上州まったり紀行

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佐波郡玉村町南玉の住吉神社。

南玉住吉神社 (1)
南玉住吉神社 (2)
南玉住吉神社の創建年などは不詳だが、摂津国(現在の大阪府北中部と兵庫県南東部)の住吉大社から分霊を勧請したと伝わる。

南玉住吉神社 (3)
鳥居の横には大黒天。元治元年(1864年)の造立。この大黒天は甲子講のもの。大黒天の縁日である甲子(きのえね)の夜に集まって大黒天を祀る講。江戸時代中頃から盛んになっている。

南玉住吉神社 (4)
社殿前の狛犬は昭和32年(1957年)の奉納。

南玉住吉神社 (5)
南玉住吉神社 (6)
南玉住吉神社 (7)
社殿は平成11年(1999年)に改修が行われている。本殿は18世紀初期の建立とされる。

南玉住吉神社 (8)
南玉住吉神社 (9)
神域を囲むように数多くの庚申塔が並ぶ。玉村町誌(平成7年:1995年刊)によると104基あるという。

南玉住吉神社 (10)
社殿裏に幹が横に丸く湾曲して伸びている松があった。幹が湾曲している松は、記憶にある限りでは桐生市・美和神社の「美和の上り松」、東吾妻町・奥田白鳥神社の「妙なる松」などがある。(「上野国十之宮 -美和神社-」「東吾妻町・奥田白鳥神社」参照)

住吉神社の松も何か名前を付けて名物にしたら?


佐波郡玉村町下之宮の梅龍山東林寺。

東林寺 (1)
東林寺は天治元年(1124年)僧・大元の開山と伝わる。

東林寺 (2)
二十二夜塔は宝暦9年(1759年)の造立。土台から傾いており、非常に危険な状態。向かって左は念仏供養塔、右は庚申塔。

東林寺 (3)
東林寺 (4)
本堂は一般民家の様な佇まい。老朽化しているが、瓦屋根だけは改修されているようだ。

東林寺 (5)
東林寺 (6)
本堂横の霊廟。昭和45年(1970年)に明治100年記念事業として建立。

東林寺 (7)
霊廟前の宝篋印塔。享保15年(1730年)の造立。

東林寺 (8)
百番供養塔や石仏群。右端の百番供養塔は天明6年(1786年)の造立。

東林寺 (9)
東林寺には寺宝として十一面観音像が祀られていた。桧の寄木造りで119cmの立像。室町~江戸初期の作と推定されている。

江戸末まで火雷神社に祀られていたが、明治期の神仏分離により別当寺であった東林寺に遷されている。現在は玉村町歴史資料館に保管・展示されている(写真は歴史資料館訪問時のもの)。

関連
 「雷の神様を祀る -火雷神社-
 「玉村町福島・玉村町歴史資料館


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佐波郡玉村町小泉の重田家住宅。

重田家住宅 (1)
重田家住宅 (2)
重田家は江戸時代の中頃から代々医師を家業としており、初代当主は姫路藩主のお抱え医を務めていたといわれている。当地では昭和25年(1950年)まで開業していた(現在は高崎市内で開業)。

敷地内には住宅兼医院である「主屋」の他、付属建物として「穀蔵」「西の蔵」「東の蔵」「外便所」「井戸屋形」などが現存している。「主屋」と附属建物の多くが、平成13年(2001年)国の登録有形文化財として登録された。

令和3年(2021年)重田家より建造物と敷地、及び周囲の農地が玉村町に寄贈され、現在は玉村町が歴史的な貴重品の数々を整理中である。

表門は明治23年(1890年)、塀は明治25年(1892年)ころのものを、平成23年(2011年)に再建(再現)したもの。

重田家住宅 (3)
重田家住宅 (4)
主屋(住宅兼診療所)。明治16年(1883年)の建築。棟札が残されている。造りは多間取り(6間取り)型の農家住宅を基本とている。中央には式台を供えた立派な玄関があり、重田家の格式を示している。

