上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

Tigerdreamです。訪問ありがとうございます!
もうひとつのブログ「まったりとスペシャル系」も是非ご覧ください。


富岡市田島の和合神社。

和合神社 (1)
和合神社 (2)
和合神社の由緒は不詳。明治期に旧田島村内の諏訪神社、厳島神社、菅原神社、稲荷神社などを合祀している。ご祭神が伊弉諾神、伊弉冉神なので和合なのかな。

和合神社 (3)
昭和初年には「荒廃見るに堪へず」(昭和3年刊・北甘楽郡史)とあり、現在は小さな木祠のみである。

和合神社 (4)
道祖神と石宮。

和合神社 (5)
和合神社 (6)
和合の銀杏。根回り約11.6m、樹高約28.7m、枝張り東西・南北とも約25m(平成13年:2001年データ)。樹幹は1本ではなく、5本の主幹の集合体という特異な形状をしている。この銀杏は浸食崖(鏑川)上という極めて厳しい生育環境にありながら旺盛に繁殖している。

ぼちぼち良い色合いになっているかと思って訪問したが、まだ少し早かったようだ。


渋川市北橘町八崎の大黒天広場。

大黒天広場 (1)
八崎地区の北部、上越線と利根川に挟まれた旧字船戸に石仏・仏塔などの石造物が集積されている。大黒天広場と名付けられているのは、大黒天の石塔があるからだと思う。

大黒天広場 (2)
甲子大黒天石塔。元治元年(1864年)の造立。明治10年(1877年)に八崎赤城神社に遷されたが、居心地が悪かったようで体を揺すって涙を流したという。そのため再び元の場所に戻されている(元の場所が当所なのかは不明)。

大黒天広場 (3)
石尊宮は文化9年(1812年)の造立。石尊宮は竿、火袋が欠けている。元は3mの高さがあったと考えられる。

大黒天広場 (4)
庚申塔(右)は寛政12年(1800年)、地神社宮(左)は天保13年(1842年)の造立。庚申塔と地神社宮の間のものは不明。一番左は灯籠の竿石。「大天狗」(だと思う)と刻まれている。

大黒天広場 (5)
弁財天供養塔(右)は文化6年(1809年)、天神宮(左)は天明3年(1783年)の造立。

大黒天広場 (6)
双体道祖神(右)は安永9年(1780年)、不動明王塔(中)は宝暦10年(1760年)、石宮(左)は宝暦5年(1755年)の造立。

大黒天広場 (7)
石宮(右)は宝暦6年(1756年)、天神宮(左)は安政6年(1859年)の造立。

いつ、どういう理由で当地に集積されたのかは不明だが、立派な解説板も立てられており、石造物を後世に伝えようとしている姿勢は素晴らしい。


渋川市北橘町上南室の赤城神社。

上南室赤城神社 (1)
上南室赤城神社 (2)
上南室赤城神社の由緒は不詳。明治40年(1907年)に赤城山大洞の赤城神社に合祀される。しかし昭和22年(1947年)氏子中の要望により分祀されている。

上南室赤城神社 (3)
鳥居前の木が倒れかかっている。フェンスで囲われている(水源?)が、木はその中から。フェンスは鳥居前の半分くらいを塞いでいる状態。何か切れない理由があるのかな(ご神木ではないだろうし)。

上南室赤城神社 (4)
境内の灯籠は文政3年(1821年)の奉納。

上南室赤城神社 (5)
上南室赤城神社 (6)
社殿は大正12年(1923年)に焼失、翌年再建されている。この時点では赤城山大洞に合祀されているのに社殿を再建したのは、将来的に分祀するという強い意志が氏子中にあったということか。

上南室赤城神社 (7)
境内社・末社群。八坂神社、日枝神社、諏訪神社、厳島神社など。

上南室赤城神社 (8)
社殿脇に仏塔・石仏などが集積されている。僧侶の墓石もあるので、当地に寺院などがあったようだ。

上南室赤城神社 (9)
数ある仏塔類の中で、この二十二夜塔(如意輪観音)のみ解説板が設置されていた。文化2年(1805年)の造立だが、文化財指定されているわけではないようだ。その他、享保15年(1730年)の地蔵像などがあった。

