上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

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前回に引き続き、藤岡市藤岡の龍田山光徳寺。
ここには算聖・関孝和の墓がある。

関孝和の墓 (2)
関孝和の墓 (1)
関孝和の墓は、東京都新宿区の浄輪寺にあるが、孝和没後250年の昭和33年(1958年)、芦田氏の菩提寺である光徳寺に御霊を迎え、墓所が築かれた。

芦田氏には芦田五十騎という家臣団があり、その中に内山家、関家がいた。孝和は内山家の生まれだが、関家の養子となっている。

関孝和
藤岡市民ホールにある関孝和の銅像

関孝和は江戸時代の数学者で、筆算による代数の計算方法(点鼠術)を発明し、和算が高等数学として発展する基礎を作った。ニュートン、ライプニッツと並んで、世界3大数学者とも言われており、外国での評価も非常に高い。
(上毛かるた紀行、「和算の大家 関孝和」参照。)

関孝和は算聖と崇められるほどで、日本数学史上最高の人物とされている。光徳寺が領主・芦田氏よりも、家臣の関孝和に重きを置いているのもやむを得ない?

でも、一応関孝和の墓は芦田家の墓所よりも、一段下にあるんだよね。


藤岡市藤岡の龍田山光徳寺。

光徳寺 (1)
光徳寺 (3)
光徳寺は文明2年(1470年)依田光源が父(光徳)の菩提を弔うため、信州国佐久郡芦田に創建。天正18年(1590年)、依田康勝が佐久から藤岡に移封された際に佐久から移し、芦田氏の菩提寺とした。

本堂は現在再建計画中のようで、更地になっていた。

光徳寺 (4)
光徳寺 (6)
再建されたと思われる(新しい)芦田氏の墓所。五輪塔がまだ綺麗だ。横には古い墓石が多数あったので、これらが芦田氏累代の墓?

光徳寺 (5)
五輪塔の奥には古そうな祠が。

芦田氏関係の墓所には、何の案内板もなくちょっと不親切。まあ、このお寺にはもうひとつ有名な墓所があるので、芦田氏関係は重視してないのかな?

もうひとつの墓所は次回ね。


吾妻郡草津町草津の白旗源泉。この中には頼朝宮がある。

白旗の湯 (5)
湯畑から光泉寺へ向かっていくと、白旗源泉がある。

建久4年(1193年)、源頼朝が浅間山六里ヶ原で巻狩りを行った際、草津まで足をのばし、荒れ果てた源泉地を改修し、自ら入浴したと伝えられている。以来この湯を御座の湯と呼んだ。

白旗の湯 (2)
その後いつの頃からか祠を建て頼朝を祀った。現在の頼朝宮は、天明2年(1782年)改築されたもの。明治30年(1897年)源氏の旗印の白旗にちなんで、白旗の湯と改称された。

お賽銭がたくさん投げ込まれているが、底の方の小銭は溶けて、ただの黒い塊になってるものもある。硫黄成分ってすごいね。

白旗の湯 (1)
白旗源泉から湯を引いている公衆浴場の白旗の湯。

ところで、白旗源泉は湯畑の目と鼻の先なので、人で溢れている。それは別にいいのだが、バイク連中の無法駐車がひどすぎる。写真にもバイクが写りこんでいるが、浴場入口前にも平気で停めている。

バイクもちゃんと料金払って駐車場に停めろ!!


吾妻郡草津町草津の平九塚と皇大神宮。

平九塚と皇大神宮 (1)
平九塚と皇大神宮 (3)
平九塚と皇大神宮 (2)
江戸時代、草津に流れてきた「平九」という念仏僧がおり、草津中を念仏を唱えて歩き、温泉客の施しを受けて暮らしていた。

しかし年老いて身体も不自由になったので、ある日「永々お世話になりました」と別れを告げ、皇大神宮の入り口に穴を掘り、中に入って鉦をたたき念仏を唱えながら往生した。

即身仏になったってこと。

平九塚と皇大神宮 (4)
哀れに思った村人が、塚を築き灯籠を建てて供養したのが、この平九塚である。

江戸中期作の謡曲に「草津」とういうのがある。それは善光寺に行く道すがら、草津に立ち寄った旅僧に、平九が塚から現れて草津温泉の由来を語る、というもの。平九が語り継がれているということ。

この日も新しい花が手向けられており、平九は今も草津の方々から慕われているようだ。


吾妻郡草津町草津の武具脱の池(もののぐのいけ)。

武具脱の池 (1)
武具脱の池 (2)
源頼朝に追われた木曽義仲の残党が、武具を脱ぎ捨てたという伝説から武具脱の池と呼ばれている。また、その形からヒョウタン池の愛称でも親しまれている、殺生河原下の小さな池。

