上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

Tigerdreamです。訪問ありがとうございます!
もうひとつのブログ「まったりとスペシャル系」も是非ご覧ください。


多野郡神流町柏木の柏木神社。

柏木神社 (1)
柏木神社は元は神明宮であり、その創建は天文年間(1532~55年)とされる。馬之丞と名乗る武士が落ち延びてきて柏木村に住み着き、次第に村内での勢力を伸ばしていった。馬之丞が伊勢国出身だったことから、伊勢の皇大神(天照大神)を勧請したといわれる。

大正3年(1914年)に村内の野栗神社・金山社・稲荷社・菅原社・諏訪社・金比羅社などを合祀し柏木神社となっている。地元の人たちは今も当社を「伊勢森」と呼んでいる。

柏木神社 (2)
柏木神社 (3)
柏木神社 (4)
社殿は明治25年(1892年)の神川村大火により焼失。翌26年に再建されている(棟札が残っている)。当時の祠掌(神職の職名)が社木を売って再建費用を捻出したという。

ちなみに、大火当時は神川村であった。明治21年(1888年)の市町村制施行時、万場村・柏木村・麻生村・生利村など8村が神川村となった。万場町となるのは大正15年(1926年)のこと。現在は平成15年(2003年)に中里村と合併し神流町。

柏木神社 (5)
拝殿から左側に別棟が繋がっている。見たことがない構造だ。中を見たら物置のような状態になっていた。

柏木神社 (6)
境内社。詳細不明。

当地に神明宮を勧請した馬之丞は、名主の新井家ともめ事が絶えなかった。結果的に名主に鉄砲で撃ち殺されてしまった。また、これが原因で名主の娘「お蝶」が谷底深くにあった小さな穴で育てられることになった。これが「お蝶ヶ穴」とされる。
(「神流町柏木・お蝶ヶ穴」参照)


多野郡神流町万場の神流川河川敷で開催された「鯉のぼり祭り」。

鯉のぼり祭り2026 (1)
神流町の「鯉のぼり祭り」がGW中の5月3日から5日まで開催され、約800匹の鯉のぼりが神流川の両岸に張られたワイヤーに掲げられた。

昭和56年(1981年)に旧万場町の有志団体が2本のワイヤーロープに鯉のぼりを100匹ずつ計200匹を揚げたのが始まり。その数は年を重ねる毎に8ラインにまで増え、昭和62年(1987年)には鯉のぼり800匹となっている。

鯉のぼり祭り2026 (2)
鯉のぼり祭り2026 (3)
鯉のぼり祭り2026 (4)
鯉のぼり祭り2026 (5)
約800匹の鯉のぼりが大空を優雅に泳ぐ風景は壮観だ。

鯉のぼり祭り2026 (6)
この辺りの神流川は川幅もまだ狭い。

神流町の鯉のぼりを見に行ったのはこれで3回目。タイトルは「鯉のぼり祭り2026」となっているが、実際に行ったのは5月7日(木)。つまり「お祭り」終了後。鯉のぼりの撤収は10日(日)なので、9日(土)までは普通に鯉のぼりが見られるのだ。

鯉のぼり祭り2026 (7)
色々な露店やワークショップなどによるお祭り気分は味わえないが、駐車場も空いているし見学者も少ないのでのんびり見られる。

コロナ前はアンパンマンや戦隊ヒーローショーがあったり、芸人やご当地アイドルのライブがあったりしたけど、コロナ開けから地味になってしまった。ただ、鯉のぼりを楽しむという本来の趣旨からすれば、露店程度で十分のような気がする。


高崎市吉井町岩崎の一石観音三尊立像と石造薬師如来立像。

一石観音三尊・石造薬師如来 (1)
観音三尊立像はかつて当地にあった薬師塚古墳(岩平村4号墳)の石室奥壁に刻まれていたものという。薬師塚古墳(岩平村4号墳)の詳細は不明。

一石観音三尊・石造薬師如来 (2)
一石観音三尊像。中央に主尊の観音菩薩立像(像高約75cm)、右脇侍に愛染明王(像高約53cm)、左脇侍に不動明王(像高約54cm)を配している。観音三尊自体が珍しい上、愛染明王と不動明王の脇侍の組合わせも極めて珍しいと言える。凝灰岩製で南北朝期の作とされる。

