上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

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渋川市赤城町持柏木の赤城神社。

持柏木赤城神社 (1)
持柏木赤城神社の由緒は不詳。明治40年(1907年)に旧持柏木村内(当時は横野村)の神明宮、大山祇神社、鹿島宮などを合祀している。

灯籠は文政13年(1830年)の奉納。

持柏木赤城神社 (2)
持柏木赤城神社 (3)
石段を上ると一の鳥居。天明2年(1782年)の建立。

持柏木赤城神社 (4)
鳥居の扁額が横書き。数多くの神社に行ってきたが、初めて見たような気がする。ちょっと日差しの関係で写真が見づらくて申し訳ないが、そのまま書くと「社神城赤」とある。

持柏木赤城神社 (5)
参道というか畑(休耕)の中というかを行く。この写真を見ると相当山の中を想像するかもしれないが、そんなことはないので(念のため)。

持柏木赤城神社 (6)
持柏木赤城神社 (7)
二の鳥居。手前に一本道が横切っている。

持柏木赤城神社 (8)
持柏木赤城神社 (9)
持柏木赤城神社 (10)
社殿の建立などは不明。なお、当地は旧神明宮の社地である。

持柏木赤城神社 (11)
拝殿の横にも入り口がある。元々は舞台だったのかもしれない。

持柏木赤城神社 (12)
持柏木赤城神社 (13)
社殿裏側の鳥居。寛政3年(1791年)の建立。

持柏木赤城神社 (14)
松尾芭蕉の句碑。芭蕉が元禄7年(1694年)に詠んだ「松杉を ほめてや風の かをる音」。持柏木出身の俳人(文人)・狩野花交の建碑。

持柏木赤城神社 (15)
狩野花交の句碑。「雨晴れて 寒さの残る 梢かな」。弟子たちが花交の23回忌に際し建碑したもの。狩野花交は「庚申塚の道しるべ」の道歌の作者。また、弟子たちが建てた筆子塚(供養塔)が極楽院にある。

狩野花交 関連
 「渋川市赤城町持柏木・庚申塚の道しるべ
 「渋川市赤城町持柏木・柏木山極楽院


渋川市赤城町持柏木の柏木山極楽院西善寺。

極楽院 (1)
極楽院は応永3年(1396年)臨済宗の僧・義禀の開創。義禀が諸国巡錫のおり眼病に苦しんでいたところ、当地で目を洗ったら治癒したという。そこで堂宇を建立し、本尊に薬師瑠璃光仏を安置したとされる。寛永元年(1624年)16世・寂翁 のとき、天台宗に改宗している(寂翁を中興開山としている)。

極楽院 (2)
本堂などは宝永5年(1708年)落雷にて焼失、宝永7年(1710年)に再建されている。その後寺勢が傾き、昭和31年(1956年)に遂に取り壊しとなった。跡地には仏堂兼公民館が建設され現在に至っている。

天台宗の公式HPで寺院検索を行なうと極楽院が出てくるので、寺院として存続しているようだ。本尊仏などは公民館内に安置されているのだろうか?

極楽院 (3)
極楽院 (4)
山門前の六地蔵石幢。

極楽院 (5)
百万遍念仏供養塔。これは狩野花交の弟子たちが建てた筆子塚になる。慶応2年(1866年)の建立。寺子屋の生徒のことを「筆子」と言ったため。狩野花交は持柏木出身の文人・俳人。「庚申塚の道しるべ」の道歌の作者。
(「渋川市赤城町持柏木・庚申塚の道しるべ」参照)

極楽院 (6)
石仏が並んでいるが、双対道祖神が2体あった。右のものは宝暦12年(1762年)の造立。

極楽院 (7)
公民館の裏(少し高くなっている)に歴代住職の墓域がある。そこにも石仏・石塔類(地蔵像、観音像、青面金剛塔、念仏供養塔など)が多く建っている。元禄(1668~1704年)、享保(1716~36年)、延享(1744~48年)、宝暦(1751~64年)の銘が確認できた。


