Tigerdreamの上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 渋川市・北群馬郡


渋川市、吉岡町、榛東村

渋川市・満行山泰叟寺
上野国五之宮? -若伊香保神社-
渋川市有馬・渠口神社
恵心僧都作の聖観音像 -神宮寺-
渋川市埋蔵文化財センター
渋川市北橘町・厄除け観音別所堂
江戸時代の年貢貯蔵庫 その3 -小室郷蔵-
男性助産師・石田伍助の供養塔
渋川市北橘町・応永15年の宝篋印塔
渋川市赤城町・いなり塚古墳
円形の句碑・齋坊塔(花塚) -御前神社-
渋川市・大宮姫神社
渋川市白井・玉椿の道祖神
渋川市・松原の道しるべ
利修仙人伝説 -鳳来寺峯薬師堂-
溝呂木の大ケヤキ -溝呂木諏訪神社-
渋川市北橘町・上箱田の大クワ
白井長尾氏累代の墓 -空恵寺 その2-
角田無幻道人の遺髪塚
盗品除けの神 -千石稲荷神社-
特殊機構の廻り舞台 -上三原田の歌舞伎舞台-
旧子持村最古の神社建築 -中郷菅原神社-
渋川市・中ノ峯古墳
渋川市・人助けのカヤ
賑貸感恩碑 -興福寺-
絵師・根本常南の墓
群馬県最古の竪穴式住居 -八木沢清水縄文時代住居跡-
白井長尾氏家臣・飯塚大学の石堂
宮大工・岸豊後守積保の墓
渋川市・如意山良珊寺
永享の五輪塔 -千音寺跡-
漢学者・堀口藍園の墓
高橋蘭斎の墓 -遍照寺-
渋川郷学の祖・吉田芝渓の墓
渋川市・下郷の子育地蔵
渋川市・下郷の大クワ
文安の薬師石堂 -渋川・延命寺-
金島の浅間石 & 中村の浅間石
山寄せ式円墳 -金井古墳-
渋川市北橘町・赤城山雙玄寺
渋川市北橘町・八崎の立石
天井の間引き絵 -角谷戸薬師堂-
渋川市北橘町・東円山観音堂
渋川市北橘町・小室敷石住居跡
渋川市北橘町下南室・赤城神社
木曽義仲の首塚(?)上に鎮座 -木曽三柱神社-
首飾りの古墳人 -群馬県埋蔵文化財調査センター・発掘情報館 その2-
葛原親王の創建? -小出神社-
馬場重久の顕彰碑 -北下諏訪神社-
桃井尚義の創建? -大藪八幡宮-
伝・桃井直常の墓 その2 -金剛寺跡-
伝・桃井直常の墓 -桃井塚-
石原流の社殿彫刻 -宿稲荷神社-
十二神将が護る厨子 -榛東村・東光寺-
榛東村・御堀地蔵堂の板碑
桃井氏の居城 -桃井(西)城跡-
最澄の創建、真雅の改宗 -字輪寺-
弁慶の遺書 -黒髪山神社 その2-
鬼面石祠 -下八幡宮-
雨乞い祈願の霊験碑 -大宮神社-
旧新井村の守護神 -榛東村・新井八幡宮-
道元の典座教訓像 -宮昌寺-
奈良時代の創建 -聖宮神社-
渋川市津久田・人形舞台
敷島のキンメイチク(金明竹) -上の森八幡宮-
渋川市津久田・赤城護国神社
渋川市津久田・鏡の森歌舞伎舞台
関口文次郎の本殿彫刻 -渋川市津久田・赤城神社-
静寂の古社 -子持神社-
新田一門・大島氏の墓 -大島家墓地の石堂墓石-
非思量庭(えもいわれぬ◯◯◯のお庭) -福増寺-
永岡形部左衛門の墓 -興禅寺 その2-
三原田の宝篋印塔群 -興禅寺-
北牧の氏神様 -若子持神社-
山崎石燕の墓と鳥酔翁塚 -雙林寺 その2-
江戸時代初期の農家造り -旧入沢家住宅-
渋川市・虚空蔵塚古墳
渋川市・横堀宿の三国街道一里塚
有栖川熾仁親王がご祭神 -有栖川宮神社-
相馬山信仰 -黒髪山神社-
養蚕家・馬場重久の墓
渋川金井宿の分水石と滝不動
旧塩川温泉・湯前薬師石堂
大自然の芸術作品 -かに石甌穴-
三国街道金井宿本陣跡
里見義秀の供養塔? -金蔵寺-
断崖の懸崖造り御堂 -岩井堂観世音御堂-
群馬の創作こけし -卯三郎こけし-
伊香保 おもちゃと人形 自動車博物館 
日本のポンペイ その2 -中筋遺跡-
三国街道の一里塚
武田信玄の愛馬を供養 -駒形社-
日本のポンペイ -黒井峯遺跡-
群馬県埋蔵文化財調査センター 発掘情報館
甲(よろい)を着た古墳人 -群馬県埋蔵文化財調査センター-
平(千葉)常将を祀る -常将神社-
伊香保(水沢)街道野田宿・森田宗家
上野国四之宮 -渋川・甲波祝禰神社-
伊香保森林公園・わしの巣風穴
佐渡奉行街道の道しるべ その2
五重塔がある! -柳沢寺-
佐渡奉行街道の道しるべ
空から飛来した観音様 -矢落観音-
葺石がすご過ぎ(笑) -滝沢古墳-
珍しい正八角形墳 -三津屋古墳-
吉岡・南下古墳群 その4 -E号古墳&F号古墳-
吉岡・南下古墳群 その3 -C号古墳&D号古墳-
吉岡・南下古墳群 その2 -B号古墳-
吉岡・南下古墳群 その1 -A号古墳-
伊香保神社の里宮 -三宮神社-
滝沢石器時代遺跡
勝保沢の十一面観音堂 -宗玄寺-
渋川市赤城歴史資料館
名泉・湧玉が滾々と -木曽三社神社-
意外に楽しめる -榛東村耳飾り館-
北橘のシンボルタワー -佐久発電所-
渋川市北橘歴史資料館
渋川市上白井・空恵寺
雙林寺の七不思議 -雙林寺-
本多氏ゆかりの寺 -源空寺-
真光寺の重要文化財
聖獣が一番印象に残った -真光寺-
渋川氏の祖・義顕の創建 -渋川八幡宮-
水澤観音 -水澤寺-
閉館中でした -旧ハワイ王国公使別邸-   
伊香保御関所(伊香保口留番所)
断崖絶壁の山城 -長井坂城跡-
用水路にある発電所 -天狗岩水力発電所-
伊香保温泉の石段を最後まで登ると・・・ -伊香保神社- 