観音菩薩は頭に宝冠を乗せ、左手に花瓶を持つ。愛染明王は武具を付けている。不動明王は右目を見開き、右手に剣を持つ。これは高崎市の文化財情報に書かれている内容だが、実際には像容はまったく分からないほどに風化・損傷している。

平成元年(1989年)から2年(1990年)にかけて修復と覆屋の設置を行ったようだが、覆屋は小さくあまり効果がないように見える。

一石観音三尊・石造薬師如来 (3)
観音三尊の隣に石造薬師如来立像(像高約104cm)がある。右肩から左脇へ切り裂きがあり、地元では「袈裟切薬師」と呼ばれている。像容は頭部螺髪で厚肉彫りである。凝灰岩製で室町時代の作とされる。

観音三尊像、薬師如来像のどちらも風化・損傷が進んでいるので、小屋型の覆屋内に納めた方が良いと思う。どこの自治体でも文化財保護には、なかなか予算が付かないのが実情だけど。


藤岡市上栗須の赤城神社。

上栗須赤城神社 (1)
上栗須赤城神社 (2)
上栗須赤城神社の由緒は不詳。ご祭神は豊城入彦命以外に大穴牟遅命(大国主)・日本武尊・品陀和気命が祀られているので、八幡宮などが合祀されていると考えられる。

鳥居は宝暦12年(1762年)の建立。

上栗須赤城神社 (3)
鳥居前の庚申塔など。

上栗須赤城神社 (4)
鳥居から社殿まで長い参道が続く。新しい灯籠は平成16年(2004年)の奉納。参道脇は開発が進み、多くの住宅が建っている。

上栗須赤城神社 (5)
上栗須赤城神社 (6)
上栗須赤城神社 (7)
社殿は昭和63年(1988年)の改築。拝殿前の狛犬は平成元年(1989年)の奉納。

上栗須赤城神社 (8)
灯籠は天明8年(1788年)の奉納。灯籠は棹の中央部が絞られて(くびれて)いる。あまり見かけない形状だ。

上栗須赤城神社 (9)
境内末社の秋葉神社。

上栗須赤城神社 (10)
石宮(詳細不明)と仏塔が並んでいる。神仏混淆時代の名乗りかな。

上栗須赤城神社 (11)
ご神木(と思われる)巨木。知識がなく樹種は分からない。


午年 (1)
明けましておめでとうございます。
みなさまにおかれましては、健やかな新年をお迎えのこととお慶び申し上げます。

ブログ生活も17年目を迎える。「上州まったり紀行」「まったりとスペシャル系」の2本体制にしてから12年。HPも立ち上げから12年目。毎年ほぼ同じ感想になるが、良く頑張ってきたなと思う。

今年も「上州まったり紀行」で群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡などを紹介しつつ、「まったりとスペシャル系」は好き勝手書いていく。これを何とか続けられるようして行きたい。特に「上州まったり紀行」は昨年忙しくて訪問箇所がかなり減少したので、なんとか都合をつけたい。

また昨年大きな話題となった「クマ問題」。神社仏閣、遺跡・史蹟は山あいにあるところが多いので、気をつけたい(どんぐりなど、木の実が豊作でありますように)。

今年も「上州まったり紀行」「まったりとスペシャル系」「Tigerdream-NET」をよろしくお願いいたします。

みなさんにとって2026年が良い年となるよう祈念いたします。


2025年も残すところわずかとなった。恒例の「上州まったり紀行Award(アワード)」を発表して、1年の締めくくりとしたいと思う。

今年は64ヶ所(件)の記事をUPすることができた。これは「上州まったり紀行」を始めて16年になるが、過去最少となる。毎年150ヶ所以上訪問してきて、さすがにコロナ禍最中は110~120ケ所程度に減少していた。今年はさらにその半分になってしまった。

いろいろ理由はあるのだが、簡単に言うと「忙しかった」から。ほぼこれに尽きるのだが、強いてもうひとつ挙げると、昨今話題の「クマ」の心配もあったから(どうしても神社仏閣は山あいにあるところが多いので)。

そのため訪問市町村は、太田市・太田市(旧新田町)・太田市(旧尾島町)・藤岡市・神流町にとどまった(比較的山あいの神流町も5月の訪問だった)。

訪問箇所は少なかったが、もちろん記憶・印象に残った場所は多かった。では、2025年個人的偏見による印象に残った神社仏閣、遺跡・史跡です。造形や趣・歴史的価値などだけでなく、謂れが印象に残った場所も含む。

