上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

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太田市別所町の十二所神社。

十二所神社2 (1)
十二所神社の由緒は不詳だが、別所村内に散在していた12の末寺を本寺円福寺にまとめた際に、各寺の本尊を一ヶ所に合祀して十二所神社として祀ったとの言い伝えがある。

十二所神社2 (2)
十二所神社は御室山円福寺境内、茶臼山古墳の後円部墳丘に鎮座する。参道は古墳北側から続く。(茶臼山古墳は「新田氏累代の墓・御室山円福寺」参照)

十二所神社2 (3)
鳥居は大正9年(1920年)の建立。

十二所神社2 (4)
円福寺本堂側からも登っていける。

十二所神社2 (5)
十二所神社2 (6)
本殿には国常立命・大戸辺命・涅土煮命・大日霊命・火々出見命など、16体の神像が安置されている。神像はともに30cmほどの木像で、その内5体には正元元年(1259年)の銘がある(先に例として挙げた5神の像に銘があるというわけではない)。紀年銘のある5体は太田市の重文に指定されている。

国良親王御陵
十二所神社とは直接関係はないが、茶臼山古墳の後円部には「国良親王御陵」の標柱が建っている。昭和34年(1959年)の建立。国良親王とは後醍醐天皇の皇子・宗良親王と新田義貞の娘・山吹姫との間の御子とされる。

宗良親王は興国5年/康永3年(1344年)から信濃国伊那郡を拠点に活動しており、その際に上野国などにも出陣していた。国良親王は伊那郡で生まれ、新田氏庇護のもと当地で暮らしていた。正平24年(1369年)に31歳で薨去され、円福寺中の茶臼山古墳に葬られたとの伝承がある。

国良親王は後醍醐天皇の孫に当たるが、生涯一度も京に上ることなく上野国で生涯を閉じたため、親王どころか皇族としても数えられていない。また実在性に関しても確証がない。とは言え、後醍醐天皇の皇子と新田義貞の娘との間の御子など、何となく「あり得るかな」と思ってしまう伝承になっている。


太田市別所町の御室山円福寺。

円福寺2 (1)
円福寺は寛元2年(1244年)新田政義の開基、京都仁和寺から招いた静毫阿闍梨の開山。政義は新田氏の4代目(義重の曽孫)に当たる。

政義は京都大番役時(寛元2年)、鎌倉幕府に無許可で朝廷に昇殿と官位を無心したが断られると、今度は勝手に出家し大番役を中止し帰郷してしまった。その出家後の隠居寺として円福寺を創建したということ。

円福寺2 (2)
山門の扁額「御室山」は、江戸時代に当地を領していた旗本・筒井政憲の書。政憲は長崎奉行や江戸南町奉行などを歴任している。

円福寺2 (3)
円福寺2 (4)
本堂の建立年などは不明だが、近年の新築建立だと思われる。本堂には開基の政義以下、政氏、基氏、朝氏の位牌が安置されている。ちなみに、朝氏の子が義貞になる。また、円福寺境内には群馬県で3番目に大きい茶臼山古墳があり、本堂の位置はその後円部の東裾になる。県内に茶臼山と呼ばれる古墳は複数あり、地名から別所茶臼山古墳と呼ばれる。

別所茶臼山古墳
茶臼山古墳は全長168mの前方後円墳で、後円部径96m・高さ14m、前方部幅65m・高さ8mを誇る。葺石・埴輪を備え、周囲には堀がめぐる。5世紀前半の築造とされる。円福寺や十二所神社の諸堂建立のため、多くが削平されている。

円福寺2 (5)
円福寺2 (6)
茶臼山古墳の前方部東裾に新田氏累代の墓(五輪塔・石層塔などが20余基)がある。その様式から鎌倉時代中期から南北朝時代のものと推定されている。このうち五輪塔1基に「沙弥道義」「元亨4年(1324年)」との銘文が確認されている。沙弥道義は開基である政義の孫・基氏の法名。基氏は義貞の祖父に当たる。

基氏没時、義貞は23歳で鎌倉攻めの9年前になる。既に父・朝氏(基氏の子)は死去しており、文保2年(1318年)には新田宗家の家督を継いでいる。

円福寺2 (7)
観音堂は茶臼山古墳の前方部と後円部のくびれ部に建つ。元禄14年(1701年)の建立。近年では平成18年(2006年)改修されている。

円福寺2 (8)
円福寺2 (9)
本尊の千手観音像は行基の作とされ、元は河内国(大阪)通法寺にあり源頼信・頼義などの河内源氏一族が崇敬したといわれる。源義家から義国・義重を経て、新田氏の守り本尊になったという。