渋川市赤城町持柏木の庚申塚の道しるべ。

庚申塚の道しるべ (1)
庚申塚の道しるべは、元はすぐ前の旧沼田街道六叉路の中央に埋め込まれていたもの。昭和37年(1962年)に道路改修工事のため、現在の庚申塚上に移設されている。庚申塚上に移設されたので「庚申塚の道しるべ」となっていると思われるが、本来の「旧沼田街道の道しるべ」の方がふさわしいと思うけど。

庚申塚の道しるべ (2)
安山岩の表面を円形に平たく磨き、そこに道しるべとしての情報が刻まれている。中心に「心」の文字、その周りに方位、その外側に「赤城三里半 日光十八里余 前橋三里半 高崎六里余 榛名六里 沼田五里半」と六方面の行き先と道程が放射状に刻まれている。

その外周には「よつの方 むつのちまたにわかるれど こころしづかにたづねてぞゆけ」との道歌が刻まれている。道歌の作者は、当地の文人で俳人である狩野花交(周兵衛)。花交の没年は慶応2年(1866年)なので、沼田街道への道しるべの設置(埋め込み)は幕末と考えられる。

庚申塚の道しるべ (3)
現物は「心」は分かるのだが、他は「何か文字がある」くらいになってしまっているので、詳細は案内板の図から。

庚申塚の道しるべ (4)
現地では五叉路にしか見えなかったのだが、帰ってきてから地図を再確認したところ、細い道がもう一本あり確かに六叉路になっていた。

「庚申塚の道しるべ」は渋川市(旧赤城村時代から)の重文に指定されている。渋川市の解説文では、狩野花交は道歌の作者と書かれているだけで、道しるべ自体の作者とはなっていない。しかし横野村誌には、道しるべ自体を花交が作ったと書かれている(横野村は持柏木地区が含まれる旧村。敷島村と合併し赤城村となっている)。


渋川市北橘町八崎の赤城神社。

八崎赤城神社 (1)
八崎赤城神社 (2)
八崎赤城神社の由緒は不詳。平将門の乱時、平貞盛が戦勝祈願を行ったとの記録があり、当時既に創建されていたと考えられる。平将門の乱は承平5年(935年)から天慶3年(940年)。明治40年(1907年)村内の琴平宮、日枝神社、大山祗神社などを合祀している。

鳥居は昭和58年(1983年)の建立。

八崎赤城神社 (3)
社殿前の灯籠は昭和3年(1928年)の奉納。平成23年(2011年)に修復されている。

八崎赤城神社 (4)
狛犬は昭和14年(1939年)の奉納。

八崎赤城神社 (5)
八崎赤城神社 (6)
社殿は戦乱や火災などに罹災、その都度再建されている。現在の社殿は明治26年(1893年)の建立。

八崎赤城神社 (7)
八崎赤城神社 (8)
神輿庫。神輿はビニールに包まれていた。

八崎赤城神社 (9)
境内社末社群。地神社、春日神社、八坂神社など。

八崎赤城神社 (10)
八崎赤城神社 (11)
社殿裏側の鳥居。享和元年(1801年)の建立。この鳥居は橘北小との境界(壁)側を向いている。昔はこちら側にも参道があったのだろう。

境内に平貞盛が戦勝祈願に植えたとされる大杉があったという。明治27年(1894年)には切り株が残っていたというが、現在はそれらしきのもはない。


渋川市北橘町分郷八崎の八幡宮。

分郷八崎八幡宮 (1)
分郷八崎八幡宮 (2)
分郷八崎八幡宮の由緒は不詳。天正年間(1573~92年)に不動山城主・長尾氏の崇敬が厚かったとされるので、創建はそれ以前となる。明治41年(1908年)に村内の神前神社、神明宮、諏訪神社などを合祀している。