義平山清泉寺(太田市世良田町)
清泉寺には源義平(源義朝嫡男、源頼朝の長兄)の墓と伝わる石塔がある。正室の祥寿姫(新田義重娘)が秘かに上野国へ持ち帰り、埋葬した場所が当所とされる。真実性は別にして、新田莊の歴史も含め思いを馳せることができる。

生品神社(太田市新田市野井町)
生品神社は新田義貞が元弘3年(1333年)鎌倉幕府討伐の旗を挙げた地とされ、昭和9年(1934年)に「新田義貞挙兵伝説地」として国の史蹟に指定されている。新田義貞旗挙塚(はたごつか)跡や新田義貞床几塚(しょうぎつか)跡がある。

土師神社(藤岡市本郷)
土師(埴輪や土師器を製造する人々)が氏神として野見宿禰を祀ったのが始まりとされる。ご祭神の野見宿禰が當麻蹴速と闘ったのが相撲の起源とされており、その由緒から境内に「土師の辻」と呼ばれる相撲の土俵がある。

土師神社の流鏑馬
土師神社の秋の例祭には流鏑馬が奉納される。土師神社の参道は170mで流鏑馬を行うには少し短いので、通常3射のところ2射となる。しかし馬場と観客が近いため非常に迫力があり、スピード感を肌で感じることができる。

藤岡諏訪神社(藤岡市藤岡) 藤岡諏訪神社 その2
藤岡諏訪神社には、首相・陸軍大臣などを歴任した田中義一・ふみ子夫妻が奉納した「狛虎」がある(夫妻と書いたが、厳密にはふみ子夫人は正妻ではない)。また、藤岡市は絹市場として栄えていたため、三井越後屋が奉納した常夜灯・手水舎、宮神輿(2座)がある。

いち子岩(神流町船子)
平家の落人「いち子姫」にまつわる伝説のある巨岩である。寿永4年(1185年)壇ノ浦の合戦で破れた平家の縁者「いち子姫」は当地まで落ち延びたが、ついに追っ手に見つかってしまいこの岩から深い淵に身を投じたとされる。

万葉大吊橋(神流町黒田)
万葉大吊橋は神流川にかかる長さ89m・幅1.5mの吊り橋。橋板の中央を開けており、下部に張られた金網越しに神流川が見える。これがけっこう怖い。ただ、高いところが苦にならない人には、何も面白くないと思う。

今年も「上州まったり紀行」をご覧いただきありがとうございました。多くの方々にブログを見ていただき、感謝しかありません。2026年はなんとか時間を都合して、もう少し各地を訪問したいと考えているので、引き続きよろしくお願いいたします。みなさま、良いお年をお迎えください。


藤岡市神田の藤岡市防災公園。

藤岡市防災公園 (2)
藤岡市防災公園 (1)
藤岡市防災公園は令和3年(2021年)の開園で、災害時には避難場所となり救急活動の拠点・仮設住宅用地として活用される。通常は一般の公園として利用されている。開園依頼、まだ大規模災害の発生はないと思う。

藤岡市防災公園 (3)
藤岡市防災公園 (4)
「芝生広場」の入口にはコスモスがきれいな花を咲かせていた。

藤岡市防災公園 (5)
総面積は約4.1ヘクタール。「芝生広場」「遊具広場」「調整池」などから構成されている。

藤岡市防災公園 (6)
「芝生広場」は災害時には緊急避難場所やヘリポート、仮設住宅用地として活用される。面積は1.4ヘクタールで、サッカーコートが2面作れるサイズ。

藤岡市防災公園 (7)
奥(北東側)には築山がある。古墳の多い藤岡市なので、前方後円墳の形になっているのかと思ったがそうではなかった。

藤岡市防災公園 (8)
「幼児広場」は低年齢(幼児)向けの遊具が設置されている。ブランコや複合遊具は災害時には防災テントとして活用される。

藤岡市防災公園 (9)
藤岡市防災公園 (10)
藤岡市防災公園 (11)
「遊具広場」にはふわふわドーム、複合遊具、ジップラインなどがある。やはり一番人気はふわふわドーム。