重田家住宅 (5)
庭の植込みには「登録有形文化財」のプレートが。

重田家住宅 (6)
重田家住宅 (7)
重田家住宅 (8)
近年まで居住していたことから内部は住みやすいように改装されているが、それでも明治から昭和にかけての生活ぶりが偲ばれる(1F)。もちろん、一般庶民とは違うと思うが。

重田家住宅 (9)
重田家住宅 (10)
重田家住宅 (11)
2Fはまだ整理中のようだが、貴重なものがありそうだ。

重田家住宅 (12)
重田家は昭和2年(1927年)に玉村町域で電話が開通した際、旧芝根村の最初の加入者。次に芝根村役場が加入したのは昭和9年(1934年)のこと。

重田家住宅 (13)
重田家にはまだ小中学校にもピアノがない時代からあったという。小中学校の行事の際には、重田家からこのピアノを運んで使用したという。

重田家住宅 (14)
穀蔵。明治31年(1898年)の建造。

重田家住宅 (15)
西の蔵。昭和2年(1927年)の建造。入口は裏側にあるが、現在は主屋とつながり、中から入るようになっている。まだ玉村町のよる整理が進んでおらず、貴重なお宝が出てくるかも(笑)。

重田家住宅 (16)
東の蔵。昭和3年(1928年)の建造。家伝薬の材料保管庫であったとされる。

重田家住宅 (17)
井戸屋形。大正(1912~26年)初期の建築。

重田家住宅 (18)
外便所。昭和元年(1926年)の建築。昭和元年は12月25日~31日までしかないので、正しくは大正15年ではないかな。

重田家住宅 (19)
主屋裏の築山。主屋内から見て楽しめる造りになっているようだ。まだ整備が追いついていない状況。

重田家住宅 (20)
住宅の南にある重田家初代夫妻の墓。向かって右が初代・三郎兵衛英信、左が奥方の墓。奥方は姫路藩主の姫君といわれ、妙光院殿の戒名が刻まれている。院殿号からして藩主の姫君というのもうなづける。台座で調整し高さを合わせているが、墓石そのものは奥方の方が大きいのは、当時の身分が差が理由かな。

初代の墓石には元文(1736~41年)、奥方の墓石には宝永(1704~11年)の年号が刻まれている。没年と推定される。

初代は姫路藩の医師であったということから、松平朝矩の前橋転封により当地へ転居してきたと思っていたのだが、松平家の前橋転封は寛延2年(1749年)なので年代が合わない。まっ、細かいことはいいかな。


佐波郡玉村町小泉の飯玉神社。

小泉飯玉神社 (1)
小泉飯玉神社 (2)
小泉飯玉神社は応仁2年(1468年)那波氏が堀口村(現在の伊勢崎市堀口町)の飯玉神社より分霊を勧請したもの。那波氏が領内に創建した99社のひとつ。

明治24年(1891年)に村内の諏訪神社、神明宮などを合祀したが、明治44年(1911年)に小泉飯玉神社自体が火雷神社(下之宮)に合祀されている。現在、復祀されているのか個別に祀られているのかは不明。

小泉飯玉神社 (3)
鳥居の先は小泉地区の公民館になっており、社殿らしきものが見えない。

小泉飯玉神社 (4)
公民館敷地内の奥のフェンス際まで行くと、左手(公民館の奥側)に社殿がある。土蔵のような社殿だが、元の奉安殿のようにも見える。詳細は分からない。

小泉飯玉神社 (5)
社殿裏には境内社・末社が並ぶ。八坂神社、菅原神社、稲荷神社、小祝神社など。

小泉飯玉神社 (6)
大黒天(2基)と道祖神。

小泉飯玉神社 (7)
草の中に二十二夜塔(如意輪観音)が埋もれていた。


佐波郡玉村町箱石の浅間神社。

箱石浅間神社 (1)
箱石浅間神社 (2)
箱石浅間神社の由緒は不詳だが、富士山の浅間神社本宮の分霊を勧請したものと考えられる。明治39年(1906年)に箱石貫前神社に合祀されている。現在復祀されているのか、地域の方々が個別に祀っているのかは分からない。
(箱石貫前神社は「玉村町箱石・貫前神社」参照)