白根火山ロープウエイの山麓駅から、遊歩道を降りて行く。池をとりかこむ湿原には、観察して回れるように1周10分程度の木道が整備されている。

季節がら特に見る物もなさそうだったし、天気もいまいちだったので、写真より下には降りていない。


草津温泉にある碑(+α)、その3。順不同。

山媛呼
白根山火山ロープウェイの山麓駅前に建っている、日本武尊の伝説を伝える碑。
「吾妻はや 白根の峯に けむりたつ よひて声あり 古ゆ たきついてゆの おもひに咲くや 石楠花」

白根山の山頂で、日本武尊が亡き弟橘媛を偲んで流した涙が、シャクナゲになったという神話にちなんで建てられた。

種田山頭火
道の駅「草津運動茶屋公園」にある種田山頭火の句碑。
「もめやうたえや 湯けむり 湯けむり」
昭和11年(1936年)、信州から草津に向かった山頭火は、草津に3日間滞在。その時に詠んだ句。

鬼の相撲道
西の河原公園の奥の方にある鬼の相撲場碑。
「天狗山微雨の夜、山上に火を燃すことその数おびただし。鬼の角力場、土俵の形おのずから石ならびてその名となる」
詠み人知らずの狂歌。

横山百鳥
中澤文次郎
中澤晁三
道の駅「草津運動茶屋公園」に、句碑が3つあったんだけど、よく分かんなかった。上から、横山百鳥、中澤文次郎、中澤晁三。

多分もっとあるんだろうけど、とりあえずこんなところで。


前回に引き続き、草津温泉にある碑(+α)、その2。順不同。

左ベルツ右スクリバ
ベルツ記念碑
西の河原公園にあるベルツ博士(左)とスクリバ博士(右)の胸像とベルツの記念碑。
(「草津町草津・ベルツ記念館」参照。)

水原秋桜子
ベルツ博士胸像の傍らに建つ水原秋桜子の句碑。
「胸像は 永久(とわ)に日本の 秋日和」
胸像にそそぐ秋日和のすがすがしさは、ベルツの心にふれているようだと、草津町の恩人ベルツ博士の遺徳をたたえて詠んだもの。

斉藤茂吉
西の河原公園の斉藤茂吉の歌碑。
「いづこにも 湯が噴きいでて ながれゐる 谷間を行けば 身はあたたかし」
大正12年(1923年)に草津を訪れた茂吉が、変わることのない草津の情緒を歌ったもの。

鬼の茶釜碑
西の河原公園「鬼の茶釜」のほとりにある鬼の茶釜碑。
「わき出る湯口はわれもおそろしや 鬼の茶釜の湯土産噺」
かつては西の河原の代表的な源泉で、茶釜が沸騰するような音を立てて湯を吹き出していたことから。

つづく。


草津温泉には、著名な人の碑がたくさんある。
ということで、いろんな場所にあった碑(+α)を紹介。順不同。

高村光太郎
囲山公園にある高村光太郎の詩碑。
「時間湯のラッパが午前六時を吹くよ。朝霧ははれても湯けむりははなれない。湯ばたけの硫気がさっとなびけば、草津の町はただ一心に脱衣する。」
という詩が、原稿用紙に直筆で書かれた形で刻まれている。

十返舎一九
囲山公園にある十返舎一九の碑。
「上毛の國草津は、寔に海内無双の霊湯にして、湯宿の繁昌いふばかりなく、風流の貴客絶えず、彌次郎・喜多八も、今日湯宿に着きて、壺ひと間を借りきり、云々」

小林一茶
湯畑から光泉寺に続く階段の途中にある、月を象った小林一茶の句碑。
「湯けむりに ふすぼりもせぬ 月の貌」

平井晩村
大滝乃湯にある平井晩村の歌碑。草津節のもとになった歌。
「草津よいとこ白根の雪に 暑さ知らずの風が吹く」
「草津よいとこ里への土産 袖に湯花の香りが残る」

松尾芭蕉
白根神社の境内、林の中にある松尾芭蕉の句碑。
「夏の夜や こだまにあくる 下駄の音」
芭蕉の150回忌にあたり、草津の俳人が建てたもの。

ちょっとこの辺で、一区切り。つづく。


渋川市北橘町下箱田の木曽三社神社。

木曽三社神社 (1)
木曽三社神社 (2)
木曽三社神社は元暦元年(1184年)木曽義仲を祀るために、その家臣が信濃国筑摩郡の三座(岡田神社・沙田神社、阿礼神社)を勧請し創建したと伝わる。

