上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

Tigerdreamです。訪問ありがとうございます!
もうひとつのブログ「まったりとスペシャル系」も是非ご覧ください。


藤岡市神田の藤岡市防災公園。

藤岡市防災公園 (2)
藤岡市防災公園 (1)
藤岡市防災公園は令和3年(2021年)の開園で、災害時には避難場所となり救急活動の拠点・仮設住宅用地として活用される。通常は一般の公園として利用されている。開園依頼、まだ大規模災害の発生はないと思う。

藤岡市防災公園 (3)
藤岡市防災公園 (4)
「芝生広場」の入口にはコスモスがきれいな花を咲かせていた。

藤岡市防災公園 (5)
総面積は約4.1ヘクタール。「芝生広場」「遊具広場」「調整池」などから構成されている。

藤岡市防災公園 (6)
「芝生広場」は災害時には緊急避難場所やヘリポート、仮設住宅用地として活用される。面積は1.4ヘクタールで、サッカーコートが2面作れるサイズ。

藤岡市防災公園 (7)
奥(北東側)には築山がある。古墳の多い藤岡市なので、前方後円墳の形になっているのかと思ったがそうではなかった。

藤岡市防災公園 (8)
「幼児広場」は低年齢(幼児)向けの遊具が設置されている。ブランコや複合遊具は災害時には防災テントとして活用される。

藤岡市防災公園 (9)
藤岡市防災公園 (10)
藤岡市防災公園 (11)
「遊具広場」にはふわふわドーム、複合遊具、ジップラインなどがある。やはり一番人気はふわふわドーム。

藤岡市防災公園 (12)
噴水なのかな? あまり水が吹き出てはいなかったが。防災井戸が併設されている。

藤岡市防災公園 (13)
藤岡市防災公園 (14)
大人向けの健康器具。踏み板スイッチや腹筋台、足つぼマッサージなど。

藤岡市防災公園 (15)
藤岡市防災公園 (16)
ただのベンチかと思いきや、災害時には「かまど」として炊き出しに使える「かまどベンチ」。

藤岡市防災公園 (17)
防災公園の東西両側には「調整池」。災害級の大雨の際には、ここに貯水し住宅地などへの浸水被害を防止する役目を担う。普段はたただの窪地。写真は公園東側の調整池。

藤岡市防災公園 (18)
外周を歩いてみたら一周で7~8分くらいだったので、散歩にはちょっと短いかな(散歩としては3~5周くらいしないと物足りない)。東側は椿杜神社(藤岡市本郷)と接している。(椿杜神社は「藤岡市本郷・椿杜神社」参照)


藤岡市白石の藤岡歴史館。

藤岡歴史館 (1)
藤岡歴史館は平成16年(2004年)の開館で、市内で発掘された出土品などを収蔵・展示している。正式には「藤岡市埋蔵文化財収蔵庫」で「藤岡歴史館」は愛称となる。

藤岡歴史館は過去2回訪問している。1日目は平成22年(2010年)に白石稲荷山古墳や七輿山古墳を訪れた際、2回目は平成25年(2013年)に企画展「堀越二郎の軌跡」を見に行った時。今回は久しぶり(12年ぶり)となる。

藤岡歴史館 (2)
藤岡歴史館 (3)
常設展示室入ってすぐは「白石古墳群」(白石稲荷山古墳や七輿山古墳など)からの出土品が中心。白石稲荷山古墳出土の有名な家形埴輪はレプリカ(実物は東京国立博物館所蔵)だが、それ以外は実物が多く展示されている。

藤岡歴史館 (4)
単龍環頭大刀柄頭。6世紀後半の大刀ととも出土している。大刀も飾ってあったが金ピカのレプリカなので写真はなし。

藤岡歴史館 (5)
藤岡歴史館 (6)
藤岡歴史館 (7)
基本的には年代順(旧石器・縄文・弥生・古墳~平安・中世)に展示されている。旧石器時代のナイフ型石器や槍先型尖頭器、縄文時代の土偶や石棒。

藤岡歴史館 (8)
藤岡歴史館 (9)
縄文時代、弥生時代、古墳時代の土器類。

藤岡歴史館 (10)
中世の土器や文字瓦など。

「郷土の偉人」として高山長五郎・堀越二郎(常設展示室)、関孝和(エントランスホール)関連展示もあった。この3人は「藤岡市三偉人」とされているようだ。

藤岡歴史館 (11)
白石稲荷山古墳から藤岡歴史館、皇子塚古墳・平井地区一号古墳、七輿山古墳にかけて「毛野国白石丘陵公園」として整備する計画があるようだ。ジオラマがおいてあったが、完成するのは何時になることやら。