円福寺2 (10)
円福寺2 (11)
七地蔵石幢。六地蔵に延命地蔵を加えたもの。茶臼山古墳前方部にある。長享3年(1489年)の紀年銘がある。銘文中にある「宗悦上座」は横瀬国繁、「宝泉禅門」は岩松満国の法名とされている。

円福寺2 (12)
円福寺2 (13)
こじんまりとした鐘楼。

円福寺2 (14)
円福寺2 (16)
馬頭観音堂。詳細不明。茶臼山古墳前方部には馬頭観音碑が数基建っており、建碑は明治期のもの。

円福寺開基である新田政義の軽挙妄動(官位無心や無許可出家、大番役の中止・帰郷)により新田氏は没落。足利氏(新田氏の親戚であり、政義妻の実家)の取り成しがあったので所領全没収にはならなかったが、新田宗家は義貞まで無位無官の一地方御家人扱いとなっている。


太田市岩松町の八幡宮。

岩松八幡宮2 (1)
岩松八幡宮は仁安年間(1166~69年)新田義重が山城国石清水八幡宮から小松を持ち帰り、この地に植えて石清水八幡宮の分霊を勧請し創建。以来、地名を犬間(いぬま、猪沼とも)を岩松と改めたという。

2基の標柱は「國體(国体)尊厳」「宝祚無窮」。明治時代の造立だったと思う(記憶曖昧)が、いかにもな言葉。時代背景がよく分かる。

岩松八幡宮2 (2)
岩松八幡宮2 (3)
鳥居前の木陰に隠れてしまっている狛犬。

岩松八幡宮2 (4)
岩松八幡宮2 (5)
鳥居の扁額は「新田総鎮守 石松八幡宮」。岩松八幡宮が「新田総鎮守」と呼ばれるようになったのは、南北朝以降新田氏の実権が岩松氏に移ったことによると考えられる。

岩松八幡宮2 (6)
岩松八幡宮2 (7)
岩松八幡宮2 (8)
社殿は昭和57年(1982年)に改修されている。本殿屋根には新田氏紋の大中黒が。

岩松八幡宮2 (9)
拝殿前の灯籠は大正12年(1923年)の奉納。

岩松八幡宮2 (10)
境内社の新田神社。ご祭神は新田義貞。

岩松の地名から分かるように、当地は岩松氏の所領地である。岩松氏は足利氏2代・義兼の子(義純)と新田氏2代・義兼の娘の間の子(時兼)が岩松郷を新田氏から譲られたことに始まる。

岩松氏は父系は足利氏、母系は新田氏になる。結果的に明治期に由良氏と新田氏嫡流争いをすることになったが、岩松氏が新田氏の正統と認められている。

利根郡昭和村糸井の小高神社。

小高神社2 (1)
小高神社の由緒は不詳だが、平安時代の歴史書「三代実録」に「貞観5年(863年)に小高神社に従五位下を授ける」とあるため、それ以前の創建と考えられる。明治10年(1877年)に八坂神社、愛宕神社、赤城神社、諏訪神社を合祀、同42年(1909年)には寺貝戸神明宮、八幡宮、大山祇神社、上糸井南神明宮を合祀している。

鳥居は元文3年(1738年)の建立。島木、額束、貫の修理(補修)が行われたようだ。

小高神社2 (2)
小高神社2 (3)
社殿の前に大きな神楽殿がある。造営時期は不明だが、建築様式から江戸後期と推定される。近くの貝野瀬武尊神社に同様の舞殿があり文政3年(1820年)の造営なので、本神楽殿も同時期と考えられている。昭和60年(1985年)に屋根の葺替え、平成11年(1999年)には補強工事が行われている。(「昭和村貝野瀬・武尊神社」参照)

明治の始めには糸井出身の見城駒吉が尾上菊五郎の門下に入り、尾上扇之助と名乗り有名な役者となったという。駒吉帰郷後はこの神楽殿で地芝居が盛んに行われたという。「セリ出シ」「セリ込み」「ヒラキ」「天井ツリ」など、どの段にも不自由がないように大道具、小道具が揃っていたらしい。

