Tigerdreamの上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 館林市・邑楽郡


館林市、大泉町、板倉町、邑楽町、千代田町、明和町

秘仏・除川観音 -花蔵院-
雲切不動尊 -長徳寺-
板倉町上五箇・普光寺
板倉町大高嶋・清浄院
上州板倉 智恵付け天神 -高鳥天満宮-
板倉町最大の前方後円墳 -筑波山古墳-
北関東の三大地蔵 -地蔵院-
岩田観音・千手観音像 -板倉町・円満寺-
光明真言金亀宝篋印塔 -安勝寺-
豊作なでなで河童 -実相寺-
親鸞と性信の古蹟 -宝福寺-
群馬県内最古の十王十仏板碑 -淨蓮院-
邑楽郡長良神社の本宮 -千代田町・長良神社-
亀田三先生の筆跡 -上五箇愛宕神社-
初代・紫峰庵夫雪の墓 -授楽寺-
建武の板碑 -大林寺-
藤原秀郷生誕地の碑 -舞木城址-
千代田町・弘安の板碑
B-29・グラマン搭乗員の慰霊碑 -清岩寺-
源義経が休んだ塚 -千塚の判官塚-
生祠 秋元宮 -館林市・永明寺-
足腰の神様 -子神社-
徳川家康ゆかりの寺? -普済寺-
秋元春朝像 -秋元別邸 その2-
榊原康政の守護仏・十一面観音 -遍照寺-
ペッタンコ祭 -富士嶽神社-
新田義重の勧請 -足次赤城神社-
館林市・日向義民地蔵
繁栄の松 -旧大了庵跡-
大谷休泊の墓
館林市高根町・大山祇神社
原田種政の墓? -龍興寺-
永明寺のキンモクセイ -永明寺-
北条泰家の創建? -恩林寺-
志士之碑(竹岸武兵衛の顕彰碑) -神光寺-
館林騒動・三義人の供養碑 -教学院-
館林市・外池商店
館林市・旧二業見番組合事務所
分福酒造店舗 -毛塚記念館-
青龍の井戸 -青龍神社-
城沼の竜神伝説 -竜の井-
浮世絵師・北尾重光の墓 -覚応寺-
徳川四天王・榊原康政の墓 再訪 -善導寺-
榊原康政の孫・松平忠次の生母の墓 -善長寺 その2-
戸泉鋼作の墓 -大道寺 その2-
生田萬父祖の墓 -大道寺-
日本四社 青梅天満宮
英霊を祀る -邑楽護国神社-
館林の総鎮守 -長良神社-
不動まんだら板碑 -五宝寺-
青色地蔵板碑 -愛宕神社-
館林城の鐘 -応声寺-
関東88ヶ所霊場第14番霊場 -観性寺-
田山花袋の姉の墓 -常光寺-
石打こぶ観音 -明言寺-
山門の閻王殿 -慶徳寺-
新田義貞四天王・篠塚伊賀守重廣の菩提寺 -邑楽町・大信寺-
玉眼嵌入彩色仁王像 -木崎東光寺-
元応の板碑 -舞木円福寺-
田山花袋の歌碑 -赤岩八幡神社-
行基の開創 -千代田町・安楽寺-
荻野吟子の生家の長屋門 -光恩寺 その2-
関東屈指の古刹 -光恩寺-
大泉町・城之内の百庚申
多々良沼の岬に鎮座 -浮島弁財天-
邑楽町のシンボルタワー -未来MiRAi-
同向式画文帯神獣鏡 -古海原前1号古墳-
徳川綱吉ゆかりの梵鐘 -寶林寺-
伝・児島高徳の墓 -高徳寺-
民俗資料館 -大泉町文化むら その3-
埋蔵文化財常設展示室 -大泉町文化むら その2-
裕福な自治体はいいね -大泉町文化むら-
富岡氏の菩提寺 -龍泉院-
大泉町・城之内古墳
西邑楽の総社 -小泉神社-
富岡氏の居城 -小泉城址-
田中正造の墓 -雲龍寺-
楠木正成の首塚? -楠木神社-
向井千秋記念 子ども科学館
きつねの尾曳伝説 その2 -尾曳稲荷神社-
徳川四天王・榊原康政の墓 -善導寺-
「お辻」の供養塔 -善長寺-
館林市・山王山古墳
つつじが岡第2公園 その2 -館林城出土墓石群-
つつじが岡第2公園 -旧秋元別邸-
明治の擬洋風建造物 -旧上毛モスリン事務所-
きつねの尾曳伝説 -館林城址-
館林市第1資料館
旧館林藩の武家屋敷 -武鷹館-
白鳥の舞 -多々良沼-

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邑楽郡板倉町除川の補陀落山花蔵院観音寺。

花蔵院 (1)
花蔵院は慶長年間(1596~1615年)の開山。慶安2年(1649年)の観音堂建立時に寺格を得て、花蔵院と号している。

花蔵院 (2)
門柱横には庚申塔類が並ぶ。

花蔵院 (3)
花蔵院 (4)
本堂は平成26年(2014年)の新築。落慶ほやほや。

花蔵院 (5)
花蔵院 (6)
観音堂には秘仏である除川観音が祀られている。観音像は慶安2年(1649年)に野中角右衛門という漁師が、渡良瀬川から引き上げたもの。