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渋川市有馬の満行山泰叟寺。

泰叟寺 (1)
泰叟寺の由緒は不明。山号から榛名権現(伊香保)との関連性があると考えられる。前回紹介した「若伊香保神社」のすぐ隣りにある。若伊香保神社の隣りと書いたが、年代的には泰叟寺の隣り(もしかしたら寺域)に若伊香保神社が遷座してきた(昭和23年:1948年)のだと思う。

泰叟寺 (2)
石段脇の六地蔵。最近増えてきたかわいい系のお地蔵さん。

泰叟寺 (4)
泰叟寺 (5)
泰叟寺 (6)
本堂前で狛犬が守護している。狛犬というと神社のイメージが強いが、元々は仏の守護獣なのでお寺にあるのが普通。明治期の神仏分離、その後の国家神道化などで、狛犬は神社の方に多くが移されたのではないか? と勝手な想像。

泰叟寺 (6)
本堂の入り口前に2体の石像が見える。見覚えのある人気キャラ。

泰叟寺 (7)
泰叟寺 (8)
ドラえもんとアンパンマンの石像。どういう意図で置いてあるのか分からないが、これはこれで親しみがあっていいのでは。

これを見ると、ドラえもんとアンパンマンは可愛く石像化するにはもってこいのキャラだと思った。

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渋川市有馬の若伊香保神社。

若伊香保神社 (1)
若伊香保神社 (2)
若伊香保神社の創建は不詳だが、「日本三代実録」に記される「若伊賀保神」が若伊香保神社のことだと境内の由緒碑にはあった。貞観5年(863年)にその名が出てくるので、それ以前の創建となる。ちなみに、群馬郡誌には貞元2年(977年)の創建とある。

また、社名から伊香保神社との関連が想定され、伊香保神社が三宮神社(現、伊香保神社の里宮)に遷座した際、旧地に祀られたのが若伊香保神社であるという説もある(このへんのことは「渠口神社」の記事でも書いた)。

一ノ鳥居の扁額は「若伊香保神社」(写真では分かりづらいが)。鳥居手前の社号標も「若伊香保神社」。

若伊香保神社 (3)
若伊香保神社 (4)
若伊香保神社 (5)
石段を登ると二ノ鳥居。扁額は「正一位 若加保大明神」とある。若伊香保ではないし、若伊賀保でもない。

若伊香保神社 (6)
二ノ鳥居から、さらに石段を登ると社殿がある。

若伊香保神社 (7)
若伊香保神社 (8)
若伊香保神社 (9)
社殿は安政4年(1857年)に全焼し、明治43年(1910年)に諏訪社を合祀した際に再建。しかし、昭和22年(1947年)の台風により倒壊、翌23年に現在地に移築・再建されている。

拝殿の扁額は「若加保神社」で二ノ鳥居と同じ。「伊香保神社」が上野国神名帳では「伊加保大明神」と表記されていることを考えると、若加保の表記は伊香保神社の旧地という説も満更ではないかもと思わせる。

若伊香保神社 (10)
境内の子種安産の大石。

若伊香保神社 (11)
社殿奥の石柱にも「若加保大明神」とあった。狐像が置かれており、稲荷さま扱い?

ところで、由緒碑には若伊香保神社は上野国五之宮だと書いてあった。一般的には伊勢崎市の大国神社が五之宮とされている。調べてみると、「上野国神名帳」も「総社本」「一宮本」「群書類従所収本」があり、多少内容が違っていた。確かに「若伊香保神社(若伊賀保大明神)」が五之宮になっているものもある。

平安末の「上野国交替実録帳」には、玉殿1宇・幣殿1宇・鳥居2基・向屋1宇・鳥居2基・向屋1宇・美豆垣1廻・荒垣1廻・舞人陪従屋1宇・厨屋1宇との記述があり、五之宮であっても不思議ではない規模を窺わせる。


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渋川市有馬の渠口(みぞぐち)神社。

渠口神社 (1)
渠口神社 (2)
渠口神社の由緒は不明。上野国内神名帳に「従四位上 有馬渠口明神」と記載されているので、平安から鎌倉時代には創建されていたと考えられる。「渠」の名からも田んぼへの水利(新田開発など)祈願の神社と思われる。

