Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 館林市・邑楽郡


館林市北成島町の大谷休泊の墓。

大谷休泊の墓 (1)
大谷休泊の墓 (2)
大谷休泊は戦国期の農政家。関東管領・山内上杉憲政の下で、農業事業や開拓事業を執り行っていたが、天文21年(1552年)に平井城が北条氏に攻められ憲政が越後に逃げると、館林城の長尾顕長に招かれ、館林周辺の開発事業を行った。

渡良瀬川から、後に「上休泊堀」と名付けられる堀を掘り、新田開発を進めた。また、多々良沼からも「下休泊堀」を掘り、同様に開墾を進めた。その結果、多くの新田が誕生し農業生産力は飛躍的に向上した。

さらには、150万本もの松を植林し、「大谷原山林」を造成。これは防風林としての役目を果たし、現在もその一部が残っている。

大谷休泊の墓 (3)
墓地は「大谷休泊記念公園」として整備され、休泊の事業を示す大きな解説板も立っている。

休泊は天正6年(1578年)57歳で没している。


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館林市高根町の大山祇(おおやまづみ)神社。

大山祇神社 (1)
大山祇神社 (2)
大山祇神社は正徳4年(1714年)に、大谷休泊が成島に建立した山神社から分社し創建。明治43年(1910年)に近隣の4社を合祀し、大山祇神社となっている。鳥居の扁額は「山神宮」。

大山祇神社 (3)
大山祇神社 (4)
大山祇神社 (5)
ご祭神は大山祇神で、その名の通り山の神である。別名和多志大神と呼ばれ、こちらは海の神を表している。つまり大山祇神は山と海の両方を司る神となる。

また大山祇神の娘である木花之開耶姫が彦火火出見尊を生んだことを喜び天甜酒(あめのたむざけ)を造ったことから酒造の神でもある。木花之開耶姫は天照大神の孫・瓊瓊杵尊の妻。(神様は読み方も難しいけど、系譜も難しい)

大山祇神社 (6)
鳥居脇に寛延4年(1751年)銘の道祖神があった。

地元の方々は、現在も大山祇神社を「山神様」と呼び鎮守として崇拝している。

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館林市高根町の妙高山龍興寺。

龍興寺 (1)
龍興寺 (2)
龍興寺 (3)
龍興寺の由緒は不明だが、天正年間までは高根寺と称していたと考えられる(北条氏邦が出した天正12年(1584年)の虎印制札に高根寺とあるため)。

榊原康政の家老・原田種政が中興開基したとの謂れもあるので、龍興寺となったのは、康政が館林に入った天正18年(1590年)以降と思われる。

龍興寺 (4)
参道脇にある五輪塔。非常に立派な五輪塔である。中興開基の原田種政の墓(五輪塔)があるということだったので、これが原田種政の墓ではないかと勝手に推定。

原田種政は九州肥前の豪族・原田種高の三男で、種高の死後徳川家康に仕える。天正10年(1582年)の徳川家と北条家の合戦の際に功名をあげ、榊原康政が家康に頼み家臣にもらい受け、家老として重用したといわれる。寛永5年(1628年)に73歳で没している。

龍興寺 (5)
境内にある館林市多々良地区の戦没者供養塔「英霊之碑」。館林市には戦没者を祀る施設が多い。祖国のために散った英霊をお祀りすることは当然であり、また素晴らしいことである。

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邑楽郡邑楽町中野の精勤山永明寺。

永明寺 (1)
永明寺 (2)
永明寺 (3)
永明寺は元弘元年(1331年)夢窓国の開基と伝わる。

永明寺 (4)
永明寺 (5)
境内にあるキンモクセイは、開基の夢窓国が植えたといわれ、樹齢は700年近い。

昭和12年(1937年)には国の天然記念物に指定されている。その当時は、樹高16m、幹周り3.2m、枝張り18mもの威容を誇っていたが、昭和41年(1966年)の台風により主幹は地上5mで折れて、根が地上に出るほどに倒伏してしまった。

主幹は回復しなかったが、根から数本出た芽が現在では7mまでに成長している。

永明寺 (6)
本堂前にあった石造。小坊主が木魚を枕に居眠りをしている。かわいいけど、何を表しているのは良く分かんない(笑)。

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邑楽郡邑楽町鶉の東光山恩林寺。

恩林寺 (1)
鎌倉幕府が新田義貞らに滅ぼされた時、14代執権・北条高時の弟・四郎慧性の夢枕に立った江ノ島弁財天から、「上毛の郷に霊地あり、その地で北条家の再興を図るべし」と告げられ、弟の荒間五郎友春ら主従5名で辿りついたこの地に、江ノ島弁財天を勧請した。