箱石浅間神社 (3)
箱石浅間神社 (4)
祠内には木製の神棚が安置されている。

箱石浅間神社 (5)
石仏が置かれているが、風化していて詳細不明。

箱石浅間神社 (6)
祠の横に石祠があり、富士浅間神社と刻されている。元々の浅間神社だと思われる。

ちなみに、この明治39年から「神社合祀政策」が政府により行われ、大正13年(1914年)までに、全国で7万社が合祀や廃社となった(20万社が13万社に減った)。これにより「一村一社」となった地域が多かった。

これは神社の数を減らし、残った神社に経費を集中させることで一定基準以上の設備・財産を備えさせ、神社の威厳を保たせることにあった。しかし地域住民からすれば「地域の鎮守がなくなる」ということで反対も多かった。先の大戦後、復祀という形で旧地に戻った神社も多い。


佐波郡玉村町箱石の薬王山養命寺。

養命寺 (1)
養命寺 (2)
養命寺は寛永18年(1641年)常楽寺の法印良範が自身の隠居寺として開山。

養命寺 (3)
門前の六地蔵。昭和55年(1980年)の造立。

養命寺 (4)
百番供養塔(2基)。1基は文政2年(1819年)の造立。

養命寺 (5)
養命寺 (6)
本堂は宝暦7年(1757年)に火災で焼失、同10年(1760年)に再建されている。現在の本堂は平成11年(1999年)の新築建立。なお、宝暦7年の火災時に創建からの本尊・薬師如来も焼失したため、その後は弘法大師を本尊としている。

養命寺 (7)
境内の庚申塔類。駒形のものは安永3年(1774年)の造立。

養命寺 (9)
養命寺 (10)
北向地蔵尊。堂内には大小3体の地蔵尊を祀る。

明治後期にこの一帯に疫病が流行したが、村境にあったお地蔵様のところで疫病が止まり、村内に入ってこなかった。そのことに感謝し養命寺境内にお堂を建て遷し祀ったと伝わる。

2月と7月の地蔵祭では、3体のうち小さい1体を厨子に入れそれを子ども達が担ぎ、「地蔵さまワッショイ」と連呼しながら地域を廻る。地域の人々はお地蔵様に線香やお賽銭を供え、無病息災などを祈願する。

地蔵祭は玉村町の重要無形民俗文化財に指定されている。



佐波郡玉村町箱石の貫前神社。

箱石貫前神社 (1)
箱石貫前神社の創建年は不詳。往古、上野国一宮・貫前神社の分霊を勧請したと伝わる。「上野国神名帳」記載の「那波郡布留明神」は当社とされている。

箱石貫前神社 (2)
灯籠は大正12年(1923年)の奉納。立派な灯籠だが「危険です! 絶対に上らないでください!」と表示されていた。県内では平成30年(2018年)に灯籠に上っていた中学生が、崩れた灯籠の下敷きになり亡くなるという痛ましい事故もあったので、こういう注意喚起は良いことだと思う。

箱石貫前神社 (3)
箱石貫前神社 (4)
箱石貫前神社 (5)
拝殿前の狛犬は昭和11年(1936年)の奉納。拝殿は元文5年(1740年)建立との棟札が残っている。おそらく以前の拝殿で、現在の拝殿ではないと思う。

箱石貫前神社 (6)
本殿は18世紀中ころの建立とされる。

箱石貫前神社 (7)
箱石貫前神社 (8)
箱石貫前神社 (9)
箱石貫前神社 (10)
明治39年(1906年)に村内の稲荷神社、諏訪神社、浅間神社を合祀している。浅間神社は見当たらなかった。