小高神社2 (4)
小高神社2 (5)
小高神社2 (6)
拝殿は文化3年(1806年)の建立。扉には龍の彫刻が施されている。社殿前の灯籠は天明6年(1786年)の奉納。

小高神社2 (7)
本殿は明治16年(1883年)の建立。昭和60年(1985年)に改修されている。

小高神社2 (8)
社殿左手前に一対の灯籠がある。これは明治42年に合祀された上糸井南神明宮のもの。元禄3年(1670年)の銘がある。


小高神社2 (9)
小高神社2 (10)
境内社・末社の山神宮と石宮群。

小高神社2 (11)
双体道祖神。宝暦4年(1754年)の造立。

小高神社2 (12)
小高神社2 (13)
神輿庫。

小高神社2 (14)
宮ノ前縄文遺跡の標柱と解説板。小高神社付近では縄文時代の土器・石器・獣骨類が数多く出土している。特に県内では産出しない黒曜石の石鍬が出土したことで有名らしい。黒曜石は長野県からと考えられているようだ。


利根郡昭和村糸井の赤城山清雲寺。

清雲寺 (1)
清雲寺の由緒は不詳だが、口碑によると天文年間(1532~55年)に天台宗の寺院として字寺貝戸に創建したといわれる。その後、弘治年間(1555~58年)に沢翁慶公和尚が現在地に移転。そのころ、迦葉山6世・天宥清文を招き開山としている(併せて曹洞宗に改宗)。

清雲寺 (2)
楼門は寛延年間(1748~51年)の建立。扁額は読めない。

清雲寺 (83 (1)
本堂は天保年間(1831~45年)の建立といわれる。

清雲寺 (83 (2)
清雲寺 (83 (3)
寛延2年(1749年)に鋳造された梵鐘は、先の大戦時に供出。現在の梵鐘は戦後の鋳造。鐘楼には龍・牡丹の彫刻が施されている。

清雲寺 (83 (4)
清雲寺 (83 (5)
彫刻の刻まれた台座が残っている。ここには安永7年(1778年)造立の銅製宝篋印塔が乗っていたが、梵鐘と同じく先の大戦時に供出されている。戦後、他所より三重塔を移設して乗せていたが現在はなくなっている。事情・経緯は不明。

清雲寺 (83 (6)
もうひとつ台座がある。ここには安永6年(1777年)造立の銅製地蔵像があったが、これも先の大戦時に供出されている。

善し悪しは別にして、先の大戦時には相当数の遺物が供出されている。一部は歴史的価値や芸術性などを考慮し供出を免れたものもあるが、それでも歴史的・文化的な面からは損失が大きかったと言えるかな。


利根郡昭和村糸井の井宝山長慶寺。

長慶寺 (1)
長慶寺は度々の火災により古記録類が失われておりその由緒は不詳だが、文禄年間(1592~96年)沼田舒林寺9世・独翁祐存和尚の開山と伝わる。

4世・傑千英叟和尚が宝永4年(1707年)に残した記録によると、村の長者が母親の供養のため阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂を建て、尼寺としたのが始まりという(年代不明)。永正年間(1504~21年)に学問・武芸のいずれにも優れていた長慶春悦という僧がおり、その名にちなんで井宝山長慶寺と言うようになったとされる。

長慶寺 (2)
長慶寺 (3)
参道の庚申関係(庚申塔や二十一夜供養塔など)と禁葷酒山門碑。庚申塔は元禄8年(1695年)、二十一夜待供養塔は嘉永2年(1849年)、禁葷酒山門碑は安永4年(1775年)の造立。

長慶寺 (4)
本堂は地区の集会場のような建物。

長慶寺 (5)
長慶寺 (6)
板碑は正応2年(1289年)の建碑。緑泥片岩製で高さ150cm、幅43cmと大型の板碑である。以前は永仁2年(1294年)銘の板碑もあったようだが、現在は失われている。

この板碑を「長者が母親の供養のために建てた」と考え、長慶寺の前身である阿弥陀堂建立の時期を正応・永仁年間(1288~94年)とする説もあるようだ。

長慶寺 (7)
六面地蔵。令和2年(2020年)草むしりを手伝ってくれた子どもたちが、土中から発見したもの。六地蔵宝幢の一部に見える。恐らく宝珠や幢身なども埋まっていると思われる。

