上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 館林市・邑楽郡


邑楽郡大泉町東小泉の厳島神社。

東小泉厳島神社 (1)
東小泉厳島神社は、天正7年(1579年)に勢光寺開山の了海が弁天尊を勢光寺内のお堂に安置したのが始まり(当時は弁天堂と呼ばれた)。本尊の弁天象は弘法大師の作とされる。その後、寛永7年(1630年)勢光寺3世・了信が現在地に竹堂を建て勢光寺から遷している。

明治初年に勢光寺から分かれ厳島神社となり、明治41年(1908年)に菅原神社と合併。その菅原神社も明治45年(1912年)長良神社と合併、小泉神社となっている。

しかし地元の方々は、従来通り弁天尊を福徳・智慧・財宝の神として信仰し、毎年例祭も行っているという。

東小泉厳島神社 (2)
東小泉厳島神社 (3)
東小泉厳島神社 (4)
堂内には小さなお社に鏡が置かれている。鏡がご神体になっているのかな。右側には弁天像もある(こちらがご神体かな)。まだ新しそうだ。

東小泉厳島神社 (5)
境内の弁天像。平成17年(2005年)の造立。弘法大師作といわれる弁天像はいつしかなくなり、人々は虚しくお参りすることになったので、代わりに建立されたようだ。同内の弁天像も同時期の造立かも。

東小泉厳島神社 (6)
境内入口の道祖神。文化8年(1811年)の造立。

弁天さまは元々仏教の守護神である天部だが、神仏習合で神道にも取り込まれている。ここがオレのような素人には分かりづらいところ。この厳島神社のように祀られているところも多い。しかし一方で仏さまとしてお寺に安置されているケースも多い。

明治の神仏分離時に神道色の強かった弁天堂(社)の多くは神社となったらしいので、ここもそうなんだろうとしか言えない。


邑楽郡大泉町東小泉の普照山勢光寺。

勢光寺 (1)
勢光寺は天正7年(1579年)小泉城主・富岡秀親(富岡氏4代)の室・知月院が、僧・了海を招き清光寺を創建。亡夫の菩提を弔った。寛文12年(1672年)京都・知恩院の末寺になった際、勢光寺と改称している。

勢光寺 (2)
勢光寺 (3)
山門には天井絵が施されている。

勢光寺 (4)
勢光寺 (5)
門前の石仏群。お地蔵さんは延宝4年(1676年)の銘があった。

勢光寺 (6)
本堂は文化10年(1813年)に焼失。その後、庫裡を兼用の仮本堂としてきたが、本堂、庫裡とも新築されたようだ。

勢光寺 (7)
勢光寺 (8)
勢光寺 (9)
聖徳太子の線刻碑。大正10年(1921年)の建碑。聖徳太子の1300年忌とあったと思う。

勢光寺 (10)
庚申供養塔と青面金剛像など。宝永(1704~11年)、享保(1716~36年)の銘があった。

勢光寺 (11)
勢光寺 (12)
鐘楼と梵鐘。勢光寺の梵鐘は先の大戦時に供出されて以来無かったが、平成31年(2019年)に檀徒の方により鐘楼と共に寄進されている。

勢光寺 (13)
明治6年(1873年)に現在の大泉北小(当時は求道館)が勢光寺に開校した旨の記念プレートがあった。


邑楽郡大泉町東小泉の羽黒山梅梢寺。

梅梢寺 (1)
梅梢寺は元禄8年(1565年)龍泉院2世・芳庵正東が梅梢庵として開創したのが始まり。境内に梅の木が多かったので、この名称になったとされる。

梅梢寺 (2)
寺標前の地蔵像と馬頭観音石碑。

梅梢寺 (3)
本堂は昭和51年(1976年)の建立。本堂前の灯籠は昭和60年(1985年)の奉納。

梅梢寺 (4)
境内の招福観音像。平成10年(1998年)の造立。

梅梢寺 (5)
墓地入口の六地蔵。

梅梢寺の北に羽黒権現があり、当地が羽黒と呼ばれていたので羽黒山の山号になった。なお、羽黒権現は富岡氏家臣・茂木若狭が天文15年(1546年)に勧請したといわれるが、現在はその社は不明となっている。


邑楽郡大泉町上小泉の夜盗(よとう)の墓。
大泉町斎場内(道路側)にある。

夜盗の墓 (1)
夜盗の墓 (2)
その昔、間之原地区の農家(旧家)に盗賊が押し入り金品を奪って逃げたが、使用人に追いつめられ切り殺された。そのたたりを恐れ墓を建て霊を慰めた。

