Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 渋川市・北群馬郡


渋川市北橘町上箱田の大クワ。

上箱田の大クワ (1)
上箱田の大クワ (2)
大クワは根元付近から3本に枝分かれしており、樹齢は約300年と推定される。

上箱田の大クワ (3)
上箱田の大クワ (4)
根元周りは約4m、それぞれの幹周り(目通り)は、2.5m、2.1m、1.6mを測る。枝張りは東西10.6m、南北12.8m、樹高は8.3m(数値は現地解説板から)。

それなりに樹洞が見られるが、樹勢は良いように見える。渋川市内では「下郷の大クワ」に次ぐ大きさで、旧北橘村では唯一の大クワである。

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渋川市上白井の天霊山空恵寺。
前回訪問時(2012年)、長尾氏累代の墓を見つけられなかったので、捲土重来を期し再訪。(「渋川市上白井・空恵寺 」参照)

空恵寺2 (1)
前回、本堂裏の洞窟みたいなところでくじけたが、よく見ると左に行く細い道があった。草木をかき分けてみたいな感じで坂を上って行く。途中何か分からないが建物があったが、それを無視しさらに上って行く。

空恵寺2 (2)
ありました。長尾氏累代の墓。
長尾氏は桓武平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族。鎌倉時代末から南北朝期に上杉家の家臣となり、上杉氏が関東管領として関東・越後に勢力を広げると、その家宰や越後・上野・武蔵の守護代として各地に諸家を分立させ繁栄している。

空恵寺2 (3)
中央の宝篋印塔は、長尾氏祖先・鎌倉権五郎景正、もしくは白井長尾氏の祖・長尾景熙の墓といわれる。これは渋川市の解説板の内容。真偽は分からない。

調べてみたところ、鎌倉権五郎から長尾景弘(長尾氏初代)が出ているのは確かなようだ。また、白井長尾氏の祖は清景とする資料が多いが、清景と景熙の関係は分からない。

ちなみに、鎌倉権五郎を祀る五郎神社というのが伊勢崎市にある。
(「鎌倉権五郎景正を祀る -五郎神社-」参照)

空恵寺2 (4)
空恵寺2 (5)
17基の宝篋印塔・宝塔が並んでいるが、そのうち15基が長尾氏関係の墓とされる。景仲(3代)、景春(5代)など一部の台石には銘も残っているが、倒壊などに伴う積み替えで、原型をとどめているものはないようだ。

ただ、空恵寺が白井長尾氏の菩提寺で、これらの墓碑が長尾氏のものであることは間違いないこと。

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渋川市赤城町津久田の角田夢幻道人の遺髪塚。

角田無幻道人の遺髪塚 (1)
入口の標識。微妙に上向きの矢印が気になる。

角田無幻道人の遺髪塚 (2)
琴平山と言うらしいが、獣道に毛が生えた程度の道を上っていく。写真では分かりづらいが、けっこう急坂だ。

角田無幻道人の遺髪塚 (3)
太古の赤城山からの噴石だろうか。大石がゴロゴロしている。

角田無幻道人の遺髪塚 (4)
角田無幻道人の遺髪塚 (5)
角田夢幻道人の遺髪塚。
角田夢幻は寛保3年(1743年)下野田村(現吉岡町)の花蔵寺に生まれ、宝暦8年(1758年)に津久田・林徳寺の法嗣(養子)になっている。

寛政4年(1792年)に京都に上り、大善院の住職となり修験宗門弟の講学所・森学寮を創立し、門弟の指導に尽力している。また寛政12年(1800年)には、伝法大阿闍梨法印に叙せられている。

文化6年(1809年)京で没し真如堂に葬られたが、上州の弟子たちが遺髪と爪を持ち帰り、夢幻道人建立の寂照山という寺の跡に遺髪塚を建てた。

角田無幻道人の遺髪塚 (6)
墓碑銘は聖護院・藤原利恭撰文、中山簡斎の書。他の2面には夢幻書の円頓章が刻まれている。夢幻自身も幼少のころから教学を学ぶ傍ら書にも親しみ、在京中には光格天皇に自筆の千字文を奉呈している。後に「上毛三筆」と称されている。

角田無幻道人の遺髪塚 (7)
遺髪塚の前に2つお墓がある。遺髪塚の建立者(弟子)と無幻の末裔の方のものだという。

ところで、遺髪塚にはけっこうな急坂を上って行くのだが、ここに来る直前に前回紹介した「千石稲荷神社」に行ってきたので、もう疲労困憊。

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渋川市赤城町津久田の千石(せんごく)稲荷神社。

千石稲荷神社 (1)
千石稲荷神社 (2)
千石稲荷神社は、源義康が天文16年(1547年)に奉斎し、天保12年(1841年)に京都のの伏見稲荷神社から分霊を勧請したといわれる。源義康と言えば、一般的には足利義康(源義国の2男で足利氏の祖)だが、年代的に合わないので別人だろう。