上記は邑楽町鶉新田の浮島弁財天の由緒である。
(「多々良沼の岬に鎮座 -浮島弁財天-」参照)

恩林寺も同様に、彼らが文和2年(1353年)に鎌倉建長寺44世・東林友丘を開山として創建し、北条一門の菩提を弔い再起の祈願所としたという。四郎慧性ってのは北条泰家のことと考えられる。

恩林寺 (2)
恩林寺 (3)
本堂は平成7年(1995年)の新築。本堂に安置されている薬師瑠璃光如来は、60年に一度ご開帳される秘仏。普段は奥の金色のお堂に安置されている。

恩林寺 (4)
邑楽町の天然記念物に指定されているケヤキ(写真右)と銀杏(同左)。

ちなみに、恩林寺がある地区は鶉というが、これは足利尊氏が雉狩りに来た際、鶉を捕獲し金の鳥かごに入れて持ち帰った、という言い伝えからその名がつけられたという。

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邑楽郡邑楽町中野の廣学山神光寺。

新光寺 (1)
新光寺 (2)
神光寺は中野藤内左衛門景春の開基である中野山善正寺が始まり。 景春は新田義貞とともに戦い、延元元年(1338年)越前にて討死している。

新光寺 (3)
新光寺 (4)
元々この地は中野景春の館跡で、戦国時代は富岡氏配下・宝田和泉守が修築し中野城としていたが、天正18年(1590年)廃城になっている。その後、寛永2年(1625年)、善正寺を中野城後に移したのが現在の神光寺である。

新光寺 (5)
邑楽町の天然記念物であもある大カヤ。推定樹齢は約770年ということなので、中野氏が館を構えていた時の
名残りということになる。樹高21mを誇る姿は壮観である。

新光寺 (6)
享保3年(1718年)に起こった館林騒動で処刑された竹岸武兵衛の顕彰碑。大正6年(1917年)の建立。
(館林騒動関係は「館林騒動・三義人の供養碑 -教学院-」参照)

大カヤから志士之碑周りには芝生が敷きつめられており、それも入って行くのに気が引けるほどきれいに整備されている。

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邑楽郡明和町中谷の阿妻山教学院。

教学院 (1)
教学院 (2)
教学院 (3)
教学院の由緒は不明だが、本堂は平成6年(1994年)に新築されているようだ。

教学院 (4)
教学院 (5)
享保3年(1718年)に起こった館林騒動の代表者3名の供養碑がある。館林藩主・松平清武が館林城の再築費用を賄うため領民に重税を課したことから生活が困窮した領民が一揆を起こしたもの。

領民は年貢の減免を求め江戸藩邸に強訴、結果として年貢は半減されたが、翌享保4年(1719年)3名の名主が斬首された。中谷村(明和町)の恩田佐吉、中野村(邑楽町)の竹岸武兵衛、田谷村(館林市)の小池藤左衛門。

領民は3名の死を悼み、館林小桑原の密蔵寺に供養碑を建てたが、城下に近く破壊されてしまったため、密かにこの教学院に再建している。

ちなみに藩主の松平清武は江戸幕府6代将軍・家宣の異母弟。家光の孫でもある。当時の館林は徳川綱吉の子・徳松死後、天領となっていた。

普通なら、こういう騒動を起こすと幕府から目を付けられるものだが、6代将軍は兄、7代将軍は甥という関係から、2万7千石だった清武は最終的には5万4千石に加増されている。

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館林市本町2丁目の外池商店。

外池商店 (1)
外池商店は江戸時代の創業で、屋号を「和泉屋」という。江戸時代中期、近江の国(滋賀県)から移り込み、造り酒屋を営んでいたが、明治33年(1900年)には味噌、醤油の製造業に変わり、現在は酒の小売業を行っている。

外池商店 (2)
現在の店舗は昭和4年(1929年)の建築で、木造2階建て切妻、瓦葺、平入り、桁行4間、1階正面は下屋が張りだし、2階は格子戸となっている。

敷地内にある蔵は「百々歳蔵(ももぜくら)」と名付けられ、コンサートなどを行うことができるホールとして使用されている。築200年にちなみ、百を2つ重ねた名称のようだ。

同市内の分福酒造店舗(毛塚記念館)と同様町屋の特徴を備えている。
(「分福酒造店舗 -毛塚記念館-」参照)