これを「夜盗の墓」と呼んで、今でもお参りをする人がいるという。


邑楽郡大泉町北小泉の雷電神社。

小泉雷電神社 (1)
小泉雷電神社 (2)
北小泉雷電神社の由緒は不詳。明治40年(1907年)小泉神社に合祀されたが、西原地区氏子の皆さんの懇願により旧社地に再び雷電神社として祀られている。

小泉雷電神社 (3)
小泉雷電神社 (4)
小さなお社の中に神殿が鎮座している。

小泉雷電神社 (5)
境内は狭いがその大半が緑で覆われ、しかも整備も行き届いている。藤棚のように見えたので、その季節には花も綺麗だろう。

西原地区の言い伝えでは、大昔に大洪水があり雷電さまのお宮が板倉まで流され、そのまま板倉で祀られたという。そのため、西原の雷電さまは板倉の雷電神社より古く、霊験もあらたかだといわれる。


邑楽郡大泉町西小泉の小泉大神宮。

小泉大神宮 (1)
小泉大神宮の由緒は不詳。元は神明宮(社)で、正善院の山号の元になっている。
(「大泉町西小泉・天照山正善院」参照)

明治10年(1877年)富士之越(現在の富士)浅間神社の境内へ遷る。その後、旧社地に社殿を建立し祭祀している。その際に大神宮となっている。

小泉大神宮 (2)
小泉大神宮 (3)
現在の社殿は平成23年(2011年)の建立。

神霊は浅間神社に遷座後、小泉神社に合祀されていたようだが、小泉大神宮の創建に伴い分祀されたようだ。


邑楽郡大泉町西小泉の天照山正善院。

正善院 (1)
正善院は龍泉院7世・伝国正的が松原庵として創建。庵近くに神明社があり、そこから天照山の山号とした。万治元年(1658年)当地の石井家が僧・全鉄を迎え一宇を建立。その後、明和8年(1771年)に石井家が開基となり伽藍を整備し正善院となっている。

正善院 (2)
正善院 (3)
本堂は平成20年(2008年)の新築建立。

正善院 (4)
六地蔵は平成6年(1994年)の奉納。

正善院 (5)
境内の聖観音像。

正善院 (6)
正善院 (7)
延命観音菩薩像。通称ぽっくり観音とある。平成15年(2003年)の建立。

延命観音は呪いや毒害から守り、寿命を延ばす功徳があるとされる。人生最後の病に伏せりしも、延命観音の手引きによりぽっくり極楽浄土に導かれることから「ぽっくり観音」というらしい。


邑楽郡大泉町中央の瑠璃山常光寺。

常光寺 (1)
常光寺は龍泉院2世・芳庵正東の開山。芳庵正東の入寂が天正4年(1576年)なので、創建はその前となる。その後、元禄年間(1688~1704年)に現在地に移転。その際の碧天觜印を中興開山としている。

常光寺 (2)
念仏供養の地蔵像。平成23年(2011年)の造立。

常光寺 (3)
六地蔵は平成元年(1989年)の造立。

常光寺 (4)
常光寺 (5)
本堂は昭和43年(1968年)の建立。

常光寺 (6)
常光寺 (7)
境内の薬師堂(瑠璃光庵)。本尊の薬師如来は厨子の中。この薬師如来像は鎌倉時代の仏師・運慶の作といわれる。

常光寺 (8)
聖観音像。

常光寺 (9)
庫裡前には埴輪が置いてあった。右側の物は有名な「倚子に腰かけた少女」(古海天神山古墳出土)だね。国の重要文化財に指定されており、実物は国立東京博物館にある。大泉町文化むらの埋蔵文化財展示室でレプリカを見ることができる。
(「大泉文化むら・埋蔵文化財常設展示室」参照)


邑楽郡大泉町中央の西宮神社。

大泉西宮神社 (1)
大泉西宮神社 (2)
大泉西宮神社は昭和23年(1948年)に小泉町(当時)商工会の総意により、兵庫県・西宮神社の分霊を勧請し創建された。商売繁盛を祈念するとともに、地域を盛り上げようとしたもの。

ちなみに、小泉町と大川村が合併し大泉町になったのは昭和32年(1957年)のこと。

大泉西宮神社 (3)
大泉西宮神社 (4)
大泉西宮神社 (5)
拝殿は創建の数年後に建立されている。

大泉西宮神社 (6)
本殿は創建時に、中島飛行機の産業報国館隅にあった神殿を商工会長が直々に富士重工(現スバル)からもらい受けたもの。

大泉西宮神社 (7)
大泉西宮神社 (8)
境内隅にある庚申供養塔。宝暦10年(1760年)の造立。西宮神社は中部公民館敷地内(鳥居の写真に写っている右側の建物)にあるので、庚申塔は元々あったものと思う。白いカップがお供えされている。