箱石貫前神社 (11)
境内社・末社群。台座に乗っているのは八坂神社と思われる。他は不明。

箱石貫前神社 (12)
「征清軍㱴馬碑」という碑があった。日清戦争に従軍、亡くなった軍馬の供養碑だと思う。この辺りが当時馬の産出地だったとは聞いたことがない。まあ、古代は馬の一大産出地だったけど。ちなみに古墳から出土した馬形埴輪数は群馬県が全国1位だ。


佐波郡玉村町川井の遍照山東栄寺。

東栄寺 (1)
東栄寺の創建は不詳。当初は川井山東照寺と号していた。寛永19年(1642年)に豪海が天台宗に改宗、そのため豪海を中興の祖としている。また、寺号が徳川家康の神名(東照大権現)であることをはばかり、東栄寺と改めている。

東栄寺 (2)
本堂は天保年間(1830~44年)に焼失、弘化2年(1845年)に再建されている。現在の本堂は新しく見えるので、近年の再建のようだ。

東栄寺 (3)
二十二夜塔(如意輪観音、向かって右端)は延享4年(1745年)、青面金剛(右から3番目)は天保3年(1832年)の造立。溶岩の灯籠(左端)は天明3年(1783年)の浅間山大噴火の際のもの。この辺りの寺社には多い。

東栄寺 (4)
大黒天の石塔は文化12年(1815年)の造立。

東栄寺 (5)
庚申塔(左)と道祖神(右)。庚申塔は明和元年(1764年)、道祖神は寛政年間(1789~1801年)の造立。


佐波郡玉村町川井の八幡宮。
川井地区にはもうひとつ八幡宮があるため、区別する意味で東八幡宮や下の八幡宮と呼ばれている。(西八幡宮は「玉村町川井・西八幡宮」参照)

川井東八幡宮 (1)
川井東八幡宮 (2)
川井東八幡宮は天正年間(1573~92年)に金窪城主・斎藤定盛が武運長久のため山城国・石清水八幡宮の分霊を勧請したのが始まり。これは川井西八幡宮の由緒と同一である。

川井東八幡宮 (3)
社殿前の灯籠は浅間山の噴火(天明の浅間焼け)の際に流れてきた溶岩を加工して造られている。天明3年(1783年)の浅間山大噴火では、当地も押し寄せた溶岩混じりの泥流により大きな被害を受けている。

川井東八幡宮 (4)
川井東八幡宮 (5)
社殿は大正元年(1912年)に火災で焼失、大正3年(1914年)に再建されている。

東八幡宮には誉田別命(ご祭神、八幡神・応神天皇)の弓持坐像が宝物として残されているという。火災を逃れられたのかな。社殿内に安置されているか、別場所で保管されているかは不明。

川井東八幡宮 (6)
「御成婚」と書かれた石碑(左)と「斎藤千代碑」。御成婚の石碑は大正13年(1924年)とあったので、昭和天皇のご結婚を祝してのもの。斎藤千代碑には短歌が記されているので、地元の歌人であろうか?


佐波郡玉村町川井の八幡宮。
川井地区にはもうひとつ八幡宮があるため、区別する意味で「西八幡宮」や「上の八幡宮」と呼ばれている。

川井西八幡宮 (1)
川井西八幡宮は天正年間(1573~92年)に金窪城主・斎藤定盛が武運長久のため山城国・石清水八幡宮の分霊を勧請したのが始まり。天正年間と言っても、天正10年(1582年)の神流川の合戦で斎藤氏は没落しているので、それ以前の創建となる。
(斎藤定盛は「川井城の櫓台跡 -八千矛神社-」参照)

一の鳥居は烏川の堤防側にある。手前の木が生い茂っており鳥居を隠すような感じになっている。

川井西八幡宮 (2)
二の鳥居は前を通る道路沿いに建っている。

川井西八幡宮 (3)
川井西八幡宮 (4)
拝殿は棟札から延享3年(1746年)の建立、宝永3年(1706年)に改築した旨の棟札もあるという。現在の拝殿の詳細は不明。本殿(覆屋内)は18世紀の建立とされる。