清和源氏(足利氏、新田氏、武田氏、佐竹氏、今川氏、細川氏、土岐氏など)が有名だが、それ以外にも嵯峨源氏、文徳源氏、宇田源氏、醍醐源氏など21の家系があり、これらの人々はみな本姓は源なので。

千石稲荷神社 (3)
お気楽に訪問したのだが、実はこれがどんでもなかった。一ノ鳥居の先は林道が続く続く、まだ続く(苦笑)。

千石稲荷神社 (4)
千石稲荷神社 (5)
やっと二ノ鳥居が見えてきたが、その先に社殿がある雰囲気ではない。まだ先のようだ。

千石稲荷神社 (6)
山道はさらに険しくなってくる。坂も急だ。

千石稲荷神社 (7)
最後に待っていたのが急な石段。上に何か見える。もう少しみたいなので頑張ろう。

千石稲荷神社 (8)
千石稲荷神社 (9)
やっと着いた。三ノ鳥居と社殿が見えた。大げさな表現を使うと、ちょっとした軽登山だった。

千石稲荷神社 (10)
千石稲荷神社 (13)
千石稲荷神社 (11)
千石稲荷神社 (12)
山の斜面の少し平らなところに社殿は建っている。小さいながらも美しい社殿は、森の緑とよく融合している。天井も格子絵が施されている。

千石稲荷神社 (14)
境内の神石? 左側の文字がよく読めないが「神」?

千石稲荷神社 (15)
千石稲荷神社 (16)
稲荷神社らしく、大量の狐像が奉納されていた。

江戸時代後期、伝左衛門という者が絹1疋を盗まれたが、当社の霊験により盗品が戻ったことから、盗品除けの神としても崇敬を集めるようになったという。

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渋川市赤城町上三原田の歌舞伎舞台。

上三原田の歌舞伎舞台 (1)
上三原田の歌舞伎舞台 (2)
上三原田の歌舞伎舞台は、大工の永井長治郎が上方に修行に行き、帰郷後の文政2年(1819年)、天竜寺境内に建築したと伝えられている。明治15年(1882年)に現在地に移築されている。

舞台の特徴は、三方の板壁を外側に倒して、舞台面を2倍以上の広さにするガンドウ機構。舞台の奥に遠見と呼ぶ背景をつけ、奥行きを深く見せる遠見機構。平舞台いっぱいの回転部を回転させる柱立式廻転機構。二重と呼ぶ小舞台を天井・奈落の双方からせり上げ、せり下ろすセリヒキ機構。これらの機構は全国に例を見ない特殊な機構となっている。

上三原田の歌舞伎舞台 (3)
この舞台での歌舞伎公演は途中何度か中断されたが、地元伝承委員会による舞台操作技術の伝承と古典芸能保存会による地芝居の復活により、現在も歌舞伎が公演されている。

写真は歌舞伎舞台前に設置されている平成13年(2001年)の公演の様子。

上三原田の歌舞伎舞台 (4)
今年(2018年)の公演は11月25日に開催され、こども歌舞伎や農村歌舞伎が上演される予定である。また、来年(2019年)は歌舞伎舞台が作られてから200年にあたる。何か特別な催し物があるかも。

ところで、tvk(テレビ神奈川)が制作し、GTV(群馬テレビ)でも放送されている「キンシオ」って知ってる? イラストレーターのキン・シオタニが街ブラをする番組で、現在は「一文字地名の旅」(関東各地の漢字一文字の地名辺りをブラブラする)というコーナーが中心になっている。それで、渋川市赤城町樽が取り上げられたとき、この歌舞伎舞台を時間を割いて紹介していた。マイナーなローカル番組だけど、けっこう面白いよ。GTVでは月曜の夜11時から放送中。

追記(2019.7.29)
「キンシオ」は土曜日の21時に移動しています。現在は「元号地名の旅」シリーズです。


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渋川市中郷の菅原神社。

中郷菅原神社 (1)
中郷菅原神社 (2)
中郷菅原神社の創建年は不詳であるが、元亀2年(1571年)に真田幸隆が白井城を攻めた際、その兵火で焼失したといわれていることから、それ以前の創建と考えられている。

中郷菅原神社 (3)
中郷菅原神社 (4)
中郷菅原神社 (5)
鳥居をくぐると、すぐにご神橋。池には祠がある。水神様かな。

中郷菅原神社 (6)
けっこう急な石段。

中郷菅原神社 (7)
中郷菅原神社 (8)
中郷菅原神社 (9)
中郷菅原神社 (10)
本殿は別当寺(長泉寺)の亮順が貞享3年(1686年)に再建したという。近年では、平成22年(2010年)に大改修が行われている。本殿は、和様・唐様の折衷様式の一間社流造りで、旧子持村内に現存する神社では最古の建築物とされる。

