上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 吾妻郡


吾妻郡東吾妻町本宿の吉岡神社。

吉岡神社 (1)
吉岡神社 (2)
吉岡神社の創建は不詳だが、口碑では和銅元年(708年)に田口朝臣益人の勧請と伝わる。田口益人は武内宿禰の末裔とされる貴族・歌人で、上野国守に任じられ赴任してきたといわれる。

吉岡神社 (3)
吉岡神社 (4)
鳥居前の太鼓橋。彫刻は虎かな。だいぶ風化してきている。

吉岡神社 (5)
石灯籠は天保4年(1833年)の奉納。

鳥居の先に社殿らしきものが見えなかったが、そんなに遠くないだろうと歩いて進む。ところが、これが大失敗だった。

吉岡神社 (6)
田んぼの中を数百m歩いても何も見えない。それどころか、どんどん山道になってくる。

吉岡神社 (7)
吉岡神社 (8)
しばらくすると、参道らしき石段が見えてきた。しかし、ちょっときつそうだったので。下の写真の道をそのまま進む。行かれる場合は、クルマで登って行くことをお勧めする。すれ違えない(と思われる)が、道はしっかりしているので。

吉岡神社 (9)
吉岡神社 (10)
息が切れかかったころに、やっと神門が見えてきた。随神像はなく、ご神体を表すような御幣と言うか紙垂と言うかがあるだけ。

吉岡神社 (11)
吉岡神社 (12)
吉岡神社 (13)
吉岡神社 (14)
社殿は戦火で荒れ、野火で全焼していたが、天正7年(1579年)に加辺半左衛門が再建している。加辺半左衛門って、大戸の大富豪・加部家の人かな?

吉岡神社 (15)
大正12年(1923年)建立の神楽殿。

吉岡神社 (16)
弘法大師が杖を刺したのが育ったといわれるホオノキ。

永承7年(1052年)源頼義が陸奥征討(前九年の役と思われる)の途上に、建久4年(1193年)には源頼朝一行が浅間巻狩りの際に参拝している。また、頼朝が「美しき岡なり」と言ったので、吉岡山となったという。ちなみに、源頼義は有名な八幡太郎義家の父親。

神仏混淆時代は「吉岡薬師」と呼ばれていた。それは、源頼朝の守り本尊である薬師如来像が納められているから。ただ拙い記憶だと、頼朝の守り本尊は「聖観音」だった気がする(自信はない)。


吾妻郡東吾妻町五町田の平五良(へいごろう)観音の大杉。

平五良観音の大杉 (1)
平五良観音堂境内にそびえる大杉は、高さ約30m、目通り約5mで、樹齢は約400年と推定される。

平五良観音の大杉 (2)
以前の大杉は、その根元から2本に分かれた「夫婦杉」の様相を呈していたが、大正時代に落雷により片方の根元が痛み傾いてしまったので、残念ながら伐採されている。残った1本の幹は現在も樹勢・枝振りが良く、ひときわ美しい姿を保っている。

平五良観音の大杉 (3)
平五良観音の大杉 (4)
平五良観音の大杉 (5)
観音堂・観音様の由緒は分からないが、お堂を囲むように石仏・仏塔がまとめられている。


吾妻郡東吾妻町三島の四戸の古墳群。

四戸の古墳群 (1)
三島四戸地区には20基以上の古墳が点在し、昭和39年(1964年)にそのうち4基の調査がなされている。高麗尺を使用した6世紀末から7世紀前半の築造と推定されている。

四戸の古墳群 1号墳 (1)
四戸の古墳群 1号墳 (2)
1号墳は天井石はなく、細長い石室が剥き出しの状態。

四戸の古墳群 1号墳 (3)
全長約6m、埋葬部長さ約2.5m、幅約1m。安山岩を用いた乱石積の袖無型横穴式石室。

四戸の古墳群 2号墳 (1)
2号墳。横から見ると円墳と思われるが規模は不明。

四戸の古墳群 2号墳 (2)
四戸の古墳群 2号墳 (3)
石室は全長約5.2m、玄室約2.3m、幅1.3m、高さ1.6m。安山岩を用いた乱石積の袖無型横穴式石室。

四戸の古墳群 4号墳 (1)
四戸の古墳群 4号墳 (2)
4号墳は天井石はなく、石室が剥き出しの状態。全長約4.2m、埋葬部長さ約2m、幅約70cm。安山岩を用いた乱石積の袖無型横穴式石室。

四戸の古墳群 3号墳 (1)
四戸の古墳群 3号墳 (2)
3号墳は盛り土が失われ、天井石が剥き出しの状態。右側の側壁は崩れそうだ。天井石や奥壁は安山岩の巨岩を使用しており、1号・2号・4号より規模が大きい円墳。石室は全長約7m、埋葬部長さ3.5m、幅1.2m、高さ1.6m。