当地は正眼寺の前身である正眼庵を開創した富岡秀高の室・妙智尼の屋敷跡との説もある。
(「大泉町城之内・赤城山正眼寺」参照)

西宮神社といえば恵比須講。毎年11月19日、20日に行われる。当日は境内までの道にはたくさんの露店が並ぶ。熊手などがが売れるたびに、景気の良い手締めの音が鳴り響く。その他、大泉スタンプの謝恩抽選会、季節の果物・野菜の即売や甘酒が振舞われる。


邑楽郡大泉町富士の鹿島浅間神社。

鹿島浅間神社 (1)
鹿島浅間神社は承平元年(931)佐貫荘荘管・佐貫良綱の勧請と伝わる。同年の6月1日(旧暦、今の7月)にこの地方一帯に雪が降り、これは浅間明神の怒りに触れたと考えてのものといわれる。

鹿島浅間神社 (2)
石段は脇の巨木の根の影響か、波打っている。

鹿島浅間神社 (3)
鹿島浅間神社 (4)
石段横の富士登山33度記念石碑と馬頭観音。馬頭観音には安永4年(1775年)の銘がある。

鹿島浅間神社 (5)
鹿島浅間神社 (6)
鹿島浅間神社 (7)
社殿は富士塚の上に建つ。小さい円墳のような気がしないでもないが。

鹿島浅間神社 (8)
浅間神社(木花咲耶姫命)は安産の神・子育ての神とされる。毎年の初山祭は、赤ちゃんの額に御朱印を押して祈願するので、「ぺたんこ祭り」といわれる。写真は大泉町広報情報課の公式ツイッターから借用。

江戸時代から続いている伝統行事で、赤ちゃんの無病息災、無事成長を願うもの。男の子と女の子では違うご朱印を押す。

YouTubeに「初山祭」の動画があったので、貼り付けておきます。




館林市富士原町の富士嶽神社でも同様の行事が行われている。
 「館林市富士原町・富士嶽神社


邑楽郡大泉町城之内の社日稲荷神社。
小泉神社の境内社である。(小泉神社は「大泉町城之内・小泉神社-」参照)

社日稲荷神社 (1)
社日稲荷神社 (2)
社日稲荷神社は文化13年(1816年)長良大明神のご託宣により、長良神社(現在の小泉神社)境内に社殿を造営し社日大神を勧請、社日神社として創建。昭和48年(1973年)に京都・伏見稲荷から分霊を勧請、翌年に社日稲荷神社と改称している。

社日とは雑節のひとつで、春には五穀の種を供えて豊作を祈願し、秋にはその年の収獲に感謝するという土地の守護神を祀る日。

鳥居は昭和49年(1974年)の建立。扁額の揮毫は福田赳夫元首相。大蔵大臣とあるので、当時は大蔵大臣であったようだ。

社日稲荷神社 (3)
社日稲荷神社 (4)
社日稲荷神社 (5)
明治10年(1877年)に長良神社(小泉神社)の拝殿が再建された際、その旧拝殿を移している。明治31年(1898年)に社殿を再建。

拝殿の扁額も揮毫は福田赳夫元首相(肩書きは鳥居同様大蔵大臣)。ちなみに、小泉神社の拝殿に掛かる扁額も揮毫も福田赳夫元首相。肩書きは内閣総理大臣になっている。

社日稲荷神社 (6)
社日稲荷神社には「探湯(くがたち)神事」が伝承されている。神前に供えられている大釜中の熱湯に小笹を浸し、それを全身に浴び神に忠誠を誓い、神託を仰ぐというもの。写真は大泉町HPから拝借。

文化13年の創建以来3月と9月の例祭時に行われ、家内安全・厄難除け等の神事として受け継がれている。


YouTubeに「探湯神事」の動画があったので、貼り付けておきます。


邑楽郡大泉町城之内の小泉山成就院。

成就院 (1)
成就院は元慶年間(877~85年)龍賀和尚の開山、築比地次郎良基の開基と伝わる。永正年間(1504~21年)に富岡直光(富岡氏の祖)が小泉城内へ移している。

開基の築比地次郎良基は、佐貫荘の荘官だった佐貫弾正良綱の次男である。元慶7年(883年)に小泉神社(当時は長良神社)を創建している。
(小泉神社は「大泉町城之内・小泉神社」参照)

成就院 (2)
成就院 (3)
参道の六地蔵と青面金剛像。六地蔵は昭和63年(1988年)の建立。

成就院 (4)
本堂は天正年間(1573~93年)、文政11年(1829年)に火災で焼失。現在の本堂の建立年は不明だが、昭和49年(1974年)に改築されている。本尊の不動明王は弘法大師の作とされ、数度の火災からも難を逃れたといわれる。