一の鳥居は村道改良工事のため平成11年(1999年)現在地に移動のうえ新規建立。

分郷八崎八幡宮 (3)
旧鳥居の扁額が保存されている。ちなみに、旧鳥居は昭和9年(1934年)の建立だったようだ。

分郷八崎八幡宮 (4)
分郷八崎八幡宮 (5)
二の鳥居をくぐり石段を上っていく。分郷八崎八幡宮は山の西斜面に鎮座している。

分郷八崎八幡宮 (6)
分郷八崎八幡宮 (7)
分郷八崎八幡宮 (8)
社殿の建立年などは不明。平成22年(2010年)に改修されている。

分郷八崎八幡宮 (9)
境内社の秋葉神社。石宮は宝暦8年(1758年)の造立。

分郷八崎八幡宮 (10)
半分土に埋まっている石宮があった。詳細不明。

分郷八崎八幡宮 (11)
分郷八崎八幡宮 (12)
分郷八崎八幡宮 (13)
手水舎には奥側から湧き水を引いているようだ。以前は清水として飲む人もいたみたいだが、令和4年(2022年)の水質検査では「飲用不適合」だったようだ。


渋川市北橘町下南室の金刀比羅宮。

下南室金刀比羅宮 (1)
下南室金刀比羅宮の由緒は不詳。口碑では下南室赤城神社と同じころの創建と伝わる。赤城神社の創建は大同2年(807年)とされているので、口碑通りなら金刀比羅宮も相当の古社となる。(赤城神社は「渋川市北橘町下南室・赤城神社」参照)

下南室金刀比羅宮 (2)
十二山(標高350m)の山頂に鎮座しているため、ちょっとした山登り(言いすぎかな)になる。参道は整備されているが、それなりに足には堪える。

下南室金刀比羅宮 (3)
社殿は昭和63年(1988年)の建立。

下南室金刀比羅宮 (4)
下南室金刀比羅宮 (5)
猿田彦大神の石塔と石宮。石宮には文政5年(1822年)の銘があった。境内に諏訪社の石宮があるとのことなので(北橘村誌)、これかもしれない。

十二山というくらいだから、元々は十二宮社が祀られていたのかもしれない。一般的には山の神信仰で、山々に宿るとされる「十二柱の神様」を祀っている場合が多い。


渋川市北橘町上南室の南室山正善寺。

正善寺 (1)
正善寺は嘉暦元年(1326年)僧・一空の開基、創建と伝わる。元和2年(1616年)僧・円道が中興、天台宗に改宗したとされる。創建年から旧北橘村最古の寺院となる。明治初年に現在地に移転したという。

正善寺 (2)
正善寺 (3)
門柱の表札は「天台宗 南室山正善寺」と「上南室農業者研修施設」の2枚が掛かっている(ちょっと見づらいが)。

正善寺 (4)
正善寺はたびたび火災に見舞われており、特に大正12年(1923年)の大火では本堂・建物・什宝などもほとんど焼失している。このとき、檀家の方が炎の中からご本尊(釈迦如来像)を救出したという。

庫裏は地区の集会所となっていたが、昭和55年(1980年)に地域農政特別整備事業の一環として、本堂兼用の上南室農業者研修施設が建設され現在に至っている。

正善寺 (5)
正善寺 (6)
境内(というか庭なのか)にはブランコや滑り台などの遊具が設置されている。

現在の北橘町上南室と下南室は、往事は一村(南室村)であったが天正年間(1573~92年)に上・下の二村に分かれたとされる。分村の理由は定かではないが、何か事件があり紛争になったからとされる。分村する際、上南室は寺(正善寺)を取り、下南室は二叉の堤を取ったのだという。

正善寺は当時は下南室村内にあったが、上記のように上南室村のものとなったため、寺一帯は上南室村の飛び地となっていた。明治5年(1872年)に当時の住職が入寂し無住となったため、その後現在地へ移転したとされる。