藤岡歴史館 (12)
スタンプカードがあったので全部押してきた。これはスタンプの史蹟を訪問したら押すものなのかな? まあ、全部行っているのでOK。スタンプ台のインク補充をお願いします。

藤岡市文化財探訪
今回訪問の主目的は「藤岡の文化財探訪」の購入。平成18年(2006年)に合併した旧鬼石町の文化財も含めて、令和4年(2022年)に新藤岡市のすべての文化財を網羅して発刊されている。1,000円。この情報を得てすぐに買いに行こうと思っていたのだが、3年も経ってしまった。

初訪問時と比べると、見違えるほどきちんとした展示になっていた。展示数も多くなっていると思う(発掘品が増えたのかもしれないが)。15年も経っているので記憶も曖昧だけど。申し訳ないが、当時はイマイチだったような記憶がある。

関連
 「ゼロ戦の生みの親 堀越二郎展・藤岡歴史館


藤岡市保美の龍冨山天陽寺。

天陽寺2 (1)
天陽寺は永禄2年(1559年)武田家家臣で三ッ山城主・長井豊前守正實(まさざね)の開基、永源寺7世・笑山長喜和尚の開山と伝わる。天陽寺の名称は正實の法名「正實院殿天陽光春大居士」から。

慶長年間(1596~1615年)依田信盛の中興。一般的には信守と表記することが多い。この信守(信盛)の祖父も信守なので混同するが、天正18年(1590年)に藤岡を領した康勝の従兄弟(康勝の父・信蕃と信守の父・信幸が兄弟)。

創建年代については、多野藤岡地方誌(昭和51年:1976年刊)では、元亀3年(1572年)と記している(開山・開基などは同じ)。

天陽寺2 (2)
天陽寺2 (3)
山門横の小坊主さんは平成8年(1996年)の造立。六地蔵は山門の少し手前にある。

天陽寺2 (4)
天陽寺2 (5)
本堂は天保元年(1830年)火災により焼失。明治13年(1880年)に廃寺となった保美村内の富永山清福寺の木材を使い再建。昭和49年(1974年)に改修されている。

本堂に安置されている本尊は薬師如来だが、胎内に子薬師を懐胎している。そのため子持薬師と呼ばれている。

天陽寺2 (6)
梵鐘は清福寺のものであったが、清福寺廃寺後は地区の防災用の鐘として使用されていた。そのため先の大戦時も供出を免れている。昭和49年(1974年)に天陽寺に移されている。鐘楼堂も同年の建立。

天陽寺2 (7)
梵鐘は寛政5年(1793年)栃木佐野天明の丸山林八長暉の作。林八長暉は天明の鋳物師の名工とされるが、現存する製品が少ないため本梵鐘は貴重なものと言える。総高97cm、胴上部の乳が108個(煩悩の数)付いている。

天陽寺2 (8)
長井正實父子のものと推定される墓(祠)。どれが誰のものかは不明という。天陽寺には正實の鎧兜などが残されていたようだが、天保元年の火災により焼失したという。

天陽寺2 (9)
天陽寺2 (10)
境内(墓地ではなく)に2m超える大きな宝篋印塔がある。銘が明らかに削り消されている。ご住職によると、この宝篋印塔が正實の墓の可能性もあるという。天陽寺は後に依田氏の菩提寺になっており、その際に銘が消された可能性があるということ。

天陽寺2 (11)
中興・依田信守(信盛)夫妻の墓(信守の墓は向かって右)。

天陽寺2 (12)
依田信政の墓。信政は信守(信盛)の弟だが、信守没後は家督を継いでいる。なお、信政の正式な墓所は東京文京区の金龍山大円寺にある。


藤岡市本郷の土師神社。10月19日に開催された秋の例祭で流鏑馬が奉納された。

土師神社 流鏑馬 (1)
土師神社はこの地域に居住していた土師氏(埴輪や土師器を製造する人々)が、氏神として野見宿禰を祀ったのが始まりとされる。境内には「土師の辻」と呼ばれる相撲の土俵があり、「日本三辻」のひとつとされる(詳細は「藤岡市本郷・土師神社」参照)。

流鏑馬の奉納は昭和40年前後(1960年代)から途絶えていたが、平成14年(2002年)に花馬、翌15年(2003年)に流鏑馬が復活している。近年はコロナの影響で流鏑馬も中止されていたが、令和5年(2023年)に再開されている。