経緯は知らないが、開けたら良くないことが起こるとされ、観音像は秘仏とされ開帳もされない。華蔵院の住職を含め誰も見たことがない。

華蔵院のすぐ北を渡良瀬川が流れており、渡良瀬川から引き上げた観音様なので、開けたら渡良瀬川が氾濫して被害が出ると恐れられたのかも。

ちなみに地名の除川は、渡良瀬川の水害を除くために名付けられている。

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邑楽郡板倉町細谷の瑠璃山長徳寺。

長徳寺 (1)
長徳寺の創建は不詳だが、宝永年間(1704~10年)定恵の中興開基とされる。

長徳寺 (2)
山門前に鎮座するのは聖観音?? よく分からない。

長徳寺 (3)
大正7年(1918年)に落雷で本堂他を焼失。翌年、再建されている。

長徳寺 (4)
長徳寺 (5)
長徳寺 (6)
境内の大日如来像、六地蔵、仏塔・石仏群。

本尊の不動明王は「雲切不動尊」と呼ばれ、地域のみならず近隣からも信仰を集め、多数の参拝者が訪れたという。

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邑楽郡板倉町上五箇の明星山普光寺。

普光寺 (1)
普光寺は寛永年間(1621~41年)に法宿の開山と伝わる。

普光寺 (2)
普光寺 (3)
山門は平成5年(1993年)寄進により再建されている。

普光寺 (4)
本尊・不動明王を祀る本堂は平成3年(1991年)に改修されている。

普光寺 (5)
普光寺 (6)
境内の薬師堂。格子戸越しに薬師如来が見えたような、見えなかったような・・・。堂前に「薬師堂建立記念碑」が建っているが、まったく読めなかった。

江戸後期の文政9年(1826年)以降、無住となり荒れていたというが、近年檀家の皆さんのご努力により再興されている。

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邑楽郡板倉町大高嶋の白山清浄院。

清浄院 (1)
清浄院 (2)
清浄院 (3)
清浄院の創建は不詳だが、平安時代かそれ以前と伝わる。明暦年間(1655~57年)に高瀬善兵衛直房・直義により伽藍が整備されたという。

高瀬善兵衛直房は館林大久保村(現板倉町)の出身で、江戸・日本橋の米問屋で奉公し財を成したようだ。浅草・浅草寺に奉公家への報恩として銅造観音菩薩坐像・銅造勢至菩薩坐像の二体(二尊仏)を奉納している。

清浄院 (5)
清浄院 (6)
本堂は平成10年(1998年)に改築されている。

清浄院 (7)
清浄院 (8)
十三仏堂。

清浄院 (9)
大きな子育・水子地蔵像が建つ。

本堂裏手に「ぼたん園」がある。本堂の改築(平成10年)を機に計画。住職が手作りで8年かかりで完成させたもの。遊歩道も整備され、毎年4月下旬から5月上旬に約40種、1000株のボタンが咲き乱れる。よく調べずに行ったので気づかなかった。まあ、知っていても季節が合わなかったけど。

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邑楽郡板倉町大高嶋の高鳥天満宮。

高鳥天満宮 (1)
高鳥天満宮 (2)
菅原道真が延喜元年(901年)太宰府に左遷された際、家臣の岩下勝之丞が随行を申し出たが、道真はこれを許さず自らの画像を与えた。勝之丞は故郷である出羽国に戻りこれを守護していた。

後の文暦元年(1234年)、後裔の勝之進ががこの画像を伴って京都北野天満宮に参詣の途次この地に寄宿したところ、道真が夢枕に立ち「鳥が高く飛んで止まないこの地に祀れ」と告げられたため、神社を創建し画像を安置したという。

高鳥天満宮 (3)
高鳥天満宮 (4)
高鳥天満宮 (5)
社殿は嘉永元年(1848年)の造営。

高鳥天満宮 (6)
高鳥天満宮 (7)
拝殿の彫刻は石原常八主信、渡辺喜平次源宗信らによるもの。石原常八は左甚五郎の流れを汲み、龍の彫り物で右に出るものはないと称された名工である。

高鳥天満宮 (8)
「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
ちなみに、初出の拾遺和歌集では「春を忘るな」。

高鳥天満宮 (9)
「願掛け撫で牛」。牛は天神様の使いで、この「撫で牛」を勉強机や居間など身近な所に置き、願い事を念じながら毎日撫でると祈願成就する。

高鳥天満宮 (10)
境内の神楽殿。毎年元日や例大祭で神楽が奉納される。高鳥神社の神楽は館林・大島神社から伝えられたといわれる。

高鳥天満宮 (11)
高鳥天満宮 (12)
社殿裏の天神の滝と心字池。
岩下勝之進が滝と池のある当地になんとも言えぬ厳かさを感じたことから、この滝で身を清めてから近くに宿を求めた。その夜、道真が夢枕に立ったことから、「夢見の滝」とも呼ばれる。また、心字池は「心」の字の形をしていたことから心字池と言われる。

全国に天満宮は多数あるが、道真直筆の自画像がご神体となっている天満宮は全国でも少ない。

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邑楽郡板倉町岩田の筑波山古墳。

筑波山古墳 (1)
筑波山古墳 (2)
筑波山古墳は全長53.5mの前方後円墳。後円部の径36m、高さ4m、前方部の最大幅は36.5m、高さ3.5m。周堀を含めると70.8mの規模を誇る。板倉町では最大規模。6世紀後半から7世紀前半の築造と推定される。