藤岡市防災公園 (12)
噴水なのかな? あまり水が吹き出てはいなかったが。防災井戸が併設されている。

藤岡市防災公園 (13)
藤岡市防災公園 (14)
大人向けの健康器具。踏み板スイッチや腹筋台、足つぼマッサージなど。

藤岡市防災公園 (15)
藤岡市防災公園 (16)
ただのベンチかと思いきや、災害時には「かまど」として炊き出しに使える「かまどベンチ」。

藤岡市防災公園 (17)
防災公園の東西両側には「調整池」がある。災害級の大雨の際には、ここに貯水し住宅地などへの浸水被害を防止する役目を担う。普段はたただの窪地。写真は公園西側の調整池。

藤岡市防災公園 (18)
外周を歩いてみたら一周で7~8分くらいだったので、散歩にはちょっと短いかな(散歩としては3~5周くらいしないと物足りない)。東側は椿杜神社(藤岡市本郷)と接している。(椿杜神社は「藤岡市本郷・椿杜神社」参照)


藤岡市白石の藤岡歴史館。

藤岡歴史館 (1)
藤岡歴史館は平成16年(2004年)の開館で、市内で発掘された出土品などを収蔵・展示している。正式には「藤岡市埋蔵文化財収蔵庫」で「藤岡歴史館」は愛称となる。

藤岡歴史館は過去2回訪問している。1日目は平成22年(2010年)に白石稲荷山古墳や七輿山古墳を訪れた際、2回目は平成25年(2013年)に企画展「堀越二郎の軌跡」を見に行った時。今回は久しぶり(12年ぶり)となる。

藤岡歴史館 (2)
藤岡歴史館 (3)
常設展示室入ってすぐは「白石古墳群」(白石稲荷山古墳や七輿山古墳など)からの出土品が中心。白石稲荷山古墳出土の有名な家形埴輪はレプリカ(実物は東京国立博物館所蔵)だが、それ以外は実物が多く展示されている。

藤岡歴史館 (4)
単龍環頭大刀柄頭。6世紀後半の大刀ととも出土している。大刀も飾ってあったが金ピカのレプリカなので写真はなし。

藤岡歴史館 (5)
藤岡歴史館 (6)
藤岡歴史館 (7)
基本的には年代順(旧石器・縄文・弥生・古墳~平安・中世)に展示されている。旧石器時代のナイフ型石器や槍先型尖頭器、縄文時代の土偶や石棒。

藤岡歴史館 (8)
藤岡歴史館 (9)
縄文時代、弥生時代、古墳時代の土器類。

藤岡歴史館 (10)
中世の土器や文字瓦など。

「郷土の偉人」として高山長五郎・堀越二郎(常設展示室)、関孝和(エントランスホール)関連展示もあった。この3人は「藤岡市三偉人」とされているようだ。

藤岡歴史館 (11)
白石稲荷山古墳から藤岡歴史館、皇子塚古墳・平井地区一号古墳、七輿山古墳にかけて「毛野国白石丘陵公園」として整備する計画があるようだ。ジオラマがおいてあったが、完成するのは何時になることやら。

藤岡歴史館 (12)
スタンプカードがあったので全部押してきた。これはスタンプの史蹟を訪問したら押すものなのかな? まあ、全部行っているのでOK。スタンプ台のインク補充をお願いします。

藤岡市文化財探訪
今回訪問の主目的は「藤岡の文化財探訪」の購入。平成18年(2006年)に合併した旧鬼石町の文化財も含めて、令和4年(2022年)に新藤岡市のすべての文化財を網羅して発刊されている。1,000円。この情報を得てすぐに買いに行こうと思っていたのだが、3年も経ってしまった。

初訪問時と比べると、見違えるほどきちんとした展示になっていた。展示数も多くなっていると思う(発掘品が増えたのかもしれないが)。15年も経っているので記憶も曖昧だけど。申し訳ないが、当時はイマイチだったような記憶がある。

関連
 「ゼロ戦の生みの親 堀越二郎展・藤岡歴史館


藤岡市保美の龍冨山天陽寺。

天陽寺2 (1)
天陽寺は永禄2年(1559年)武田家家臣で三ッ山城主・長井豊前守正實(まさざね)の開基、永源寺7世・笑山長喜和尚の開山と伝わる。天陽寺の名称は正實の法名「正實院殿天陽光春大居士」から。