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館林市本町2丁目の旧二業見番組合事務所。

旧二業見番組合事務所 (1)
二業とは芸者さんの置屋と料亭のことで、見番はそれらの取次ぎや料金の精算・取り締まりをしたところ。

建物は昭和13年(1938年)に建てられたもので、木造2階建、入母屋、桟瓦葺。1階が下見板張、2階が真壁造、白漆喰仕上げとなっている。正面は左右対称で両側を前に出させる事で、切妻屋根が重なるようになっており、手摺を廻す事で楼閣風の意匠にしている。

旧二業見番組合事務所 (2)
1階が事務所で、2階は芸者さんの稽古場であった舞台付き36畳の大広間がある。3方の壁には松や竹が描かれ、当時の華やかな空間が残されている。

現在は本町2丁目東区民会館として地域の方々に利用されている。ということは、中に入っても良かったのかな?

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館林市本町2丁目の毛塚記念館。

毛塚記念館 (1)
毛塚記念館は、江戸時代に建築された「分福酒造」の店舗である。分福酒造は江戸時代に創業し、かつで「丸木屋本店」を名乗った造り酒屋である。

毛塚記念館 (2)
毛塚記念館 (3)
建物の正確な建築年は不明だが、地籍図などから江戸時代末と推定されている。

木造2階建て、切妻、瓦葺き、平入、建築面積61平方mで、正面1階部分は下屋が張りだしている。正面は略格子戸で外壁は下見板張り縦押縁押さえ、妻部分のみは真壁造り、白漆喰仕上げ。

昭和50年(1975年)に酒蔵が野辺町に移転、さらに平成9年(1997年)に母屋が取り壊しとなり正面の店舗部分だけが残された。

現在は毛塚記念館として、当時使用した道具や家財、資料などが展示されている。見学してくればよかったと、ちょっと後悔。

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館林市本町2丁目の青龍神社。
前回の「竜の井」と繋がっているいるという「青龍の井戸がある」。
(「城沼の竜神伝説 -竜の井-」参照)

青龍神社 (1)
青龍神社 (2)
青龍神社は、館林城主だった徳川綱吉の生母・桂昌院が青龍権現社としてこの地に再建したと伝えられている。綱吉も将軍就任後、10石の朱印地を寄進しており、神社入り口には「葵の御紋」が輝いている。

桂昌院が建立したという割には、祠があるだけの小さな神社である。

青龍神社 (3)
青龍神社 (4)
この井戸は福寿院(現在は廃寺)の境内にあり、伝説によると延宝年間(1673~81年)に突然清水が吹き上がり、中から女官姿の青龍権現が姿を現したことから「青龍の井戸」と呼ばれるようになったという。

福寿院が廃寺になった後も、延命長寿の霊験があるとし住民の方々に守られ続けてきた。

龍の口から出てる水が井戸水なのかな。1枚目の写真に写っている、ちょっと腰の曲がったおばあちゃんが水を汲みに来ており、聞いてみたんだけど耳が遠いみたいで無視されちゃったんだよね。

ところで、扁額には「清龍神社」ってあり、本当はどっちなんだろう?

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館林市本町2丁目の竜の井。

竜の井 (1)
竜の井 (2)
かつてこの地にあった善導寺の本堂前にあった井戸。善導寺は天正18年(1590年)榊原康政によってこの地に移された。時は流れ、昭和61年(1986年)館林駅前再開発事業のため、現在地の楠町に再移転している。

竜の井 (3)
井戸の両脇には、当時からのもの思われるイチョウの木が2本あり、昔を偲ばせる。とは言っても、井戸そのものは昭和61年の再開発時に併せて整備されたものらしく、歴史の風情を感じることはできない。

なぜ竜の井と言うかというと、天正18年にこの地へ善導寺が移転して来たおり、寺で行われた説教に城沼に棲む竜神の妻が美しい女性に姿を変え真剣に聞いていたといわれ、その後竜神の妻は迷いから救われたお礼として、この井戸に入りお寺を守ったという伝説があるから。

この井戸と青龍神社の「青龍の井戸」は城沼と繋がっているという伝説もある。

城沼の竜神と言えば、天正18年(1590年)の北条攻めの際、館林城を攻めた石田三成と大谷吉継は、城沼に橋を架け城にを攻撃する作戦をたてたが、橋が完成した翌日にその橋が忽然と消えてしまったという。これは城沼の竜神の仕業との噂が立ったという伝承もある。

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館林市栄町の仏光山覚応寺。

覚応寺 (1)
覚応寺 (2)
覚応寺 (3)
覚応寺の開基は鎌倉時代の武将・佐々木盛綱と伝わる。盛綱は源頼朝の旗揚げから仕えていたが、頼朝没後の建久10年(1199年)に出家し西念と称している。