その際に寺関係の遺物(僧侶の墓や仏塔・石仏類)を遷したのが、上南室赤城神社の社殿脇にある仏教系遺物のようだ。(「渋川市北橘町上南室・赤城神社」参照)


渋川市北橘町上箱田の神明宮。

上箱田神明宮 (1)
上箱田神明宮 (2)
上箱田神明宮の由緒は不詳。明治41年(1908年)に村内の諏訪神社を合祀している。

上箱田神明宮 (3)
上箱田神明宮 (4)
高台の南面に参道があるので、けっこう急な石段を上っていく。途中の灯籠は大正9年(1920年)の奉納。

上箱田神明宮 (5)
二の鳥居。

上箱田神明宮 (6)
上箱田神明宮 (7)
社殿は大正9年(1920年)の建立。平成20年(2008年)8月の集中豪雨で被害を受けたが、すぐに地元の方々の浄財で復旧・修復されたようだ。それだけ地元の方々の崇敬を受けているということ。

上箱田神明宮 (8)
上箱田神明宮 (9)
皇居と伊勢神宮方面を示す方向板があり、遙拝できるようになっている。ただ、形状がどちらを指しているのか分かりづらい。


渋川市北橘町小室の三柱神社。

三柱神社 (1)
三柱神社 (2)
三柱神社は元は赤城神社で、貞享3年(1686年)三夜沢赤城神社からの勧請と伝わる。明治41年(1908年)に八幡宮、白山神社を合祀、三柱神社と改称している。

三柱神社 (3)
社殿前の灯籠は明治16年(1883年)の奉納。

三柱神社 (4)
三柱神社 (5)
三柱神社 (6)
社殿は大正8年(1919年)の建立。

三柱神社 (7)
境内社の雷電神社。

三柱神社 (8)
双体道祖神には安永3年(1774年)の銘があった。

三柱神社 (9)
三柱神社 (10)
境内東側の鳥居。

なお、北橘町箱田の木曽三柱神社とは別神社である。


渋川市北橘町真壁の愛宕神社。

真壁愛宕神社 (1)
真壁愛宕神社 (2)
元は愛宕山十輪寺という神仏混淆のお寺であった。十輪寺が迦具土命(火産霊)を祀っていたが、明治初年の神仏分離・廃仏毀釈より廃寺となっている。山門は取り壊され仁王像は渋川市・良珊寺へ、本尊は旧赤城村・興禅寺に移されている。現在は真壁上多目的研修会施設(地区の集会所)となっている。

十輪寺廃寺後、迦具土命(火産霊)を祀る愛宕神社として整備されている。鎮座地は愛宕山と呼ばれる丘くらいの山頂である。鳥居は平成15年(2003年)の建立。

真壁愛宕神社 (3)
杉木立の中、緩やかに登っていく参道。

真壁愛宕神社 (4)
社殿前の灯籠は平成8年(1996年)の奉納。

真壁愛宕神社 (5)
真壁愛宕神社 (6)
社殿は平成15年(2003年)に整備改修されている。

真壁愛宕神社 (7)
真壁愛宕神社 (8)
境内社・末社の三峰神社、竈神社、疱瘡神社、熊野神社、雷電神社など。

真壁愛宕神社 (9)
神仏混淆時代の唯一の名残かな。

愛宕神社は愛宕山の南面に参道があるが、その東面と北面は「愛宕山ふるさと公園」となっている(西側は北橘中)。

愛宕山ふるさと公園 (1)
太陽をイメージしたモニュメントがシンボルのようだ。夏場は水が流れ、小さい子らが水遊びもできる。

愛宕山ふるさと公園 (2)
園内の水車小屋。しかし水が流れていないので、水車は回っていなかった。水を流すこともあるのかな?