渠口神社 (3)
渠口神社 (4)
参道を進むと右に二ノ鳥居。

渠口神社 (5)
渠口神社 (6)
渠口神社 (7)
現在の社殿は江戸時代後期の建立とされる。平成10年(1998年)に銅板葺に改修されている。

渠口神社 (8)
多くの末社・境内社が祀られている。

ご祭神の阿利真公は豊城入彦命の6世孫とされており、孝徳天皇の御代(645~54年)に天皇の宮まで水を通した功から、後に「利水工事の神」「建設の神」、転じて「五穀豊穣の神」とされた。

また、阿利真公はその読みからも分かるように有馬氏の祖とされる。有馬氏は「いかほ神」(山岳信仰)を信仰し、伊香保神社を奉祭したといわれる。現在の伊香保神社は温泉街の石段上にあるが、元は三宮神社が本宮であったとされ、さらにそれ以前は有馬氏の名を冠する当地に鎮座していたとされる。現在はそこに若伊香保神社がある。(もちろん異説あり)

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渋川市有馬の慈眼山神宮寺。

神宮寺 (1)
神宮寺 (2)
神宮寺 (3)
神宮寺は寛弘年間(1004~11年)の開創と伝わる。山門は昭和63年(1988年)の新築。

神宮寺 (4)
本堂は享保11年(1726年)に焼失したが、享保19年(1734年)に再建。以降改修を重ねた後、昭和56年(1981年)大改修を行っている。

神宮寺 (5)
神宮寺 (6)
聖観音を祀る観音堂。聖観音は恵心僧都の作といわれる。謂れは不明。なお、富岡市の寿福寺にも恵心僧都作といわれる十一面観音像がある。
(「恵心僧都作の十一面観音像 -寿福寺-」参照)

神宮寺 (7)
神宮寺 (8)
観音堂前のふれ愛観音。金ピカな観音様。軒に掛かっている、同じく金ピカの三鐘とセットなのかな。どうでもいい話だけど、中学の同級生(女の子)にすっごい似てるんだなぁ。

神宮寺 (9)
山門脇の大日如来坐像。元禄15年(1702年)の造像。有馬地区内に鎮座していたが、明治の初めに山中に遷され、昭和に入ってから神宮寺に遷っている。

神宮寺 (10)
観音堂となりのとげぬき薬師。とげぬき薬師石仏は室町時代の作といわれ、滝沢川の氾濫時に水澤方面から流れ着いたと言い伝えられている。大正3年(1914年)に神宮寺に遷されている。でも、どの石仏が肝心の薬師如来像か分からなかった。

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渋川市北橘町真壁の渋川市北橘総合支所2Fにある渋川市埋蔵文化財センター。

渋川市埋蔵文化財センターは、平成25年(2013年)の開館。3部屋(展示室)の小規模なもの。オレが行った時は2部屋のみの展示だった(第3展示室は空っぽだった)。

渋川市埋蔵文化財センター (1)
第1展示室入り口前に、金井東裏遺跡から発見された「甲を着た古墳人」のレプリカが展示されている。

渋川市埋蔵文化財センター (2)
従来未公開だった浅田遺跡3号墳出土の鹿角装鉄剣が展示されていた。

渋川市埋蔵文化財センター (3)
渋川市埋蔵文化財センター (4)
同じく浅田3号墳から出土の鶏形埴輪と土器。

渋川市埋蔵文化財センター (5)
渋川市埋蔵文化財センター (6)
渋川市埋蔵文化財センター (7)
中ノ峯古墳出土の鉄刀など。

渋川市埋蔵文化財センター (8)
渋川市埋蔵文化財センター (9)
渋川市埋蔵文化財センター (10)
榛名山の噴火により埋没した中筋遺跡の復元模型と出土物。

渋川市埋蔵文化財センター (11)
渋川市埋蔵文化財センター (12)
同じく、榛名山の噴火により埋没した黒井峯遺跡の出土物。ちなみに、6世紀初頭の噴火で埋没したのが中筋遺跡で、6世紀中頃の噴火で埋没したのが黒井峯遺跡。

渋川市埋蔵文化財センター (13)
金井丸山古墳出土の鉄剣3振。

渋川市埋蔵文化財センター (14)
渋川市埋蔵文化財センター (15)
空沢遺跡の出土物。首飾りは46号墳。

市役所支所庁舎内のため、平日しか見学できないの難だが、渋川市内の貴重な出土品を見ることができる。オレは昼休み時間に行ってしまい、ちょっと迷惑を掛けた。でも、文化財保護課の職員さんが快く対応してくださり感謝。

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渋川市北橘町小室の厄除け観音別所堂。

厄除け観音別所堂 (1)
当所は平安時代からの寺院跡で、往事は十三仏を祀るお堂や塔が建っており、この観音堂はその中で唯一現存するものだといわれる。寺院の中心(本堂など)は、この観音堂から西方に残る真常庵跡だという。

厄除け観音別所堂 (2)
現在の観音堂は昭和48年(1973年)の建立で、半分は地区の生活共同館(公民館みたいなもの?)となっている。

厄除け観音別所堂 (3)
鰐口は弘化5年(1848年)に、女性7名の女人講が奉納したもの。

厄除け観音別所堂 (4)
本尊の観音像は60cm弱(一尺二寸五分)の木像で、厄除けの霊験あらたかと近郷近在はもとより、遠方からも御利益を求めて多くの参拝者が訪れるという。ただ、残念ながら平安時代の木像とは、とても思えない。