慶長年間(1596~1615年)依田信盛の中興。一般的には信守と表記することが多い。この信守(信盛)の祖父も信守なので混同するが、天正18年(1590年)に藤岡を領した康勝の従兄弟(康勝の父・信蕃と信守の父・信幸が兄弟)。

創建年代については、多野藤岡地方誌(昭和51年:1976年刊)では、元亀3年(1572年)と記している(開山・開基などは同じ)。

天陽寺2 (2)
天陽寺2 (3)
山門横の小坊主さんは平成8年(1996年)の造立。六地蔵は山門の少し手前にある。

天陽寺2 (4)
天陽寺2 (5)
本堂は天保元年(1830年)火災により焼失。明治13年(1880年)に廃寺となった保美村内の富永山清福寺の木材を使い再建。昭和49年(1974年)に改修されている。

本堂に安置されている本尊は薬師如来だが、胎内に子薬師を懐胎している。そのため子持薬師と呼ばれている。

天陽寺2 (6)
梵鐘は清福寺のものであったが、清福寺廃寺後は地区の防災用の鐘として使用されていた。そのため先の大戦時も供出を免れている。昭和49年(1974年)に天陽寺に移されている。鐘楼堂も同年の建立。

天陽寺2 (7)
梵鐘は寛政5年(1793年)栃木佐野天明の丸山林八長暉の作。林八長暉は天明の鋳物師の名工とされるが、現存する製品が少ないため本梵鐘は貴重なものと言える。総高97cm、胴上部の乳が108個(煩悩の数)付いている。

天陽寺2 (8)
長井正實父子のものと推定される墓(祠)。どれが誰のものかは不明という。天陽寺には正實の鎧兜などが残されていたようだが、天保元年の火災により焼失したという。

天陽寺2 (9)
天陽寺2 (10)
境内(墓地ではなく)に2m超える大きな宝篋印塔がある。銘が明らかに削り消されている。ご住職によると、この宝篋印塔が正實の墓の可能性もあるという。天陽寺は後に依田氏の菩提寺になっており、その際に銘が消された可能性があるということ。

天陽寺2 (11)
中興・依田信守(信盛)夫妻の墓(信守の墓は向かって右)。

天陽寺2 (12)
依田信政の墓。信政は信守(信盛)の弟だが、信守没後は家督を継いでいる。なお、信政の正式な墓所は東京文京区の金龍山大円寺にある。


藤岡市本郷の土師神社。10月19日に開催された秋の例祭で流鏑馬が奉納された。

土師神社 流鏑馬 (1)
土師神社はこの地域に居住していた土師氏(埴輪や土師器を製造する人々)が、氏神として野見宿禰を祀ったのが始まりとされる。境内には「土師の辻」と呼ばれる相撲の土俵があり、「日本三辻」のひとつとされる(詳細は「藤岡市本郷・土師神社」参照)。

流鏑馬の奉納は昭和40年前後(1960年代)から途絶えていたが、平成14年(2002年)に花馬、翌15年(2003年)に流鏑馬が復活している。近年はコロナの影響で流鏑馬も中止されていたが、令和5年(2023年)に再開されている。

土師神社 流鏑馬 (2)
土師神社 流鏑馬 (3)
流鏑馬の前には「おねり(御練り)」で秋の収穫に感謝を奉げる。

土師神社 流鏑馬 (4)
流鏑馬を奉納する団体名は聞き漏らしたが、小笠原流と言っていたと思う。

土師神社 流鏑馬 (5)
「願的(がんまとう)」。五色の花笠・白装束に赤い襷・袴・足袋に草履姿の射手が、停止した状態で一本の矢に願いを込めて的を射る。この大役は地元の方のようだ。

土師神社 流鏑馬 (6)
土師神社 流鏑馬 (7)
メインの流鏑馬。土師神社の参道は170mで流鏑馬を行うには少し短いようだ。そのため通常3射のところ2射となる。しかし馬場と観客が近いため非常に迫力があり、スピード感を肌で感じることができる。見事に的を射貫くと観衆から大歓声が起こっていた。

土師神社 流鏑馬 (8)
土師神社 流鏑馬 (9)
女性の射手も複数おられた。

土師神社 流鏑馬 (10)
外国の方もいらっしゃった。射手はしていなかったと思う。

射手が馬上で何か声を発していたが、後で調べたら「インヨーイ」と言っていたらしい。これは陰陽道から来ており、小笠原流の礼法・歩射・騎射はすべてが陰陽道を軸に成り立っているそうだ。