木曽三社神社 (3)
木曽三社神社 (4)
一の鳥居をくぐると、その先は石段を下って行く。上から拝殿他、社殿を見下ろす景色は何とも言えない良い雰囲気。

木曽三社神社 (5)
木曽三社神社 (6)
下りきった所から、ちょっと上がったところに拝殿・本殿がある。

木曽三社神社 (7)
社殿奥には赤城山山麓の自然湧泉中で最大の湧出量を誇るという、名泉「湧玉(わくだま)」が滾々と湧き出でている。緑が茂った中から小さな滝の様になり、清らかな水が流れ出している。

木曽三社神社 (8)
湧水が小川となっており、その先の池には鯉が悠々と泳いでいた。

上から社殿を見下ろ景色には、何とも言えない味わいがある。また、湧玉から流れ出る清流も相まって、非常に雰囲気がいい。ただ、行き(下り)はいいけど、帰りの上りはちょっと疲れる・・・。


北群馬郡榛東村大字山子田の耳飾り館。

耳飾り館 (1)
耳飾り館は縄文時代後晩期の集落(約3000年前)である茅野遺跡から多数の土製耳飾りが出土したことを受け、これを展示・紹介することを目的に平成4年(1992年)に開館した。

土製耳飾りをはじめ縄文土器、土版、岩版、石棒、手燭形土製品などの茅野遺跡出土品をメインとして、世界の5大陸から収集した約1000点の耳飾りを展示してる。

耳飾り館 (2)
耳飾り館 (3)
耳飾り館 (4)
国の重要文化財に指定されている土製の耳飾りと勾玉と金環の耳飾り。

耳飾り館 (5)
耳飾り館 (6)
古くはオリエント文明、ローマ時代の金製の耳飾りやビクトリア朝時代の貴重な耳飾りまである。

耳飾り館 (7)
耳飾り館 (8)
耳飾り館 (9)
アジア、ヨーロッパ、アフリカなど、世界各国の耳飾りも。また、民俗的にも珍しい耳飾りが多い。素材も金、銀、七宝焼、木の実など、魅力的で大変バラエティに富んでいる。

いいオヤジが耳飾りって思うかもしれないけど、これがけっこう楽しめる。逆にイヤリングって言ってしまうとダメなんで、歴史も含めた耳飾り!


渋川市北橘町真壁の東京電力・佐久発電所。

浅野セメント創業者・浅野総一郎氏により開設された発電所で、その名を奥さんの名前の「作」さんの雅号「佐久」から採っている。

佐久発電所 (1)
佐久発電所 (2)
大正14年(1925年)に関東水力電気により建設が開始され、昭和3年(1928年)に完成。日本で初めて差動型サージタンクが設置されており、当時世界一高いサージタンクであった。現在のタンクは2代目。

高さは72.5m(地上からは81.4m)、内径12.5m。このサージタンクは遠くからもよく見え、北橘のシンボルタワーになっている。

佐久発電所 (3)
佐久発電所 (4)
佐久発電所 (5)
利根川綾戸ダム(沼田)より取水し、北橘町真壁にある真壁調整池へ一度貯められ、水圧鉄管を通りサージタンクへ。調整池からサージタンクまでは約1.3km。サージタンクから3本の水圧鉄管路に分かれて、山腹を下り発電所に至る。

これ、写真だと分かりづらいかもしれないが、けっこう大きい(太い)。まじかで見ると、迫力満点!

り
実はこの佐久発電所が、上毛かるた「理想の電化に 電源群馬」の絵札のモデルだった。昭和43年(1968年)の改定時に、当時建設中の下久保ダムに変更になった経緯がある。

上毛かるた紀行の番外編でもよかったかな。


渋川市北橘町真壁の北橘歴史資料館。

北橘歴史資料館 (1)
平成4年(1992年)に旧北橘村の歴史民俗資料館として開館。平成18年(2006年)渋川市との合併により、渋川市北橘歴史資料館に。

北橘歴史資料館 (2)
道訓前遺跡から出土の焼町土器。道訓前遺跡は、赤城山麓の台地上に所在する縄文時代中期中葉(約4500年前)の集落遺跡。

北橘歴史資料館 (3)
芝山遺跡からは、和同開珎が見つかっているらしい。

北橘歴史資料館 (4)
北橘歴史資料館 (6)
北橘歴史資料館 (5)
その他、分郷八崎遺跡の縄文式土器、下遠原遺跡の弥生式土器など旧石器時代から現代まで、北橘地区の移り変わりを知ることができる。