長慶寺 (8)
翌令和3年(2021年)には、多くの石仏が同様に発見された。現在は本堂裏に六面地蔵を含め、綺麗に安置されている。


利根郡昭和村貝野瀬の馬頭観音碑と観音堂。

馬頭観音碑と観音堂 (1)
馬頭観音碑は昭和2年(1927年)に川龍寺住職らが中心となり、馬を使用して運送業をしていた人たちが集まって、馬の無事・安全を祈願するために建立した。

馬頭観音碑と観音堂 (2)
石碑の文字は沼田町(当時)・舒林寺の石碑から写している。碑に使用した石は仙台から買い入れた仙台石と呼ばれるもの。石工は沼田町の職人に頼んでいる。

完成した碑は白布で包み馬車に乗せ、飾りを付けた多数の馬がこれに従い当所まで運び、盛大な除幕式が行われている。

馬頭観音碑と観音堂 (3)
石碑の建立には貝野瀬・生越の両地区が力を合わせて行われたので、台石には両地区名から一文字ずつ取り「貝生殿」と刻まれている。

馬頭観音碑と観音堂 (4)
昭和7年(1932年)には観音堂が造られ、観音像が安置されている。併せて二十三夜さま(勢至菩薩)も祀られている。お堂の建立に伴い、当所は県道側を向いていた馬頭観音碑は境内側に向き直されている。

観音さまのお祭りは、昭和中頃までは盛大に行われていたようだ。


利根郡昭和村貝野瀬の田岸の宝篋印塔。

田岸の宝篋印塔 (1)
田岸の宝篋印塔は宝永4年(1707年)の造立で、高さは1.7m。旧糸之瀬村内に5基あったうちの最古のものだが、原型を留めているのは本基のみである。他の3基は塔身の上下がチグハグ(違う)、もう1基は銅製であったため先の大戦時に供出されている。

この宝篋印塔が建っている場所は個人宅の裏庭(?)のようで、なんとも見学しづらい場所だ。県道沿いなので個人宅へ入り込むことはないが、ちょっと気を遣う必要がある。

田岸の宝篋印塔 (2)
田岸の宝篋印塔は昭和村の重文に指定されている。そのため解説板が隣にあるのだが、読み始めていきなり違和感。「蓬栄四年」って? 「宝永四年」の間違い。原稿作成時の変換ミスだろうが、そのままのようだ。まあ、昔の年号など普通は知らないからね。


利根郡昭和村貝野瀬の赤城山川龍寺。

川龍寺 (1)
川龍寺は天正18年(1590年)沼田・成孝院の意岩建春和尚が自身の隠居寺として泉龍庵を建てたのが始まり。その後、寛永18年(1641年)成孝院5世・不岸建鎖和尚が開山となり赤城山泉龍寺とした。元禄11年(1698年)火災により焼失。再建に際し現在地に移り、泉を川に変え川龍寺としている。

川龍寺 (2)
川龍寺 (3)
川龍寺 (4)
参道脇に石仏・仏塔類、庚申塔類が数多く並んでいる。

川龍寺 (5)
「禁売買芸術の碑」。安永9年(1780年)の造立。境内で歌舞伎や音曲などの見世物や物売りを行ってはいけないという禁止の触書(みたいなもの)。「禁葷酒山門の碑」(酒の持ち込みや酔っ払いの入門禁止)は各地に多く見られるが、禁芸碑は少ないらしい。

川龍寺 (6)
長屋門は嘉永元年(1848年)の建立。昭和48年(1973年)に屋根の改修を行っている。現在は物置となっており、貝野瀬武尊神社の舞殿の舞台装置が保管されている。
(「昭和村貝野瀬・武尊神社」参照)

川龍寺 (8)
川龍寺 (9)
本堂は当地移転後の文化14年(1817年)に再度火災により焼失。現在の本堂は文政3年(1820年)の再建。昭和48年に屋根の改修を行っている。嘉永6年(1853年)に増築した庫裏(旧庫裏)が本堂と一体化しており曲がり屋形状となっている。

川龍寺には開山や開基と並び、岡上次郎兵衛景能が功労者として位牌が祀られている。景能は承応3年(1654年)当地の検地代官として寺地の年貢を免除するなど、寺の財政の基礎をつくってくれたからという。