土師神社 流鏑馬 (2)
土師神社 流鏑馬 (3)
流鏑馬の前には「おねり(御練り)」で秋の収穫に感謝を奉げる。

土師神社 流鏑馬 (4)
流鏑馬を奉納する団体名は聞き漏らしたが、小笠原流と言っていたと思う。

土師神社 流鏑馬 (5)
「願的(がんまとう)」。五色の花笠・白装束に赤い襷・袴・足袋に草履姿の射手が、停止した状態で一本の矢に願いを込めて的を射る。この大役は地元の方のようだ。

土師神社 流鏑馬 (6)
土師神社 流鏑馬 (7)
メインの流鏑馬。土師神社の参道は170mで流鏑馬を行うには少し短いようだ。そのため通常3射のところ2射となる。しかし馬場と観客が近いため非常に迫力があり、スピード感を肌で感じることができる。見事に的を射貫くと観衆から大歓声が起こっていた。

土師神社 流鏑馬 (8)
土師神社 流鏑馬 (9)
女性の射手も複数おられた。

土師神社 流鏑馬 (10)
外国の方もいらっしゃった。射手はしていなかったと思う。

射手が馬上で何か声を発していたが、後で調べたら「インヨーイ」と言っていたらしい。これは陰陽道から来ており、小笠原流の礼法・歩射・騎射はすべてが陰陽道を軸に成り立っているそうだ。

土師神社 流鏑馬 (11)
例祭の最後は花馬。写真は「おねり」の時のもの。

土師神社 流鏑馬 (12)
矢が当たり割れた的(墨書あり)。当たり的は縁起が良いとされ人気がある。例祭終了後に販売された。


藤岡市保美の保美西浦遺跡。

保美西浦遺跡 (1)
保美西浦遺跡は神流川の河岸段丘上に広がる集落遺跡であり、当地の土地改良事業に伴い令和4年(2022年)から発掘調査を実施していた。保美西浦遺跡からは縄文時代と古墳時代後期から中世までの遺構・遺物が確認されている。

保美西浦遺跡 (2)
今回紹介するのは保美西浦遺跡の「F地点」と名付けられた住居跡の遺構。当日は藤岡市文化財保護課による現地説明会だった。

保美西浦遺跡 (3)
遺跡内の219号住居。縦7.8m✕横8.8mの規模を誇る竪穴式住居で、藤岡市内で確認されている住居跡の中でも最大級である。8世紀前半の住居跡と推定されている。

保美西浦遺跡 (4)
保美西浦遺跡 (5)
大規模住宅だけあって柱穴は直径・深さとも1mを超え、柱を据えた後に何層にも固めながら土を埋め戻して固定したことが分かる。

保美西浦遺跡 (6)
219号住居内から発掘された土器類。1,000年以上土中に埋まっていると、意外ときれいな色を保っているものだ。

保美西浦遺跡 (7)
同じく219号住居内から発掘されたカマドの一部であったと推定される加工石。219号住居はその規模やカマドに加工石を用いていることなどからも、住人の身分の高さが窺い知れる。

保美西浦遺跡 (8)
遺跡内の222号住居。河原石を組上げて作られたカマドがあったことが分かっている。10世紀後半の住居跡とされる。河原石は結晶片岩で、遺跡の東を流れる神流川から採集されたものと思われる。

保美西浦遺跡 (9)
保美西浦遺跡 (10)
カマド跡の周りには土器類が散乱しており、当時の住人が住居を不意に放棄した様子を示していると考えられる。

保美西浦遺跡 (11)
住居跡遺跡は見学できなかったが、発掘遺物のみ展示されていた205号住居。上段の左から2番目の黒ずんでいる土器は、漆が塗られていた跡との説明があった。

保美西浦遺跡は先述したように土地改良事業に伴う遺跡調査のため、発掘調査終了後(調査記録取得後)は農地となり消滅することになる。残念だが致し方ない。


藤岡市藤岡の諏訪古墳と諏訪神社北古墳。
(藤岡諏訪神社は「藤岡市藤岡・諏訪神社」「諏訪神社 その2」参照)

諏訪古墳 (1)
諏訪古墳(諏訪神社古墳)は全長57m・後円部径37m・高さ4mの前方後円墳で、6世紀後半の築造と推定される。前方部墳頂には諏訪神社の社殿が建っている。