昭和8年(1933年)墳頂部に社を造る際に横穴式石室が見つかり、副葬品は銀象嵌円太刀、直刀、鉄鏃、金銅製耳環、瑪瑙製勾玉、水晶製切子玉などが出土した。

豊城入彦命の孫・御諸別王の墓との伝承がある。

筑波山古墳 (3)
筑波山古墳 (4)
後円部に鎮座する筑波山神社。元々は神明宮だったが、上記昭和8年の社造営時に筑波山神社を勧請・合祀し、以降筑波山神社とした。

素人目に見ると円墳にしか見えない。もっと遠目に見れば良かったのかもしれない。

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邑楽郡板倉町飯野の如意山地蔵院。

地蔵院 (1)
地蔵院は天文16年(1547年)、飯野城主・篠崎三河守が菩提寺として創建したといわれる。篠崎三河守についてはよく分からないが、板倉町の雷電神社の末社・八幡宮、稲荷神社の社殿を建てた人物して名前が出てくる。当時、邑楽郷を治めていた館林城主・赤井氏の旗下と思われる。

地蔵院 (2)
現在の本堂は飯野地区の住民センターを兼ね、昭和60年(1985年)に建立されている。確かに、お寺の本堂ぽくない。

地蔵院の本尊はその名の通り延命地蔵菩薩。岩船(栃木)・村君(埼玉)の地蔵と共に北関東の三大地蔵と言われている(らしい)。毎年8月23日に祭礼が行われ、延命地蔵尊は33年に一度ご開帳される。

地蔵院 (3)
トタン屋根のため趣がないが神饌舎かな? と思い覗いてみたら、地区の野菜集荷場だった(苦笑)。

地蔵院 (4)
参道の石塔・石碑群。この石塔と墓地があるので、かろうじてお寺と意識できる。

過去3度の火災により文献・古文書等はなくなっているため詳細は不明だが、言い伝えでは極めて大きなお寺であったようだ。

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邑楽郡板倉町岩田の無量山円満寺。

円満寺 (1)
円満寺の創建は不詳だが、天平勝宝4年(752年)行基の開山との伝承がある。

天平勝宝4年といえば奈良・東大寺の大仏が建立(開眼法要)された年だが、行基はその3年前の天平21年(749年)に入滅してる。

円満寺 (2)
本堂は安政2年(1855年)に焼失、安政6年(1859年)に日光中善寺立木観音より堂宇を移し再建している。移築した本堂が現在の観音堂かは分からない。

円満寺 (3)
観音堂に祀られる千手観音は像高86cm、肩幅20cm、総高160cmで、製造年代は不詳だが鎌倉末期から南北朝初期のものと推定されている。頭上に十一面の変化観音像があるが、建立当初のものは3体。また、四十二手は後世(近世)の補修と考えられている。千手観音は秘仏で、20年に一度開帳される。(写真は等身大の前立像)

昔、小平前の雷という所で水の中から御光が射してくるので不思議に思った村人がすくい上げた像が、円満寺に伝わる千手観音像だといわれている。

円満寺 (4)
円満寺 (5)
現在、円満寺は無住で、寺域もかなり狭くなっている。事情は知らないが、貴重な千手観音像が祀られているにしては、残念な状況だ。境内隅の石仏・石碑が往事を偲ばせる。

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邑楽郡板倉町籾谷の光応山安勝寺。

安勝寺 (1)
安勝寺は昭和27年(1952年)に、光明山安楽寺と正応山最勝寺が合併してできた寺。

安楽寺は正長元年(1428年)僧・光尊の創建。最勝寺は承応年間(1652~54年)僧・光研の創建。

歴代住職の墓地にあった過去碑には、光尊が初代(開基)と記されていたので、寺名は安勝寺になっているが安楽寺の寺歴を引き継いでいるらしい。

安勝寺 (2)
安勝寺 (3)
安楽寺は慶応元年(1865年)に火災により堂宇を焼失。火災後、無住となっていた最勝寺の本堂と阿弥陀堂を安楽寺の境内に移築している。

安勝寺 (4)
安勝寺 (5)
最勝寺から移築された阿弥陀堂と阿弥陀如来木像。阿弥陀如来木像は寄木造りで、鎌倉から南北朝初期のものと推定される。群馬県内では数少ない「清涼寺式阿弥陀如来像」である。

「清涼寺式阿弥陀如来像」とは、髪の毛を縄を巻いたように表している如来像を一般的に言う。(何とか撮った写真では、まったく判別できない・・・)

安勝寺 (6)
安勝寺 (7)
梵鐘は宝暦4年(1754年)佐野の大河太郎兵衛と崎山五左衛門の鋳造。高さ99cm、口径76cmで、光明真言と仏具紋様が刻まれている。この仏具紋様の美術的価値が認められ、戦時中の供出を免れている。

安勝寺 (8)
安勝寺 (9)
安勝寺 (10)
通称「亀の子様」と呼ばれる金亀宝篋印塔。亀の上に宝篋印塔が乗せられている形になっている。

謂われは、寛文11年(1671年)に籾谷村の旱沼に光り輝く石亀が現れたたため、村人は八角形の大石で動けないようにした。その後、宝暦7年(1757年)の大雨の際に金色の光りを放ち石亀が再び動き出したため、光明真言を刻んだ宝篋印塔を石亀の上に置き、2度と動き出さないようにしたもの。