北橘歴史資料館 (7)
北橘歴史資料館 (8)
どこの歴史資料館もそうだけど、必ずある「民具・農具」のコーナー。

北橘という地名は、日本武尊が東征の道すがらこの地で休憩した際、亡き弟橘媛を偲んだことから橘山と呼ばれるようになり、山の北なので北橘と名付けられた。

ここにも日本武尊と弟橘媛伝説が。


高崎市下里見町の里見城址。

里見城址 (2)
里見城址 (1)
里見城は建久3年(1192年)里見義俊の子・義成が築いたといわれている。築城と言っても、この時代(平安末~鎌倉初期)の城は大きな砦と言ったところ。

本郭は東西100m、南北70mほどの方形で、北面は里見川によって形成された崖に守られ、東西南には高さ2.5mほどの土塁が巡らされていた。里見氏10代・家基が嘉吉元年(1441年)に結城合戦で戦死し、その子・義実が安房国に転出するまで、里見氏の居城であった。

ちなみに、里見義実は「南総里見八犬伝」で有名な安房里見氏の祖である。

里見城は戦国期には長野氏が出城としていたが、永禄9年(1566年)武田信玄の猛攻により落城している。

なぁ~んて書いているが、実際には前回の郷見神社境内から、案内版の方向を見ただけ。なので、写真も本当に里見城址方面を写しているかも自信がない。

これは紀行ものとしてどうなんだ? という突っこみはなしね。


高崎市下里見町の郷見(さとみ)神社。

郷見神社 (1)
郷見神社 (2)
郷見神社は豊城入彦命の陵墓との伝承がある前方後円墳に、里見義俊が八幡宮を勧請したのが始まりと伝わる。義俊は新田氏の祖・義重の庶長子で里見氏の祖。義俊の没年は嘉応2年(1170年)とされるので、里見八幡宮の創建はそのころと考えられる。その後、戦国時代に武田信玄が里見郷を支配下に置いた際、諏訪大明神を勧請し諏訪神社となっている。

明治43年(1910年)下里見地域内の他社(八幡宮、月読宮、諏訪大明神、天満宮)を合祀し、郷見神社と改め村社となっている。

郷見神社 (3)
郷見神社では、合併した神社の社殿を保存している。写真の建屋の中に、各旧社の社殿(祠?)が入っている。それぞれの社殿を作った年代は正確には判明していないが、徳川初期から中期のものという。

郷見神社 (4)
郷見神社 (6)
前方後円墳の墳丘(方墳部)を削って、社殿が建てられている。棟札によれば、社殿は安政7年(1860年)に再建されたものであり、熊谷出身の小林源太郎の手による彫刻が施されている。

郷見神社 (5)
社殿裏の円墳部には、里見八幡宮の標識があった。往時はここに八幡宮が祀られていたということらしい。


藤岡市保美の龍冨山天陽寺。

天陽寺 (1)
天陽寺は元亀3年(1572年)武田家家臣で三ッ山城主・長井豊前守正實(まさざね)の開基、永源寺7世・笑山長喜和尚の開山と伝わる。慶長年間(1596~1615年)依田信守の中興。寺伝では信盛となっている。

天陽寺 (2)
本堂などは天保元年(1830年)火災により焼失。明治期に廃寺となっていた保美地区内の清福寺の木材を使い再建。

本尊は子持ち薬師如来と言い、胎内に子薬師を懐胎している。

天陽寺 (5)
正實父子のものと推定される墓(祠)。どれが誰のものかは不明という。天陽寺には正實の鎧兜などが残されていたようだが、上記火災により焼失したという。

天陽寺 (3)
境内(墓地ではなく)に2m超える大きな宝篋印塔がある。銘が明らかに削り消されている。ご住職によると、この宝篋印塔が正實の墓標の可能性もあるという。正實が開基(創建)した後、徳川配下の依田氏の菩提寺になっており、その際に銘が消された可能性があるということ。(この宝篋印塔の写真のみ別撮り)

天陽寺 (4)
天陽寺 (6)
中興の依田氏の墓もある。上が依田信守夫妻の墓、下は依田信政の墓である。信守は当主・康勝の従兄弟に当たる。信政は信守の弟だが、信守の養子になっている。康勝の祖父も信守と言うが、天陽寺中興の信守とは別人である。

天陽寺の近くには中屋敷と言う地名が残っており、依田氏の屋敷があったと推定される。遺構などは残ってないようだが。

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