諏訪古墳 (2)
諏訪古墳 (3)
後円部南西側に横穴式石室が開口している。開口部上に見える朱色の建物は、境内末社・稲荷社の覆屋。

諏訪古墳 (4)
石室は全長5.9m、玄室の奥幅1.9m・長さ3.1mの大きさで、ほぼ長方形を呈してる。石室の壁は側壁を内傾した凝灰岩の切石積で、玄室の奥に棺座を区画する間仕切り石や羨道と玄室の境に框石を設置している。

明治39年(1906年)の発掘調査では、石室内から人骨・銀環・単鳳環頭太刀・直刀・刀子・衝角付冑・馬具などが出土している。また、後円部北側から東側の墳丘にかけて埴輪が確認されている。

諏訪古墳 (5)
墳丘を北側から。池は元の周濠の一部分のようだ。

諏訪神社北古墳 (1)
高山長五郎功徳碑と町田菊次郎頌徳碑が建っているのが諏訪神社北古墳になる。直径25m・高さ2mの円墳で、築造は6世紀後半と推定される。

諏訪神社北古墳 (2)
北側から。こちらの方が形状(円墳)が分かり易い。

諏訪神社北古墳 (3)
諏訪神社北古墳 (4)
南側に横穴式石室が開口する。

諏訪神社北古墳 (5)
石室は全長3.8m、玄室は長さ3.4m・幅1.8m・高さ1.7m。石材は凝灰岩の切石で、切組積みによって構築される。

北古墳も明治39年(1906年)に発掘調査が行われ、石室内からは多数の遺物が出土したとされるが、現在所在不明となっている。


藤岡市藤岡の諏訪神社の2回目。
(1回目は「藤岡市藤岡・諏訪神社」参照)

藤岡諏訪神社3 (1)
藤岡諏訪神社には三井越後屋から奉納された2座の宮神輿がある。

藤岡諏訪神社3 (2)
諏訪様(写真右)と八坂様(同左)と呼ばれる神輿は2基一対となっている。安永9年(1780年)に江戸人形町長谷川通りの大仏師であった安岡良運、安岡忠五郎により製作され諏訪神社に奉納されたといわれている。

平成27年(2015年)に諏訪様、同28年(2016年)に八坂様が修理(平成の大修理)され江戸期の輝きを取り戻した。夏の藤岡まつりでその勇姿を見ることができる。

ところで、神輿庫の前にある藤岡市の説明板、内容間違ってるよ。恥ずかしいぞ。

藤岡諏訪神社3 (3)
藤岡諏訪神社3 (4)
境内末社の大国神社。

藤岡諏訪神社3 (5)
藤岡諏訪神社3 (6)
境内末社の八坂神社。

藤岡諏訪神社3 (7)
藤岡諏訪神社3 (8)
藤岡諏訪神社3 (9)
境内末社の天満宮。

藤岡諏訪神社3 (10)
天満宮だけあって、合格祈願の絵馬が多数奉納されている。

藤岡諏訪神社3 (11)
社殿後ろに鎮座する境内末社。左から三峯社、阿夫利社、豊受社、稲荷社。

藤岡諏訪神社3 (12)
さざれ石。岐阜県揖斐川町春日の産出で、平成28年(2016年)の奉納。

藤岡諏訪神社3 (13)
藤岡諏訪神社3 (14)
境内の池に架かる橋は諏訪橋。池中には水天宮が鎮座する。

藤岡諏訪神社3 (15)
境内奥に高山社の創設者・高山長五郎功徳碑と2代目社長・町田菊次郎の頌徳碑が建っている。両碑とも平成26年(2014年)に藤岡市の重文に指定されている。

ここは諏訪神社北古墳の墳丘上になる。諏訪神社北古墳については別記事にて紹介予定。

藤岡諏訪神社3 (16)
高山長五郎功徳碑。養蚕法「清温育」を考案し、高山社にて後進の育成に尽力した長五郎の功徳を伝えるため明治24年(1891年)に建立された。

藤岡諏訪神社3 (17)
町田菊次郎頌徳碑。高山長五郎の後を継ぎ高山社2代目社長となり、清温育の普及に務めた。頌徳碑は昭和13年(1938年)の建立されている。

高山長五郎、町田菊次郎に関しては、記事も多数あるので「高山長五郎」「町田菊次郎」でブログ内検索をしてもらえれば出てきます。

次回は「諏訪古墳」と「諏訪神社北古墳」を紹介する。


藤岡市藤岡の諏訪神社。

藤岡諏訪神社2 (1)
藤岡諏訪神社は元は平安時代に祀られた椙山明神で、永享3年(1431年)に当地の豪族・有田定景が諏訪大社から上社・下社を勧請したとされる。その後、永禄9年(1566年)に芦田信守が諏訪大社から剣一口・鏡一面を請受け、本郷別所に上の社、当所に下の社を奉祀したという。