「亀の子様」にお祈りすると、百日咳に良く効くといわれている。

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邑楽郡板倉町板倉の妙池山実相寺。

実相寺 (1)
実相寺の創建年は不詳だが、祥信法師の開基と伝わる。慶長14年(1609年)に板倉沼を狩り場とするため、徳川秀忠の意向で強制的に現在地に遷座させられている。

実相寺 (2)
実相寺 (3)
現在の本堂は昭和31年(1956年)の建立。本堂の天井には高橋淑子作の四季の花鳥に囲まれて浄土に立つ3羽のツルが描かれている。

実相寺 (4)
実相寺 (5)
報恩鐘と名付けられた梵鐘。

実相寺 (6)
実相寺 (7)
薬師如来を祀る薬師堂。

実相寺 (8)
境内の聖観音像。

実相寺 (9)
豊作なでなで河童。「願いを込めてなでなでしてください」とのことなので、なでなでしてきた。きっと願いが叶うだろう。

余り広くない境内だが、非常にきれいに整備されていた。

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邑楽郡板倉町板倉の大同山宝福寺。

宝福寺 (1)
宝福寺は用明天皇の御代、聖徳太子の開基と伝わる。用明天皇の在位は585~587年と短いし、このとき聖徳太子は11~13歳という年齢。どういう経緯でこういう伝承になったのか?

ついでに、坂上田村麻呂が東征(征夷)のおり、宝福寺で戦勝祈願をしたという。

宝福寺 (2)
普段は施錠されていて境内には入れない。なので、外から写真だけ撮らせてもらった。

宝福寺 (3)
宝福寺 (4)
現在の本堂は明治期以降のもの。

宝福寺 (5)
安産子育て観音の標柱があったので、隣の建物は観音堂?

宝福寺 (6)
宝福寺 (7)
その隣は太子堂とあった。聖徳太子童子像が安置されている?

宝福寺 (8)
新しくセキュリティもしっかりしていそうな宝物庫。群馬県の重文である性信上人坐像などが納められているようだ。坐像は像高84.5cmで鎌倉時代中期の作。昭和35年(1960年)に板倉町の調査で発見された。

性信は法然に師事し浄土宗を学び、後に親鸞に帰依している。建保2年(1214年)からの親鸞の東国布教に同行。当地で親鸞が「自力本願」から「他力本願」へ回心したといわれる。(性信は当地に留まったらしい)

宝福寺 (9)
墓地入口に建つ碑には「親鸞聖人直作阿弥陀如来像、聖徳太子像、玉日像、性信上人古蹟」と記され、寛政8年(1796年)の銘がある。江戸時代には親鸞と性信の旧跡となっていたことをうかがわせる。

江戸時代の宝福寺は徳川家の庇護の元、広大な寺域を有し三重塔もあったらしいが、度重なる火災により三重塔含め伽藍は焼失。昭和27年(1952年)には板倉高校(当時は館林高校伊奈良分校)開校に伴い敷地を提供したため、往事の約8分の1になったという。

なお、昭和33年(1958年)には仏舎利収納石櫃・舎利容器・舎利が発見され、三重塔があったことがほぼ証明されている。(仏舎利収納石櫃などの遺物は宝物庫に保管されている)

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邑楽郡板倉町大曲の石水山淨蓮院。

淨蓮院 (1)
淨蓮院の創建は不詳だが、開山の周應上人の位牌に寛永19年(1642年)とあるため、江戸初期と推定される。

淨蓮院 (2)
現在の本堂は昭和11年(1936年)の改築。

淨蓮院 (3)
境内の大日堂は、伝承によると日光東照宮建立に携わっていた宮大工が手がけたものとされている。大日如来像や不動明王像が安置されているらしいが、中は見えなかった。

淨蓮院 (4)
大日堂前には板碑や石仏が並んでいる。後からここに集めたんだと思う。

淨蓮院 (5)
十王十仏板碑。嘉暦元年(1326年)の銘がある。蓮台の上に不動明王、観音菩薩などの十仏の種子が刻まれている。群馬県内で最古の十王十仏板碑といわれる。

淨蓮院 (6)
猿田彦命と天細女命(あめのうずめのみこと)の双体道祖神。両尊が銚子と盃を手にしている祝言像で、寛延2年(1749年)の銘がある。館林・邑楽地区に双体道祖神は少なく、板倉町では唯一のもの。

ちなみに、天細女命は天照大神が天岩戸に隠れてしまった時に、岩戸前で少しエロティックな踊りを踊った女神。一説に、猿田彦命と夫婦になったともいわれている。これが2神の祝言像になっているようだ。

淨蓮院 (7)
大日堂が少し高いところにあるが、その横に滑り台らしきものがあった。昔から子供たちの遊び場だったんだろうね。(訪問当日は誰もいなかったけど)

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邑楽郡千代田町瀬戸井の長良神社。

千代田町・長良神社 (1)
千代田町・長良神社 (2)
千代田町瀬戸井の長良神社は、赤井良遠が春日大社の末社に列祀されていた藤原長良を勧請した。赤井良遠は後の館林城主・赤井輝光に関係すると思われる。