四戸の古墳群 3号墳 (3)
南側から見ると背後に岩櫃山がよく映えている。

1号、2号、4号はほぼ隣接しているが、3号墳は少し離れた1段高い所に位置しており、基本的にはすべて同構造と思われる。3号墳は道沿いにあるので見つけやすいが、他は道が細く分かりづらいところにある。

また、平成30年(2018年)に上信自動車道吾妻西バイパス建設事業に伴う埋蔵文化財の発掘調査が行われ、弥生時代終わりから古墳時代にかけての住居跡や新たに1基の古墳が発見されている。直刀や鉄鏃の副葬品も確認されている。


吾妻郡東吾妻町矢倉の行沢(なめさわ)の木造馬頭観音立像。

行沢の馬頭観音立像 (1)
観音堂は吾妻線の線路脇にある。石垣のすぐ下は線路。

行沢の馬頭観音立像 (2)
参道と言えるのか分からないが、線路には遮断機はおろか踏切もない。過去に何も起きてないからこうなのだろうが、ちょっと怖い。裏から廻る道もあるのかな。

行沢の馬頭観音立像 (3)
行沢の馬頭観音立像 (4)
堂内の木造馬頭観音立像。寄木造りで像高178.5cm、台座も含めた総高は190cmの三面六臂像。頭部は怒髪で、目と口を大きく開けている。肩・胸を強く張り、衣文の彫りは深く、力強い観音像となっている。ただ、六臂に見えないので、一部紛失している?

行沢の馬頭観音立像 (5)
像の写真が見づらいうえ、文章で書いても分からないだろうから、堂内に飾られていた写真。でもやっぱり分からないな。

作者ははっきりしないようだが、鎌倉時代の作とされている。元は中之条の海蔵寺にあったが、戦国時代に当地に移されたといわれる。


吾妻郡東吾妻町新巻の菅原神社。

新巻菅原神社 (1)
新巻菅原神社 (2)
新巻菅原神社の創建は不詳。創建地は旧新巻村字菅原で、明治10年(1877年)に現在地に移転、同時に村内の神社を合祀している。

新巻菅原神社 (3)
長く急な石段を登ると境内。境内は縄文時代の集落である柳沢遺跡の一部にあたる。昭和58年(1983年)の発掘調査では、竪穴式住居跡や大量の土器・石器が出土している。

新巻菅原神社 (4)
新巻菅原神社 (5)
新巻菅原神社 (6)
新巻菅原神社 (7)
社殿は昭和10年(1935年)の建築。

新巻菅原神社 (8)
神楽殿は昭和35年(1960年)の改築で、例祭では太々神楽が奉納される。新巻の神楽は明治30年(1897年)代に発足したと伝えられる。

新巻菅原神社 (9)
昭和57年(1982年)に伊勢神宮に神楽を奉納した祈念碑。

新巻菅原神社には石槌山から出土したという「石棒」がご神体として祀られている。片麻岩製で、長さ1.5m、太さ46.5cm。古代の祭祀用と考えられる。東吾妻町の重文になっているが、町のHPにも写真がない。

新巻菅原神社 (10)
石段から見えた山。名前は分からないが、ゴツゴツした岩肌などが良い雰囲気だ。岩櫃山や中之条町の嵩山など、この辺の山はこういう感じの山が多い。


吾妻郡東吾妻町岩井の背高地蔵。

岩井の背高地蔵
岩井の背高地蔵は、正徳5年(1715年)岩井村山根の田中八兵衛・十兵衛が中心となって建立された。地蔵尊は高さ2.5mで、台座も含めると4.1m。

田中八兵衛・十兵衛のことはよく分からないが、岩井の分限者とされる。分限者は簡単に言えばお金持ち。

昭和47年(1972年)に県道拡張のため道の反対側から移転している。現在は十字路になっているが、当時は岩井から中之条への渡船場道と、金井・川戸方面へと渋川方面への三本辻であった。昔も現在も往来する人々の安全と住民の安寧を願い見守っている。

地蔵尊が建っているところは道端で、しかも2m位の高台となっており、非常に目立つ。見守っているという表現がぴったりの場所である。


吾妻郡東吾妻町三島の鳥頭神社。

三島鳥頭神社 (1)
三島鳥頭神社 (2)
三島鳥頭神社 (3)
三島鳥頭神社の創建は不詳。主祭神は日本武尊なので、何がしかの伝説があるのかな。また、数多くの杉の木に年代を感じる。