ただし、芦田氏(依田氏)が藤岡を領したのは信守の孫・康勝からになるので、康勝が諏訪大社の上社・下社を勧請したと考える方が分かりやすいのだが。

明治元年(1868年)に高山神社と改称したが、明治34年(1901年)に諏訪神社に復称している。石鳥居はこの年(明治34年)の建立。

藤岡諏訪神社2 (2)
鳥居前の灯籠。天保2年(1832年)三井越後屋の奉納。江戸時代末、養蚕が盛んであった藤岡は絹市で繁盛した。三井越後屋は上州絹の買い入れ先として藤岡に支店を設けたことで、藤岡と三井越後屋に繋がりができていた。

藤岡諏訪神社2 (3)
灯籠には「丸に井桁三」の三井越後屋の家紋入り(ちょっと見づらいが)。

藤岡諏訪神社2 (4)
藤岡諏訪神社2 (5)
手水舎。安政4年(1858年)13代・三井八郎右衛門の奉納。13代・八郎右衛門は三井家当主としては8代目で本名は高福(たかよし)。三井銀行・三井物産を創立して三井財閥の基礎を築いている。

藤岡諏訪神社2 (6)
社殿への石段横の「カエル像」。カエルは語呂合わせで「無事帰る・お金が還る・若返る」などの言葉になることから、縁起物とされている。

藤岡諏訪神社2 (7)
社殿は諏訪古墳(前方後円墳)の墳丘上に建つ。諏訪古墳については別記事にて紹介予定。

藤岡諏訪神社2 (8)
藤岡諏訪神社2 (9)
石段の途中、社殿前に2対の狛犬が鎮座する。石段途中の狛犬は昭和30何年(よく読めなかった)、社殿前の狛犬は平成14年(2002年)の奉納。

藤岡諏訪神社2 (10)
藤岡諏訪神社2 (11)
藤岡諏訪神社2 (12)
社殿は古くは天正18年(1590年)に芦田康勝が造営し藤岡城の守護としている。延宝6年(1678年)には星野金左衛門の発起により寄進が募られ再建されている。現在の社殿は嘉永3年(1850年)の建立。

藤岡諏訪神社2 (13)
雨水を集める釜。藤岡市の地酒の銘柄(三波石や巌)が書かれているので、酒造組合の奉納(と言うか提供)かな。よく選挙に立候補した候補者の事務所に置かれていた「當選(当選)」を作っているのは藤岡市の酒造メーカー。最近、余り見ないかな。

藤岡諏訪神社2 (14)
社殿前の狛虎。大正9年(1920年)、後に首相・陸軍大臣などを歴任する田中義一・ふみ子夫妻の奉納。夫妻と書いたが、厳密にはふみ子夫人は正妻ではない(婚外)。ふみ子夫人は藤岡町(当時)の出身なので、諏訪神社に奉納したのだろう。ちなみに、田中義一首相の在任期間は昭和2年(1927年)~同4年(1929年)。

藤岡諏訪神社2 (15)
田中義一・ふみ子夫妻が狛虎を奉納して100周年を記念し、令和2年(2020年)に造立された「撫で虎」。鳥居の向かって右側(南側)に置かれている。

藤岡諏訪神社2 (16)
神楽殿。嘉永3年(1850年)の建立。現在も歳旦祭や春季例祭に神楽が奉納がされる。

藤岡諏訪神社2 (17)
大イチョウ。ご神木なのか不明だが、それにふさわしい大樹だ。

藤岡諏訪神社には、三井越後屋が奉納した宮神輿や高山社の創設者・高山長五郎の頌徳碑などがある、また、諏訪・諏訪神社北古墳もあるので引き続き紹介していく。


藤岡市藤岡の福島元七顕彰碑。富士浅間神社の境内にある。
(富士浅間神社は「藤岡市藤岡・富士浅間神社」参照)。

福島元七顕彰碑 (1)
福島元七は慶応2年(1866年)生まれ。福島家は代々江戸幕府の御用鍛冶を務めていた家系。元七は明治33年(1900年)に桑切り包丁を上下させることによって、次々に桑葉が刃の下へ送られる仕組みの蚕具桑刻機(通称「福島式桑刻機」)を発明した。