景能は「笠掛野御用水」の開削(現みどり市周辺の新田開発)や「榛名山北麓」の原野の開発(現東吾妻町周辺)を行ったことでも知られる。同じく昭和村川額の雲昌寺も、同様の理由で景能の位牌を祀っている。(「昭和村川額・赤城山雲昌寺」参照)


利根郡昭和村貝野瀬の武尊神社。

貝野瀬武尊神社 (1)
貝野瀬武尊神社の由緒は不詳。上野国神名帳に「利根廿二坐 従一位保宝高明神」とあるのは当社とされる。また、慶長19年(1614年)に社殿を再建した記録や、承応3年(1654年)の神領免許(年貢免除の土地)が残っている。

明治11年(1878年)に諏訪神社、稲荷神社、阿津摩神社、八幡神社、十二神社、厳島神社などを合祀、同42年(1909年)には神明宮、八坂神社を合祀している。

貝野瀬武尊神社 (2)
貝野瀬武尊神社 (3)
貝野瀬武尊神社 (4)
社殿は寛延3年(1750年)の建立(棟札が残されている)。

貝野瀬武尊神社 (5)
貝野瀬武尊神社 (6)
舞殿は文政3年(1820年)の建立。元は社殿正面に建てられた割拝殿であったが、先の大戦後に現在の場所に移されている。回り舞台の仕掛けがあり、それらの道具は近接する川龍寺に保存されている。

貝野瀬武尊神社 (7)
貝野瀬武尊神社 (8)
境内社の諏訪神社。お社は宝暦13年(1763年)の造営とされる。

貝野瀬武尊神社 (9)
貝野瀬武尊神社 (10)
境内社の摩利支天尊。

貝野瀬武尊神社 (11)
貝野瀬武尊神社 (12)
境内社の大神宮。

貝野瀬武尊神社 (13)
貝野瀬武尊神社 (14)
境内社の稲荷明神。

貝野瀬武尊神社 (15)
境内社それぞれにも末社の石宮があり、その中に双体道祖神も多い。明和(1764~72年)などの紀年銘が読み取れた。

貝野瀬武尊神社のご祭神は日本武尊だが、貝野瀬地区には日本武尊にまつわる伝説が2つ残されている。ひとつは貝野瀬の地名で、日本武尊が東征のおり片品川沿いが「貝の背に似ている」と言ったからとされる。

もうひとつは、日本武尊が当地を通ったのが二の未(ひつじ)の日だったことから、武尊神社の祭典は2月・9月ともその月の第二の未の日に行うことになったという。


太田市由良町の正英山威光寺。

威光寺2 (1)
威光寺は元徳2年(1330年)新田義貞の次男・義興の開基、吽海法印の開山で、正永山医光寺として開創。応永年間(1394~1428年)に横瀬貞氏が義興の冥福を祈るために伽藍を修復、義興の法名「威光寺殿従四位下前武衛傑伝正英大居士」から正英山威光寺と改称している。

威光寺2 (2)
威光寺2 (3)
門前の六地蔵や庚申塔類。六地蔵は天明8年(1788年)の造立。庚申関係(如意輪観音塔)には文化8年(1811年)の紀年銘があった。

威光寺2 (4)
威光寺2 (5)
本堂は平成12年(2000年)の新築建立。

威光寺2 (6)
境内の宝塔。寛政2年(1790年)の造立。

威光寺2 (7)
境内の隅に池があり、その奥にお堂がある。堂内を見ることができなかったので、詳細は分からない。

威光寺2 (8)
威光寺2 (9)
威光寺2 (10)
不動堂。本尊の不動尊像は一尺八寸(約54cm)の木像で、東大寺開山・良弁僧正の真作と伝えられる。新田義貞が上洛時に入手し当寺に寄進したという。

不動堂は明治42年(1909年)に火災に見舞われているが、その際猛火の中から檀家の方が不動明王像を運び出したという。お堂の再建は大正4年(1915年)。

威光寺2 (11)
威光寺2 (12)
威光寺2 (13)
弘法大師堂。木造の大師像を祀る。

威光寺2 (14)
新田義興の墓など3基が並んでいる。中央が新田義興の墓、右は義興の母・臺(台)姫の墓、左は義興従者の墓。

威光寺2 (15)
義興は義貞の次男で、義貞が北陸にて奮戦中の建武4年(1337年)奥州の北畠顕家の挙兵に呼応して上野国で挙兵。吉野で後醍醐天皇に謁見し元服、義興の名を賜る。鎌倉を一時奪還する等の戦果をあげたが、正平13年(1358年)江戸多摩川の矢口渡で謀殺される。享年28。