中郷菅原神社の由緒は、境内の由緒碑(旧子持村設置)から引用したが、真田幸隆が白井城を攻略したのは永禄10年(1567年)で、元亀2年に白井城を攻めたのは真田昌幸(幸隆3男)という説もあり。

まあ、中郷菅原神社の歴史的価値には何も関係ないことだけど。

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渋川市北牧の中ノ峯古墳。

中ノ峯古墳 (1)
中ノ峯古墳 (2)
中ノ峯古墳は傾斜面に築かれた直径9m、高さ1mの円墳。6世紀初めの榛名山噴火による火山灰層の上に造られ、6世紀中ころの榛名山噴火による軽石層に埋もれていた。地学上から築造年代の分かる貴重な古墳。

中ノ峯古墳 (3)
中ノ峯古墳 (4)
中ノ峯古墳 (5)
石室は自然石乱石積の袖無型横穴式で、全長5m・埋葬部長3m。人骨5体、直刀2口、銀製飾金具、鉄鏃、玉類などが出土している。

昭和54年(1979年)軽石採取の際に偶然発見された。軽石層に埋もれていたため、きれいな原型をほぼとどめているのだが、季節がら草に覆われ残念ながらその形はよく分からず。草の枯れる秋から冬に訪れるのがいいと改めて認識。

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渋川市北牧の人助けのカヤ。

人助けのカヤ
天明3年(1783年)の浅間山の大噴火(浅間押し)による泥流が吾妻川を流れ下り、流域の村々を押し流し民家・田畑に大きな被害をもたらした。

旧北牧村も例外ではなく、多くの民家が流され人的被害もあったが(50名以上)、このカヤの木によじ登ることで、数十名が難を逃れることができた。そのため、後に「人助けのカヤ」と呼ばれるようになった。

「人助けのカヤ」は高さ13m、根本の周囲3.4mの大樹。樹冠は東西10m、南北8m。樹齢は約400年と推定される。カヤの木の下にある碑には、泥流で6m埋もれていると書かれていた(と思う)。碑の写真は撮って来るのを忘れた。

このカヤの木は実と葉からくさい匂いがすることから、地元の人々は「へだまの木」と呼んでいる。

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渋川市北牧の延寿山興福寺。

興福寺 (1)
興福寺 (2)
興福寺は慶長13年(1608年)空恵寺16世・斎香桂🌑の開山(🌑は見たことない漢字で読めない)。天明3年(1783年)の浅間押しにより流出。享和3年(1803年)に再建されている。

興福寺 (3)
再建本堂は嘉永6年(1853年)に火災により焼失。現在の本堂はそれ以降の再建で、昭和60年(1985年)に増改築、平成9年(1997年)に屋根の改修を行っている。

興福寺 (4)
興福寺 (5)
興福寺 (6)
六地蔵、大日如来坐像、慈母観音像。いずれも比較的新しそうだ。

興福寺 (7)
賑貸感恩碑。天明3年(1783年)の浅間押しの被害から立ち直った教訓と、幕府勘定吟味役・根岸九郎左衛門鎮衛の救済措置の恩恵を忘れないよう、浅間押しから47年目の文政12年(1829年)に建立したもの。

根岸は勘定吟味役として、河川改修、普請工事に才腕を振るったことから復興工事の巡検役に任命されたもの。後に勘定奉行、南町奉行に任命されている。

賑貸感恩碑は当地の浅間押しの被害の状況と、江戸時代の民政の一端を知る上で貴重な資料である。

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渋川市横堀の根本常南の墓。

根本常南の墓 (1)
根本常南の墓 (2)
根本常南は常陸国の出身で絵を好んで描いていたが、師事する師匠はなく宋画を手本としていた。若くして京都、江戸など諸国を巡り、後に仙台や鎌倉に滞在している。鎌倉では建長寺の誠拙禅師のもとで修行し、名を言成と改めている。

文化8年(1811年)上野国を訪れ、雙林寺に泊まって涅槃図(渋川市重文)を弟子の菅井梅関とともに完成させている。さらに同寺山門の格天井、榛名神社山門の格天井、その他の装飾画を手がけているうちに病にかかり、横堀宿升屋の寮で文化9年(1812年)に49歳で没している。

墓があるのは、元升屋の寮の庭先である。

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渋川市小野子の八木沢清水縄文時代住居跡。

八木沢清水縄文時代住居跡 (1)
八木沢清水縄文時代住居跡は昭和51年(1976年)に発見され、翌年の発掘調査により縄文時代から弥生・古墳時代に及ぶ住居跡、土坑などの遺構や石器・土器などの遺物が確認された。

特に、地表下1.5mの関東ローム層上面で発見された住居跡は、縄文時代草創期後半(約9000年前)のもので、群馬県内最古の竪穴式住居と判明した。

八木沢清水縄文時代住居跡 (2)
住居は直径約5mのいびつな円形で、当時の地面から50~60cmほど掘り込んで床面を作っている。床面には柱を立てたと考えられる直径20cm、深さ30cmほどの穴が16個あいている。