土師神社 流鏑馬 (11)
例祭の最後は花馬。写真は「おねり」の時のもの。

土師神社 流鏑馬 (12)
矢が当たり割れた的(墨書あり)。当たり的は縁起が良いとされ人気がある。例祭終了後に販売された。


藤岡市保美の保美西浦遺跡。

保美西浦遺跡 (1)
保美西浦遺跡は神流川の河岸段丘上に広がる集落遺跡であり、当地の土地改良事業に伴い令和4年(2022年)から発掘調査を実施していた。保美西浦遺跡からは縄文時代と古墳時代後期から中世までの遺構・遺物が確認されている。

保美西浦遺跡 (2)
今回紹介するのは保美西浦遺跡の「F地点」と名付けられた住居跡の遺構。当日は藤岡市文化財保護課による現地説明会だった。

保美西浦遺跡 (3)
遺跡内の219号住居。縦7.8m✕横8.8mの規模を誇る竪穴式住居で、藤岡市内で確認されている住居跡の中でも最大級である。8世紀前半の住居跡と推定されている。

保美西浦遺跡 (4)
保美西浦遺跡 (5)
大規模住宅だけあって柱穴は直径・深さとも1mを超え、柱を据えた後に何層にも固めながら土を埋め戻して固定したことが分かる。

保美西浦遺跡 (6)
219号住居内から発掘された土器類。1,000年以上土中に埋まっていると、意外ときれいな色を保っているものだ。

保美西浦遺跡 (7)
同じく219号住居内から発掘されたカマドの一部であったと推定される加工石。219号住居はその規模やカマドに加工石を用いていることなどからも、住人の身分の高さが窺い知れる。

保美西浦遺跡 (8)
遺跡内の222号住居。河原石を組上げて作られたカマドがあったことが分かっている。10世紀後半の住居跡とされる。河原石は結晶片岩で、遺跡の東を流れる神流川から採集されたものと思われる。

保美西浦遺跡 (9)
保美西浦遺跡 (10)
カマド跡の周りには土器類が散乱しており、当時の住人が住居を不意に放棄した様子を示していると考えられる。

保美西浦遺跡 (11)
住居跡遺跡は見学できなかったが、発掘遺物のみ展示されていた205号住居。上段の左から2番目の黒ずんでいる土器は、漆が塗られていた跡との説明があった。

保美西浦遺跡は先述したように土地改良事業に伴う遺跡調査のため、発掘調査終了後(調査記録取得後)は農地となり消滅することになる。残念だが致し方ない。


藤岡市藤岡の諏訪古墳と諏訪神社北古墳。
(藤岡諏訪神社は「藤岡市藤岡・諏訪神社」「諏訪神社 その2」参照)

諏訪古墳 (1)
諏訪古墳(諏訪神社古墳)は全長57m・後円部径37m・高さ4mの前方後円墳で、6世紀後半の築造と推定される。前方部墳頂には諏訪神社の社殿が建っている。

諏訪古墳 (2)
諏訪古墳 (3)
後円部南西側に横穴式石室が開口している。開口部上に見える朱色の建物は、境内末社・稲荷社の覆屋。

諏訪古墳 (4)
石室は全長5.9m、玄室の奥幅1.9m・長さ3.1mの大きさで、ほぼ長方形を呈してる。石室の壁は側壁を内傾した凝灰岩の切石積で、玄室の奥に棺座を区画する間仕切り石や羨道と玄室の境に框石を設置している。

明治39年(1906年)の発掘調査では、石室内から人骨・銀環・単鳳環頭太刀・直刀・刀子・衝角付冑・馬具などが出土している。また、後円部北側から東側の墳丘にかけて埴輪が確認されている。

諏訪古墳 (5)
墳丘を北側から。池は元の周濠の一部分のようだ。

諏訪神社北古墳 (1)
高山長五郎功徳碑と町田菊次郎頌徳碑が建っているのが諏訪神社北古墳になる。直径25m・高さ2mの円墳で、築造は6世紀後半と推定される。

諏訪神社北古墳 (2)
北側から。こちらの方が形状(円墳)が分かり易い。

諏訪神社北古墳 (3)
諏訪神社北古墳 (4)
南側に横穴式石室が開口する。

諏訪神社北古墳 (5)
石室は全長3.8m、玄室は長さ3.4m・幅1.8m・高さ1.7m。石材は凝灰岩の切石で、切組積みによって構築される。

北古墳も明治39年(1906年)に発掘調査が行われ、石室内からは多数の遺物が出土したとされるが、現在所在不明となっている。


藤岡市藤岡の諏訪神社の2回目。
(1回目は「藤岡市藤岡・諏訪神社」参照)