威光寺2 (16)
義興の生母・臺(台)姫の墓。由良光氏の娘で義貞の側室。法名の自性院は威光寺の院号になっている。

謀殺された義興の怨霊を鎮めようと祠を建て新田大明神として祀ったのが、東京都大田区矢口にある新田神社である。ここは破魔矢の発祥の地としても知られる。「新田神社」のHP内に、その由緒(義興のことや神社由来)が紙芝居風の動画で紹介されている。興味のある方は是非。


太田市由良町の飯玉神社。
由良飯玉神社 (1)
由良飯玉神社の由緒は不詳。明治41年(1908年)に稲荷神社、八坂神社、宗像神社などを合祀している。一の鳥居は明治38年(1905年)の建立。

由良飯玉神社 (2)
由良飯玉神社 (3)
鳥居は計4基あり、2基目(二の鳥居と言うべきか)は元禄9年(1696年)、3基目は天保8年(1838年)の建立。

由良飯玉神社 (4)
由良飯玉神社 (5)
社殿の建立年など、詳細は分からない。

由良飯玉神社 (6)
由良飯玉神社 (7)
社殿の裏の境内社は、大黒さまの像が置かれていたので増殿神社かな。古くから大国主命と混同・習合しているので(増殿神社のご祭神は大国主命)。

由良飯玉神社 (8)
由良飯玉神社 (9)
社殿横には石宮が並ぶ。詳細は分からない。

由良飯玉神社 (10)
「敬神虔道」と書かれた碑があった。揮毫は近衛文麿なので昭和初期(1940年ころ)の建碑かな。3文字目は「けん」と読むらしい(手前の枝が邪魔をしているが)。「神を謹んで深く敬え」というような意味だろう。あまり見たことがない碑だ。


太田市脇屋町の脇屋義助館跡。

脇屋義助館跡
脇屋義助館跡といわれる地に建つ「脇屋義助公居館跡」の碑。昭和13年(1938年)の建碑。

脇屋義助は新田義貞の弟で、義貞の挙兵以降副将として奮戦している。義貞討死後は後村上天皇(第97代にして南朝2代)の勅命を受け四国・伊予(愛媛県)に渡ったが、病により興国3年(北朝は康永元年、1342年)36歳で死去している。

平成9年(1997年)刊の「太田市史 通史編 中世」によると、「桑畑中に脇屋義助館跡の碑が建っているが、館の堀跡も土居も片影すら見ることができない」とあり、当時すでに遺構などは確認できなくなっていたようだ。さらに現在では多くが住宅地化されており、逆に農地の方が少なくなっている。時の移ろいは早いものだ。

往時は義助の館に隣接し、正法寺が建っていたとされる。正法寺は万治年間(1658~61年)の火災により現在地(館跡から約1kmほど離れた場所)に移っているが、昭和23年(1948年)の開墾作業中に層塔などが出土している。それらは現在の正法寺に置かれている。

この開墾事業により、館跡の遺構はほぼ消滅したようだ。

関連
 「太田市脇屋町・脇屋山正法寺


太田市脇屋町の脇屋山正法寺。

正法寺2 (1)
正法寺は山城国醍醐寺開山の聖宝僧正が東国遊化の際、延喜年間(901~23年)に創建。創建時は萬明山聖宝寺と称していた。元暦年間(1184~85年)新田義重が堂宇を修理し、元弘年間(1331~34年)に新田義貞の弟・脇屋義助が寺領と大般若経600巻を寄進している。

興国3年(北朝は康永元年、1342年)義助が伊予(愛媛県)国府にて病没(享年36)すると、寺僧が「正法寺殿傑山宗英大居士」という法号とともに遺髪を持参、以来脇屋山正法寺と改称した。なお、法号と遺髪を持参したのは児島高徳との伝承もある。

万治年間(1658~61年)に火災に遭い、観音免と呼ばれる地から現在地に移転したといわれている。観音免には脇屋氏の館もあったとされる。

正法寺2 (2)
正法寺2 (3)
仁王門は貞享2年(1685年)の建立。享和3年(1803年)に改築されている。昭和28年(1953年)には解体・基礎の打ち直しなどの大改修を行っている。