この長良神社から邑楽郡各地に分社されたことから、邑楽郡長良神社の本宮とされている。

千代田町・長良神社 (3)
参道は樹木の覆われ、心地よく参拝することができる。

千代田町・長良神社 (4)
千代田町・長良神社 (5)
社殿は平成7年(1995年)に改修されている。

千代田町・長良神社 (6)
千代田町・長良神社 (7)
千代田町・長良神社 (8)
参道脇に境内社と思われる碑が建っている(祠や社ではなく)。錚々たる神々が祀られている。向かって左端は日本武尊。

館林・邑楽地区には長良神社(長柄神社含む)が多数ある。藤原長良が東国平治のため当地に下向し、仁恵を施したことを偲んでのことといわれるが、長良は藤原北家の長男という身分。3男・基経は長良の弟・良房(摂政・太政大臣)の養子となり、後に人臣初の関白になっている。これほどの家柄。藤原北家の関係者が上野国に下向することは基本的にはあり得ない。

とは言え、藤原長良の大蛇退治伝説まである。長良は瀬戸井の大沼に棲んでいた大蛇を退治しその身体を18切りにし、頭を瀬戸井にその他を近隣に分け与えた。これが「十八長良」の由来という。「十八長良」は18社の長良神社のことだが、現在はもっと多数ある。

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邑楽郡千代田町上五箇の愛宕神社。

千代田町・愛宕神社 (1)
千代田町・愛宕神社 (2)
愛宕神社の創建は不詳。

千代田町・愛宕神社 (3)
境内の一角に「亀田鵬斎翁誕生の地碑」が建っている。

亀田鵬斎は、宝暦2年(1752年)千代田町上五箇に生まれだが、父が江戸に出たため江戸で育つ(江戸生まれという説もある)。6歳にして三井親和に書を、飯塚肥山に素読を習う。14歳の時、儒学者・井上金峨に入門。才能は弟子の中でも群を抜いていたという。

天明3年(1783年)の浅間山大噴火の際は、難民救済のためすべての蔵書を売り払い、それに充てたという。また、赤穂浪士のために私財を投じて泉岳寺に顕彰碑を建てている。

文政9年(1826年)75年の生涯を閉じる。

千代田町・愛宕神社 (4)
千代田町・愛宕神社 (5)
扁額の「愛宕祠」のは亀田鵬斎の筆による。

千代田町・愛宕神社 (6)
拝殿内の扁額「伊勢大々御神楽」は、鵬斎の子・綾瀬の筆。

千代田町・愛宕神社 (7)
境内の芭蕉の句碑。「子規ま年久か(ほととぎすまねくか) 麦のむら尾花」
(写真まったく見えず申し訳ないです)

千代田町・愛宕神社 (8)
句碑の碑陰(裏)は、紫峰庵夫雪を顕彰する「夫雪翁誌碑」になっている。碑の撰文と書は、綾瀬の養子・鶯谷による。碑の建立は慶応2年(1866年)。

ちなみに、紫峰庵夫雪は金子得斎の俳号で、紫峰庵夫雪の三世になる。綾瀬に漢学を学んでいる。(初代に関しては、「初代・紫峰庵夫雪の墓 -授楽寺-」参照)

亀田鵬斎(扁額)、綾瀬(拝殿内扁額)、鶯谷(撰文書)を合わせ、「亀田三先生の筆跡」と呼ばれている。

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邑楽郡千代田町上中森の天徳山授楽寺。

授楽寺 (1)
授楽寺は文禄3年(1594年)鷹山廣俊の開創と伝わる。

授楽寺 (2)
授楽寺 (3)
江戸末の文化15年(1818年)に伽藍が再建されたが、明治43年(1910年)利根川の氾濫により大きな被害を受ける。昭和初期(4~12年にかけ)に檀家・地元の方々の浄財にて再建。

現在の本堂は平成6年(1994年)の新築。

授楽寺 (4)
授楽寺 (5)
無縁墓の一角に初代・紫峰庵夫雪の墓がある。
初代・紫峰庵夫雪は江戸後期の俳人で、常陸国(茨城県)筑波郡の出身。5世太白堂に学び諸国を巡った後、当地に庵を結び多くの弟子を得ている。弘化2年(1854年)97歳で没している。

紫峰庵夫雪の俳号は、確認できただけで4世まで引き継がれている。

授楽寺 (6)
慈母観音像。この観音像の足をなでたところ、足や腰の痛みが和らいだことから、「足なで観音」と呼ばれている。

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邑楽郡千代田町舞木の大林寺。

大林寺 (1)
大林寺 (2)
大林寺の由緒は不明。

大林寺 (3)
境内にある板碑。南北朝初期の建武5年(1338年)の銘がある。緑泥片岩製で、高さ107cm、幅32cm、厚さ4cm。阿弥陀如来の下に観音菩薩・勢至菩薩を種子で刻む阿弥陀三尊種子板碑である。

足利のすぐ近所で南朝の年号が記されているのが面白い。建武5年は新田義貞が討死した年なので、まだ渡良瀬川西岸・南岸は新田氏の強い勢力圏であったことが分かる。まあ、当然か。

ちなみに当時(から数年後には)、富岡・甘楽では既に北朝の影響下にあったことが諸々の遺構で分かっている。

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邑楽郡千代田町舞木の舞木城址。

舞木城址(藤原秀郷の碑) (1)
舞木城は承平年間(931~37年)に藤原秀郷が築城したと伝わる。その後、享禄年間(1528~31年)まで秀郷の子孫が居城していたという。周囲に土居と溝渠を巡らせた平城であった。

舞木城址は明治42年(1909年)に永楽小学校の敷地となり、その後小学校の移転に伴い昭和44年(1969年)には住宅団地が造成され、現在は遺構などはまったく残っていない。

舞木城址(藤原秀郷の碑) (2)
団地の一角にある児童公園に「藤原秀郷公誕生の地」という碑が建っている。揮毫は陸軍大将・荒木貞夫とあるので、戦時中の建立か?