上南室赤城神社 (10)
鳥居脇には松尾芭蕉の句碑がある。「猶見たし 華に明行く 神の顔」。明治20年(1887年)の建碑。


渋川市北橘町上南室の相ノ田地蔵尊。

相ノ田地蔵尊 (1)
相ノ田地蔵尊は木曽義仲四天王のひとり楯六郎親忠の末裔がお堂を建立し、地蔵尊を安置したのが始まりとされる。楯親忠は地蔵尊を厚く信仰していたという。親忠は寿永3年(1184年)の宇治川の戦で討死している。

義仲四天王とは一般に樋口兼光、今井兼平、根井行親、楯親忠を言う。根井行親の6男が楯親忠である。また、樋口兼光と今井兼平は兄弟で、巴御前の兄とされる。

相ノ田地蔵尊 (2)
相ノ田地蔵尊 (3)
地蔵堂は火災で焼失してしまったが、新たに石造地蔵尊を建立し地域の人々が子どもの成長や病気治癒祈願を行なってきた。団子や焼餅をお供えしていたため、いつしか焼餅地蔵尊と呼ばれるようになった。

火災後、長らく露座の状態だったようだが、大正14年(1925年)にお堂が再建されている。地蔵尊は風化したようで、お顔の凹凸などがほぼ無くなっているようだ(かわいい前掛けにばかり目が行ってしまうが)。

楯親忠の末裔と当地との関係はと言うと、義仲や親忠討死後に今井兼平の次男・兼之や根井行親の妻などが、義仲3男・義基を匿い北橘村箱田に落ち延びたとする伝承がある。そのため旧北橘村には木曽義仲やその一族に関する伝説・伝承が多く残っている。

渋川市北橘町箱田の木曽三柱神社境内にあった朝日塚古墳(現在は削平されてしまった)は義基の墓と伝わる。同じく木曽三柱神社の本殿が建っているのが将軍塚古墳で、こちらには義仲の首と遺品が納められていると伝わる。
(「渋川市北橘町箱田・木曽三柱神社」参照)


渋川市北橘町赤城山の硯石。

硯石 (1)
硯石 (2)
硯石は赤城山の噴火により噴出した大石。約80トンの重量という。石の上面にはいくつかの凹みがあり、そこにはいつも雨水が溜まっているので、その様子から「硯石」と呼ばれている。

硯石には以下の伝説がある。当地にやってきた親鸞がこの石の凹みに溜まった水で墨をすり、歌を一首詠んだといわれている。このことにちなんで「硯石」と名付けられたともいわれる。この伝説は浄土真宗関係者が広めたといわれる。

ちなみに当地は「硯石地区」(昔の小字)と言い、硯石が地名になっている。

硯石 (3)
上部はよく見えず、凹みはあるが水が溜まるほどなのか分からなかった。

ところで、硯石は数年前までは地中に埋もれ、その上部がわずかに見える程度であった。硯石がある土地は渋川市の市有地であるが草木が伸び放題で、特に管理をしていなかったようだ。

現在は草木が刈られ整地もされ、しかも硯石が地表上に出ている。令和元年(2018年)7月に掘り出されている。これにはいろいろ経緯があるようなので詳報しないが、市有地を正式な手続き無く掘ったやら、埋め戻す義務があるとか無いとかで揉めているようだ。


富岡市宮崎の華鶏山桃林寺。

桃林寺 (1)
桃林寺は天正19年(1591年)松平右京太夫家治の開基、開山は下丹生村・永隣寺住職の春慶和尚である。松平家治は奥平信昌の次男で、徳川家康の養子となったため松平姓を与えられている。

家治の母(信昌の正室)は徳川家康の長女・亀姫であり、その血筋から養子に求められたと考えられている。家治は天正8年(1579年)生まれで、8歳の時に養子になったが天正20年(1592年)に13歳で亡くなっている。