成就院 (5)
境内の不動明王の剣の石碑。

成就院 (6)
成就院 (7)
子育て観音。由緒などは分からない。

成就院 (8)
鐘楼には梵鐘がない。先の大戦時に供出し、再建されてないのかな。

成就院 (9)
本堂前の弘法大師像。弘法大師1150年御遠忌記念。昭和59年(1984年)の建立。

成就院は大泉町で現存する最古のお寺とされる。


邑楽郡大泉町城之内の赤城山正眼寺。

正眼寺 (1)
正眼寺は永禄2年(1559年)富岡秀高の室・妙智尼が正眼庵を開創したのが始まり。ちなみに秀高は富岡氏5代目。寛永年間(1624~45年)に僧・慈恩が一寺を建立、正眼寺となる。

正眼寺 (2)
正眼寺 (3)
門前の聖観音像と六地蔵。いずれもまだ新しい。

正眼寺 (4)
正眼寺 (5)
本堂は昭和61年(1986年)の建立。

正眼寺 (6)
正眼寺 (7)
境内の十王堂。堂内には十王の他3体置かれている。中段の奪衣婆しか分からない。

十王は道教や仏教で地獄において死者への審判を行う10王(尊)。閻魔大王が有名だ。現在も初七日から49日(77日忌)や100か日(100日忌)などの法要を行う。これらは十王の裁きを受けることに対し、死者への減罪の嘆願とされる(宗派によって様々ではあるが)。

元々ここは聖観音(小泉観音)を祀る観音堂だった。正眼寺は東上州観音霊場の第10番札所になっている。現在、聖観音は本堂内に祀られている。

門をくぐると手水舎がある(写真はないけど)。これは境内に赤城神社が守護神として祀られていた名残りと考えられる。山号の赤城山もここから来ている。赤城神社は明治初年の神仏分離により、他へ遷されたのだと思う。


邑楽郡大泉町城之内の八幡宮。

城之内八幡宮 (1)
城之内八幡宮は延徳元年(1489年)小泉城主・富岡直光(富岡氏の祖)により、小泉城本丸の西北塁上に城の守護神として祀られている。

城之内八幡宮 (2)
現在の石祠は昭和7年(1932年)の建立。

小泉城は延徳元年に富岡直光により築城されている。現在は本丸と二の丸の一部が城之内公園として整備され、町民の憩いの場となっている。
(「大泉町城之内・小泉城址」参照)

以前の訪問は平成24年(2012年)だが、相変わらず綺麗な公園だ。前回と同じような写真だが、いくつか撮ってきたので。
城之内公園 (1)
城之内公園 (2)
城之内公園 (3)
城之内公園 (4)
訪問日はちょっと暑い日だったが、芝生にテントを張って遊んでいる家族連れや木陰で読書をしている人など、それぞれの楽しみ方で過ごしていた。


邑楽郡大泉町坂田の蚕福山(こふくさん)神宮。
前回の坂田長良神社の境内社になる。(「大泉町坂田・長良神社」参照)

蚕福山神宮 (1)
蚕福山神宮 (2)
蚕福山神宮 (3)
蚕福山神宮の由緒は不詳。もとは東京三洋電機(現パナソニック)の構内に祀られていたが、中島飛行機製作所建設の際に現在地に遷している。とすると、大正8年(1919年)ころのことかな。

蚕福山神宮 (4)
蚕福山神宮 (5)
蚕福山神宮 (6)
本殿はこけら葺き、朱塗りで獅子頭や花鳥の彫刻が施されている。本殿は京都から運んだとの説がある。また、この際の受取人が平将門との伝説もある。

蚕福山神宮 (7)
社殿裏に平将門の墓(供養塔)がある。承平2年(932年)相馬小治郎とある。これは明治初年に将門の末裔とされる相馬氏が造立したもの。この供養塔も蚕福山神宮とともに遷されている。

将門が討死したのは天慶3年(940年)だが、承平2年は何だろう? 先に書いた蚕福山神宮の本殿を運ばせたのが将門で、それが承平2年なのかな。将門供養塔は遷座前の蚕福山神宮境内に造立されていることから、そんな想像をしてみた。

また相馬氏と将門の繋がりに関しては、将門の直系(将門の子・将国の子孫)とする説、将門の養子になった(とされる)平良文の末裔である千葉氏の分家とする説など、いくつかある。