当時の養蚕業は高山社の「清温育」が全盛で、蚕の成長に合わせて与える桑葉の大きさを変えていたため、桑葉を刻む作業は農家の大きな負担であった。そのため「福島式桑刻機」は注文が殺到し、海外も含め約150万台も販売されたという。

その後も「五穀脱穀機」「大豆粕削機」「籾摺機」なども発明。専売特許27件・実用新案31件などを取得。昭和5年(1930年)には帝国発明協会から有功会員に推されている。

大正12年(1923年)58歳で没する。

福島元七顕彰碑 (2)
元七の功績を顕彰するため、昭和4年(1929年)富士浅間神社境内に「福島元七顕彰碑」(福島翁之碑)が建てられた。

福島元七顕彰碑 (3)
福島元七顕彰碑 (4)
昭和4年の顕彰碑建設と同時に「福島元七の銅像」も建てられたが、昭和17年(1942年)に戦時供出されてしまった。そのため昭和43年(1968年)同所に肖像入りの塔が建てられている。


藤岡市藤岡の富士浅間神社。

藤岡浅間神社 (1)
富士浅間神社の創建年などは不詳だが、当地を治めた古代の有力者の墳墓(古墳)に祠を設け、上郡御霊明神としたのが始まりと伝わる。その後、文永11年(1274年)に日蓮上人が佐渡から鎌倉に戻る途中、木花開耶姫命の御霊を当神社に遷したという。以来、富士浅間神社と社名を改めている。

明治3年(1870年)常岡神社と改称したが、同36年(1903年)に富士浅間神社と復称している。明治41年(1908年)上浅間神社、秋葉神社を合祀している。

藤岡浅間神社 (2)
藤岡浅間神社 (3)
一の鳥居は平成24年(2012年)の建立。扁額は「富士山」。

藤岡浅間神社 (4)
大きな灯籠は明治2年(1869年)の奉納。

藤岡浅間神社 (5)
藤岡浅間神社 (6)
碑の写真の上は「富士登山六十六度大願成就の碑」で大正8年(1919年)の建立、下は「富士登山三十三度記念碑」で明治26年(1893年)の建立。

江戸時代から昭和の初めにかけて富士講(富士を拝み、富士山霊に帰依し心願を唱え、報恩感謝するという教え)が広まったことから、富士登拝(登山)が盛んに行われた。それにしても66回とか33回とか、すごい回数の富士登山歴だ。

藤岡浅間神社 (7)
参道脇には灯籠がずらっと並ぶ。正面に見える(横向き)のが二の鳥居だ。

藤岡浅間神社 (8)
藤岡浅間神社 (9)
二の鳥居は昭和3年(1928年)の建立。

藤岡浅間神社 (10)
二の鳥居から社殿へは石段を上る。由緒にある「古代の有力者の墳墓(古墳)に祠を設け」をイメージしやすい。

社殿が鎮座するのは浅間山古墳(藤岡町1号古墳)。直径約38m・高さ約4.5mの円墳。慶応2年(1866年)に社殿への石段・玉垣が整備され、古墳形状は大きく変貌したと考えられる。

藤岡浅間神社 (11)
藤岡浅間神社 (12)
藤岡浅間神社 (13)
藤岡浅間神社 (14)
天正18年(1590年)藤岡領主となった芦田康勝が、藤岡城(芦田城)の北面の守りとして社殿を大規模に拡張・改修している。

その後、社殿は昭和40年(1965年)に火災で焼失。同44年(1969年)に再建されている。平成8年(1996年)には屋根瓦の葺替えが行われている。拝殿扁額は「冨士」(うかんむりの冨)。

藤岡浅間神社 (15)
拝殿前の狛犬は大正12年(1923年)の奉納。

藤岡浅間神社 (16)
神楽殿は慶応3年(1867年)の建立。

藤岡浅間神社 (17)
参集殿に置かれている宮神輿。夏の藤岡まつりなどに出御する。

富士浅間神社には神輿をかつぐ行列が描かれている絵巻物が宝物として伝わっている。浮世絵師・菊川英山の作。絵巻は4mという長さで、行列の人数は357人。藤岡市の重文に指定されている。

ところで、鎌倉時代の後半まで藤岡市の辺りは「常が岡(ときがおか)」と呼ばれていた(このため明治の一時「常岡神社」と改称されていた)。当社が富士浅間神社となったことをきっかけに「富士岡」と呼ばれるようになったとされる。ただ「富岡」と紛らわしかったため「藤岡」としたといわれる。