天正19年に家治は12歳のため、実質的には桃林寺は父である信昌の開基と考えられる。信昌が宮崎に3万石を得たのは天正18年なので。

桃林寺 (2)
桃林寺 (3)
門前の石仏・石塔と六地蔵。

桃林寺 (4)
桃林寺は再三火災に遭っており、古記録などは焼失している。本堂前の燈籠は平成15年(2003年)の奉納。

桃林寺 (5)
本堂前の宝篋印塔。開基・松平家治の墓と伝えられている。寛政2年(1790年)に小幡藩主・松平忠福が建立したとされる。没年と年代的にズレがあるが、墓碑を新たに建立したのか供養塔として建立したのかは不明。

松平忠福は奥平松平家(家治の末弟・忠明が、家治の死後に家康の養子となり松平を名乗っている)の忠尚系と呼ばれる家系。

家治の墓に関しては、昭和3年(1928年)刊の「北甘楽郡史」には「遺骸はなしと伝わる」とあるが、寛政年間(1789~1801年)に江戸幕府が編修した大名や旗本の家譜集である「重修家譜」には「家治を桃林寺に葬る」とある。真偽はいかに?


富岡市曽木の神明宮。

曽木神明宮 (1)
曽木神明宮の由緒は不詳。伝わるところでは、伊勢神宮の大宮司政所職の橘朝臣秀葽が授けた「黄色の座玉」を祀ったのが始まりとされる。

式年遷宮の際に取り壊された古宮の高欄の「五色の座玉」のひとつみたいだ。橘秀葽の家に秘蔵されていたもの。秀葽が当地に下向してきた際に、曽木村の人々の神を敬う気持ちの篤さから授けたといわれる。ただ、秀葽がいつ頃の年代の人なのかは分からない。

曽木神明宮 (2)
鳥居横の大燈籠は大正10年(1921年)の奉納。

曽木神明宮 (5)
社殿前の狛犬は昭和42年(1967年)の奉納。

曽木神明宮 (3)
曽木神明宮 (4)
社殿は元禄16年(1703年)、天明3年(1783年)に再建に記録が残る。現在の拝殿は明治2年(1869年)の建立。本殿は昭和61年(1986年)に改修されている。

曽木神明宮 (6)
曽木神明宮 (7)
境内社。八幡宮、春日神社、琴平神社、阿夫利神社など。

曽木神明宮 (9)
従軍記念碑。昭和41年(1965年)の建碑。従軍記念とあるが、日清戦争以降の戦没者慰霊碑。


富岡市富岡の大虎山栖雲寺。

栖雲寺 (1)
栖雲寺 (2)
栖雲寺は寛永4年(1627年)長翁全孫和尚の開山。山門の扁額は「古叢林」(こそうりん)。歴史の古い(長い)大きな禅宗の寺院といった意味。

栖雲寺 (3)
門前の「御虎石」。虎御前が建てたという供養塔。享徳元年(1452年)に古崖聖来という者が当地から発掘したとされる。栖雲寺の創建以前よりあることになる。この御虎石が山号の大虎山の由来となっている。それにしても大きい。

虎御前とは鎌倉時代初期の遊女。富士の巻狩りの際に起こった曾我兄弟の仇討ちで知られる曾我祐成の妾とされる。「吾妻鏡」にも登場することから、実在の女性と考えられている。日本各地に虎御前の伝承と結び付けられた石が存在する(大磯町、足柄峠、大分市など)。

*資料によっては「虎御石」と表記されているものもあり。

栖雲寺 (4)
門前の六地蔵。昭和38年(1963年)の造立。

栖雲寺 (5)
栖雲寺 (6)
本堂の建立年は分からないが、昭和28年(1953年)に瓦葺きに改修している。

栖雲寺 (7)
栖雲寺 (8)
梵鐘は天明2年(1782年)の鋳造だが先の大戦中に供出。現在の梵鐘は再鋳造。半鐘は寛延2年(1749年)鋳造で、供出を免れ消防団詰め所の警報用として使用されていた(現在も使用されているかは不明)。

栖雲寺 (9)
栖雲寺 (10)
境内の薬師堂。薬師如来像の由緒は明らかではないが、栖雲寺開創以前から当地に祀られていたとされる。お堂は平成11年(1999年)の再建。