川井西八幡宮 (5)
社殿裏の境内社・末社群。秋葉社、稲荷社など。

現在は神流川が群馬県と埼玉県の県境になっており、埼玉県上里町は完全に別地域であるが、当時は神流川や烏川がどの辺を流れていたかは知らないが、上里町と玉村町の南西部は同じ地域だったのだろう。


佐波郡玉村町川井の八千矛神社。

八千矛神社 (1)
八千矛神社 (2)
八千矛神社は弘化年間(1844~48年)の創建。武運長久の神として摩利支天を祀っていたが、明治期の神仏分離により大国主神を祭神とし、その別称である八千矛神を社名としている。大国主は永禄年間(1558~70年)から祀られていたとされる。

鳥居扁額は「摩利支天宮」(写真が見づらいが)。現在も「川井の摩利支天」と呼ばれる。

八千矛神社 (3)
石段脇の巨岩。溶岩のようなので、浅間山の噴火(天明の浅間焼け)時に流れ着いたものだろうか(加工はされている)。

八千矛神社 (4)
社殿は平成12年(2000年)に屋根瓦の葺替えを行っている。

八千矛神社 (5)
拝殿破風には昇り龍の彫刻が施されている。

八千矛神社 (6)
奉納額も「摩利支天尊」。昭和47年(1972年)の奉納。この時点では八千矛神社になって約100年経っている。それだけ「摩利支天」として親しまれているということ。

八千矛神社 (7)
八千矛神社の鎮座地は川井城の楼台跡とされる。川井城は金窪城(烏川の対岸、現在の埼玉県上里町)城主・斎藤定盛(定光とも)の築城とされる。築城時期は定盛が金窪城主になってからと考えられているので、天文年間(1532~55年)あたりかな。城を守っていたのは定盛の弟・基盛である。

斎藤定盛は下茂木の法連寺を再興した斎藤盛光の嫡男。斎藤氏は関東管領・山内上杉氏の家臣であったが、上杉憲政が天文21年(1552年)に越後に逃亡すると北条氏に従っている。(斎藤盛光は「玉村町下茂木・妙日山法連寺」参照)

天正10年(1582年)の「本能寺の変」後の神流川の合戦時に、金窪城、川井城とも滝川一益軍に攻略され落城。斎藤氏は没落している。なお、川井城の落城は天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻め時との説もある。

八千矛神社 (8)
八千矛神社 (9)
社殿前の灯籠。この灯籠(2つ)の側面に、箕輪城没城後に和田氏に従っていた清水内記藤原邦正、松本兵右衛門宗炭、松本金左衛門吉勝譲が、慶長12年(1607年)に那波郡川合城に移住した、という趣旨のことが刻まれている(全部読めたわけではない。また表記は刻字を尊重)。

清水内記は斎藤定盛の娘を娶っているが、移住後帰農したと考えられる。摩利支天を祀ったのはその子孫であるという。


佐波郡玉村町五料の関所跡。

五料の関所跡 (1)
五料の関所は日光例幣使街道に設置されていた関所。利根川を渡る手前(玉村町側)にあった。戦国期に那波氏の家臣・石倉氏が関所を設けて私的に関銭を取っていた。天正18年(1590年)に那波氏が滅んだ後、慶長6年(1601年)に前橋藩が石倉氏の関所を藩の関所としている。

その後、例幣使街道の整備により、元和2年(1616年)正式に例幣使街道の関所となっている。設置年に関しては寛永8年(1631年)、寛永13年(1636年)、元禄10年(1697年)などとする説もある。

五料の関所跡 (2)
現在は門柱礎石と井戸が残るのみである。解説板に関所の図が描かれていたので赤丸を付けてみた。

五料の関所跡 (3)
五料の関所跡 (4)
門柱の礎石。現在の道幅の両側にある。

五料の関所跡 (5)
五料の関所跡 (6)
関所跡からそのまま進むと利根川の堤防に出る。サイクリングロードになってるのかな。左側を見ると五料橋がすぐそこに見える。