住居内に炉の跡はなく、また土が焼けた痕跡もないことから、まだ火をたく習慣(文化)が無かったことが分かる。

現在は標高460mの比較的高地だが、当時はもっと低地だったのではないかと思う。神流町の「恐竜の足跡」がある所が海だったといわれているので(1億年前の話だけど)。
(「恐竜の足跡!? -神流町恐竜センター-」参照)

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渋川市小野子の飯塚大学の石堂。

飯塚大学の石堂 (1)
飯塚大学は白井長尾氏の家臣で、白井城内の「白井の聖堂」で教学に当たったといわれ、「白井聖堂の教学の士」と尊敬を受けた。

石堂は飯塚大学が寛正5年(1464年)に没した後、関係者により天文17年(1548年)に建立された供養石堂。高さ141cm、幅88cm、奥行き88cm。前面に唐草文様、竪連子、幾何学的文様などが刻まれている。小野上地区の石堂では最古のもの。

飯塚大学の石堂 (2)
内部に像が安置されているが、人物像なのか仏像なのか分からない

飯塚大学の石堂 (3)
墓地内にある木の間の宝篋印塔(木の間は字名)。安永6年(1777年)の建立。

この墓地内には天明3年(1783年)浅間山の大噴火による泥流(浅間押し)で亡くなった方々の供養塔があるのだが、ちょっと草が生い茂っていて見つけられなかった。

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渋川市金井の岸豊後守積保の墓。

岸豊後守積保の墓 (1)
岸豊後守積保は享保20年(1735年)宮大工の家に生まれる。実技を祖父から伝授され、明和年間(1764~72年)には京都で卜部氏に学び、豊後守の号を授けられるまでになった。

棟梁として神社仏閣建造の指揮を執るとともに、多くの門弟を養成した。妙義神社の総門や伊勢崎市・宝憧院の本堂が代表作である。天明3年(1793年)49歳で没している。

岸豊後守積保の墓 (2)
積保の墓がある墓地は、旧寺院の墓所なのか岸家の墓所なのか不明だが、周りには立派な石塔や石仏が多くある。

関連
 「本殿の修理が完了しました -妙義神社 その2-
 「駒井政直・親直の墓 -宝憧院-

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渋川市渋川(上郷)の如意山良珊寺。

良珊寺 (1)
良珊寺は白井長尾氏(白井城主)の家臣・佐鳥全徳が、弘治3年(1557年)に没した妻の菩提を弔うために建立した伴松庵が始まりといわれる。その後、天正年間(1573~92年)に雙林寺11世・自然玄悦により開山。

良珊寺 (2)
良珊寺 (3)
山門は寛保年間(1741~44年)の建立。昭和37年(1962年)に銅板葺きに改修されている。山門は鐘楼堂と羅漢堂を兼ねており、十六羅漢が安置されている。また、山門前の延命地蔵は享保5年(1720年)の建立。

良珊寺 (4)
本堂側からの山門。山門2階に上れたのかもしれない。

良珊寺 (5)
渋川市の比較的山あいにあるので緑が多いが、境内も緑豊かで気持ちが良い。

良珊寺 (6)
良珊寺 (7)
本堂は嘉永年間(1848~55年)の再建。大正13年(1924年)に瓦葺きに改修されている。本堂内にはご本尊の如意輪観音を祀る。像は一面二臂。如意山はご本尊からかな。

良珊寺 (8)
良珊寺 (9)
境内の薬師堂。明治37年(1904年)に川原町にあった薬師如来像が移された。眼の病気に御利益があるという。

良珊寺 (10)
良珊寺 (11)
大般若波羅蜜多経600巻が納められている。三蔵法師が大乗仏教の基礎的教義が書かれている長短様々な「般若経典」を集大成した経典。

良珊寺 (12)
境内のはずれに湧水があった。「当湧水は化学物質の混入が認められ飲用不適と判明しました」と注意書きがあったが、ポリタンクに水を汲んでいる人がいた。何に使うのだろう?