愛宕山ふるさと公園 (3)
愛宕山ふるさと公園 (4)
ロングローラーすべり台やブランコ、ザイルクライミングなどの遊具もあるので、子どもを遊ばせるものにも良い。また、四季折々の草花が楽しめるので散策してもいいし、のんびり真壁調整池の野鳥を眺めてもいいかな(双眼鏡もあるし)。


渋川市北橘町真壁の厳島神社。

真壁厳島神社 (1)
真壁厳島神社の由緒は不詳。明治42年(1909年)に真壁赤城神社に合祀されたが、大正末期に分祀・再建されている。その際、名称を弁財天宮から厳島神社と改称している。

真壁厳島神社 (2)
真壁厳島神社 (3)
鳥居は昭和45年(1970年)の建立。扁額は「厳嶋神社」。安芸厳島神社のように水面に映る鳥居は綺麗だ。

真壁厳島神社 (4)
社殿側から見た鳥居。こちら側にも扁額が付けられている。「伊都岐島神社」。

真壁厳島神社 (5)
真壁厳島神社 (6)
真壁厳島神社 (7)
社殿は分祀時の建立。社殿前は数メートルですぐ池。

真壁厳島神社 (8)
厳島神社の後ろ側は真壁東多目的集会施設。ここは元北橘村の初代役場があったところ。明治22年(1889年)の北橘村誕生から明治37年(1904年)まで15年間役場であった。その後は現在まで地区の集会所となっている。


渋川市北橘町真壁の神現山泉城寺跡。

泉城寺跡 (1)
泉城寺の由緒は不詳。上杉謙信の家臣で厩橋城主であった北条高広が元亀2年(1571年)に出した書状に「泉浄寺」の名が見え、これは泉城寺とされる。そのため戦国期以前の創建と考えられる。真壁赤城神社の別当寺であったが、明治初年の神仏分離(廃仏毀釈)により廃寺となっている。

泉城寺跡 (2)
泉城寺跡 (3)
歴代法印供養塔と歴代住職の墓と思われる無縫塔。

泉城寺跡 (4)
泉城寺跡 (5)
供養のための石仏。塔婆もあることから、どこかのお寺で法要(供養)を行っているようだ。

泉城寺跡 (6)
五輪塔など、石塔の一部。寺院跡であることを思い偲ばせる。

泉城寺跡 (7)
「真壁小学校跡」の標柱。当地に明治7年(1874年)に真壁学校が置かれている。明治6年(1873年)の真壁村の記録に泉城寺は記載されていないので、廃寺になった後に学校が置かれたようだ。

泉城寺跡 (8)
榛名山をバックに佐久発電所の「サージタンク」がよく見える。とにかく見晴らしが良い。

旧北橘村は廃仏毀釈運動が強力に押し進められたらしく、現存するお寺は4寺しかない。真壁地区は5寺の記録が確認できるが、現在は桂昌寺の1寺のみ。明治の一時期には全村が神葬祭になったと言われるほどだったようだ(もちろん、良い悪いの類いの話ではないが)。


渋川市北橘町真壁の蚕養(こがい)神社。

蚕養神社 (1)
蚕養神社 (2)
蚕養神社 (3)
蚕養神社は昭和31年(1956年)日立市の蚕養神社から分霊を勧請し、真壁厳島神社の社殿内に祀られた。その後、昭和35年(1960年)に真壁赤城神社境内に社殿を建立し遷座している。

養蚕が盛んであった当地の養蚕農家では、繭がたくさん採れることを願って講を作り、日立市の蚕養神社へ詣でていた。一方、つくば市の蚕影神社に詣でていた講もあり、両者が合流し橘豊蚕講(約800戸)となった。そこで日立市の蚕養神社から分霊を勧請しお祀りしたもの。

当地の養蚕農家が詣でていた蚕養神社・蚕影神社は、蚕霊神社(神栖市)と合わせ「常陸の三蚕神社」と呼ばれる。日立市(旧多賀郡豊浦町)には養蚕の起源とされる「金色姫」の伝説が残されている。