三島鳥頭神社 (4)
三島鳥頭神社 (5)
社殿は明治45年(1912年)に改修されている。このときに、現在の境内が整備されたようだ。

三島鳥頭神社 (6)
三島鳥頭神社 (7)
拝殿、本殿ともに彫刻が施され、特に本殿の木鼻、蝦虹梁など見事なものだ。田舎(失礼!)の神社にしてはと思ってしまった。

三島鳥頭神社 (8)
春・秋の例祭では太々神楽が奉納される。秋には獅子舞も奉納される。太々神楽は大正元年(1912年)から、獅子舞は嘉永5年(1852年)からの歴史がある。

三島鳥頭神社 (9)
昭和4年(1929年)刊行の「吾妻郡誌」には「老杉約100株林立し」とあるが、さすがに減ってしまったようだ。それでも多数の杉が神域を護っているといった雰囲気だ。(きちんと数えれば100本くらいあるのかな)


吾妻郡東吾妻町矢倉の鳥頭神社。
「神代杉」のある神社と言えば分かるかもしれない。以前、神代杉を見に来たときに、何と神社をスルーしていた。なので改めて訪問。

矢倉鳥頭神社 (1)
矢倉鳥頭神社 (2)
矢倉鳥頭神社の創建は不詳だが、建久年間(1190~98年)ともいわれる。

矢倉鳥頭神社 (3)
享保7年(1722年)に作られた鳥居の礎石。昭和62年(1987年)の鳥居改修工事時に掘り出したもの。

矢倉鳥頭神社 (4)
参道脇の力石。大玉が98kgで小玉が47kg。岩島地区には多くの力石が残されており、古くから力比べや奉納競技が行われていたと考えられる。

矢倉鳥頭神社 (5)
矢倉鳥頭神社 (6)
矢倉鳥頭神社 (7)
矢倉鳥頭神社は古くから時の領主の崇敬を受けており、吾妻太郎行盛、真田昌幸・信幸(信之)父子らが社殿改修や寄進をしている。

現在の社殿は明和11年(1767年)の建立とされる。

矢倉鳥頭神社 (8)
幣殿に掛けられている鬼瓦。改修前の拝殿に乗っていたものと思う。

矢倉鳥頭神社 (9)
神楽殿。

矢倉鳥頭神社 (10)
神武天皇遥拝所。明治40年(1907年)の設置で、平成元年(1989年)の再建。

矢倉鳥頭神社 (11)
神代杉。以前の訪問時(2011年)と比べると背が低くなったような気がするし、解説版もきれいになったような気がする(内容が同じかは覚えていない)。

一応、神代杉について。日本武尊が東征のみぎり自ら手植えしたと伝わる。寛保2年(1742年)に旅人の失火で半枯の状態になる。その後、天明2年(1783年)浅間山噴火による熱泥流の被害も受けたが、龍得寺住職・円心が危険を顧みず10mの高所から切り倒し全焼の危機を救った。当地の人々が代々修復を重ね、今にその姿を伝えている。
(以前の訪問記は「日本武尊が植えた杉? -神代杉-」参照)


吾妻郡東吾妻町岩下の福聚山応永寺。

応永寺 (1)
応永寺は岩櫃城主・斎藤氏により建立された。斎藤氏の当地入部には諸説あるが、一説に応永12年(1405年)に斎藤憲行が当地に入部とあり、時の元号と寺名が一致することからこのあたりの創建かな。斎藤氏の滅亡により衰退していたが、大永7年(1527年)に無庵禅師が中興したという。

応永寺 (2)
応永寺 (3)
応永寺 (4)
応永寺 (5)
立派な山門。仁王像が鎮座している。

応永寺 (6)
応永寺 (7)
応永寺 (8)
山門の天井絵。中央の龍を挟んで両側に天女。

応永寺 (10)
応永寺 (11)
応永寺 (12)
本堂扉の家紋は左は五七桐と思うが、右は見たことない。2つともお寺と関連があるのだろうが、まったく分からない。

応永寺 (13)
水難慰霊塔。昭和10年(1935年)9月の2つの台風による集中豪雨での被災者を慰霊するもの。吾妻郡では土石流や山崩れが発生。吾妻川も水位が最大6mも上昇。人的被害、住宅被害(全壊や流出など)が発生した。

この被害は吾妻郡に限らず、群馬県内で死者・行方不明、負傷者合わせ400名を超える甚大な被害が発生した。高崎市でも烏川、碓氷川で堤防が決壊。救助活動中の高崎15連隊の兵士7名が犠牲になっている。(「七士殉職供養塔」参照)