ちなみに、藤原秀郷の生没年、ならびに出生地は不詳とされており、当地で誕生したという根拠はない。ただし、天慶2年(939年)の平将門の乱を平定しているなど、北関東との縁は深い。

伊勢崎市赤堀今井町の宝珠寺には、秀郷の供養塔と伝わる五輪塔がある。
(「藤原秀郷(俵藤太)の供養塔 -宝珠寺-」参照)

また県内には、秀郷の子孫にあたる大胡氏や渕名氏関連の寺社も数多くある。

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邑楽郡千代田町赤岩の弘安の板碑。

弘安の板碑 (1)
弘安の板碑 (2)
当所には光恩寺の僧・弘順が創建した弘永寺があったが、明治初期に廃寺となっている。観音堂のみ残り、平成28年(2016年)に修築されている。

弘安の板碑 (3)
青面金剛像(左)、二十三夜塔(中)、出羽三山碑(右)などがあり、往事を偲ばせる。

弘安の板碑 (4)
鎌倉時代の弘安6年(1283年)銘の板碑。緑泥片岩製で、高さ72cm、幅26cm、厚さ3cm。蓮座の上に種子の阿弥陀如来が刻まれている。

千代田町に現存する板碑の中でも古い時代のもので、当地の歴史を知るうえで貴重である。

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邑楽郡邑楽町秋妻の天華山清岩寺。

清岩寺 (1)
清岩寺は大雲文龍の開山。文龍の没年は元和3年(1617年)なので、清岩寺の創建は江戸初期あたりと思われる。

清岩寺 (2)
清岩寺 (3)
清岩寺 (4)
本堂は平成15年(2003年)に改修されている。

清岩寺 (5)
境内の薬師堂。

清岩寺 (6)
境内の池。きれいに整備されている。

清岩寺 (7)
日清・日露、大東亜戦争戦没者の供養塔の隣に、付近で墜落したB-29、グラマン搭乗員の慰霊碑もある。

清岩寺 (8)
B-29墜落搭乗員慰霊碑。昭和20年(1945年)2月10日、太田市の中島飛行機攻撃に飛来した118機のB-29のうち2機が空中衝突し墜落。乗員23名が犠牲となった。

清岩寺 (9)
グラマン搭乗員慰霊碑。昭和20年2月16日、飛来したグラマンが高射砲に撃たれ足利市に墜落。3名の搭乗員が犠牲になった。

清岩寺 (10)
平成27年(2015年)3月に行われたB-29・グラマン日米合同追悼式には、キャロライン・ケネディー駐日大使(当時)からメッセージが寄せられている。

碑の建立時、米軍横田基地(広報部)も
「日本以外の国で、敵の兵士を敬い慰霊する行事はないだろう。日本人の高い品格と日米の友好の絆を表すもの」
とのコメントを出している。


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館林市千塚町の判官塚。

千塚の判官塚 (1)
千塚の判官塚は、高さ1m程度の塚である。塚と言われているくらいなので、小さな円墳だと思われる。

伝説では源義経が奥州に落ち延びる際、ここで休んだとされる。義経の官位が左衛門尉だったので「判官」と呼ばれたことから「判官塚」。

千塚の判官塚 (2)
塚上には1本の松の他、「判官塚」の石塔と庚申塚、馬頭観音などがある。松はまだ若いので、近年植え替えられているようだ。

群馬県内には、奥州に向かった義経の様々な足跡が、伝説という形で残されている。また、義経の後を追ったという静御前や常盤御前のものといわれる墓もある。

関連
 「源義経が沐浴した井戸 -冠稲荷神社-
 「義経馬殿塔 -正観寺-
 「静御前のお墓? -養行寺-
 「静御前のお墓??
 「常盤御前のお墓? -極楽寺-

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館林市赤生田本町の永明寺。

永明寺 (1)
永明寺は養老年間(717~24年)創建と伝わる古刹である。

永明寺 (2)
永明寺 (3)
弘化元年(1844年)、火災により堂宇を焼失。現在の本堂は昭和53年(1978年)の再建。非常に特徴的。

永明寺 (4)
永明寺 (5)
境内にある「生祠 秋元宮」。
秋元宮は安政4年(1857年)に赤生田村の住民によって建てられた石祠。平成6年(1994年)に永明寺境内に移されている。

赤生田村は用水・排水の便が悪く、水害や旱魃の影響を受けやすい土地だった。米の作況が悪くても年貢は一定に納めねばならないため、住民は苦しんでいた。

弘化2年(1845年)に山形から移封されてきた秋元志朝は、この状況を理解し、作況にあわせ年貢量を調整する施策を行った。また、安政3年(1856年)の大洪水の時には、救助米の支給を行うなど善政を敷いていた。赤生田村の住民は、これらに感謝し志朝を「生き神様」として祀った。