天竺・霖異大王の娘・金色姫が種々の理由により常陸国豊浦港に流れつき、姫は死後蚕になり繭を作ったとされる。そこで養蚕神として蚕霊山千手院星福寺に蚕の開祖として祀ったとされる(すっごい要約)。

他にも、孝霊天皇(第7代とされる)5年に稚産霊命が姿を現し、養蚕に関する神託を告げたので、里人は稚産霊命を日本最初蚕養の祖神として祀ったとの伝説もある(蚕養神社の始まりとされる)。


渋川市北橘町真壁の赤城神社。

真壁赤城神社 (1)
真壁赤城神社 (2)
真壁赤城神社の由緒は不詳。真壁城主・神谷三河守が神徳を深く崇敬したと伝えられる。明治41年(1908年)に大山祗神社、神明宮、稲荷神社、諏訪神社など、村内31社を合祀している。

真壁赤城神社 (3)
二の鳥居は朱色で木製。

真壁赤城神社 (4)
一の鳥居、二の鳥居前後の灯籠は天明7年(1787年)と昭和8年(1933年)の奉納。写真は二の鳥居奥(境内)の灯籠。

真壁赤城神社 (5)
真壁赤城神社 (6)
社殿の建立年などは不明。

真壁赤城神社 (7)
社殿前の狛犬は皇紀二千六百年とあったので、昭和15年(1940年)の奉納。

真壁赤城神社 (8)
祭神碑。祀られているご祭神が刻されている。豊城入彦命(赤城神社)から明治に合祀された31社すべて(と思う)。

真壁赤城神社 (9)
真壁赤城神社 (10)
境内社・末社(疱瘡神社、御嶽神社、葉酸神社など)と出羽三山塔や道祖神。

現在は桂昌寺(同じく北橘町真壁)に保管されているが、真壁赤城神社の本地仏(本地垂迹説での日本の神の本地とされた仏)とされる千手観音像は、鎌倉期か室町期の造立といわれる。これを考慮すれば、真壁赤城神社の創建はそれなりに古いと推定される。


渋川市北橘町真壁の長盛山桂昌寺。

桂昌寺 (1)
桂昌寺は元は水泉寺という律宗の寺院であったとされる(創建年などは不詳)。天正10年(1582年)に真壁城主・神谷三河守政律が半田村(現、渋川市半田)の龍伝寺2世・日山祐益を招き中興開山とし現在地に移転、曹洞宗に改宗している。

神谷三河守政律についてはよく分からないが、白井城主・長尾氏に仕えていたようだ。桂昌寺は神谷氏の居館であったともいわれる。

桂昌寺 (2)
石門は明治38年(1905年)に檀家の方が建造。

桂昌寺 (3)
桂昌寺 (4)
本堂は安政元年(1855年)、明治18年(1885年)に火災に見舞われている。特に安政の火災時は、本尊及び過去帳までも焼失している。本堂は明治35年(1902年)に再建されている。現在の本堂は近年の新築建立のようだ。

安政元年の火災時に住職であった13世・眠山宗龍は、燃えさかる本堂の中に端坐したまま寺と運命をともにしようとしたが檀徒に助け出されている。

桂昌寺 (5)
地蔵像などの石仏や仏塔類。

桂昌寺 (6)
聖徳太子塔。文化・文政年間(1804~31年)の造立。

桂昌寺 (7)
桂昌寺 (8)
梵鐘は享保12年(1727年)の鋳造であったが、先の大戦時に供出。昭和49年(1974年)に再鋳造している。

桂昌寺 (9)
除災観音。元は宮城県気仙沼市に鎮座していたが、東日本大震災時にたまたまかの地を離れており、難を逃れたことから除災観音と名付けたという。どういう経緯かは知らないが、桂昌寺に遷されている。

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