応永寺 (14)
灑水(しゃすい)観音。右手に灑水杖を持つ。

応永寺 (15)
本堂前の枝垂れ桜。季節がらしょうがない。

応永寺 (16)
応永寺 (17)
応永寺 (18)
境内の五葉松。直径約10m、高さ約2mで、傘を広げたような形をしていることから傘松と呼ばれている。約340年前に9世住職・石山和尚が沼田から当寺へ転住の際に持って来て植えたといわれる。

応永寺は花の名所で、春には山門前を中心に桜を始めとして菜の花などが咲き乱れる。傘松しか調べてなかったので・・・。春になったら、もう一度行ってみようかな。


吾妻郡東吾妻町厚田の太田神社。

太田神社 (1)
太田神社の由緒は不詳。太田は地名(旧村名)に由来する。明治期に村内他社を合祀した際に改称したと思われる。

太田神社 (2)
太田神社 (3)
鳥居の先には延々と続く石段。脇には舗装道路もあり、クネクネ登って行く。さあ、どっちを選ぼうか。神社参拝なので、真っ直ぐに石段を登ろう! この決断は?

太田神社 (4)
太田神社 (5)
ようやく(本当にようやく)二ノ鳥居が見えてきた。扁額には「満行大権現」。太田神社のご祭神は榛名神社と同様の火産霊神と波邇夜須毘売神(埴安神)の二神(主祭神)。

太田神社 (6)
二ノ鳥居からも、さらに延々と石段を登らないといけない。足が悲鳴を上げ始めたところで、やっと境内に到着。石段の途中で何回か道路と交差したが、どっちの道が良かったのかは分からない。多分どっちを選んでいても、大して変わらなかったのでは?

太田神社 (7)
太田神社 (8)
社殿は延宝2年(1674年)真田信利が再建した記録が残る。信利は義人・茂左衛門の直訴などが理由で改易された殿様。現在の社殿は火災による焼失後の明治20年(1887年)の再建。昭和31年(1956年)改築。

太田神社 (9)
神楽殿。20年くらい前までは例祭時に神楽が奉納されていたようだが、現在は途絶えているという。

太田神社 (10)
注連縄が飾られていたのでご神木と思う。

太田神社 (11)
太田神社鳥居前からは岩櫃山が正面に見える絶好のロケーション。岩櫃山は標高802m、南面は約200メートルの絶壁。奇岩、怪石からなる切り立った山容は東吾妻町のシンボルである。

太田神社 (12)
舗装道路があったのなら車で登っていけばよかったのにと思うかもしれないが、イノシシ除けの電気柵があったので入れなかったのだ。


吾妻郡東吾妻町本宿のへそ岩。

へそ岩 (1)
へそ岩 (2)
温川の対岸岩肌に「へそ岩」と呼ばれる岩(穴)がある。直径上下20m、左右30m、奥行き10mのサイズで、へその形に似ていることからその名がついた。オレ的には「へそ」と言うよりは「目玉」に近いような気もするけど。

東吾妻町には「へそ岩」以外にも「屏風岩」「布袋岩」「竜頭岩」「竜尾岩」(吾妻渓谷)などの奇岩がある。町のシンボルである岩櫃山も岩だらけの山だし、観光資源として岩も重要な位置づけになっている。


吾妻郡東吾妻町小泉の白鳥神社。

小泉白鳥神社 (1)
小泉白鳥神社 (2)
小泉白鳥神社の創建は不詳だが、地域の口碑(言い伝え)では上野国神名帳にある「小磯明神」のことだという。何でも地名も神社名も「小磯」が訛って「小泉」になったらしい。吾妻郡誌もそのこと(訛り)を書いた上で「記載し後人の鑑定に備える」としている。

石灯籠には文化6年(1809年)の銘があった。

小泉白鳥神社 (3)
小泉白鳥神社 (4)
小泉白鳥神社 (5)
境内は広くはないが木々に囲まれ、入母屋造りの拝殿と神明造りの本殿がよく映えている。社殿は大正11年(1922年)に全焼、翌年再建されている。

小泉白鳥神社 (6)
境内社の秋葉宮。

小泉白鳥神社 (7)
コンテナ置き場になっている舞殿。歌舞伎舞台かな。

小泉白鳥神社 (8)
注連縄が飾られているので神石? 霊石? 磐座?