秋元氏は江戸時代初期、総社(前橋)藩主だったが、総社での評判も非常に良い。

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館林市赤生田町の子神社。

子神社 (1)
子神社 (2)
子神社の創建は不詳。江戸期までは「子之権現様」の名称で崇められてきた。足腰の神様として近郷近在にない御利益のある神様で、関東各地より参拝する人が多く訪れる。

子神社 (3)
子神社 (4)
子神社 (5)
現在の社殿は明治2年(1869年)の改築。

子神社 (6)
大型の草鞋が掲げられている。金属製のようだ。

子神社 (7)
子神社 (8)
社殿を囲むようにに多くのわらじ(ステンレス製)が奉納されていた。「足腰が良くなりますように」「膝の痛みが消えますように」など、足腰にまつわる病などの治癒祈願がほとんど。

子之権現は子之聖人のことで、天長9年(833年)紀伊国生まれで、7歳で出家した後、出羽国・湯殿山で修行重ね、諸国を行脚した。生まれが子年子月子日子刻であったため、人々に子之日丸と呼ばれた。

武蔵国(現、飯能市)で悪魔に襲われ足腰に深い火傷を負い、その地に留まり、120歳(!)の長寿を全うしたという。その死に際して、「魔火のため腰と足を傷め悩めることあり。故に腰より下を病める者、一心に祈らば、その験を得せしめん」と言い遺したことから、足腰の神仏として信仰を集めることとなった。

でも、子神社のご祭神は大己貴命。子之聖人ではない。大己貴命が「旅好きで大変な健脚の持ち主」だったので、それにあやかって草鞋などを奉納するようになったとある。

ちなみに大己貴命は大国主命の別名であるが、大国主命が足腰の神様であるとの説はあまり聞かない・・・。

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館林市羽附町の龍洞山普済寺。

普済寺 (1)
普済寺 (2)
普済寺 (3)
普済寺は大永3年(1523年)大雲伊俊禅師の開山。

普済寺 (4)
普済寺 (5)
藁葺の中門(?)内に銅鐘が置かれている。銅鐘は慶安2年(1649年)に地元民が栃木佐野の鋳物師に造らせ、普済寺に寄進したもの。口径69cm、胴の高さ99cm、全長1.26m。館林市の重文となっている。

普済寺 (6)
鐘楼にも梵鐘が吊るされている。

普済寺 (7)
普済寺 (8)
現在の本堂は平成13年(2001年)の再建。

普済寺 (9)
このしだれ桜の親木は徳川家康が手植えしたもので、親木は枯れてしまったが、その根から別れ育ったのが、このしだれ桜だという。

なぜ徳川家康が? と思うが、普済寺5世は家康の幼友達で、しかも長尾景虎(上杉謙信)の弟という伝承があるらしい。家康は天正9年(1591年)には現在の板倉町の一部を寺領として普済寺に与えたという。

そのためか、普済寺のご朱印には「家康ゆかりの寺」と記載されている。


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館林市尾曳町の旧秋元別邸。
(「つつじか岡第2公園 -旧秋元別邸-」参照)
その庭園の一角に明治期の秋元家当主・春朝の像がある。

秋元春朝像
秋元春朝が池に向かって投網で魚を獲る姿を模った像。別邸に足を運んだ際に、城沼で魚獲りをしたのだろうか?

幕末の弘化2年(1845年)に山形から転封となった秋元家は最後の館林藩主である。明治維新時の館林藩主は秋元礼朝で、春朝は礼朝の孫になる(実際は礼朝の養子・興朝の婿養子)。

春朝は明治14年(1881年)の生まれで、大名家なので子爵の位にあった。貴族院の子爵議員に選出されている。

解説板には、「春朝は自然をこよなく愛した粹人で、村人からも親しまれたなかなかの好人物」とあった。

ちなみに、秋元家の菩提寺は前橋市総社町の光巌寺。
(「秋元氏の菩提寺 -光巌寺-」参照)
光巌寺が管理する宝塔山古墳上に、礼朝までの歴代の墓がある。
(「秋元氏歴代の墓所 -宝塔山古墳-」参照)

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館林市緑町の高鑰山遍照寺。

遍照寺 (1)
遍照寺 (2)
遍照寺は新田義重が建久9年(1198年)に矢島郷(現、明和町)に創建したと伝わる。新田義重は新田氏の祖である。天正18年(1590年)館林に入った榊原康政が現在地に移転し、榊原家の祈願所として崇敬した。榊原家は姫路や越後村上に移封された後も寄進を続けている。

遍照寺 (3)
遍照寺 (4)
寛延3年(1750年)建立の本堂には本尊である不動明王の他に、榊原康政の守護仏だった十一面観音も祀られている。十一面観音は寛永9年(1642年)に松平忠次(榊原康政の孫)が寄進したもの。

遍照寺 (5)
興教大師像があり、周りは四国八十八ヶ所霊場御砂踏場となっている。興教大師は覚鑁(かくばん)と言い、真言宗中興の祖にして新義真言宗の始祖である。

遍照寺 (6)
遍照寺 (7)
境内には立派な聖観音像と大日如来坐像があった。

遍照寺は東上州33観音霊場の6番札所であるが、元々は末寺の観音院が札所であった。明治時代に観音院が廃寺となり遍照寺が引き継いでいる。その際に、康政守護仏の十一面観音が札所本尊になったようだ。