現在も地域の方々からの信仰が厚く、1月の例大祭では露店が多数出店し大いに賑わうという。

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渋川市北橘町小室の郷蔵。

郷蔵 (1)
郷蔵 (2)
郷蔵は江戸時代、年貢を一時的に貯蔵するために造られたもので、小室郷蔵の建設年は不明だが、他村の例などから寛延2年(1749年)以前と考えられている。

現在の郷蔵は平成16年(2004年)の修理・復元。間口3間半、奥行3間半で土壁造り。旧北橘村地区ではこの郷蔵のみが現存し、県内でも6例が残るだけの貴重なものである(渋川市のHPから)。

ところで、過去に前橋市・上泉郷蔵とみどり市・桐原郷蔵を訪問したのだが、その際に調べた郷蔵の数が微妙に違う。

前橋市のHPでは「現在残っているものは少なく県内には3例があるだけです」。みどり市のHPでは「群馬県内に現存する郷蔵は4つが文化財指定を受けている」。

まあ細かいところを突つく気はないのだが、前橋市HPに従えば県内の郷蔵には行き尽くしたことになるが、みどり市・渋川市HPに従えばまだ行ってない郷蔵があることになる。と言うことで調べてみると、片品村に「幡谷郷蔵」と「上而郷蔵」があり、いずれも村の重文に指定されていた。

上泉、桐原、小室、幡谷、上而で5つ。みんな違うぞ(笑)。

関連
 「江戸時代の年貢貯蔵庫 -上泉郷蔵-
 「江戸時代の年貢貯蔵庫 その2 -桐原郷蔵-

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渋川市北橘町上箱田の石田伍助の供養塔。

石田伍助の供養塔
石田伍助は旧北橘村に2名いたとされる男性助産師。取り上げられた子どもたちが「産子(うぶこ)」として、明治43年(1910年)に建立したもの。台座には建立に関わった192名の名前が刻まれている。

現在は「保健師助産師看護師法」の第3条に、「この法律において『助産師』とは、厚生労働大臣の免許を受けて、助産又は妊婦、褥婦若しくは新生児の保健指導を行うことを業とする女子をいう」と規定されており、男性は助産師資格を取得できない。当然、助産師国家試験の受験資格も「女性」のみとなっている。

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渋川市北橘町小室の宝篋印塔。

井上家墓地の宝篋印塔 (1)
井上家の古い墓地に、五輪塔や板碑など中世の石造物がまとまっている。

井上家墓地の宝篋印塔 (2)
井上家墓地の宝篋印塔 (3)
その中に応永15年(1408年)銘のある宝篋印塔がある。高さ99.5cmだが、中央の石質が違うように見えるので、数多くあったものから整理し1基にしたと思われる。他の五輪塔なども同様ではないか。

但し、笠の部分の耳状突起の反りや相輪の形状などは、室町時代の特徴をよく表している。

井上家墓地の宝篋印塔 (4)
双体道祖神も2基ある。こちらは年代的にはもっと新しい。

当該宝篋印塔の由緒などは不明であるが、かつて当地に寺院があったといわれている。

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渋川市赤城町樽のいなり塚古墳。

いなり塚古墳 (1)
いなり塚古墳 (2)
いなり塚古墳は墳丘径約20mの2段築造の円墳と考えられている。墳丘には河原石による葺石と幅1mほどのテラス面が見られる。築造は6世紀中期の榛名山噴火による軽石堆積から間もない頃と考えられ、利根川上流域の後期古墳とされる。

石室は現存全長6.14mの自然石乱積の袖無型横穴式。埋葬部入口の天井には楣石が突出し、奥壁は2石の巨石から構成されている。石材には輝石安山岩の転石や壊石が使用され、壁面には赤色顔料が塗布されている。

しかし訪問時は雑草が生い茂り、石室開口部も覆われてしまっていたので、覗き込むことは断念。

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渋川市上白井の御前神社。

御前神社 (1)
御前神社 (2)
御前神社の由緒は不明。子持神社の御前(おんまえ)の社という意味と解釈されている。ご祭神は子持神社と同様の木花開耶姫尊。

御前神社 (3)
御前神社 (4)
現在の社殿は文久2年(1862年)の建立。

御前神社 (5)
円形の句碑。小渕南交が文化13年(1816年)に建立したもので、花塚と呼ばれている。中央に「齋坊塔」とあり、右側に芭蕉の句「しばらくは 花の上なる 月夜かな」。左側には松露庵烏明の時雨の句を刻む。

御前神社 (6)
御前神社 (7)
神輿があった。例祭時に繰り出すのかな。

御前神社の横すぐを利根川が流れているが、この辺りを御前ヶ渕というらしく、この水と雙林寺の竜神水は結縁関係にあると碑に書かれていた。御前神社と雙林寺の関連性を言っているのか? それとも地下で水脈がつながっているとか?

竜神水は取り上げてないが、雙林寺は「雙林寺の七不思議 -雙林寺-」参照。

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渋川市白井の大宮姫神社。

大宮姫神社 (1)
大宮姫神社の由緒は不明だが、鎌倉時代の上野国神名帳の「正三位宮姫明神」と解釈されることもある。そうだとすると、創建は鎌倉時代以前の古社ということになる。ただ、一般的に「宮姫明神」は、榛東村の大宮神社とされている。
(大宮神社は「雨乞い祈願の霊験碑 -大宮神社-」参照)

大宮姫神社 (2)
社域はこんもりとした木々に覆われ、いかにも鎮守の森といった雰囲気。

大宮姫神社 (3)
境内は神門とを板塀で囲まれている。

大宮姫神社 (4)
大宮姫神社 (5)
大宮姫神社 (6)
社殿は一段高いところにある。拝殿の扁額は「牛頭天王」。もとは八坂神社なのか、それとも合祀された八坂神社の拝殿を使っている?