藤岡市牛田の真道山医光寺。

医光寺2 (1)
医光寺は元和元年(1615年)僧・真海の開創とされる。明治41年(1908年)に字川除の宝蔵寺を合併している。

医光寺2 (2)
山門脇の六地蔵。昭和60年(1985年)の造立。

医光寺2 (3)
医光寺2 (4)
本動は平成12年(2000年)に屋根の改修を行っている。

医光寺2 (5)
旧屋根に乗っていた瓦が境内に保存されている。

医光寺2 (6)
医光寺2 (7)
医光寺2 (8)
境内の薬師堂。由緒などは分からない。

医光寺2 (9)
歴代住職の墓域に立派な宝塔がある。宝暦14年(1764年)の造立。

医光寺2 (10)
医光寺2 (11)
板碑は鎌倉時代末の延慶3年(1310年)の建碑。上部に阿弥陀三尊種子、中央に阿弥陀賛仰の旬があり、16人の発願により建立されたことが記されている。秩父産の緑泥片岩製で、高さ253cm・幅52cm・厚さ6cm。藤岡市に現存する板碑の中で最大である。

この板碑は明治時代末に神流川の土中から発見され、医光寺に移されている。昭和41年(1966年)に台風による倒木のため倒れ、上部90cmのところで折れてしまったが、昭和44年(1969年)に修復されている。


藤岡市牛田の天保ききんの碑。

天保ききんの碑2 (1)
天保ききんの碑2 (2)
碑自体は「積木神社之跡」を示す碑で、昭和20年(1945年)に建立されている。当地は積木神社が鎮座していた旧地で、積木神社は明治42年(1909年)に椿社神社(藤岡市本郷)に合祀されている。

天保ききんの碑2 (3)
石宮が積木神社の名残を残している(石宮以外に常夜灯が1基あった)。

当碑が「天保ききんの碑」と呼ばれる所以は、碑の裏面に天保8年(1837年)の穀類の価格が刻まれていることから。それによると「一両二 コメ二斗、ムキ四斗、小ムキ三ト、マメ5ト」(原文ママ)とある。平年の相場が金一両で米1石とされるので、5倍も高騰価格ということになる(1石=10斗)。

天保の大飢饉は天保4年(1833年)に始まり、天保6~8年にかけて最大規模化している。主な原因は天保4年の大雨による洪水や冷害による大凶作。このような農作物の高騰は各地で一揆や打ちこわしを引き起こした。

有名なのは天保8年(1837年)大坂の大塩平八郎の乱。また、群馬でも国定忠治が私財を投げうち貧民救済にあたったといわれている。

ところで、なぜ昭和20年に建立された碑の裏面に、100年以上前の天保8年の穀類価格が刻まれているかというと、この石は元は付近の橋として使われていた(緑泥片岩製で高さ260cm・幅107cm・厚さ13cm)。

そして天保8年当時、この石橋の下に僧が住み付いていたという(今で言うところのホームレス)。この僧が食糧難による物価高の実情を石橋の裏側に刻んだものとされる。

地元の人たちは「積木神社之跡碑」を建立したのだが、知ってか知らずか「天保ききんの碑」を建立していたということになる。結果的に当時の世情を伝える貴重な資料となっている。


藤岡市緑埜の千部供養塔。

千部供養塔2 (1)
千部供養塔2 (2)
千部供養塔は天明3年(1783年)の浅間山大噴火の模様と、その被害状況(各地の降灰量や凶作による諸物価の高騰など)を刻んだ供養塔である。安山岩製で高さ80cm・幅31cm・厚さ21cm。大噴火の9年後の寛政4年(1792年)に旗本・松平忠左衛門の代官・斉藤八十衛門雅朝の建立。

千部供養塔2 (3)
左右面・裏面に降灰や被害状況、米麦・大豆などの物価高騰状況が刻まれている。当時の世情を伝える貴重な資料である。

記載されている降灰状況は前橋で7~8寸(約21~24cm)、高崎・藤岡で一尺(約30cm)、松井田では3尺(約90cm)とある。米は金一両三斗二升、麦は金一両四斗五升(これがどれくらい高いのかピンとこないが)などと記されている。