藤岡諏訪神社3 (1)
藤岡諏訪神社には三井越後屋から奉納された2座の宮神輿がある。

藤岡諏訪神社3 (2)
諏訪様(写真右)と八坂様(同左)と呼ばれる神輿は2基一対となっている。安永9年(1780年)に江戸人形町長谷川通りの大仏師であった安岡良運、安岡忠五郎により製作され諏訪神社に奉納されたといわれている。

平成27年(2015年)に諏訪様、同28年(2016年)に八坂様が修理(平成の大修理)され江戸期の輝きを取り戻した。夏の藤岡まつりでその勇姿を見ることができる。

ところで、神輿庫の前にある藤岡市の説明板、内容間違ってるよ。恥ずかしいぞ。

藤岡諏訪神社3 (3)
藤岡諏訪神社3 (4)
境内末社の大国神社。

藤岡諏訪神社3 (5)
藤岡諏訪神社3 (6)
境内末社の八坂神社。

藤岡諏訪神社3 (7)
藤岡諏訪神社3 (8)
藤岡諏訪神社3 (9)
境内末社の天満宮。

藤岡諏訪神社3 (10)
天満宮だけあって、合格祈願の絵馬が多数奉納されている。

藤岡諏訪神社3 (11)
社殿後ろに鎮座する境内末社。左から三峯社、阿夫利社、豊受社、稲荷社。

藤岡諏訪神社3 (12)
さざれ石。岐阜県揖斐川町春日の産出で、平成28年(2016年)の奉納。

藤岡諏訪神社3 (13)
藤岡諏訪神社3 (14)
境内の池に架かる橋は諏訪橋。池中には水天宮が鎮座する。

藤岡諏訪神社3 (15)
境内奥に高山社の創設者・高山長五郎功徳碑と2代目社長・町田菊次郎の頌徳碑が建っている。両碑とも平成26年(2014年)に藤岡市の重文に指定されている。

ここは諏訪神社北古墳の墳丘上になる。諏訪神社北古墳については別記事にて紹介予定。

藤岡諏訪神社3 (16)
高山長五郎功徳碑。養蚕法「清温育」を考案し、高山社にて後進の育成に尽力した長五郎の功徳を伝えるため明治24年(1891年)に建立された。

藤岡諏訪神社3 (17)
町田菊次郎頌徳碑。高山長五郎の後を継ぎ高山社2代目社長となり、清温育の普及に務めた。頌徳碑は昭和13年(1938年)の建立されている。

高山長五郎、町田菊次郎に関しては、記事も多数あるので「高山長五郎」「町田菊次郎」でブログ内検索をしてもらえれば出てきます。

次回は「諏訪古墳」と「諏訪神社北古墳」を紹介する。


藤岡市藤岡の諏訪神社。

藤岡諏訪神社2 (1)
藤岡諏訪神社は元は平安時代に祀られた椙山明神で、永享3年(1431年)に当地の豪族・有田定景が諏訪大社から上社・下社を勧請したとされる。その後、永禄9年(1566年)に芦田信守が諏訪大社から剣一口・鏡一面を請受け、本郷別所に上の社、当所に下の社を奉祀したという。

ただし、芦田氏(依田氏)が藤岡を領したのは信守の孫・康勝からになるので、康勝が諏訪大社の上社・下社を勧請したと考える方が分かりやすいのだが。

明治元年(1868年)に高山神社と改称したが、明治34年(1901年)に諏訪神社に復称している。石鳥居はこの年(明治34年)の建立。

藤岡諏訪神社2 (2)
鳥居前の灯籠。天保2年(1832年)三井越後屋の奉納。江戸時代末、養蚕が盛んであった藤岡は絹市で繁盛した。三井越後屋は上州絹の買い入れ先として藤岡に支店を設けたことで、藤岡と三井越後屋に繋がりができていた。