良珊寺 (13)
境内入り口より少し手前にある毛髪塚。良珊寺と関係があるのかは申し訳ないが分からない。昭和46年(1971年)の建立。日本初の毛髪塚らしい。

ある女性の夢枕に無数の球体が現れ、「巨象をも繋ぐ女性の一毛が欲しい。一毛があれば交通事故をも免れ得たものを」と嘆いたという。夢を見た女性は悟るところあり、塚の建立を思い立ったという。

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渋川市渋川(上郷)の迦陵山千音寺跡。

千音寺跡 (1)
千音寺に関してはよく分からないが、その墓地に五輪塔がある。総高114cmで永享6年(1434年)の銘がある。旧渋川市地区で年号を刻む最古の五輪塔である。

千音寺跡 (2)
永享の五輪塔の向かって右隣りには延徳4年(1492年)銘の宝篋印塔がある。

これらの宝塔類は今成氏祖先の墓と伝えられている。今成氏については分からない。

千音寺跡 (3)
千音寺跡 (4)
千音寺跡 (5)
子育て地蔵尊。幟に迦陵山千音寺とあるので、旧千音寺の地蔵堂だと思う。由緒などは分からないが、きれいに整備されており地域の方々から篤く信仰されているのが分かる。

千音寺跡 (6)
地蔵堂の脇には、先の大戦で戦死した地元の方々の慰霊碑。合掌。

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渋川市渋川(上郷)の堀口藍園(らんえん)の墓。

堀口藍園の墓
漢学者・堀口藍園の墓。堀口家の墓地にある。文政元年(1818年)生まれの藍園は、木暮足翁、高橋蘭斎に国学、僧周休に漢詩を学ぶ。40歳で江戸・京都へ遊歴し多くの漢学者・漢詩人や勤王の志士らと交わる。

帰郷後は私塾・金蘭吟社にて門弟の教育に力を注ぎ、吉田芝渓から続く渋川郷学を大成し完成させた。明治24年(1891年)74歳で没している。

渋川郷学についてはよく分からないが吉田芝渓が祖とされる。弟子の系譜として木暮足翁、高橋蘭斎、堀口藍園と続く(ようだ)。
*山崎石燕を渋川郷学の祖と呼ぶこともある

藍園墓地の大ケヤキ (1)
墓地内の大ケヤキ。根元周り14m、目通り周8.7m、樹高11m、枝張りは東西12m、南北14m。昭和38年(1963年)までは樹高が27mもあったが、幹の空洞化が進んだため、主幹の9mを残し伐採されてしまった。樹齢は約600年とされる。

藍園墓地の大ケヤキ (2)
藍園墓地の大ケヤキ (3)
現在も内部は空洞が大きいが、治療を施し樹勢を保っている。

渋川郷学関連
 「山崎石燕の墓と鳥酔翁塚 -雙林寺 その2-
 「渋川郷学の祖・吉田芝渓の墓
 「真光寺の重要文化財」(木暮足翁の墓)
 「高橋蘭斎の墓 -遍照寺-

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渋川市渋川(並木町)の光明山遍照寺。

遍照寺 (1)
遍照寺の創建は不詳。文化9年(1812年)に全焼。同14年(1817年)に再建されている。

遍照寺 (2)
山門は平成元年(1989年)の新築。

遍照寺 (3)
遍照寺 (4)
本堂は昭和54年(1979年)に内外の改修を行っている。扁額は高橋蘭斎の書。

遍照寺 (5)
高橋蘭斎の墓。
蘭斎は寛政11年(1799年)の生まれ。木暮足翁に和漢などを学ぶ。農家で馬問屋を兼ね名主も務めたが、医師を志し江戸に出て宇田川榕庵に蘭医学を学んだ。帰郷後は医業のかたわら塾を開き、堀口藍園ら多くの門弟を育成した。明治15年(1882年)84歳で死去。

渋川郷学は、山崎石燕-吉田芝渓-木暮足翁-高橋蘭斎-堀口藍園との流れのようだ。堀口藍園に関しては次回。


渋川郷学関連
 「山崎石燕の墓と鳥酔翁塚 -雙林寺 その2-
 「渋川郷学の祖・吉田芝渓の墓
 「真光寺の重要文化財」(木暮足翁の墓)

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渋川市渋川(御蔭)の吉田芝渓(しけい)の墓。

吉田芝渓の墓 (1)
吉田芝渓は宝暦2年(1752年)生まれの農学者。弟・翠屛とともに山崎石燕に儒学を学ぶ。寛政5年(1793年)に芝中に新田を開拓。その体験を「開荒須知」「養蚕須知」などに著した。この間に木暮足翁など多くの子弟を教育し「芝中の先生」と呼ばれた。文化8年(1811年)60歳で死去。

芝渓の実学の学風は、木暮足翁・高橋蘭斎・堀口藍園へと受け継がれ、「渋川郷学」と呼ばれるようになって行く。
*山崎石燕も渋川郷学の祖と呼ばれる

吉田芝渓の墓 (2)
吉田芝渓の墓 (3)
吉田芝渓の墓。
門弟の木暮足翁により建立されている。

吉田芝渓の墓 (4)
芝渓の墓の隣には、弟・翠屏の墓もある。

芝渓の墓はこの墓から100mくらいの所にもある。
吉田芝渓の墓 (5)
草が生い茂り、かき分けて中に入らせてもらった。戒名が刻まれている墓石が3つほど確認できたが、どれが芝渓の墓石かは分からなかった。以前は多くの墓石があったようだが、現在は確認できない。