小泉白鳥神社も前回紹介の奥田白鳥神社同様、過去「白頭明神」呼ばれていたようなので、中之条の市代牧を守護する役割を担っていたようだ。口碑を信じるなら、小磯神社→小泉神社→白頭神社→小泉神社かな。(奥田白鳥神社は「東吾妻町奥田・白鳥神社」参照)


吾妻郡東吾妻町奥田の白鳥神社。

奥田白鳥神社 (1)
奥田白鳥神社の創建は不詳だが、ご祭神の日本武尊が東征の際に当地で休息されたのにちなみ社殿を建立したと伝わる。その後、貞享3年(1686年)白頭明神と改称し、さらに明治10年(1877年)に再び白鳥神社となっている。

奥田白鳥神社 (2)
石段脇の松は、主幹が途中から90度曲がっている。「あづまかるた」に「妙なる松の 白鳥神社」と詠われている(奥田地区は旧東村)。

奥田白鳥神社 (3)
奥田白鳥神社 (4)
なぜか拝殿内の電灯が点いていた。消し忘れ? それともセンサー付き? 結果的に電灯により影ができてしまい、目当てのものがよく見えないという事態に。単に写真の技術がないだけとの意見もある?

奥田白鳥神社 (5)
目当ての扁額。「白鳥神社の彫刻」の名称で東吾妻町の重文になっている。縦59cm、横30cmの木板で、木地は朱塗り。文字は金字で「正一位白頭大明神」と記されている。享保2年(1717年)のものといわれる。

奥田白鳥神社 (6)
奥田白鳥神社 (7)
社殿裏に覆屋があり覗いてみたら、お稲荷さんのようだ。末社かな。

ちなみに白頭明神とは牧場の守護神。かつて、現在の中之条町市城に市代牧と呼ばれる牧場があり、その牧域が現在の奥田地区まで拡がっていた。その周辺に牧場を守護する「白頭明神」置かれたので、一時社名が変わっていたようだ。

ただ、市代牧が作られたのは奈良から平安時代とされるので、江戸時代に社名変更という由緒はちょっと疑問。もう少し古い時代から「白頭明神」になっていたのではと思う。


吾妻郡東吾妻町岡崎の柏原の宝篋印塔。

柏原の宝篋印塔 (1)
柏原の宝篋印塔は台座を含めると4mくらいあり、塔部分でも3m以上ある大型の宝塔。ただ、見た目の情報以外は何もない。

当地に解説板もなく、東吾妻町のHPにも解説が載っていない。また、東吾妻町の重文であることを示す標柱も折れていた(悲)。

柏原の宝篋印塔 (2)
横に石仏や仏塔などが並んでいる。

立派な宝塔だけに、由緒などを知りたかったなぁ。


吾妻郡東吾妻町岡崎の岩久保観音堂。

岩久保観音 (1)
岩久保観音は元和元年(1615年)、当地の代官・岡上景親(初代)の創建。

岩久保観音 (2)
石段を登って行くと観音堂がある。余り境内は広くないが、木々に覆われ良い雰囲気である。観音堂は承応2年(1653年)に岡崎地区を始め近隣から浄財を集め建立されている。

岩久保観音 (3)
本尊は大日如来。六観音が脇を固める。本堂内に厨子があったので、大日如来や観音さまはこの中かな。

岩久保観音 (4)
岩久保観音 (5)
岩久保観音 (6)
現在の本堂裏に間口4.5m、高さ3.6m、奥行き3mほどの岩屋(洞窟)があり、元々はこの穴の中に祀ったのが始まりのようだ。現在も大日如来石像が置かれている。岩久保観音の名は、この岩屋からきているのだろう(当初は大日六観音と呼ばれていた)。

岩久保観音 (7)
境内の墓碑は、観音堂建立に尽力するとともに、岡崎地区の開拓を補佐した代官手代・土屋吉重、吉政父子と岡崎地区開拓者14名ものである。

岩久保観音 (8)
観音堂下には広場があり「おかのぼり公園」と命名されている。訪問した当日も、広場では地元のお年寄りグループがグランドゴルフを楽しんでいた。

岡崎地区の開拓に大きな功績を残した岡上3代は、現在も地元の方々から尊敬と親しみを持って記憶されている。3代目・岡上景能の位牌は、現在も岡崎地区に保管(個人所有)されており、岩久保観音の祭日には観音堂に祀られる。

関連
 「東吾妻町岡崎・榛名神社


吾妻郡東吾妻町岡崎の榛名神社。

岡崎榛名神社 (1)
岡崎榛名神社 (2)
岡崎榛名神社は榛名神社(高崎市榛名山町)から火産靈神の分霊を勧請したものと思うが、詳細は不明。

岡崎榛名神社 (3)
岡崎榛名神社 (4)
鳥居の左手には庚申塔や石祠などが集められており、その中に東吾妻町の重文に指定されている宝篋印塔がある。造立年などは不明のようだが、当社に合祀された岡崎諏訪神社から移転されたものだという。

岡崎榛名神社 (5)
杉木立に囲まれた石段を登っていく。

岡崎榛名神社 (6)
岡崎榛名神社 (7)
岡崎榛名神社 (8)
境内は余り広くないが、唐破風付きの拝殿と覆屋内に流造りの本殿がある。

岡崎榛名神社 (9)
岡崎榛名神社 (10)
社殿脇からさらに上へ登る石段があり、行ってみると石祠があった。末社なのかもしれないが、他の末社群は石段と反対側の社殿脇にあったので、奥の院かもしれない。