建仁元年(1201年)には上野国磯部郷に在住していたとの記録もあり、覚応寺を開基していても不思議ではない。(ちょっと磯部と館林は遠いけど・・・)

盛綱夫妻の墓との伝承がある五輪塔が、安中市磯部の松岸寺にある。
(「伝佐々木盛綱夫妻の墓 -松岸寺-」参照)

その頃の創建なら、覚応寺は寺歴800年の名刹ということになる。

覚応寺 (4)
境内にある太子堂。聖徳太子を祀る。明治41年(1908年)の建立で、平成19年(2007年)に修復。祀られている聖徳太子像は、佐々木盛綱が親鸞聖人から授けられたと伝えられている。

覚応寺 (5)
覚応寺 (6)
浮世絵師・北尾重光の墓。
重光は文化11年(1814年)江戸生まれ。25歳の頃から館林に住み、店を構えて各種の幟や絵馬を描くことを生業としていた。重光の絵馬は館林市近郊の多くの社寺に奉納されており、その数は300枚以上といわれている。明治16年(1883年)71歳で死去。

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館林市楠木町の終南山善導寺。
ここには、德川四天王で館林藩主・榊原康政のお墓がある。2011年7月に訪問した時は、東日本大震災の影響で康政の墓を始め関係する宝篋印塔や五輪塔が崩れてしまっていた。(「徳川四天王・榊原康政の墓 -善導寺-」参照)

あれから3年が経ち、修理も完了したのではないかと思い再訪した。

善導寺 (1)
修復された榊原康政の墓。この宝篋印塔は高さ5.46m。

善導寺 (2)
左から康政、長男・大須賀忠政、3男・康勝の墓。

忠政の墓は高さ2.72mの五輪塔。忠政は母の実家・大須賀家を継いでいる。忠政の長男が3代館林藩主・松平忠次である。

康勝の墓は高さ2.73mの五輪塔。康勝は康政の後を継ぎ、2代館林藩主となっている。

このへんの経緯は「榊原康政の孫・松平忠次の生母の墓 -善長寺 その2-」参照

善導寺 (3)
忠政、康勝の墓のさらに右には、康政の側室・花房氏の墓がある。高さ4.37mの立派な宝篋印塔である。花房氏は2代康勝の生母である。

崩れていた宝篋印塔、五輪塔も修復されており、関係者のご尽力に感謝するとともに、復興も着実に進んでいるということを確認できて良かった。

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館林市当郷町の巨法山善長禅寺。
2011年7月に、榊原康政の愛妾「お辻」の供養塔を見に行ったが、今回は前回見そびれた松平忠次(榊原康政の孫)の生母・祥室院のお墓を見に行った。
(「「お辻」の供養塔 -善長寺-」参照)

善長寺 (1)
善長寺 (2)
祥室院のお墓。この宝篋印塔は高さが4.89mもある立派なもの。

祥室院は松平康元(下総国関宿城主)の娘で、徳川家康の姪にあたる。榊原康政の長男・大須賀忠政に嫁ぎ、忠次を産んでいる。

ちょっと余談だが、松平康元の父・久松俊勝は徳川家康の生母の再婚相手である。なので、康元は家康の異父弟になる。

その後、大須賀忠政が慶長12年(1607年)に病没すると、徳川家康の命により菅沼定芳(伊勢長島城主)に再嫁している。元和9年(1623年)に近江国膳所で病没したが、忠次が菅沼家に分骨を願い出て、善長寺にお墓を建立したという。

善長寺 (3)
墓域前には2基の石灯籠が建てられており、向かって左の1基には寛永10年(1633年)の銘がある。ただ、正面からだと平成8年(1996年)の墓修理時に植樹した木が大きくなり、石灯籠自体が見づらくなってしまっている。

榊原康政は「徳川四天王」に数えられる猛将で初代館林藩主であるが、その後は3男・康勝が継いでいる。長男・忠政は大須賀家(実母の実家)を継いでおり、2男・忠長は夭逝していた。

康勝は26歳という若さで亡くなり、勝政という庶子がいたが、家老の策略もあり、大須賀家当主(遠江横須賀藩主)になっていた忠次が3代館林藩主になった。なお、忠次は母(祥室院)が家康の姪であったことから、1代に限り松平姓を名乗ることを許されている。なので、榊原ではなく松平忠次なのだ。