邑楽郡大泉町坂田の長良神社。

坂田長良神社 (1)
坂田長良神社の由緒は不詳。千代田町瀬戸井の長良神社からの勧請と思われる。

坂田長良神社 (2)
坂田長良神社 (3)
坂田長良神社 (4)
社殿建立年は不明だが、拝殿は最近の改築のようだ、

坂田長良神社 (5)
坂田長良神社 (6)
社殿裏の境内社・末社群。

坂田長良神社 (7)
坂田長良神社 (8)
少し高い丘のようになっているので富士塚だと思う。邑楽郡の神社には富士塚が多いので。丘上に浅間神社(と思う)があるが、木の枝が前面を覆っていてよく見えず。枝が非常にしっかりしていたので、避けることもできなかった。

坂田長良神社 (9)
境内の隅に土俵がある。奉納相撲が行われるのだろうか。

坂田長良神社 (10)
鳥居の向かって右側(坂田長良神社の境内ではない)にある双体道祖神。もとは十字路の角の笹薮の中に隠れていたものを遷している。「推定200年前の造立」とお疲れ気味の案内板に書いてあった。

坂田の道祖神は、仲むつまじい男女2人の神様が彫られており、別名「恋道祖神」という。


邑楽郡大泉町吉田の榛名神社。

吉田榛名神社 (1)
吉田榛名神社は明治33年(1900年)に千吉氏が所有権を取得し祭事を行っていたが、大正3年(1914年)ころから近隣12名も加わり、共同で管理を行っている。

石宮には文久2年(1862年)の銘がある。ご神体は「馬に乗った武将」とのこと。

吉田榛名神社 (2)
手前には大日如来塔と庚申塔。庚申塔には「鵬斎」とあったので、亀田鵬斎の揮毫と思われる。亀田鵬斎は千代田町出身の江戸時代の書家・儒学者。
(「千代田町上五箇・愛宕神社」参照)

吉田榛名神社 (3)
榛名神社(石宮)の横には庚申供養塔。コンクリートで固められているらしく、雨水がたまっていた。

もともと当所には大きな池があり、その池の中央の島に石宮は祀られていた。その裏側には大きな藤の古木、参道には大きな松の木が枝を張って厳粛な雰囲気であったという。


邑楽郡大泉町吉田の青麻神社。

青麻神社 (1)
青麻神社は元亀元年(1570年)吉田村の鄕氏・田沼源内清房が磐城国の青麻神社から分霊を勧請。以来、吉田村や近隣の人々から崇敬されている。

清房が中風を患った際、霊夢で磐城国青麻神の霊験に触れ、はるばる青麻神社を参拝し中風平癒の祈願を行った。すると、21日にして全治したことから青麻神を勧請したという。

青麻神社 (2)
青麻神社 (3)
青麻神社 (4)
社殿は昭和51年(1976年)の建立。扁額は「青麻三光宮」。

青麻神社 (5)
社殿横の庚申塔。寛文9年(1669年)の造立。金剛五仏と三菩薩が印刻され、その上に日月、下に二鶏・三猿が陽刻されている。大泉町最古の庚申塔。

青麻神社 (6)
地蔵像。「子守多美子地蔵尊」とあった。

青麻神社 (7)
二十二夜供養塔(如意輪観音)や青面金剛像。如意輪観音は明和4年(1767年)、青面金剛は享保元年(1716年)、三猿は延宝8年(1680年)の造立。

青麻神社は由緒のように「中風除けの神様」として、現在も多くの方が参拝する。明治の末には境内に風呂をたて、湯治を兼ねた信心が人気を集めたという。

同じように中之条町四万には「中風除けの寺」青麻山薬王寺がある。
(「中之条町四万・青麻山薬王寺」参照)


邑楽郡大泉町吉田の長良神社。

吉田長良神社 (1)
吉田長良神社は長柄神社(邑楽町)からの勧請と伝わる(年代不詳)。邑楽町の長柄神社は邑楽郡の一宮。(邑楽町篠塚・長柄神社」参照)

吉田長良神社 (2)
鳥居が2基並んでいるが、前の赤鳥居は平成25年(2013年)建立の新しいもの。後ろの石鳥居は大正10年(1921年)建立。

吉田長良神社 (3)
吉田長良神社 (4)
社殿の建立年などは不明。拝殿は境内より少し高く、弊殿・本殿はさらに高くなっている。

吉田長良神社 (5)
吉田長良神社 (6)
境内社の羽黒神社や諏訪神社などと青面金剛像。

吉田公園 (1)
吉田長良神社の裏手は吉田公園になっている。神社との境もないので、境内の一部なのかもしれない。

吉田公園 (2)
ブランコ・滑り台・雲梯などの定番遊具の他に、ゾウとタコのオブジェ? があった。ゾウの方は背中に乗れるので遊具かもしれないが、タコはどう遊ぶのだろう?