岡崎榛名神社 (11)
岡崎榛名神社 (12)
社殿脇の末社群に並び、岡上生祠がある。榛名湖の北から流出する沼尾川から引水する「岡上用水」を完成させ、岡崎地区の新田開発に多大な功績を残した岡上景能の徳を慕い、享和元年(1801年)に建立された。

岡上氏は3代(景親、2代目景親、景能)約70年に渡り当地の代官を務め、現在の五町田・箱島・岡崎地区の発展(特に岡崎地区の新田開発)に寄与している。

景能の没年は貞享4年(1687年)なので、享和元年(1801年)だと生祠にならないが、現在の祠が享和の建立ということなのかな。

景能は新田郡笠懸野の用水路整備や開墾にも尽力しており、やはり地元の人々から岡登霊神社(太田市大原町)に祀られている。ちなみに岡上を岡登表記することもあるが、それは後に景能死後(自刃)末裔が岡登を名乗ったためである。

関連
 「太田大原町・岡登霊神社
 「岡登景能の墓・鳳陽山国瑞寺


吾妻郡高山村中山の田んぼアート。

田んぼアート2018
「ぐんまちゃん」は分かるんだけど、他の2体は何??
調べてみると、真ん中は高山村のキャラクターのひとり「つぼみちゃん」。右は群馬テレビのキャラクター「ポチッとくん」。あっ、群テレで幼稚園・保育園の子ども達が「ポチッとくん体操」を踊っているミニ番組を観たことがあるような。

今年は戌年なので、「ポチッとくん」の登場のようだ。「ポチッとくん」は犬らしい。ちなみに「つぼみちゃん」は、頭は高山村の花「りんどう」のつぼみ、下半身は村の木「ナラ」のどんぐり。

毎年、地元のたんぼアート研究会のみなさんが古代米の苗を植えて作っている。2009年に幾何学模様と「たかやま」の文字から始まった「田んぼアート」も、その後干支にちなんだ動物が登場し、2014年からは「ぐんまちゃん」が登場。相方にふなっしー(2014年)、くまモン(2015年)が登場したこともあった。

オレが初めて見たのは2014年の「ぐんまちゃん」と「くまモン」だった。以後、毎年楽しみにしている。


吾妻郡東吾妻町郷原のJR東日本吾妻線・郷原駅。
ここから約50mのところでハート形の土偶が発見されている。

郷原駅
ハート形土偶出土地 (2)
郷原駅の駅舎。駅舎前には解説板がある。

ハート形土偶は昭和20年(1945年)に郷原駅西方約50mの地点で発見された。縄文時代後期(約2000~1000年前)のものと推定され、高さ約30.5cm。縄文時代を代表する遺物である。

ハート形土偶出土地 (1)
出土地には「ハート形土偶出土の地」の標柱が建っている。

ハート形土偶
特異なハート形の顔は、鼻、眉毛、口にかけての輪郭のみで表現しており、抽象的な表現方法をとっている。また、大きな肩に小さな手、アーチ状に表現された安定した足腰の造形美は、縄文女性の力強さを表しているといわれる。
(写真は中之条町「中之条町大字中之条町・歴史と民俗の博物館(Musee)」のレプリカ。実物は東京国立博物館に保管されている)

実は縄文時代の土偶は芸術性に富んだ名品が多い。ハート形土偶以外にも、「縄文の女神」「縄文のビーナス」「仮面土偶」「遮光器土偶」などが有名である。


吾妻郡高山村中山の田んぼアート。

田んぼアート
今年は「ぐんまちゃん」と干支の「酉(鳥)」2羽の構成。

いつものように「道の駅 中山盆地」から見下ろしたものだが、今年は少し地味かな。最近の作品は
 2016年 甲冑を着た「真田ぐんまちゃん」と干支の「申」文字
 2015年 「ぐんまちゃん」と「くまモン」
 2014年 「ぐんまちゃん」と「ふなっしー」

毎回思うのだが、道の駅「中山盆地」から見ると、少し角度が浅く見ずらい。もうちょい上から見下ろせれば、より良く見えるのだが・・・。

とう言うことで、2階建てクラスでいいので、展望台を作ってくれないかな。


吾妻郡中之条町上沢渡の北向三十三番観世音。

北向第三十三番観音 (1)
北向第三十三番観音 (2)
北向三十三番観世音は、明治35年(1902年)に赤痢や凍霜害の犠牲者の慰霊と天下泰平、村民安徳、現世利益を祈願して造られた。