栖雲寺 (11)
栖雲寺 (12)
薬師如来と脇侍の日光・月光菩薩の三尊。ちょっとイメージが違うほどの金ピカ。弘安4年(1281年)作との説もあるようだが。別物かな。

栖雲寺 (13)
観音菩薩像の地下が合祀墓(霊廟)になっている。檀家の方が平成19年(2007年)の造営している。

栖雲寺 (14)
江戸期に当地を領していた旗本・筧源左衛門保寿の墓。栖雲寺に多くの寄進をしており、中興開基とされている。筧氏や源左衛門保寿のことはよく分からないが、保寿は寛政元年(1789年)に没しているようだ。

栖雲寺 (15)
保寿の母親の墓。保寿が安永2年(1773年)に建立したとの銘がある。

栖雲寺には筧氏が奉納したという金銅製の聖観音像(約15cm)が寺宝となっている。唐の代宗皇帝が光明皇后に贈ったものだという。こんなすごい物を、なぜ江戸時代の旗本が持っていた? 事実なら国宝級だね。


富岡市富岡の諏訪神社。

富岡諏訪神社 (1)
富岡諏訪神社は信濃国の諏訪大社より分霊を勧請し、宮崎村(現、富岡市宮崎)に創建(創建年などは不詳)。おそらくは西上州が武田信玄の支配下になった永禄9年(1566年)から天正10年(1582年)の武田氏滅亡あたりまでではないかな。

慶長17年(1612年)宮崎村(現、富岡市宮崎)から現在地に遷座している。鳥居は明治39年(1906年)の建立。

富岡諏訪神社 (2)
狛犬は昭和9年(1934年)の奉納。

富岡諏訪神社 (3)
富岡諏訪神社 (4)
富岡諏訪神社 (5)
社殿は昭和9年(1934年)に改修されている。この昭和9年は昭和天皇御臨席のもと、陸軍大演習が高崎練兵場で行われている。その後天皇は群馬県内を巡行されている。これに合わせての改修のようだ。

富岡諏訪神社 (6)
富岡諏訪神社 (7)
拝殿正面の向拝には精緻な龍と神子、木鼻には獅子・漠などの彫刻が施されている。

富岡諏訪神社 (8)
拝殿に弓矢の奉納額が掲示されているが、文字は薄れて読めない。いつころのものだろうか。

富岡諏訪神社 (9)
富岡諏訪神社 (10)
大国神社、神明宮、琴平神社。3社相殿になっているようだ。神明宮は明治11年(1878年)に伊勢皇大神宮からの勧請。琴平神社は明治2年(1869年)海源寺から遷されている。大国神社は不明。

富岡諏訪神社 (11)
富岡諏訪神社 (12)
社名は不明だが、見事な彫刻が施されている。

ところで、富岡市の中心街の再開発なのか道路整備(拡張)などが進んでおり、国道254号の旧道脇にあった朱色の一の鳥居がなくなっていた。撤去? 移転? 参道もローソンの駐車場になった?

もともと七日市藩前田家の防衛上の観点から既存道路は狭隘だった。254号(旧道)ではクランク状になっているところもあるほどだ。富岡製糸場が世界遺産に登録され、上州富岡駅周辺の回遊性と駅利用者の利便性の向上を図る意味でも、確かに中心街の整備は必要だと思うのでやむを得ないかな。


安中市松井田町小日向の日枝神社。

小日向日枝神社 (1)
小日向日枝神社の由緒は不詳。

小日向日枝神社 (2)
小日向日枝神社 (3)
一の鳥居からしばらく参道(一般道)を進むと、朱色の二の鳥居が見えてくる。二の鳥居は平成24年(2012年)に修復されている。

小日向日枝神社 (4)
小日向日枝神社 (5)
石段を上ると境内。狛犬は平成11年(1999年)の奉納。

小日向日枝神社 (6)
燈籠は明治期の奉納。紀年銘の一部が読めず。明治◯2年で、◯部は廿(二十)か卅(三十)だと思うが。後ろに見えるのは割拝殿だと思うが、現在は社務所として使っているようだ。