天明3年7月8日の浅間山大噴火は「浅間焼け」と呼ばれ、浅間山史上最大級の噴火・爆発とされる。鎌原村(現嬬恋村)では高台の観音堂に逃げ延びた僅かな人々を残して、集落は壊滅するほどの被害となった。

関連
 「嬬恋村鎌原・鎌原観音堂


吾妻郡高山村中山の田んぼアートは、残念ながら中止となりました。

平成21年(2009年)に始まった「田んぼアート」。毎年6月初旬に村内外か集まったボランティアの方々手で、約20アールの田んぼに田植えが行われていた。7月から8月になると道の駅「中山盆地」から見下ろせるため、多くの人が見物に訪れていた。

今年も高山村の「田んぼアート」を見に行こうかなと思い、「今年の絵柄は何だろう?」と調べてみた。すると残念なお知らせが目に飛び込んできた。

「高山村の恒例イベントとなっていた「『田んぼアート』が今年、人員不足などを理由に中止されることになった。村職員の有志8人でつくる『田んぼアート研究会』が運営してきたが、昨年度に会長を含む2人が退会し、本業で要職に就く会員も増え、活動の継続は困難になっていた。増員や後継団体設立のめどは立っておらず、事業は事実上の終了となった」(上毛新聞5月25日)。

平成27年(2015年)から毎年見に行っていたが、残念なことである。手元にある写真で過去の「作品」を振り返って、感謝の意としたい。

田んぼアート2015
「ぐんまちゃん & くまモン」 平成27年(2015年)

田んぼアート2016
「真田ぐんまちゃん & 申」 平成28年(2016年)

田んぼアート2017
「ぐんまちゃん & 鳥(酉)」 平成29年(2017年)

田んぼアート2018
「ぐんまちゃん & つぼみちゃん & ポチッとくん」 平成30年(2018年)

田んぼアート2019
「イノシシ? & ネコ?」(ネズミとタヌキ?) 令和元年(2019年)

田んぼアート2020
「アマビエ & 祷」 令和2年(2020年)

田んぼアート2021
「鳳凰 & 鳳」 令和3年(2021年)

田んぼアート2022
「しまじろう」 令和4年(2022年)

田んぼアート2023
「ウサギ & 三並山(小野子山・中ノ岳・十二ヶ岳)」 令和5年(2023年)

田んぼアート2024
「ドラゴンボール:一星球(イーシンチュウ)を持つ龍」 令和6年(2024年)

ちょうど10年間楽しませてもらった。復活することを願っています。


藤岡市小林の風天神社。

風天神社 (1)
風天神社 (2)
風天神社の由緒は不詳。ご祭神は級長津彦命と級長津姫命で、風の神と女神である。風天は仏教における十二天のひとりで、風を神格化したもの。神道と仏教が融合した名称となっているようだ。

鳥居は令和元年(2019年)の建立。

風天神社 (3)
社殿前の灯籠は昭和3年(1928年)の奉納。

風天神社 (4)
風天神社 (5)
風天神社 (6)
社殿は昭和31年(1956年)に改築されている。

風天神社 (7)
社殿前の狛犬は昭和32(1957年)の奉納。

風天神社 (8)
遙拝所を示す標柱。方向(南西を向いている)から伊勢神宮の遙拝と思われる。

風天神社 (9)
風天神社 (10)
風天神社 (11)
境内社の稲荷神社。鳥居は平成5年(1993年)の建立。天皇陛下(当時は皇太子殿下)ご成婚記念とあった。

文政4年(1821年)に市河米庵によって著された「上野国志」に「五行神社当郡にあり」とある。五行神を祀る神社として「小林村に風天社、本郷村に土主明神、小浜村に小松社(木神なり)、戸塚村に水宮あり。但し火神の社なし。東平井村に雷電祠あり、これ火神なるか」と記載されている。

各地で神道と仏教、神道と五行信仰が結びついた現象が見られる。これもその一例だと考えられる。ちなみに多野郡誌(昭和2年:1927年)の比定は下記。
 木神 椙山明神(椿杜神社
 火神 波与明神(風天神社)
 土神 土師明神(土師神社
 金神 丹生明神(浄法寺丹生神社
 水神 水沼明神(水沼神社

多野藤岡地方誌(昭和51年:971年)では下記。
 木神 椿杜神社
 火神 風呂輪明神(神田浅間神社へ合祀)
 土神 土師神社
 金神 風天神社
 水神 水沼神社

風天神社は「多野郡誌」では火神、「多野藤岡地方誌」では金神に比定されている。どちらも断定はしていないけどね。

↑このページのトップヘ