忠次が榊原家を継いだときはまだ10歳であったため、逆に大須賀家は断絶している。

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前回に引き続き、館林市本町2丁目の白峰山大道寺。

戸泉鋼作の墓 (1)
戸泉鋼作(戸泉家)の墓。戸泉鋼作は田山花袋の算術の師。

鋼作は館林藩士の子として天保7年(1836年)に生まれ、明治13年(1880年)頃から地域の青少年に和算(算術、珠算など)を教えていた。明治42年(1909年)死去。享年73歳。(戸泉鋼作について調べられたのはこれのみ)

田山花袋は明治16年(1883年)11歳ころから、登校前に鋼作の和算塾で算術を学んでいたという。

花袋が吉田陋軒の休々塾で漢詩文を学び、14歳の時には漢詩集を編んだことは知られているが、同じころに算術も学んでいたことは余り知られていないと思う。

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館林市本町2丁目の白峰山大道寺。

大道寺 (1)
大道寺 (2)
大道寺 (3)
大道寺は同じ浄土宗の善導寺の寺務を行う役寺で、明治時代に善導寺から独立している。

大道寺 (4)
大道寺 (5)
境内にある館林藩士・生田萬(よろず)の父祖の墓。ここにあるのは、曽祖父・曾祖母、祖父・祖母、父、母、妹の5基。

生田萬は享和元年(1801年)館林藩藩士の子として生まれる。平田篤胤の門下生となり、文政11年(1828年)に藩政改革の建白書を提出したことで館林藩を追われる(この時の藩主は越智松平氏)。天保7年(1836年)越後柏崎に移っている。

天保8年(1837年)の「天保の大飢饉」で困窮した領民を救おうと、柏崎大久保陣屋を襲撃するも失敗。自刃している。37歳。生田萬の墓は新潟県柏崎市にある。

当時の館林藩(越智松平家)の藩政がどんなものだったかの知識はないが、一般的には弘化2年(1845年)に入った秋元家が民政に力を注ぎ、文武奨励などを行い藩政改革に成功したといわれている。

藩主の当たり外れ(失礼!)って、けっこうあるよね。

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館林市本町2丁目の青梅天満宮。

青梅天満宮 (1)
青梅天満宮は、大宰府に左遷された菅原道真が4つの梅の実を枝に刺し投げたところ、日本各地に根づいた内のひとつとされる。他は花久里梅(島根)、飛梅(福岡)、四季梅(香川)。菅原道真が大宰府に左遷されたのは昌泰4年(901年)なので、その頃の創建になるのかな。その後、榊原康政が当地に遷している。

青梅天満宮 (2)
青梅天満宮 (3)
朱色に映える山門。以前は仁王様でもいたのかも。大きな絵馬が奉納されているが、かなり薄れてきており良く見えない。

青梅天満宮 (4)
青梅天満宮 (5)
榊原康政が文禄4年(1596年)、慶長16年(1611年)に社殿を整備。寛永18年(1641年)には館林藩奉行・加藤甚内が境内を拡幅すると共に社殿を造営している。

拝殿前にあるのは梅の木かなぁ。樹木には詳しくなく、花が咲いてないと分からない。

青梅天満宮 (6)
御神木と表示のあった木は枯れていたけど・・・。枯れたとしても、代々植え継いでいけばいいのにと思ってしまった。(謂れのある木が枯れちゃって、現在何代目なんてあちこちにある)

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館林市代官町の邑楽護国神社。

館林・護国神社 (1)
邑楽護国神社は明治2年(1869年)、館林藩主・秋元礼朝が戊辰戦争の戦没者39柱を祀ったのが始まり。館林藩は官軍として戊辰戦争に出兵し、東北地方まで転戦している。

廃藩置県後の明治8年(1875年)、明治政府により館林招魂社と改称、明治14年(1881年)現在地に移転している。大正13年(1924年)には、旧館林藩兵以外の戦没者も祀られ、また昭和14年(1939年)邑楽護国神社と改称されている。

旧館林藩兵以外も戦没者が祀られたことから、「地方の靖国」として位置づけられている。

館林・護国神社 (2)
木々に囲まれた長い参道。多分、昔はもっと広かったんだろうなぁ、と勝手な想像。

館林・護国神社 (3)
館林・護国神社 (4)
館林・護国神社 (5)
思ったより質素な社殿。華美である必要はないが、英霊をきちんとお祀りできれば構わない。

館林・護国神社 (6)
館林・護国神社 (7)
館林・護国神社 (8)
彰忠碑の揮毫は陸軍大将・松木直亮。松木大将は日露戦争に従軍後、陸軍省整備局長、第14師団長などを歴任している。