正法寺2 (4)
正法寺2 (5)
仁王像は阿像・吽像ともに像高2.6mほどで彩色されている。昭和63年(1988年)の解体修理の際、背面と顔面裏から銘文が発見され、貞享2年に京都の大仏師・左京入道勅法眼康祐の作と確認されている。

正法寺2 (6)
大鰐口は2m、530kg。貞享2年の鋳造(仁王門・仁王像とともに作成されたようだ)。しかし先の大戦時に供出。現在の鰐口は昭和57年(1982年)の鋳造。

正法寺2 (7)
正法寺2 (8)
本堂は文化4年(1807年)の脇屋大火により焼失。以降、観音堂を本堂としている。そのため扁額は「観音堂」。観音堂は享和3年(1803年)の建立。

正法寺2 (9)
新田氏の大中黒紋が輝く。

正法寺2 (10)
脇屋義助の石像。平成17年(2005年)の造立。

脇屋義助は兄・新田義貞と生品神社での挙兵から行動を共にし、義貞の死後も軍勢をまとめ奮戦している。興国3年には後村上天皇から中国・四国方面の総大将に任命され、四国に渡るも伊予国(愛媛県)で発病しそのまま病没している。

正法寺2 (11)
正法寺2 (12)
義助の遺髪塚(向かって右)。左は義助の墓とする資料もあるが、後に造立された供養塔。見づらくて申し訳ないが、暦応3年(1340年)とある。これは北朝の年号であり、南朝では興国元年になる(一部資料には義助の没年を興国元年としているものもある)。南朝方として奮闘したのだから、せめて元号は南朝の興国を使わないといけないだろう。

正法寺2 (13)
移転前の旧地から出土した層塔。旧地は現在地から1kmほど離れた観音免と呼ばれる場所。昭和23年(1948年)の開墾作業中に見つかっている。その他にも五輪塔、承安2年(1300年)銘の板碑などが出土している。

正法寺2 (14)
正法寺2 (15)
本堂裏の宝物庫(らしき建物)。「文化財観音」とあったので、普段は本尊の聖観音像が安置されていると思われる。本尊の聖観音像は高さ155cmで鎌倉時代初期の作と考えられており、群馬県の重文に指定されている。伝承では行基が香木に彫刻した等身大の立像といわれるが、行基は奈良時代の僧なので時代が合わない。聖観音像は午年(12年に1度)のみご開帳される。

正法寺2 (16)
濡れ金仏地蔵。高さ205cmの銅製地蔵坐像。宝暦10年(1760年)下野国(栃木県)佐野の鋳物師・丸山孫右衛門清光の作。

正法寺2 (17)
大正天皇が皇太子時代に行啓された記念碑。揮毫は陸軍中将・川岸文三郎(太田市出身)。明治41年(1908年)近衛師団機動演習に際し、当寺でご休憩されている。

正法寺2 (18)
三鈷の松とあった。標柱には「中国北京 明の十三陵より」とあるので、そこからの移植だと思う。一般的に「三鈷の松」は弘法大師が唐から帰国するときに投げた三鈷杵が、高野山の松の木に引っかかっており、以降この松の木は「三鈷の松」と呼ばれ、葉が3葉になっており御利益があるといわれる。

葉を確認したわけではないし探してもいないが、3葉を見つけたら相当縁起が良い。


太田市脇屋町の赤城神社。

脇屋赤城神社 (1)
脇屋赤城神社 (2)
脇屋赤城神社は鎌倉時代に新田義重が創建したと伝えられる。新田氏、脇屋氏から篤く崇敬されたという。

脇屋赤城神社 (3)
脇屋赤城神社 (4)
脇屋赤城神社 (5)
社殿の建立年などは不明だが、昭和27年(1952年)に改築されている。

脇屋赤城神社 (6)
社殿裏の境内社・末社群。貴船社、粟島社、稲荷社、熊野社、北野社など。

脇屋赤城神社 (7)
社殿の周囲は芝が敷き詰められ、しかも綺麗に刈られている。余りの綺麗さに驚いたが、よく見ると所々にピンフラッグが立っており、ティーグランドらしきものもある。

脇屋赤城神社 (8)
社殿回りは赤城神社パークゴルフ場とのことで、綺麗な芝も納得。太田市がパークゴルフ場を整備し、「赤城神社パークゴルフ愛好会」のみなさんが芝刈りなどの整備を月1回行っているようだ。

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