大宮姫神社 (7)
社殿脇の末社群。

ところで、社名からは大宮売神がご祭神かと思うが、実際は天宇受売命。天宇受売命は天照大神が天岩戸に隠れてしまったときに外で踊った女神。大宮売神は天宇受売命と同一視されることもあるようだが、一般的に大宮売神は宮殿を守る女神、天宇受売命は芸能の女神とされる。

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渋川市白井の玉椿の道祖神。

玉椿の道祖神
玉椿の道祖神は高さ129cm(総高177cm)の自然石。天明5年(1785年)の建立。玉椿は当地の旧地名。

この辺りは利根川岸の渡屋を通って前橋への経路にあたり、旅客を始めとした人の往来が多くなっており、白井宿への悪霊・厄災が入り込むことを防ぐため、賽の神として祀っていた道祖神が建てられた。

「右 前橋道」とも刻まれているので、道しるべの役割も果たしていたようだ。

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渋川市白井の松原の道しるべ。

松原の道しるべ (1)
松原の道しるべは、白井城跡(東)や源空寺(北)へ向かう四ツ角にある。高さ90.5cm、幅30cmの角柱で頂部に「一番」と記されている。嘉永3年(1850年)の建立。

松原の道しるべ (2)
南面に「左 ゑちご あがつま道」(西方向)。

松原の道しるべ (3)
東面に「右 ぬまた 双林寺道」(北方向)。

松原の道しるべ (4)
西面に「右 まいバ志 おほご道」(南方向)。「まいばし」って、この辺の方言のようだ。「おほご」は大胡。

ここは三国街道でも佐渡奉行街道でもない(と思われる)が、昔は旅人が普通に通った道のようだ。

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渋川市白井の鳳来寺峯薬師堂。

鳳来寺峯薬師堂 (1)
峯薬師堂は慶長5年(1600年)の建立。境内の由緒碑には「鳳来寺峯薬師」とあるが、内容は源空寺の薬師堂として建立されたとなっている。
(源空寺は「本多氏ゆかりの寺 -源空寺-」参照)

鳳来寺峯薬師堂 (2)
鳳来寺峯薬師堂 (3)
石仏や庚申塔類が並んでいる。とは言え、後に並べた感が見え見えだけど。

鳳来寺峯薬師堂 (4)
薬師堂は天明4年(1784年)に火災により焼失したが、天明6年(1786年)に再建されている。最近では昭和62年(1987年)に大修復が行われている。

鳳来寺峯薬師堂 (5)
本尊の薬師如来像は利修仙人の作といわれる。利修仙人は奈良時代の人で数々の伝説が残っている(存在自体が伝説とも)。愛知県新城市の鳳来寺を大宝2年(702年)に開基し、霊木から本尊の薬師如来像(峯の薬師)を作ったとされる。どうやら、この辺の話を持ってきて「鳳来寺峯薬師」と言うのかな。

ちなみに鳳来寺は江戸時代、徳川家康生母・於大の方が鳳来寺に参詣後に家康を授かったといわれ(伝説だが)、幕府の庇護を受けている。

鳳来寺峯薬師堂 (6)
鳳来寺峯薬師堂 (7)
境内の華月堂は昭和61年(1986年)の建立。峯薬師堂は吹屋地区が管理していたが、源空寺に管理を移管する際に堂内を調査したところ、吹屋愛宕神社内華月庵の本尊・木造弥勒菩薩坐像が出てきたとかで、その安置のため建立されたようだ。

中は見られないが、本尊を納める厨子とともに華月堂内に安置されている。なお、その厨子は江戸初期の貴重なもので、渋川市の重文になっている。


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渋川市赤城町溝呂木の諏訪神社。

溝呂木諏訪神社 (1)
溝呂木諏訪神社 (2)
溝呂木諏訪神社 (3)
溝呂木諏訪神社の創建年は不詳。鳥居の扁額が「十二宮」になっているので、数えたわけではないが十二宮が祀られているのかな。

溝呂木諏訪神社 (4)
溝呂木諏訪神社 (5)
溝呂木諏訪神社 (6)
社殿は正徳3年(1713年)の造営といわれる。宝暦5年(1755年)に再建・遷宮とある(旧記)ので、何らかの事情で他地から遷宮しているのか。

溝呂木諏訪神社 (7)
溝呂木諏訪神社 (8)
ご神木大ケヤキ。
樹高38m、目通り9m、推定樹齢800年の大木。以前は境内に数本のケヤキがあったが、この1本だけが残されご神木とされてきた。他のケヤキを伐採した理由は、社殿の修築などの費用捻出のためらしい。

溝呂木諏訪神社 (9)
反対側を見ると、樹洞も大きく主幹が枯れているように見える。たき火による樹洞内火災や、落枝による社殿破壊があり枝を切った影響もあるようだ。

溝呂木諏訪神社 (10)
溝呂木諏訪神社 (11)
境内社・八坂神社の神輿。
黒漆仕上げで、斗栱・垂木・貫など精巧な造りの神輿。宝暦3年(1753年)に北橘村八崎の八坂神社の神輿として造られている。

伝承によると、伝染病の流行により神輿が壊されそうになったため、狩野六兵衛という者が譲り受け、溝呂木八坂神社に寄進したといわれる。

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渋川市北橘町上箱田の大クワ。

上箱田の大クワ (1)
上箱田の大クワ (2)
大クワは根元付近から3本に枝分かれしており、樹齢は約300年と推定される。

上箱田の大クワ (3)
上箱田の大クワ (4)
根元周りは約4m、それぞれの幹周り(目通り)は、2.5m、2.1m、1.6mを測る。枝張りは東西10.6m、南北12.8m、樹高は8.3m(数値は現地解説板から)。