国のために命を捧げた英霊を手厚く祀ることは、現在を生きる日本国民として当然のことである。昨今、靖国神社への参拝が一部政治問題化していることは誠に残念なことである。

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館林市代官町の長良神社。

長良神社 (1)
長良神社 (2)
長良神社 (3)
長良神社の創建年は不明だが、赤井良遠なる者が、かつて上野国・国主としてこの地を治めた藤原長良の余徳を慕い、佐貫荘長柄郷瀬戸井(現在の邑楽郡千代田町)に勧請したのが始まりとされる。

長良神社 (4)
長良神社 (5)
後に、館林城主・赤井照光によって、この地に勧請されたと伝わる。だとすると、長良神社がこの地に創建されたのは1500年代になる?

長良神社の主祭神は藤原長良であるが、その他17神が祀られている。その中に蛭子命(恵比寿神)がある。長良神社では大正時代から恵比寿講が行なわれ、毎年12月の恵比寿講祭では、商売繁盛の熊手を売る露店とそれを買い求める客で賑わうという。

主祭神の藤原長良は藤原冬嗣の長男であり、娘の高子が清和天皇の女御となり陽成天王を産んだことから、死後太政大臣を追贈されている。しかし、長良が上野国の国主を務めたという事実はないと考えられており、長良神社は佐貫氏が鎮守として祀ったのが始まりともいわれる。

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館林市台宿町の如意珠山五宝寺。

五宝寺 (1)
五宝寺 (2)
五宝寺 (3)
五宝寺 (4)
五宝寺の由緒は分からなかった。

五宝寺 (5)
立派なしだれ桜があった。樹齢は不明だが、高さ10m、幹周2.5m。

五宝寺に行った目的は不動まんだら板碑を見るため。

五宝寺 (6)
五宝寺 (7)
境内にある不動まんだら板碑。緑泥片岩製で高さ121cm。上部に蓮大上に三弁宝珠を配した阿弥陀種子、中段は梵字で「不動」「降三世」「軍茶利」「大威徳」「金剛夜叉」の五大尊種子が彫られている。最下部には高さ12cmの変形五輪(塔)が二基彫刻され、中央に「永仁5年」と年号も刻まれている(永仁5年は1297年。)

覆屋の軒から入ってくる光で、どうやってもうまく撮れなかった。ちょっと見づらいけどご勘弁を。

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館林市西本町の愛宕神社。

愛宕神社 (1)
館林愛宕神社は文武天皇4年(700年)に山城国(京都)愛宕神社の分霊を勧請したと伝わる。西暦700年は、天武天皇崩御による元号が定められなかった期間(686~701年)。

愛宕神社 (2)
愛宕神社 (3)
鎌倉幕府5代執権・北条時頼が社殿を造営。慶長7年(1602年)には館林城主・榊原康政が社殿を修復、寛文9年(1699年)には徳川綱吉が同じく社殿を修復するなど、歴代館林城主の崇敬を受けた。ただ、厳密には寛文9年には綱吉は既に将軍に就任しており、館林は天領になっている。

現在の社殿は、近年の新築建立と想われる。

愛宕神社 (4)
本殿は拝殿とは分離されており、上毛古墳綜覧記載の館林町第1号古墳上に鎮座している。古墳自体は径15.2m、高さ4mの円墳。

愛宕神社 (5)
愛宕神社 (6)
拝殿の右手に青石地蔵板碑がある。秩父産の緑泥片岩を使用しており、石の色が青く見えることから青石と呼ばれている。

この板碑は頂部が欠けているが202cm、800kgの大きさである。写真では分かりづらいが、上半分に地蔵像が刻まれている。下部には銘文が刻まれており、文永10年(1273年)に12人の子どもたちが父の13回忌に建立したとある。

この青石地蔵板碑は、画像板碑として群馬県内でも有数のものとされている。

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館林市西元町の館林山応声寺。

応声寺 (1)
応声寺 (2)
応声寺は徳治元年(1306年)に僧・真教が創建した長福寺が始まりといわれる。

応声寺 (3)
応声寺 (4)
応声寺には館林城にあった鐘が移されている。徳川綱吉が館林城主だった寛文13年(1673年)、城内や城下町に時を知らせるために造らせた鐘。

延宝8年(1680年)、綱吉が5代将軍になると子の徳松が藩主となる。しかし徳松が天和3年(1683年)に4歳で夭逝すると館林藩は廃藩、館林城は破却された。

打鐘係をしていた縁故により、鐘は応声寺に移されたという。この時、鐘の銘が消されたようで、鐘には亀裂が入っている。

ちなみに、綱吉は基本的に江戸在住であって、生涯で館林に寄ったことは、寛文3年(1663年)の将軍・家綱に随伴した日光詣での帰路のみであったという。

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館林市仲町の宝塔山観性寺(かんしょうじ)。
関東88ヶ所霊場の第14番霊場である。