吉田芝渓の墓 (6)
渋川市のHPによると、祖父母・父母・妻らの戒名・没年が彫られた一石を伴う墓石があると書かれているので、これかな? 唯一複数の戒名が刻まれている。

芝渓の墓はもう1ヶ所、ご子孫が建立した墓が渋川市元町にあるともいわれる(つまり計3ヶ所)。

渋川郷学関連
 「山崎石燕の墓と鳥酔翁塚 -雙林寺 その2-
 「真光寺の重要文化財」(木暮足翁の墓)

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渋川市渋川(下郷)の子育地蔵。

下郷の子育地蔵 (1)
真光寺37世・義範は、当時まだ残っていた口減らし(間引き)の風習を強く戒めていた。義範は宝暦11年(1761年)に亡くなるが、その徳を偲んだ人々が明和3年(1766年)に子育地蔵を建立した。

下郷の子育地蔵 (2)
赤子を抱き片膝がけで座る半肉彫りの地蔵尊は、総高262cm、像高約1m。2段目の台石には、打ち出の小槌やかくれ蓑などもが刻まれている。

当所は、義範が隠居後を過ごした竜雲庵跡である。

北橘町八崎の角谷戸薬師堂の天井絵に「間引き絵」があり、間引きの風習はなかなか無くならなかったことを示している。(「天井の間引き絵 -角谷戸薬師堂-」参照)

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渋川市渋川(下郷)の大クワ。

下郷の大クワ
下郷の大クワは根本から東西二幹に分かれている。東幹は目通り周2.1m、樹高約9m、西幹は目通り周2.2m、樹高約10m。両幹ともに樹洞が拡がっているが、治療の効果により樹勢が回復してきている。

樹齢は400年以上と推定され、群馬県内では沼田市石墨町の「薄根の大クワ」に次ぐ巨木である。

関連
 「養蚕の神 -薄根の大クワ-

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渋川市中村の早尾山延命寺。

延命寺 (1)
延命寺 (2)
延命寺 (3)
延命寺の由緒は不明。

延命寺 (4)
境内にある薬師石堂は総高117cmで、基礎部に文安2年(1445年)の銘がある。塔身は正方形で、その四面には各2体の護法物と華瓶(けびょう)が浮彫りされている。

向拝部(前の部分)は補設で、元禄3年(1690年)に石原村の大島四郎兵衛尉が奉納したことが刻銘されている。大島四郎兵衛尉は、新田一門・大島氏の関係者か。

延命寺 (5)
石堂内部には薬師如来像(石像)が安置されている。

薬師石堂は室町期の薬師信仰を知る上でも貴重なものである。

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渋川市川島の「金島の浅間石」と同中村の「中村の浅間石」。

金島の浅間石 (1)
金島の浅間石は天明3年(1783年)の浅間山大噴火の際に流出した泥流(浅間押し)により、吾妻川を伝いここまで運ばれてきたもの。高さ4.4m、東西15.7m、南北10m、周囲は43.2m。

川島村は168軒中127軒の家屋が流され、113名もの死者を出す大きな被害となった(資料によっては家屋の流出150軒、流死者128名とも)。これは村全体が壊滅した鎌原村に次ぐ被害である。(鎌原村は「生死を分けた15段 -鎌原観音堂-」参照)

金島の浅間石 (2)
近くの畑の中にも、当時流されてきたと思われる巨石が散見される。

中村の浅間石 (1)
中村の浅間石 (2)
中村の浅間石は、吾妻川を伝わった泥流が利根川に入り当地まで運ばれてきたもの。ここから800m南にあったが現在地に移築。高さ4.6m、東西11m、南北10mの大きさ。

中村では67軒の集落だったが、24名の方が流死している。

天明3年の浅間山大噴火では、群馬県下で1400名を超える犠牲者が出ている。吾妻川から利根川の流域では多くの流死者が流れ着き、各所に供養塔や慰霊塔(碑)が建っている。さらに下流の埼玉県や東京都にも存在する。

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渋川市金井の金井古墳。

金井古墳 (1)
金井古墳は山中の斜面に、榛名山の噴火により堆積した軽石層を切り開いて造られた山寄せ式円墳。直径約14m。古墳時代末の7世紀後半の築造と推定される。

金井古墳 (2)
石室は両袖型の横穴式で、天井と側壁の上部石は無くなっている。石材は角閃安山岩と自然石。石室は玄室と羨道の間に切石で造られた玄門がある。玄門には冠石が残っている。

金井古墳 (3)
金井古墳 (4)
金井古墳 (5)
玄室は最大幅が2m、長さ2.3m、高さは奥壁付近で2.1m。羨道部は長さ長さ2.8m、幅1.2m。遺物は石室内から鉄釘や鉄鏃片、前庭部から須恵器大甕、有蓋短頸壺、土師器坏などが出土している。