藤岡諏訪神社2 (3)
灯籠には「丸に井桁三」の三井越後屋の家紋入り(ちょっと見づらいが)。

藤岡諏訪神社2 (4)
藤岡諏訪神社2 (5)
手水舎。安政4年(1858年)13代・三井八郎右衛門の奉納。13代・八郎右衛門は三井家当主としては8代目で本名は高福(たかよし)。三井銀行・三井物産を創立して三井財閥の基礎を築いている。

藤岡諏訪神社2 (6)
社殿への石段横の「カエル像」。カエルは語呂合わせで「無事帰る・お金が還る・若返る」などの言葉になることから、縁起物とされている。

藤岡諏訪神社2 (7)
社殿は諏訪古墳(前方後円墳)の墳丘上に建つ。諏訪古墳については別記事にて紹介予定。

藤岡諏訪神社2 (8)
藤岡諏訪神社2 (9)
石段の途中、社殿前に2対の狛犬が鎮座する。石段途中の狛犬は昭和30何年(よく読めなかった)、社殿前の狛犬は平成14年(2002年)の奉納。

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藤岡諏訪神社2 (11)
藤岡諏訪神社2 (12)
社殿は古くは天正18年(1590年)に芦田康勝が造営し藤岡城の守護としている。延宝6年(1678年)には星野金左衛門の発起により寄進が募られ再建されている。現在の社殿は嘉永3年(1850年)の建立。

藤岡諏訪神社2 (13)
雨水を集める釜。藤岡市の地酒の銘柄(三波石や巌)が書かれているので、酒造組合の奉納(と言うか提供)かな。よく選挙に立候補した候補者の事務所に置かれていた「當選(当選)」を作っているのは藤岡市の酒造メーカー。最近、余り見ないかな。

藤岡諏訪神社2 (14)
社殿前の狛虎。大正9年(1920年)、後に首相・陸軍大臣などを歴任する田中義一・ふみ子夫妻の奉納。夫妻と書いたが、厳密にはふみ子夫人は正妻ではない(婚外)。ふみ子夫人は藤岡町(当時)の出身なので、諏訪神社に奉納したのだろう。ちなみに、田中義一首相の在任期間は昭和2年(1927年)~同4年(1929年)。

藤岡諏訪神社2 (15)
田中義一・ふみ子夫妻が狛虎を奉納して100周年を記念し、令和2年(2020年)に造立された「撫で虎」。鳥居の向かって右側(南側)に置かれている。

藤岡諏訪神社2 (16)
神楽殿。嘉永3年(1850年)の建立。現在も歳旦祭や春季例祭に神楽が奉納がされる。

藤岡諏訪神社2 (17)
大イチョウ。ご神木なのか不明だが、それにふさわしい大樹だ。

藤岡諏訪神社には、三井越後屋が奉納した宮神輿や高山社の創設者・高山長五郎の頌徳碑などがある、また、諏訪・諏訪神社北古墳もあるので引き続き紹介していく。


藤岡市藤岡の福島元七顕彰碑。富士浅間神社の境内にある。
(富士浅間神社は「藤岡市藤岡・富士浅間神社」参照)。

福島元七顕彰碑 (1)
福島元七は慶応2年(1866年)生まれ。福島家は代々江戸幕府の御用鍛冶を務めていた家系。元七は明治33年(1900年)に桑切り包丁を上下させることによって、次々に桑葉が刃の下へ送られる仕組みの蚕具桑刻機(通称「福島式桑刻機」)を発明した。

当時の養蚕業は高山社の「清温育」が全盛で、蚕の成長に合わせて与える桑葉の大きさを変えていたため、桑葉を刻む作業は農家の大きな負担であった。そのため「福島式桑刻機」は注文が殺到し、海外も含め約150万台も販売されたという。

その後も「五穀脱穀機」「大豆粕削機」「籾摺機」なども発明。専売特許27件・実用新案31件などを取得。昭和5年(1930年)には帝国発明協会から有功会員に推されている。

大正12年(1923年)58歳で没する。

福島元七顕彰碑 (2)
元七の功績を顕彰するため、昭和4年(1929年)富士浅間神社境内に「福島元七顕彰碑」(福島翁之碑)が建てられた。

福島元七顕彰碑 (3)
福島元七顕彰碑 (4)
昭和4年の顕彰碑建設と同時に「福島元七の銅像」も建てられたが、昭和17年(1942年)に戦時供出されてしまった。そのため昭和43年(1968年)同所に肖像入りの塔が建てられている。

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