈良俣ダム (7)
奈良俣ダム (3)
奈良俣ダム (1)
奈良俣ダムは中央土質遮水壁型ロックフィルダムであり、堤頂高158m。利根川水系のダムでは最も堤高が高いダムとなる。

奈良俣ダム (2)
ダム湖のならまた湖。湛水面積は約2平方km、周囲に遊歩道やキャンプ場、サービスセンターや展望台などが整備されている。

奈良俣ダム (4)
奈良俣ダム (6)
資料館(ヒルトップ奈良俣)もあったが、個人的にはほとんど見るものがなかった。ただ、居合わせたおじさんは、食い入るように資料を見ていた。

ここは日本一美しいダム、と言う人もいるほどのダムらしい。


利根郡みなかみ町藤原の雲越家住宅。
現在は資料館として雲越仙太郎翁が使っていた農具や生活用品を中心に展示している。

雲越家住宅 (1)
雲越家住宅 (2)
雲越家住宅 (3)
明治20年(1887年)に建てられた木造2階建て、茅葺き両妻兜造の典型的な山村地域の農家。雲越家9代目・仙太郎翁が昭和55年(1980年)84歳で亡くなるまで居住しており、日本の原風景がそのまま残されている。

雲越家住宅 (8)
雲越家住宅 (7)
仙太郎翁は11歳で父親を事故で亡くし、その後は家族のため寝る間も惜しんで働き続けた。昭和35年(1960年)に母親が亡くなった後の高度成長時代においても、時代の変化を無視するかのように自給自足に近い生活を続けた。

雲越家住宅 (4)
雲越家住宅 (5)
雲越家住宅 (6)
内部には仙太郎翁が生前に使用していた食器、布団、家具類、農具などの生活用品がそのまま展示されている。

仙太郎翁は金銭を出して安易に物を買うことを嫌い、生活必需品の多くは自ら身近な材料を使い、創意工夫をして作り上げている。そのためここでしか見られない貴重な家財道具等も多い。

帰り際に管理人さん(?)に囲炉裏で焼いたジャガイモをいただいた。うっ、うまっっ!!って感じで、アツアツのジャガイモをほうばった。ちょこっと仙太郎翁の心持ちが分かったような・・・。


利根郡みなかみ町藤原の奥利根民俗集古館。

奥利根民俗集古館 (1)
奥利根民俗集古館は茅葺き屋根の築300年以上の農家を利用し、奥利根地方の農具や民俗資料などを多数を展示している。

奥利根民俗集古館 (6)
奥利根民俗集古館 (7)
囲炉裏に火が入っており暖かかった。写真が青っぽくなっているのは、囲炉裏からの煙。

奥利根民俗集古館 (3)
熊の剥製があった。今年は山の木の実が豊富だったみたいで、熊が人里まで降りてきていないと経営者の奥さん(?)が言っていた。

奥利根民俗集古館 (2)
甲冑が2体あったが、顔の部分に変な絵が(笑)。1体は頭にキジが・・・。壁には時計やら帽子やら提灯が、所狭しと掛けてある。

奥利根民俗集古館 (4)
奥利根民俗集古館 (5)
2階は狭い通路以外は、農具や草鞋、かんじきなどがぎっしり。展示というよりも山積みに置いてあるって感じ。

近所の人がいろいろ持ってきて、最初は預かっておいてってことだったけど、誰も取りに来ないからこんなに集まったとのこと。

お茶とお菓子とらっきょうをご馳走になりながら、昔話や藤原地区の冬の様子をいろいろ聞かせてもらった。最近ではなかなか味わえない、レトロでアットホームな雰囲気だった。


利根郡みなかみ町湯原の成田山水上寺。

水上寺 (6)
水上寺 (1)
水上寺は昭和35年(1960年)の開山。千葉県成田市の真言宗智山派・大本山成田山新勝寺より勧請した不動明王を祀っている。

水上寺 (2)
水上寺 (3)
明治21年(1888年)に勧進し、不動明王像は仮宮に奉安されていたが、73年後の昭和35年に開山、本堂落慶という経緯らしい。

水上寺 (4)
天保年間(1830年~1843年)に新勝寺の境内に有った1本の御神木から彫刻されたうちの1体で、日本三体不動尊と呼ばれる由緒深い像だそうだ。

水上寺 (5)
本堂前にも不動明王像が。

水上寺は地域に根ざした開放的なお寺としても知られている。除夜の鐘を一般参詣客に撞かせてくれたり、春・秋大祭ではカラオケ大会を行ったりしている。


沼田市白沢町の武尊山雲谷寺。
ここには新田義宗の墓と伝わる五輪塔がある。

雲谷寺 (1)
雲谷寺 (2)
雲谷寺 (3)
雲谷寺は元徳2年(1330年)の創建と伝わる。

雲谷寺 (4)
雲谷寺 (5)
本堂の裏山に並ぶ南北朝期の五輪塔。いずれも総高120cmを越える堂々としたものである。中央の無銘の五輪塔がうつぶしの森で最期をとげた新田義宗の墓といわれている。

向かって右側の五輪塔は「長州禅門永禅応安三年」とあり、船田長門守経政の墓と推定されている。経政は義宗の亡骸をこの地に葬った執事である。左側の五輪塔は「聖慶禅尼文和三年」とあるが、誰であるかは不明(禅尼とあることから奥方?)。

義宗の墓と伝わる五輪塔が無銘なのは、足利方に破壊されることを恐れてのことか?

五輪塔の後ろには、樹高37m、目通り4.5mの大杉がそびえている。長い間五輪塔を見守り続けている。(五輪塔は一時期土中に埋もれていたが、近年雲谷寺の墓地事業の際に掘り出され、整備された。)

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