五料の関所跡 (7)
五料の関所跡 (8)
堤防を五料橋側に少し行くと左側に井戸がある。

天明3年(1783年)の浅間山大噴火時には、利根川を流れてきた泥流により関所は埋没している。屋根が見えるだけだったといわれる。五料の関所は明治元年(1868年)に廃止されている。


佐波郡玉村町五料の至徳山常楽寺。

常楽寺 (1)
常楽寺は天平年間(729~49年)行基の開山と伝わる。四徳山安国常楽寺と号した。至徳年間(1384~87年)に至徳山と改めている。

行基は聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘され、その功績などから東大寺の「四聖」の一人に数えられている。行基が開創(開山・開基)したとされる寺院は全国に約600寺あるとされるが(群馬県内にも多い)、その多くは伝承の域を出ない(常楽寺がそうだと言っているわけではない)。

常楽寺 (2)
常楽寺 (3)
常楽寺 (4)
山門前の参道には多くの石仏・石塔類が並ぶ。二十二夜塔(如意輪観音)は享保4年(1719年)、地蔵菩薩像は安政5年(1858年)、百番供養塔は寛政6年(1794年)の銘が読み取れた。

常楽寺 (5)
本堂は明治18年(1885年)に焼失、同24年(1891年)に再建されている。直近では平成13年(2001年)に改修されている。

常楽寺 (6)
本堂前に薬師如来像(左)と馬頭観音像(右)が置かれている。いずれも室町(南北朝)期の作とされる。薬師堂に納められているとのことだったが、境内にお堂は見当たらず、本堂前に置かれていた。

常楽寺 (7)
常楽寺 (8)
弘法大師像。天保5年(1834年)の大師1000年忌の造立。

常楽寺 (9)
常楽寺 (10)
無縁仏墓の頂上の石仏(石像)は室町(南北朝)期の弘法大師像とされる。

常楽寺 (11)
法華経二千部供養塔。文化8年(1811年)の造立。

常楽寺 (12)
常楽寺 (13)
境内の池。ツツジが綺麗に咲いていた。本堂改修前の屋根瓦も置かれていた。

常楽寺は天明3年(1783年)の浅間山大噴火時、利根川を流れてきた泥流により多くが埋没している。当時は人手で掘り出すしかなかったが、復興を遂げている。


佐波郡玉村町五料の飯玉神社。

五料飯玉神社 (1)
五料飯玉神社 (2)
五料飯玉神社は応仁2年(1468年)那波氏が堀口村(現在の伊勢崎市堀口町)の飯玉神社より分霊を勧請したもの。明治40年(1907年)に近隣の石神神社、白山神社、養蚕神社を合祀している。

参道は西側から入り、社殿前で北転する。参道は昭和15年(1940年)に整備されたようだ。元は南側にまっすぐ参道が延びていたのだと思う。

鳥居前の灯籠は文政4年(1821年)の奉納。

五料飯玉神社 (3)
五料飯玉神社 (4)
五料飯玉神社 (5)
社殿は平成19年(2007年)の新築建立。ただ新築は拝殿と本殿覆屋のみのように見える。

五料飯玉神社 (6)
本殿には見事な彫刻が施されているが、防護網の目が細かく見づらい。写真も防護網の方にフォーカスされてしまい、上手く撮れなかった。

五料飯玉神社 (7)
社殿脇には多くの力石が置かれている。

五料飯玉神社 (8)
五料飯玉神社 (9)
境内社の八幡宮、菅原神社、八坂社などと、不完全な形の御神灯や石宮。

五料飯玉神社に合祀された水神宮のお祭りとして「水神祭」が伝わっている。利根川と烏川が合流する五料地区は水運が発達し、船頭も多かったことから水難除け祈願から始まったとされている。


動画があったので参考までに。

麦わらや竹などから約7mの舟を造り、地区内を曳いて廻った後に利根川に流す。水神祭は群馬県の重要無形民俗文化財に指定されている。

*今年(令和4年度)の水神祭は、新型コロナウイルスによる感染症の動向に鑑みて、規模を縮小して関係者で執り行うことになったとのこと。

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