小日向日枝神社 (7)
小日向日枝神社 (8)
小日向日枝神社 (9)
拝殿は鮮やかな朱色に彩らされている。

小日向日枝神社 (10)
小日向日枝神社 (11)
小日向日枝神社 (12)
境内社の琴平神社、稲荷神社、菅原神社(上から)。いずれも明治初年に日枝神社に遷されている。みな立派な鳥居が建っている。旧社地から移転したのだろうか。他に諏訪神社、秋葉神社、八坂神社などもがある。

小日向日枝神社 (13)
小日向日枝神社 (14)
小日向日枝神社 (15)
同じく境内社の「大通龍大権現」。下の病に御利益があるとされる地域での信仰が元になっているお社。上野(小字)に祀られていたが、他の境内社と同じく明治初年に日枝神社に遷されている。

祀られた経緯(由緒)には、やはり下に関する悲しいような、ちょっと微妙な逸話が残されているようだが、ここでは省く。

小日向日枝神社 (16)
立派な木祠(本殿)の手前に石製や木製の男根をかたどった造形物が並んでいる(ちょっと分かりづらい写真で申し訳ないが)。願を掛け病が治ったらお礼参り時に木や石で男根を作り奉納するのが習わし。


安中市松井田町下増田の義人・潮藤左衛門の墓。

義人・潮藤左衛門 (1)
潮家墓地の潮藤左衛門と奥方の墓。

元禄15年(1702年)に安中に移封された内藤丹波守政森は、新田開発を行いながら重税(年貢・課役)を強いたため領民の不満は大きかった。享保(1716~36年)のころには浅間山の噴火や天候不順による凶作が続き、農民の窮状は過酷を極めた。

享保12年(1727年)には領内21ヶ村の名主・組頭が藩に対して幾度となく年貢課役減免の要請を行った(安中藩での百姓一揆、年貢減免運動などと呼ばれる)。藩は一部譲歩したが、下増田下村名主・潮藤左衛門は納得せず、江戸に向かい幕府への直訴の機をうかがっていた。

しかし安中藩御用の捕り手に捕縛されてしまった(直訴未遂)。そして享保13年(1728年)6月29日、増田川河原にて打ち首に処せられた(妻子も同罪とされた)。

藤左衛門夫妻の墓が建てられたのは、処刑から42年後の明和7年(1770年)のことである。寛延2年(1749年)に内藤家が安中から三河挙母に移封されたことも大きな要因だと考えられる。

義人・潮藤左衛門 (2)
義人・潮藤左衛門 (3)
潮家墓地から100mほど増田川の方へ向かうと、地域の方々が建立した藤左衛門の「義人 潮藤左衛門散華の地」碑がある。平成15年(2023年)の建立。

義人・潮藤左衛門 (4)
顕彰碑には、時代背景やことの顛末などが記されている。

義人・潮藤左衛門 (5)
現在の増田川。当時とは川の流れも変っているだろうが、今も静かに流れている。

藤左衛門処刑後、安中藩はこれに続く人物の出ることを恐れ、その行動を口にすることを禁止するとともに、その記録(文書)を焼き捨てたとされる。そのため藤左衛門に関する記録は断片的にしか残っていない。


安中市松井田町下増田の磯貝雲峰の碑。

磯貝雲峰の碑 (1)
詩人・磯貝雲峰は慶応元年(1865年)旧九十九村下増田(現、安中市松井田町下増田)に生まれる。本名は内田由太郎。後に母方の実家(磯貝家)の養子となる。幼少より勉学を志し同志社大に学び、在学中に文学に目覚める。筆名の雲峰は妙義山の白雲山からつけたといわれる。

「女学雑誌」「国民之友」などに詩歌、訳詩、小説、評論を発表。明治28年(1895年)に渡米。帰国後も中央文壇で活躍したが、明治30年(1897年)32歳で死去。代表作は「知盛卿」。

磯貝雲峰の碑 (2)
昭和15年(1940年)にラジオ番組で雲峰の業績が取上げられ、これを聴いた甥で海軍大佐の内田一太郎が徳富蘇峰(徳冨蘆花の兄)に撰文を依頼し生家近くに建碑したもの。昭和16年(1941年)のこと。