それなりに樹洞が見られるが、樹勢は良いように見える。渋川市内では「下郷の大クワ」に次ぐ大きさで、旧北橘村では唯一の大クワである。

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渋川市上白井の天霊山空恵寺。
前回訪問時(2012年)、長尾氏累代の墓を見つけられなかったので、捲土重来を期し再訪。(「渋川市上白井・空恵寺 」参照)

空恵寺2 (1)
前回、本堂裏の洞窟みたいなところでくじけたが、よく見ると左に行く細い道があった。草木をかき分けてみたいな感じで坂を上って行く。途中何か分からないが建物があったが、それを無視しさらに上って行く。

空恵寺2 (2)
ありました。長尾氏累代の墓。
長尾氏は桓武平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族。鎌倉時代末から南北朝期に上杉家の家臣となり、上杉氏が関東管領として関東・越後に勢力を広げると、その家宰や越後・上野・武蔵の守護代として各地に諸家を分立させ繁栄している。

空恵寺2 (3)
中央の宝篋印塔は、長尾氏祖先・鎌倉権五郎景正、もしくは白井長尾氏の祖・長尾景熙の墓といわれる。これは渋川市の解説板の内容。真偽は分からない。

調べてみたところ、鎌倉権五郎から長尾景弘(長尾氏初代)が出ているのは確かなようだ。また、白井長尾氏の祖は清景とする資料が多いが、清景と景熙の関係は分からない。

ちなみに、鎌倉権五郎を祀る五郎神社というのが伊勢崎市にある。
(「鎌倉権五郎景正を祀る -五郎神社-」参照)

空恵寺2 (4)
空恵寺2 (5)
17基の宝篋印塔・宝塔が並んでいるが、そのうち15基が長尾氏関係の墓とされる。景仲(3代)、景春(5代)など一部の台石には銘も残っているが、倒壊などに伴う積み替えで、原型をとどめているものはないようだ。

ただ、空恵寺が白井長尾氏の菩提寺で、これらの墓碑が長尾氏のものであることは間違いないこと。

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渋川市赤城町津久田の角田夢幻道人の遺髪塚。

角田無幻道人の遺髪塚 (1)
入口の標識。微妙に上向きの矢印が気になる。

角田無幻道人の遺髪塚 (2)
琴平山と言うらしいが、獣道に毛が生えた程度の道を上っていく。写真では分かりづらいが、けっこう急坂だ。

角田無幻道人の遺髪塚 (3)
太古の赤城山からの噴石だろうか。大石がゴロゴロしている。

角田無幻道人の遺髪塚 (4)
角田無幻道人の遺髪塚 (5)
角田夢幻道人の遺髪塚。
角田夢幻は寛保3年(1743年)下野田村(現吉岡町)の花蔵寺に生まれ、宝暦8年(1758年)に津久田・林徳寺の法嗣(養子)になっている。

寛政4年(1792年)に京都に上り、大善院の住職となり修験宗門弟の講学所・森学寮を創立し、門弟の指導に尽力している。また寛政12年(1800年)には、伝法大阿闍梨法印に叙せられている。

文化6年(1809年)京で没し真如堂に葬られたが、上州の弟子たちが遺髪と爪を持ち帰り、夢幻道人建立の寂照山という寺の跡に遺髪塚を建てた。

角田無幻道人の遺髪塚 (6)
墓碑銘は聖護院・藤原利恭撰文、中山簡斎の書。他の2面には夢幻書の円頓章が刻まれている。夢幻自身も幼少のころから教学を学ぶ傍ら書にも親しみ、在京中には光格天皇に自筆の千字文を奉呈している。後に「上毛三筆」と称されている。

角田無幻道人の遺髪塚 (7)
遺髪塚の前に2つお墓がある。遺髪塚の建立者(弟子)と無幻の末裔の方のものだという。

ところで、遺髪塚にはけっこうな急坂を上って行くのだが、ここに来る直前に前回紹介した「千石稲荷神社」に行ってきたので、もう疲労困憊。

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渋川市赤城町津久田の千石(せんごく)稲荷神社。

千石稲荷神社 (1)
千石稲荷神社 (2)
千石稲荷神社は、源義康が天文16年(1547年)に奉斎し、天保12年(1841年)に京都のの伏見稲荷神社から分霊を勧請したといわれる。源義康と言えば、一般的には足利義康(源義国の2男で足利氏の祖)だが、年代的に合わないので別人だろう。

清和源氏(足利氏、新田氏、武田氏、佐竹氏、今川氏、細川氏、土岐氏など)が有名だが、それ以外にも嵯峨源氏、文徳源氏、宇田源氏、醍醐源氏など21の家系があり、これらの人々はみな本姓は源なので。

千石稲荷神社 (3)
お気楽に訪問したのだが、実はこれがどんでもなかった。一ノ鳥居の先は林道が続く続く、まだ続く(苦笑)。

千石稲荷神社 (4)
千石稲荷神社 (5)
やっと二ノ鳥居が見えてきたが、その先に社殿がある雰囲気ではない。まだ先のようだ。

千石稲荷神社 (6)
山道はさらに険しくなってくる。坂も急だ。

千石稲荷神社 (7)
最後に待っていたのが急な石段。上に何か見える。もう少しみたいなので頑張ろう。

千石稲荷神社 (8)
千石稲荷神社 (9)
やっと着いた。三ノ鳥居と社殿が見えた。大げさな表現を使うと、ちょっとした軽登山だった。

千石稲荷神社 (10)
千石稲荷神社 (13)
千石稲荷神社 (11)
千石稲荷神社 (12)
山の斜面の少し平らなところに社殿は建っている。小さいながらも美しい社殿は、森の緑とよく融合している。天井も格子絵が施されている。

千石稲荷神社 (14)
境内の神石? 左側の文字がよく読めないが「神」?