思っていた以上に山の中だったので、不安になってしまった。けっこう鬱蒼としていて、昼間でも物音がするとビビる。でも、道路の舗装が比較的新しかったので、道さえ分かれば行きやすい。

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渋川市北橘町八崎の赤城山雙玄寺(そうげんじ)。

雙玄寺 (1)
雙玄寺 (2)
雙玄寺は天正9年(1581年)白井城主・長尾憲景の開基、雙林寺10世・操芝永旭の開山。厳密には、元亀3年(1572年)に憲景は嫡子・輝景に家督を譲っているので天正9年は隠居の身。

雙玄寺 (3)
雙玄寺 (4)
文政12年(1829年)に堂宇が全焼したが、安政3年(1856年)に再建。

雙玄寺 (5)
境内の阿弥陀如来像。

雙玄寺 (6)
雙玄寺 (7)
墓地入り口付近には薬師如来像。こちらはお堂内に鎮座している。

雙玄寺には半楕円形(光背形)の石に六地蔵を陽刻した一石六地蔵がある。堂内に保管されている(渋川市の重文のため)ので、見られなかったが。大きさは約52cmで、「勢多郡拝志庄八崎村」「天文13年(1544年)」の銘がある。旧北橘村では最古の部類に入る石造物である。

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渋川市北橘町八崎の立石。
前回の角谷戸薬師堂へ向かう途中見かけたので、その帰りにちょっと見学させてもらった。
(角谷戸薬師堂は「天井の間引き絵 -角谷戸薬師堂-」参照)

立石 (1)
立石 (2)
立派な長屋門を構えたお宅の門前に、何らや案内板を発見。

大嵐の時、赤城山から転がってきて、ここに立ったという石。北橘村大字八崎小字立石の地名の元になった石だという。

現在、北橘村は渋川市と合併し渋川市北橘町となり、住所表記は八崎までで立石の名は消えてしまったようだ。

ちなみに、八崎地区は元々八崎城の城下町として発達し、江戸時代に入ると沼田街道西通りの宿場として栄えた。現在もわずかだが宿並みを見ることができる。

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渋川市北橘町八崎の角谷戸(すみがいと)薬師堂。

角谷戸薬師堂 (1)
角谷戸薬師堂 (2)
角谷戸薬師堂 (3)
角谷戸薬師堂は元禄11年(1698年)の建立。

角谷戸薬師堂 (4)
石段脇の木は樹洞が大きく開き、向こう側が見える。

角谷戸薬師堂 (5)
角谷戸薬師堂 (6)
薬師堂裏の仏塔、石仏群。

角谷戸薬師堂 (7)
堂内の天井には8列✕9列(72枚)の天井絵がはめ込まれている。内部は真っ暗で、カメラを差し込んで適当に撮った写真。よく写ったと思う。蛍光灯が写っているが、もちろん点いていない。

天井絵の大部分は花鳥風月画で、破損するたびに書き換えられて来た。現存の絵では「武山」と署名されたものが1番多い。武山についてはよく分かっていないが、明治初年ころの絵師といわれている。

角谷戸薬師堂 (8)
天井絵の中で目を引くのが、当時の世相を反映したとみられる「間引き絵」(写真は案内板の絵)。間引きは生活苦から子どもを殺してしまう悪習。悪習だが当時の比較的貧しい山村などではよく行われていたこと。

鏡に映っている母親の顔が般若のような形相に描かれており、武山の間引きを戒める考えが表れているのだと思う。

何とか撮った天井絵の写真に写っているかなと思い探したが、残念ながら見つからなかった。ラッキーはそう簡単に起こらない。

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渋川市北橘町分郷八崎の東円山観音堂。

東円山観音堂 (1)
東円山観音堂 (2)
東円山観音堂は元々お寺だったと思われるが、由緒などは分からない。仁王門には大悲殿の扁額が掛かる。

東円山観音堂 (3)
東円山観音堂 (4)
仁王門は平成23年(2011年)の再建。仁王像は享保2年(1717年)の造像で、大正13年(1924年)に修繕の記録が残る。旧北橘村では唯一の仁王像。

東円山観音堂 (5)
東円山観音堂 (6)
東円山観音堂 (7)
東円山観音堂 (8)
境内には青面金剛塔、閻魔像、脱衣婆像、庚申塔、馬頭観世音、念仏供養塔(百万遍塔)など多種・多数の石仏・供養塔がある。最初の写真中央の青面金剛塔は寛政12年(1800年)の銘がある。