邑楽郡大泉町古海の児島神社。

児島神社 (1)
児島神社 (2)
児島神社は明治15年(1882年)児島高徳の遺徳を追慕し、地元有志と高徳末裔とされる子爵・三宅康保(最後の三河田原藩主)らが創建。

児島神社 (3)
児島神社 (4)
社殿は明治16年(1883年)山野を切り開いて建立(完成は同21年)。確かに少し山(と言うほどでもないが)の中にある。最近では平成2年(1990年)に修築されている。

児島神社 (5)
野見宿禰の石碑。野見宿禰は土師氏の祖。日本書紀によると、垂仁天皇の命により當麻蹴速と相撲をとって勝った人物。これが相撲の起源といわれている。また、殉死を防ぐために埴輪を考案したともされる。なぜ児島神社境内にあるのかは不明。

児島神社 (6)
児島神社 (7)
児島神社 (8)
すぐ隣は児島公園。滑り台やブランコなどの遊具が設置されている。

児島高徳は後醍醐・後村上・長慶天皇と、南朝3代の天皇に仕えた忠臣。晩年を当地(古海)で過ごしたとされる。(「伝 児島高徳の墓・医王山高徳寺」参照)


邑楽郡大泉町古海の長良神社。

古海長良神社 (1)
古海長良神社 (2)
古海長良神社の由緒は不詳。想像するに、当地を治めていた古海氏が瀬戸井の長良神社(本宮)から分霊を勧請したのだと思う。古海氏は藤姓足利氏の淵名兼行の子孫・佐貫成光が古海氏を名乗ったことに始まる。

古海長良神社 (3)
社殿は円墳上に鎮座する。古墳自体は相当削平されており、原形をとどめていない。

古海長良神社 (4)
古海長良神社 (5)
社殿は平成2年(1990年)に改修されている。

古海長良神社 (6)
古海長良神社 (7)
本殿。獅子鼻・龍鼻など、小さいながらも彫刻が施されている。

古海御嶽神社 (1)
古海御嶽神社 (2)
古海御嶽神社 (3)
古海長良神社に隣り(西側)には古海西公民館があるが、そのさらに西側に隠れるように御嶽神社がある。長良神社境内の碑に平成2年(1990年)移転とあった。その他不詳。ただ、社殿の老朽化が危ない状況だ。


邑楽郡大泉町仙石の神明山専光寺。

専光寺 (1)
専光寺は永正年間(1504~21年)赤岩六郎左衛門厚親6代の孫・奈良隼人助信金の開基。その後衰退したが、元和7年(1621年)光恩寺の教宥が隠居寺とするため再建。

赤岩氏は佐貫太郎資綱の子・次郎嗣綱が赤岩に居住し、赤岩氏を称したことに始まるとされる。赤岩厚親は室町初期の武将らしい。

専光寺 (3)
専光寺 (2)
門前には庚申供養塔などが並ぶ。

専光寺 (4)
本堂は昭和41年(1966年)の改築。

専光寺 (5)
境内の六地蔵は平成8年(1996年)の奉納。

専光寺 (6)
仙石地区の戦没者供養塔。

神明山という山号から、前回の仙石太神宮の別当寺であったと考えられる。
(「大泉町仙石・太神宮」参照)


邑楽郡大泉町仙石の太神宮。

太神宮 (1)
太神宮 (2)
仙石太神宮の由緒は不詳。鳥居扁額は「神明宮」。

太神宮 (3)
太神宮 (4)
太神宮 (5)
社殿は昭和60年(1985年)ころの改築。拝殿の扁額は「太神宮」。

太神宮 (6)
太神宮 (7)
境内社の十二天宮(内訳は不明)。

太神宮 (8)
境内社の阿夫利神社、八坂神社、天満宮。他にも多くの境内社があった。

太神宮 (9)
太神宮 (10)
境内右側に富士塚。塚上には浅間神社。館林・邑楽には富士塚が多い。富士山が見える環境だからかな。

仙石地区には「ささら獅子舞」が伝承されている。獅子頭を保存している葛籠から元禄年間(1688~1704年)から行われていると推定されている。春・秋の例祭以外に元旦や新穀の時期など、年6回奉納される。


邑楽郡大泉町城之内の湧泉山願成寺。

願成寺 (1)
願成寺は天文11年(1542年)僧・宥円の開山、小泉城主・富岡秀光(富岡氏2代)の開基。富岡氏は代々三島神社を崇拝しており、小泉城の守護神として三島神社を祀り、その別当寺として願成寺を創建。境内に御手洗池があったことから、湧泉山と呼ばれるようになった。