観性寺 (1)
観性寺は明治末に観音寺と自性院が合併して観性寺となった。観音寺は天正4年(1576年)僧・弘喜の開創。自性院の開創は不明。

観性寺 (2)
赤門と呼ばれる仁王門。自性院より移されたもの。

観性寺 (3)
観性寺 (4)
平成8年(1996年)新築の本堂。入母屋造り、瓦葺き。本尊の大日如来、不動明王、如意輪観音が奉安されている。大日如来は自性院、如意輪観音は観音寺の本尊であったらしい。また、それに不動明王を加えた三尊が、現在本尊となっている。

観性寺 (5)
山門を入って左手にある薬師堂。これも自性院からの移築。瑠璃光如来の扁額が掛かっている。「眼の薬師」と呼ばれ、多くの参拝者がある。

ちなみに、関東88ヶ所霊場の第1番霊場は、高崎市の白衣観音(観音様)で有名な慈眼院である。

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館林市仲町の東向山常光寺。

常光寺 (1)
常光寺は天正5年(1577年)、元の善導寺跡地の一堂を常光寺として円蓮社光誉が開山し、慶長年間(1596~1615年)に現在地へ移転している。

常光寺 (2)
常光寺 (3)
現在の本堂は明治30年(1897年)に新築されたが、老朽化のため平成13年(2001年)に改修されている。

常光寺 (4)
大正14年(1925年)建立の荒井閑窓の句碑。
「花過ぎて不断にかへるさくら哉 閑窓」と刻まれている。閑窓は館林出身の俳人。漢学や書画にも秀でていた。常光寺の檀家であり、本堂の建築に尽力している。

常光寺 (5)
常光寺 (6)
田山花袋の姉の墓。
昭和36年(1961年)に無縁墓石群の中から地元の方々によって発見された。田山花袋の小説「姉」の中に、この墓石についての記述がある。「石碑というよりも父親の建てたなつかしい石、僕は倒れていたのを起ここした。施主として父親の名が刻まれてある」

田山家は館林在住時、常光寺を菩提寺としていた。しかし田山家の館林在住は20年余りであったため、この墓石一基が残っているだけらしい。田山花袋自身の墓は東京・多磨霊園にある。

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邑楽郡邑楽町石打の月音山明言寺。

明言寺 (1)
明言寺 (2)
明言寺は元久元年(1204年)の創建と伝わる。創建時は天台宗であったが、天正2年(1574年)曹洞宗に改宗、再興されている。

明言寺 (3)
明言寺 (4)
本尊は千手観音だが、通常は奥の院に安置されており、12年に1度だけご開帳される。ちなみに、今年の5月17日、18日に御開帳された。

明言寺 (5)
明言寺 (6)
明言寺 (7)
仏殿には釈迦像が安置され、脇には道元(曹洞宗高祖)と瑩山(曹洞宗太祖)の像もあった(写真はないけど)。

明言寺の千手観音は「こぶ観音」と呼ばれており、それは2つの説話に由来している。

「子生観音」
平安時代の末に、子のいない夫婦が観音様に熱心に祈願したところ男児を授かった。この子を見た旅の僧が「観音様の申し子」だからと千手観音像を授けたという。後にこの子が明言寺を開創したため、このことから、子宝・安産・子育てに霊験あらたかな観音様といわれる。

「瘤観音」
武州(埼玉県)のある殿様には子どもの頃から目の上に瘤があり、どうしても取れなかったのが、ここの観音様に祈願したところ、跡形もなく治ったことから、「瘤(不要なもの)」を取り除いてくれる観音様という信仰が生まれたという。

山門前にはお土産物屋(山門の写真左手前に写っているお店)もあり、毎年1月と8月の大祭や毎月17日の縁日には多くの参拝客で賑わうという。

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邑楽郡邑楽町石打の仏種山慶徳寺。

慶徳寺 (1)
慶徳寺は天正元年(1573年)鉄翁霜金和尚の開基と伝わる。

慶徳寺 (2)
慶徳寺 (3)
山門は寺の開創と同時に建立され、邑楽町で最古の建造物とされている。2階造りの楼門で屋根は銅板葺き(元は茅葺)。内部は回廊式になっており、柱には唐獅子と象の彫刻が施されている。