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館林市富士原町の富士嶽神社。

富士嶽神社 (1)
富士嶽神社 (2)
富士嶽神社の創建は不詳だが、文禄元年(1592年)榊原康政により再建、後の領主らも修復・営繕を行い、広く住民の崇敬を集めて来た。

富士嶽神社 (3)
参道を進むと割拝殿のようなものがある。「絵馬殿」とあったが、内部には1枚の絵馬があっただけだった。

富士嶽神社 (4)
社殿は小桑原古墳群のひとつ富士嶽神社古墳(前方後円墳)上にある。45段の石段を登ることを富士山登山に見立て、社殿に拝礼することでそのご利益が得られるという。

富士嶽神社 (5)
富士嶽神社 (6)
本殿の全景は撮影できなかったが、素晴らしい彫刻が施されている。昭和48年(1973年)に修復されている。

富士嶽神社 (7)
富士嶽神社の初山祭に幼児の成長を祈願して額に御神印を押す行事は、独特の神事として永く伝承されている。御神印を押すことから「ペッタンコ祭」と呼ばれている。(写真は「両毛広域都市圏総合整備推進協議会」のHPから拝借)

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館林市足次町の赤城神社。

足次赤城神社 (1)
足次赤城神社 (2)
足次赤城神社 (3)
足次赤城神社は、建仁2年(1202年)新田義重が三夜沢赤城神社の分霊を勧請し、新田氏代々の守護神としたと伝えられる。義重は新田氏の祖である。

しかし「吾妻鏡」の建仁2年1月29日の記に、北条政子が源頼家(鎌倉幕府2代将軍)に対し、義重が死去し20日も経っていないのに蹴鞠に興じるのは不謹慎だと叱る記述がある。これを信用するなら、義重は新年早々死去したと考えられ、足次赤城神社の創建年はちょっと怪しい。

足次赤城神社 (4)
現在の社殿は平成3年(1991年)に修復されている。

拝殿内には「ムカデと梅樹絵馬」と「千匹ムカデ絵馬」がある(どちらも館林市の重文)。ムカデは赤城神の眷属といわれ、赤城神社とムカデの関わりを示す資料となっている。
(関連 「赤城山が御神体 -赤城の百足鳥居-」参照)

拝殿を覗けば、この絵馬は見ることができる。ただ右側に飾られているのと、ガラス付きの額に納められているようで、どうしても写真がうまく撮れなかった。正面や額のガラスに外景が反射してしまい、絵馬にカブってしまうのだ。残念! (絵馬は、これ以外にも多数飾られている)

足次赤城神社 (5)
足次赤城神社 (6)
足次赤城神社 (7)
足次赤城神社 (8)
足次赤城神社 (9)
本殿の彫刻は素晴らしい。

ちなみに、「ムカデと梅樹絵馬」の作者は北尾重光である(願主は別人)。
(北尾重光は「浮世絵師・北尾重光の墓 -覚応寺-」参照)

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館林市日向町の義民地蔵。

義民地蔵 (1)
義民地蔵 (2)
徳川綱吉が館林藩主だった時代、役人が「目こぼれ」と称し年貢米一俵が三斗五升のところを一斗余分に徴収するという事件が起こった。これに対し、小沼昌左衛門、森尻右馬上允、栗原四郎兵衛、小沼久四郎、栗原三左衛門ら18名の名主たちが代表となって藩に申し立てを行った。

しかし役人に聞き入れられなかったことから、江戸へ上がり藩主に直訴を行った。これにより農民救済の願いはかなったが、直訴は死罪のため18名は捕えられ、延宝4年(1676年)日向刑場において処刑された。

その後、元禄17年(1704年)農民の犠牲となって処刑された18名への報謝の意を込め、その冥福を祈るため地蔵尊が造られ供養された。以後「義民地蔵」と呼ばれている。

ここは日向刑場跡である。館林藩の刑場が天和・貞享(1681~87年)のころ当地(日向村)から青栁村へ移されたため、刑場跡地に地蔵尊を建てることが可能であった。

館林藩では本事件のすぐ後の享保3年(1718年)にも「館林騒動」と呼ばれる直訴事件が起こっており(当時の藩主は松平清武)、藩としての統治能力がかなり低かったと考えられる。

関連
 「館林騒動・三義人の供養塔 -教学院-
 「志士之碑(竹岸武兵衛の顕彰碑) -神光寺-

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館林市北成島町の旧大了庵跡。

旧大了庵 (1)
旧大了庵は寛永5年(1628年)ころには、地域住民の菩提寺となっていたが、いつ頃からか無住となり現在は北成島町の区民会館となっている。写真は旧本堂と思われる。

旧大了庵 (2)
旧大了庵 (3)
旧大了庵 (4)
旧境内には「郷土繁栄之記」という碑とともに、「繁栄の松」が茂っている。碑には地域のことや大了庵のことが記されていたが、内容はほとんど忘れてしまった(すみません)。

旧大了庵 (5)
旧大了庵 (6)
旧大了庵 (7)
地元の英霊(二十二勇士)のお墓と忠魂碑がある。英霊のご冥福をお祈りするとともに、現在の平和の礎を築いてくださったことへ感謝します。

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