北向第三十三番観音 (3)
旧沢田村は明治29年(1896年)に赤痢が蔓延し、多くの犠牲者をだした。また明治34年(1901年)には凍霜害の被害により、作物の実りが悪く村全体が困窮していた。村人は相談の上、沢渡温泉に近い北向の斜面を借り受け、観音像を造立した。

北向第三十三番観音 (4)
馬頭観音の台座には、発願主や世話人、石工の名前が刻まれている。

現在も7月29日には久森前尻地区の方々により草刈りや掃除を行い、供養とお祈りを続けている(「お山刈り」と呼ぶ)。

北向の斜面に観音様が多数造立されているんだけど、全景を撮って来なかったので分かりづらいかも。


吾妻郡中之条町上沢渡の旧大岩学校。

旧大岩学校 (1)
旧大岩学校 (2)
旧大岩学校 (3)
旧大岩学校は明治12年(1879年)に大岩村民自らにより建てられた子弟教育学校である。昭和29年(1954年)に新校舎の完成まで地域教育の中心として使われた。

旧大岩学校 (4)
庭(校庭)には若山牧水の歌碑がある。
若山牧水が大正11年(1922年)に暮坂峠から沢渡へ行く途中、この校庭で遊ぶ子供の様子を見て歌を詠んでいる。「人過ぐと 生徒等はみな 走せ寄りて 垣よりぞ見る 学校の庭のわれもまた  かかりき村の学校に この子等のこと 通る人見き」

旧大岩学校 (5)
旧大岩学校 (6)
新校舎建設後は地域の集会場として使用されている。名称も「牧水会館」と若山牧水にちなんだ名称になっている。

山間部に明治の建築当時のまま現存する校舎は県下でも珍しい。

若山牧水銅像
ところで、暮坂峠にあった若山牧水の銅像が盗まれてしまった。(左は在りし日の銅像、右は盗難後。産経新聞から)

幸い犯人は逮捕されたが、銅像は金属買取業者に売却され、さらに海外へ輸出されてしまったという。現時点で銅像は見つかっていない。とんでもないヤツらだ!


吾妻郡中之条町五反田の空閑の墓。

空閑の墓 (1)
前回の旧五反田学校へ向かっている時、道を間違えてしまい「あれっ?」って思った時に、偶然この案内板を見つけたので寄ってみた。
(旧五反田学校は「中之条町五反田・旧五反田学校」参照)

和利堂 (1)
車を路駐し(ほとんど車は通らなそうだったので)歩っていくとお堂が見えてくる。和利堂とある。空閑の住居跡をお堂としたのかな?(勝手な想像)

和利堂 (2)
和利堂 (3)
和利堂境内にはいろいろな石仏があった。

空閑の墓 (2)
和利堂の脇に空閑の墓がある。空閑は江戸時代に当地に住み着いていた僧侶。

永禄6年(1563年)岩櫃城が武田信玄、真田幸隆らに攻められ落城。城主・斎藤憲広は越後の上杉謙信を頼り落ち延びたが、その末子・城虎丸は嵩山城に籠もり奮闘。しかし永禄8年(1565年)遂に落城。

嵩山  (1)
若き城主・城虎丸(18歳といわれる)は大天狗岩から身を投げ自害したという。また多くの女性も同様に大天狗岩から身を投げたという。

この嵩山城の犠牲者を弔うため、元禄15年(1702年)に空閑と地元の人たちが、嵩山の登山口を1番とする坂東三十三観音を建立した。(その後、秩父三十四観音、西国三十三観音も建立)

空閑の素性は調べてもよく分からなかったが、地域の人から嵩山城落城の話を聞いて、僧侶として菩提を弔い供養しようと思ったんだろうね。


吾妻郡中之条町五反田の旧五反田学校。

旧五反田学校 (1)
旧五反田学校 (2)
旧五反田学校は明治41年(1909年)に伊勢宮の森の木を使用して建築されている。敷地は旧五反田村の住民が総出で造成したという。木造平屋建ての板葺き・合掌入母屋造り(現在は、亜鉛鉄板葺き)で、間口は28間(50.9m)、奥行き5間(9m)。

昭和13年(1938年)に伊勢尋常高等小学校第2分教場となり、その後中之条町立第4小学校の分校として昭和44年(1969年)まで使われた。

旧五反田学校 (3)
ほとんど改造されないまま、差込み式の窓の鍵などが当時のまま残されている。校舎内の柱などには児童の指導のための書き込みが見られる。という。

旧五反田学校 (4)
中を覗いて見たら、当時使用していたと思われる机や椅子が残されていた。

旧五反田学校 (5)
校舎の端には講堂と思われる広いスペースがある。

現在、旧五反田学校は中之条ビエンナーレの会場としても活用されている。中之条ビエンナーレは平成19年(2007年)から始まった(2年に1度)アートイベント。海外も含めた多くのアーティストが参加しており、地域住民との交流も盛んなようだ。