千石稲荷神社 (15)
千石稲荷神社 (16)
稲荷神社らしく、大量の狐像が奉納されていた。

江戸時代後期、伝左衛門という者が絹1疋を盗まれたが、当社の霊験により盗品が戻ったことから、盗品除けの神としても崇敬を集めるようになったという。

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渋川市赤城町上三原田の歌舞伎舞台。

上三原田の歌舞伎舞台 (1)
上三原田の歌舞伎舞台 (2)
上三原田の歌舞伎舞台は、大工の永井長治郎が上方に修行に行き、帰郷後の文政2年(1819年)、天竜寺境内に建築したと伝えられている。明治15年(1882年)に現在地に移築されている。

舞台の特徴は、三方の板壁を外側に倒して、舞台面を2倍以上の広さにするガンドウ機構。舞台の奥に遠見と呼ぶ背景をつけ、奥行きを深く見せる遠見機構。平舞台いっぱいの回転部を回転させる柱立式廻転機構。二重と呼ぶ小舞台を天井・奈落の双方からせり上げ、せり下ろすセリヒキ機構。これらの機構は全国に例を見ない特殊な機構となっている。

上三原田の歌舞伎舞台 (3)
この舞台での歌舞伎公演は途中何度か中断されたが、地元伝承委員会による舞台操作技術の伝承と古典芸能保存会による地芝居の復活により、現在も歌舞伎が公演されている。

写真は歌舞伎舞台前に設置されている平成13年(2001年)の公演の様子。

上三原田の歌舞伎舞台 (4)
今年(2018年)の公演は11月25日に開催され、こども歌舞伎や農村歌舞伎が上演される予定である。また、来年(2019年)は歌舞伎舞台が作られてから200年にあたる。何か特別な催し物があるかも。

ところで、tvk(テレビ神奈川)が制作し、GTV(群馬テレビ)でも放送されている「キンシオ」って知ってる? イラストレーターのキン・シオタニが街ブラをする番組で、現在は「一文字地名の旅」(関東各地の漢字一文字の地名辺りをブラブラする)というコーナーが中心になっている。それで、渋川市赤城町樽が取り上げられたとき、この歌舞伎舞台を時間を割いて紹介していた。マイナーなローカル番組だけど、けっこう面白いよ。GTVでは月曜の夜11時から放送中。


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渋川市中郷の菅原神社。

中郷菅原神社 (1)
中郷菅原神社 (2)
中郷菅原神社の創建年は不詳であるが、元亀2年(1571年)に真田幸隆が白井城を攻めた際、その兵火で焼失したといわれていることから、それ以前の創建と考えられている。

中郷菅原神社 (3)
中郷菅原神社 (4)
中郷菅原神社 (5)
鳥居をくぐると、すぐにご神橋。池には祠がある。水神様かな。

中郷菅原神社 (6)
けっこう急な石段。

中郷菅原神社 (7)
中郷菅原神社 (8)
中郷菅原神社 (9)
中郷菅原神社 (10)
本殿は別当寺(長泉寺)の亮順が貞享3年(1686年)に再建したという。近年では、平成22年(2010年)に大改修が行われている。本殿は、和様・唐様の折衷様式の一間社流造りで、旧子持村内に現存する神社では最古の建築物とされる。

中郷菅原神社の由緒は、境内の由緒碑(旧子持村設置)から引用したが、真田幸隆が白井城を攻略したのは永禄10年(1567年)で、元亀2年に白井城を攻めたのは真田昌幸(幸隆3男)という説もあり。

まあ、中郷菅原神社の歴史的価値には何も関係ないことだけど。

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渋川市北牧の中ノ峯古墳。

中ノ峯古墳 (1)
中ノ峯古墳 (2)
中ノ峯古墳は傾斜面に築かれた直径9m、高さ1mの円墳。6世紀初めの榛名山噴火による火山灰層の上に造られ、6世紀中ころの榛名山噴火による軽石層に埋もれていた。地学上から築造年代の分かる貴重な古墳。

中ノ峯古墳 (3)
中ノ峯古墳 (4)
中ノ峯古墳 (5)
石室は自然石乱石積の袖無型横穴式で、全長5m・埋葬部長3m。人骨5体、直刀2口、銀製飾金具、鉄鏃、玉類などが出土している。

昭和54年(1979年)軽石採取の際に偶然発見された。軽石層に埋もれていたため、きれいな原型をほぼとどめているのだが、季節がら草に覆われ残念ながらその形はよく分からず。草の枯れる秋から冬に訪れるのがいいと改めて認識。

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渋川市北牧の人助けのカヤ。

人助けのカヤ
天明3年(1783年)の浅間山の大噴火(浅間押し)による泥流が吾妻川を流れ下り、流域の村々を押し流し民家・田畑に大きな被害をもたらした。

旧北牧村も例外ではなく、多くの民家が流され人的被害もあったが(50名以上)、このカヤの木によじ登ることで、数十名が難を逃れることができた。そのため、後に「人助けのカヤ」と呼ばれるようになった。