願成寺 (2)
願成寺 (3)
富岡氏は北条氏に与していたため、天正18年(1590年)の北条氏滅亡後は没落。願成寺も荒廃し、寛永年間(1624~45年)には什宝・古記録なども失われ、本尊の阿弥陀如来を残すのみとなっていたという。

寛文4年に(1664年)に現在地へ移っている。当時は小泉城の西北隅。現在の本堂は昭和50年(1975年)の新築建立。

願成寺 (4)
本尊は当時のものではなさそうだ。それとも、最近修復したのだろうか。

願成寺 (5)
境内の弘法大師1050回忌供養塔。明治28年(1895年)の建立。

願成寺 (6)
願成寺 (7)
境内奥には木々が生い茂り、柑橘系の実(種類は分からない)がなっていた。他にも推定樹齢200年のしだれ桜があり有名らしいが、実は気がつかなかった・・・。季節が違うと分からないものだ。


邑楽郡大泉町古氷の長良神社。

古氷長良神社 (1)
古氷長良神社 (2)
古氷長良神社は寛保2年(1742年)瀬戸井長良神社(千代田町)からの勧請。古氷地区の鎮守さまとして氏子・住民の方々から崇敬されている。

鳥居は平成24年(2012年)の建立。扁額には長良神社の他に御嶽神社の名もある。

古氷長良神社 (3)
古氷長良神社 (4)
古氷長良神社 (5)
社殿は昭和63年(1988年)に改築されている。社殿前の灯籠は平成15年(2003年)の奉納。

古氷長良神社 (6)
拝殿に掛かっている奉納額。題材は分からない。

古氷長良神社 (7)
社殿裏には鳥居扁額にも書かれていた御嶽神社がある。御嶽神社も長良神社と同様に信仰されているということかな。

古氷長良神社 (8)
社殿横には庚申塔を中心に天満宮、鹿島神社、稲荷神社などの境内社が並ぶ。

古氷には古くは佐貫庄の政所(まんどころ)が置かれていたとされる。政所はこの荘園を治めるために置いた、政務・事務を司る役所のこと。


邑楽郡大泉町寄木戸の源中稲荷神社。

源中稲荷神社 (1)
源中稲荷神社 (2)
源中稲荷神社は明治25年(1892年)伏見稲荷大社より分霊を勧請している。ただ、それ以前から当地には小祠が祀られており、白狐が棲み信者にご利益を授けていたという。

鳥居は令和になる直前の平成31年(2019年)4月の建立。

源中稲荷神社 (3)
狐像や石段も平成31年に整備されている。

源中稲荷神社 (4)
源中稲荷神社 (6)
社殿は平成7年(1995年)の新築建立。明治25年に稲荷神が勧請された際は、村中で社殿を建立したといわれる。

源中稲荷神社 (7)
源中稲荷神社は円墳の墳丘上に建っている。古墳周りからは正和2年(1313年)銘の板碑2基が見つかっている。そのため、同年ころには当地で祭祀が行われていたのではと推定される。

現在は個人の方の私祭社となっている。


邑楽郡大泉町寄木戸の不動尊。
宝寿院の境外仏堂である。(「大泉町寄木戸・天徳山宝寿院」参照)

寄木戸不動尊 (1)
寄木戸不動尊 (2)
当地には大正院という不動明王や役行者等を信仰・礼拝する山岳信仰の修験道行者・修験僧の住居を兼ねたお寺(草庵)があった。その境内に大正元年(1912年)に建立されたのが不動堂。

平成25年(2013年)に現在地に移転・改築されている。

寄木戸不動尊 (3)
堂内の不動明王像。

寄木戸不動尊 (4)
お堂前の線刻不動明王像。建立当時の本尊。「成田山」と刻まれていることから、成田山新勝寺の不動尊の分霊を祀ったと考えられる。

この不動尊にお参りすれば、女性は下の世話を受けず心穏やかに末期が迎えられるという言い伝えがある。このことから「ぽっくり不動尊」として、地元はもとより近隣からの参拝も多いという。

懐古庵
ぽっくり不動の隣にある懐古庵。宝珠院の別院。養蚕農家造りの古民家。平成21年(2009年)に宝珠院に寄贈されている。現在は檀徒の方々の集まりや、地域おこしを目的とした各種イベント、地域コミュニティーの場としても活用されている。

邑楽郡大泉町寄木戸の庚申堂。

寄木戸庚申堂 (1)
寄木戸庚申堂 (2)
寄木戸庚申堂は明治31年(1898年)の建立。平成21年(2009年)に改修されている。お堂の向かって左側は休憩所(狸狐庵)。令和元年(2019年)の建築。本尊の青面金剛(通称庚申さま)は享保3年(1718年)の造立。