2階部分には閻魔大王を中心に十王の彩色坐像が安置されており、これは冥府にある閻王殿(閻魔大王の宮殿)を表している。山門の扁額は閻王殿。

慶徳寺 (4)
慶徳寺 (5)
本尊の阿弥陀如来を祀る本堂。

鎌倉末から南北朝、さらには応仁の乱からの戦国時代と戦乱が続き、庶民に来世往生の願いが強くなった時代背景から、山門の2階に閻王殿が造られたと考えられる。

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邑楽郡邑楽町篠塚の霊松山大信寺。

大信寺 (1)
大信寺 (2)
大信寺 (3)
大信寺は宝亀年間(770~81年)に日光・輪王寺を開いた勝道上人が光善寺林(現在の大信寺から東南700m)に修行のための草庵を結んだのが始まりという。

大信寺 (4)
弘仁2年(811年)、弘法大師が勝道上人の足跡を訪ね当地に来た際、自ら薬師如来像を彫って薬師堂を建立したといわれる。

大信寺となったのは、篠塚伊賀守重廣菩提寺となった暦応年間(1338~42年)のこと。

大信寺 (5)
大信寺 (6)
大信寺から数十mのところにある、篠塚伊賀守重廣の供養塔。供養塔(宝篋印塔)には「大信寺殿智證大禅定門」と戒名が刻まれている。

大信寺 (7)
この地に生まれた重廣は、新田義貞の鎌倉攻めで勇名をとどろかすなど、新田義貞四天王のひとりに数えられる。重廣は6尺5寸、今で言うと195cmの大男で、4尺3寸(129cm)の太刀や8尺(240cm)の金棒を使いこなす怪力の持ち主であった。

また太平記の新田義貞を狙う敵兵を倒したシーンでは「両膝合わせて、さかさまに蹴倒す」とあり、これはドロップキックのように飛び蹴りをしたと思われる。

大信寺 (8)
大信寺 (9)
重廣は怪力の持ち主だったと書いたが、その証拠となるものがある。重廣がひとりで担いだと伝えられる長さ245cm、400kgの碇石とでかいお手玉石。(碇石の実物は茨城県神栖市波崎にある)

重廣は四国今治・世田山城の合戦で落城後、ひとりで敵中へ繰り出し「篠塚伊賀守重廣なり。討ちとって勲功にあずかれい」と名乗ると、みな重廣の名を聞いて怖気づき、敵方は退いてしまったという。そのため敵陣を悠然と通り、敵の船で脱出したという逸話も残っている。

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邑楽郡千代田町木崎の医王山東光寺。

明和町・東光寺 (1)
明和町・東光寺 (2)
明和町・東光寺 (3)
木崎東光寺の由緒は不明。

明和町・東光寺 (4)
明和町・東光寺 (5)
東光寺の山門に鎮座する仁王像は、松材製寄木造り、差し首、玉眼(水晶)嵌入の彩色像で、造像時期は明確でない。しかし首部に寛政4年(1792年)の修理墨書銘があることから、17世紀後半から18世紀初期の造像と推定されている。

千代田町の重文指定第1号である。

明和町・東光寺 (6)
明和町・東光寺 (7)
境内にある馬頭観音立像。宝暦4年(1754年)の造立。

山門の仁王像前はガラスが入っており、反射で他の景色が写りこんでしまい、写真を撮るのに苦労した。なので、かなり横からの写真しかない。

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邑楽郡千代田町舞木の舞木山円福寺。

舞木円福寺 (1)
舞木円福寺 (2)
舞木円福寺 (3)
円福寺という寺名は、けっこういろんなところにあるので、舞木円福寺としている。

舞木円福寺 (4)
舞木円福寺にある元応の板碑。
石質緑泥片岩製で、高さ107cm、幅30cm、厚さ4cm。種子は阿弥陀で、その上に三弁宝珠を配し蓮座があり、その下方に元応元年の紀念銘が記されている。元応元年は1319年なので鎌倉時代のものである。

舞木円福寺 (5)
山門脇に森田梅庵と大塚半蔵という人の墓があるとあったので、探してみたけど、見つからなかった。多分、個人名ではなく森田家、大塚家のお墓に眠っているんだろう。

申し訳ないが、森田梅庵も大塚半蔵も全く知らない。千代田町のHPには郷土の偉人として紹介されていたけど・・・。

舞木円福寺 (6)
代わりと言ってはなんだが、墓地の入り口付近で見つけたのが、初代千代田町長・大谷典三氏の墓。立派なお墓だ。大谷典三氏は千代田町の名誉町民らしい。

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