「人助けのカヤ」は高さ13m、根本の周囲3.4mの大樹。樹冠は東西10m、南北8m。樹齢は約400年と推定される。カヤの木の下にある碑には、泥流で6m埋もれていると書かれていた(と思う)。碑の写真は撮って来るのを忘れた。

このカヤの木は実と葉からくさい匂いがすることから、地元の人々は「へだまの木」と呼んでいる。

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渋川市北牧の延寿山興福寺。

興福寺 (1)
興福寺 (2)
興福寺は慶長13年(1608年)空恵寺16世・斎香桂🌑の開山(🌑は見たことない漢字で読めない)。天明3年(1783年)の浅間押しにより流出。享和3年(1803年)に再建されている。

興福寺 (3)
再建本堂は嘉永6年(1853年)に火災により焼失。現在の本堂はそれ以降の再建で、昭和60年(1985年)に増改築、平成9年(1997年)に屋根の改修を行っている。

興福寺 (4)
興福寺 (5)
興福寺 (6)
六地蔵、大日如来坐像、慈母観音像。いずれも比較的新しそうだ。

興福寺 (7)
賑貸感恩碑。天明3年(1783年)の浅間押しの被害から立ち直った教訓と、幕府勘定吟味役・根岸九郎左衛門鎮衛の救済措置の恩恵を忘れないよう、浅間押しから47年目の文政12年(1829年)に建立したもの。

根岸は勘定吟味役として、河川改修、普請工事に才腕を振るったことから復興工事の巡検役に任命されたもの。後に勘定奉行、南町奉行に任命されている。

賑貸感恩碑は当地の浅間押しの被害の状況と、江戸時代の民政の一端を知る上で貴重な資料である。

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渋川市横堀の根本常南の墓。

根本常南の墓 (1)
根本常南の墓 (2)
根本常南は常陸国の出身で絵を好んで描いていたが、師事する師匠はなく宋画を手本としていた。若くして京都、江戸など諸国を巡り、後に仙台や鎌倉に滞在している。鎌倉では建長寺の誠拙禅師のもとで修行し、名を言成と改めている。

文化8年(1811年)上野国を訪れ、雙林寺に泊まって涅槃図(渋川市重文)を弟子の菅井梅関とともに完成させている。さらに同寺山門の格天井、榛名神社山門の格天井、その他の装飾画を手がけているうちに病にかかり、横堀宿升屋の寮で文化9年(1812年)に49歳で没している。

墓があるのは、元升屋の寮の庭先である。

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渋川市小野子の八木沢清水縄文時代住居跡。

八木沢清水縄文時代住居跡 (1)
八木沢清水縄文時代住居跡は昭和51年(1976年)に発見され、翌年の発掘調査により縄文時代から弥生・古墳時代に及ぶ住居跡、土坑などの遺構や石器・土器などの遺物が確認された。

特に、地表下1.5mの関東ローム層上面で発見された住居跡は、縄文時代草創期後半(約9000年前)のもので、群馬県内最古の竪穴式住居と判明した。

八木沢清水縄文時代住居跡 (2)
住居は直径約5mのいびつな円形で、当時の地面から50~60cmほど掘り込んで床面を作っている。床面には柱を立てたと考えられる直径20cm、深さ30cmほどの穴が16個あいている。

住居内に炉の跡はなく、また土が焼けた痕跡もないことから、まだ火をたく習慣(文化)が無かったことが分かる。

現在は標高460mの比較的高地だが、当時はもっと低地だったのではないかと思う。神流町の「恐竜の足跡」がある所が海だったといわれているので(1億年前の話だけど)。
(「恐竜の足跡!? -神流町恐竜センター-」参照)

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渋川市小野子の飯塚大学の石堂。

飯塚大学の石堂 (1)
飯塚大学は白井長尾氏の家臣で、白井城内の「白井の聖堂」で教学に当たったといわれ、「白井聖堂の教学の士」と尊敬を受けた。

石堂は飯塚大学が寛正5年(1464年)に没した後、関係者により天文17年(1548年)に建立された供養石堂。高さ141cm、幅88cm、奥行き88cm。前面に唐草文様、竪連子、幾何学的文様などが刻まれている。小野上地区の石堂では最古のもの。

飯塚大学の石堂 (2)
内部に像が安置されているが、人物像なのか仏像なのか分からない

飯塚大学の石堂 (3)
墓地内にある木の間の宝篋印塔(木の間は字名)。安永6年(1777年)の建立。

この墓地内には天明3年(1783年)浅間山の大噴火による泥流(浅間押し)で亡くなった方々の供養塔があるのだが、ちょっと草が生い茂っていて見つけられなかった。

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渋川市金井の岸豊後守積保の墓。

岸豊後守積保の墓 (1)
岸豊後守積保は享保20年(1735年)宮大工の家に生まれる。実技を祖父から伝授され、明和年間(1764~72年)には京都で卜部氏に学び、豊後守の号を授けられるまでになった。

棟梁として神社仏閣建造の指揮を執るとともに、多くの門弟を養成した。妙義神社の総門や伊勢崎市・宝憧院の本堂が代表作である。天明3年(1793年)49歳で没している。

岸豊後守積保の墓 (2)
積保の墓がある墓地は、旧寺院の墓所なのか岸家の墓所なのか不明だが、周りには立派な石塔や石仏が多くある。

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 「本殿の修理が完了しました -妙義神社 その2-
 「駒井政直・親直の墓 -宝憧院-

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