寄木戸地区では現在も、毎年旧暦10月の満月の夜(の直近の土曜)に庚申講が開催されている。さすがに徹夜ではないみたいだが。

なお、庚申堂は宝寿院の境外仏堂である。
(「大泉町寄木戸・天徳山宝寿院」参照)

江戸時代に盛んになった庚申信仰は、中国道教の「三尸説(さんしせつ)」を元にした民間信仰。後に庚申待ちと名を変え会食・談義を行って夜通し神仏を祀る風習となった。大正時代以降、急速にその信仰は廃れ、現在は寺社や路傍に庚申塔や青面金剛像が残されるのみとなっている。

寄木戸庚申堂 (3)
お堂前にも青面金剛像がある。

寄木戸庚申堂 (4)
お堂前の庚申塔は安永5年(1776年)の造立。その横の容器には砂が入っている。

寄木戸の庚申様には、願を掛けるとイボが取れるというご利益がある。庚申様(青面金剛)にお参りし、堂前にある砂を茶碗一杯ほど持って帰り、その砂でイボの箇所を軽くさする。これを何日か続けると、イボが取れる(なくなる)といわれる。そして願いがかなったら、持ち帰った2倍の量のきれいな砂を返すのがしきたり。


邑楽郡大泉町寄木戸の天徳山宝寿院法華寺。

宝寿院 (1)
加富貴御前は楠木正行(楠木正成の嫡子)が四條畷の戦いにおいて討死(正平3年/貞和4年(1348年))した後、南朝の再起を図るため16人の家臣(小泉十六氏)と上野国小泉に下向してきたとされる。ここで法志庵という草庵を結び、一族の供養・菩提を弔った。

後の天正年間(1573~93年)に龍泉院3世・窈山正精が宝珠庵として開山。一時衰退するが、元禄4年(1701年)に3世・悦山正欣が宝珠庵を当地に移転し中興、宝寿院と改める。その際の開基は小泉城主の富岡氏末裔・野村孫兵衛である。

宝寿院 (2)
門前にはお地蔵さんが並ぶ。

宝寿院 (3)
宝寿院 (4)
山門前に大きな鳥かごがあり、たくさんの小鳥が囀っていた。

宝寿院 (5)
宝寿院 (6)
山門は昭和62年(1987年)の再建。

宝寿院 (7)
本堂は昭和45年(1970年)の再建。平成21年(2009年)改修。

宝寿院 (8)
中興開基の野村孫兵衛と累代の墓。

宝寿院 (9)
推定樹齢450年とされるイトヒバ。

宝寿院 (10)
毘沙門天像。寄木戸地区には昭和30年(1955年)ころまで毘沙門堂があり、毘沙門天信仰があったとされる。そこで祀られてた毘沙門天を宝寿院に遷した平成11年(1999年)の造立。

宝寿院 (11)
宝寿院 (12)
平成25年(2013年)建立の毘沙門堂と毘沙門天像。先に毘沙門天が宝寿院に遷されたことを機に、楠木一族や毘沙門天を信仰していた先人の供養のため毘沙門堂を再建。

毘沙門天と楠木一族の関係は、正成は両親が信貴山の朝護孫子寺(奈良県生駒郡)の毘沙門天に祈って授かった子とされることから。


邑楽郡大泉町寄木戸の長良神社。

寄木戸長良神社 (1)
寄木戸長良神社 (2)
寄木戸長良神社は貞享年間(1684~88年)の勧請と伝わる。古くから寄木戸地区の鎮守さまとして崇敬されている。

寄木戸長良神社 (3)
鳥井脇の道祖神。

寄木戸長良神社 (4)
寄木戸長良神社 (6)
寄木戸長良神社 (7)
社殿の建立年などは分からない。

寄木戸長良神社 (5)
訪問当日は拝殿の戸が開け放たれていた。お祭りというわけではなさそうだったので、風通しを良くしての虫干しかな。

寄木戸長良神社 (8)
寄木戸長良神社 (9)
社殿裏の境内社群。菅原神社、八坂神社、厳島神社、諏訪神社など8社。それぞれが小さく仕切られていて、ご神体が置かれているのみ。

寄木戸長良神社 (10)
寄木戸長良神社 (11)
境内の神輿庫。

寄木戸長良神社 (12)
寄木戸長良神社 (13)
寄木戸長良神社 (14)
参道脇にある日枝神社。明治42年(1909年)に長良神社に合祀されている。この日枝神社は近江国坂本(滋賀県大津市坂本)から移住してきた坂本氏が、一族の守護神として日吉大社の分霊を勧請・祀ったもの。

近江国坂本は、今年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主役・明智光秀の居城があったことでも知られる。

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