東円山観音堂 (9)
特徴のある石仏だが地蔵菩薩とあった。全文字は読めなかったが、奉納・供養の文字と寛文8年(1668年)の銘があった。

境内の石仏群は写真以外にもたくさんあり、当時の民間信仰の実情を知る上で貴重な民俗資料となっている。そのため石仏が一括で渋川市の重文に指定されている。

東円山観音堂 (10)
東円山観音堂 (11)
建立年は分からないが、比較的新しめの観音堂。ご本尊は千手観音。

東円山観音堂 (12)
東円山観音堂 (13)
観音堂内部は天井絵も施され、欄間彫刻も見事だ。千手観音像は厨子内のようだ。千手観音像は行基作といわれ、永承4年(1049年)に僧・順永が安置したといわれている。

東円山観音堂 (14)
鰐口は青銅製で直径120cmの大きさ。明治18年(1885年)の鋳造。伊勢崎市の石山観音に次ぐ大きさかな。(「日本一(?)の大鰐口 -万徳寺(石山観音)-」参照)

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渋川市北橘町小室の敷石住居跡。

小室敷石住居跡 (1)
小室敷石住居跡は、縄文時代中期末葉から後期初頭(紀元前2000年ころ)の敷石住居跡である。居住部は東西3m、南北3.35mで、出入り口部は幅0.7m、長さ2.3m。

小室敷石住居跡 (2)
地面を浅く掘りくぼめ、床面に平らな石を敷きつめている。敷石は柱穴に沿ってほぼ6角形に敷かれており、中央に石組の炉が配置されている。

この敷石住居跡は、昭和41年(1966年)に地元の少年が自然薯の穴を掘っているときに、土の中に石が並んでいるのを見つけたのがきっかけで、昭和42年(1967年)に発掘調査が行われ、貴重な住居跡だと判明したもの。

小室敷石住居跡 (3)
小室敷石住居跡 (4)
北橘町真壁の北橘歴史資料館敷地内の「たちばな郷公園」に、小室敷石住居跡が実物大で復元されている。北橘歴史資料館は訪問済みだが、その時は館外には目が向かなかった。
(「渋川市北橘歴史資料館」参照)

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渋川市北橘町下南室の赤城神社。

下南室赤城神社 (1)
下南室赤城神社 (2)
下南室赤城神社は大同2年(807年)三夜沢赤城神社の分霊を勧請したと伝わる古社である。

下南室赤城神社 (3)
下南室赤城神社 (4)
一の鳥居、二の鳥居と少しずつ石段を登っていく。社殿はさらに上。

下南室赤城神社 (5)
下南室赤城神社 (6)
社殿は質素な雰囲だが、特に本殿は虹梁に龍の彫刻が施されるなど荘厳な造りになっている(覆屋の中と言うこともあり、写真はうまく撮れなかった)。

下南室赤城神社 (7)
下南室赤城神社 (8)
文久2年(1862年)造立の上野国十二社の石祠。

下南室赤城神社 (9)
下南室赤城神社 (10)
神楽殿は平成18年(2006年)の再建。毎年春の例祭で太々神楽が奉納される。下南室赤城神社の神楽は、東京御嶽神社に伝わる神楽を受け継いだ江戸神楽系で、明治16年(1883年)から行われている。

下南室の太々神楽は渋川市の無形重文に指定されている。また、そのうち「養蚕の舞」は群馬県の無形重文にも指定されるとともに、「群馬絹遺産」にもなっている。

下南室赤城神社 (11)
下南室赤城神社からは、真壁調整池越しに佐久発電所のサージタンクがよく見える。また、その先には榛名山の裾野が見える。榛名山も見る角度によっては裾野が長くきれいだ。
(佐久発電所は「北橘のシンボルタワー -佐久発電所-」参照)

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渋川市北橘町箱田の木曽三柱神社。

木曽三柱神社 (1)
木曽三柱神社 (2)
渋川市北橘町下箱田の木曽三社神社の宮司争いが、箱田村・下箱田村間の争いにまで発展してしまい、木曽三柱神社は分祀という形を取り安政2年(1855年)に創建されたという。社伝では由緒が木曽三社神社と同様だったり、神社名が近しいのは本家争いの意味合いがあったのかも。(「名泉・湧玉が滾々と -木曽三社神社-」参照)

木曽三柱神社 (3)
木曽三柱神社 (4)
木曽三柱神社 (5)
本殿は将軍塚古墳の墳丘上にある。

木曽三柱神社 (6)
将軍塚古墳は直径約21m、高さ約4mの円墳で、横穴式石室は旧北橘村で確認されている中では最大規模を誇る。将軍塚という名の由来は、木曽義仲が近江国粟津で討ち死に後、家臣とともに当地に落ち延びた3男・義基が、義仲の首と遺品を納めたからといわれる。

木曽三柱神社 (7)
木曽三柱神社 (8)
境内には池が造られ、芭蕉句碑などが建っている。

境内西側には箱田多目的集会所があり、そこは義基の墓と伝わる朝日塚古墳(円墳)を削平後建てられたものである。集会所前広場はゲートボール場になっており、行った日もお年寄りがゲートボールを楽しんでいたため、邪魔をせず写真も撮ってこなかった。

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