碑は表側に雲峰の業績など、裏側には詩文が記されている。また、この碑石は松井田城の銘石「亀石」と呼ばれたものといわれる。

磯貝雲峰の碑 (3)
碑の脇に立っている案内板。碑は安中市(旧松井田町)の重要文化財になっているので、その解説が書かれているのかと思ったら、「碑を大切にしましょう」的なことが書かれた注意書きだった(苦笑)。

まあ、確かに「文化財は大切にしましょう」だけどね。

関連
 「詩人 磯貝雲峰の墓・慶光山自性寺


安中市松井田町下増田の貴船山増国寺。

増国寺 (1)
元亨2年(1322年)法印慶弘の開山で天神坊覚性寺として創建。後に貴船山満昌寺と改称。寛政6年(1794年)火災のため堂宇並びに古記録を焼失。そのため中興(寺号改称)の経緯などは不明。

明治40年(1907年)国衙村の自性寺と合併、増国寺と号している。これは下増田村の「増」と国衙村の「国」から取っている(合併時は既に町村制が施行され、両村は九十九村になっていたが)。

増国寺 (2)
増国寺 (3)
石段の両脇には石仏・石塔類が並んでいる。

増国寺 (4)
本堂などは明治43年(1910年)ころ火災により焼失。昭和6年(1931年)に再建されている。昭和54年(1979年)に銅板葺き屋根に改修している。

増国寺 (5)
境内の六地蔵。

増国寺 (6)
増国寺 (7)
青面金剛塔・庚申塔や宝塔。庚申塔類は寛政(1789~1801年)、文化(1804~18年)の造立が多い。


安中市松井田町下増田の津雲神社。

津雲神社 (1)
津雲神社 (2)
津雲神社は元は菅原神社で、その創建は元禄7年(1694年)とされる。明治40年(1907年)に大字国衛の朝日神社とその境内末社2社を合祀し、津雲神社と改称している。

津雲神社 (3)
燈籠は崩壊していた。

津雲神社 (4)
津雲神社 (5)
津雲神社 (6)
明治時代(菅原神社の時)に火災で焼失している。現在の社殿の建立年などは分からない。

津雲神社 (7)
元菅原神社(ご祭神・菅原道真)だけあって、絵馬やおみくじが結ばれている。絵馬には人物が描かれているが、菅原道真だろうか。

津雲神社 (8)
津雲神社 (9)
津雲神社 (10)
北側(北東かな)にも鳥居があり、こちら側からだと急な石段を上っていくことになる。実はこちらから上って行った。

ところで、明治40年に合祀された朝日神社のご祭神は木曽義仲である。義仲は津雲神社のご祭神(相殿)でもある。群馬県内には木曽義仲や父の木曽義賢の事蹟や伝説が多数残されているが、旧松井田町との繋がりはどのようなものだろうか? 領地として納めていたのか、落ち武者伝説的なものなのか。ちょっと興味がある。


安中市松井田町上増田の八坂神社。

上増田八坂神社 (1)
上増田八坂神社 (2)
上増田八坂神社は寛文4年(1664年)の創建と伝わる。明治10年(1877年)に村内の大山祇神社、諏訪神社、浅間神社、神明宮などを合祀、大正8年(1919年)にも熊野神社、愛宕神社、白山神社などを合祀している。

上増田八坂神社 (3)
急な石段を上っていく。

上増田八坂神社 (4)
割拝殿のように見えるが、実は神楽殿。正面から写真を撮るのを忘れた。手前の燈籠は享和元年(1801年)の奉納。

上増田八坂神社 (5)
拝殿へは更に上る。

上増田八坂神社 (6)
上増田八坂神社 (7)
社殿は昭和4年(1929年)に火災で焼失、翌5年(1930年)に再建されている。

上増田八坂神社には獅子舞(三国判官流)が伝承されている。一人が一体を担当する一人立ち獅子を特徴とし、三体の獅子と狐のオトウカが登場する。上増田の獅子舞は清楚で優雅だといわれる。

↑このページのトップヘ