吾妻郡中之条町伊勢町の伊勢宮。

伊勢宮 (1)
伊勢宮(伊勢神宮の略称)の創建は不明だが、この地には戦国時代在地領主・狩野氏の中条城(吾妻城)があったとされ、その中に祀られていたのが伊勢宮である。

伊勢宮 (2)
伊勢宮 (3)
伊勢宮 (4)
伊勢宮 (5)
1月の「鳥追い祭」や8月の「祇園祭」では、伊勢宮で太鼓や山車をお祓いしてから祭りの行事を行う。

「鳥追い祭」は田畑を荒らす害鳥を追い払い豊作を祝う祭りで、慶長9年(1604年)から始められたといわれる。中之条町の鳥追い祭は、県下最大の鳥追い行事である。

伊勢宮 (6)
拝殿には弓矢が奉納されていた。

伊勢宮 (7)
伊勢宮の境内には目通り2~3mの杉の木が40本、目通り4mのケヤキの木が1本あり、神社境内の景観を守るため、町の天然記念物に指定されている。


吾妻郡東吾妻町原町の大宮巌鼓(いわづつみ)神社。

大宮巌鼓神社 (1)
大宮巌鼓神社 (2)
大宮巌鼓神社 (3)
大宮巌鼓神社の創建は不詳だが、日本武尊が東征のおり当地の吾妻姫との間に大若宮彦という子をなし、その大若宮彦(大宮や巌鼓尊と呼ばれた)を祀ったのが大宮巌鼓神社だという。

また、他説では、吾妻太郎行盛が武蔵国氷川明神を分祀したのが始まりともいわれる。さいたま市(旧大宮市)の氷川神社のこと。そのため大宮という。
(吾妻太郎は「吾妻太郎行盛の墓・巌長山長福寺」参照)

大宮巌鼓神社 (4)
大宮巌鼓神社 (5)
大宮巌鼓神社 (6)
拝殿は入母屋造りで威厳を感じる造り。本殿は春日造り。

大宮巌鼓神社 (7)
大宮巌鼓神社 (8)
大宮巌鼓神社 (9)
境内社の神明宮は、昭和50年(1975年)に伊勢神宮の古殿材を使用して創建された。その旨を記した記念碑があった。

先に大若宮彦(大宮や巌鼓尊と呼ばれた)を祀ったのが大宮巌鼓神社との説を書いたが、ご祭神を調べると大若宮彦は祀られていない。ちなみにご祭神は日本武尊、弟橘姫命、素戔嗚尊、保食命。


吾妻郡高山村中山のぐんま天文台。

ぐんま天文台 (1)
ぐんま天文台は平成5年(1993年)に群馬県の人口が200万人に達したこと、及び平成6年(1994年)に日本初の女性宇宙飛行士・向井千秋(館林市出身)が宇宙に飛び立ったことなどを記念して天文台建設が計画され、平成11年(1999年)にオープンした。

ぐんま天文台 (2)
ぐんま天文台 (3)
屋上に設置された口径30cmの望遠鏡を太陽に向け、その光を展示室の直径約1mの投影板に映している。(上の写真の円柱の台)ゴミのようにも見えるが、太陽の黒点がはっきり見える。また、プロミネンスも見ることができる。(当然のことながら、晴れている昼間しか見られない)

ぐんま天文台 (4)
150cmの反射望遠鏡。この望遠鏡は、目で直接覗くことができるものとしては世界最大クラス。係員の方が構造とか理屈を非常に丁寧に説明してくれた。ちょっと難しい。子ども心に戻って、星を見たくなった。

ぐんま天文台 (5)
大きくて全体写真がうまく撮れなかったので、ぐんま天文台HPから写真を拝借。

ぐんま天文台 (6)
65cm反射望遠鏡。150cm反射望遠鏡に比べ鏡が小さいため集光力は劣るが、視野は広いという利点がある。

ぐんま天文台 (7)
小惑星探査機「はやぶさ」の回収カプセルのレプリカ(実物大モデル)。これは株式会社IHIエアロスペース社が群馬県に寄贈してくれたもの。

ぐんま天文台 (8)
ぐんま天文台 (9)
天文台本館前広場には、英国の古代遺跡ストーンヘンジに似たストーンサークルと18世紀のインドの天体観測施設ジャンタル・マンタルが再現されており、実際に太陽や月・星の動きを観察できる。

その名の通り天文台なので、天体観望や天体観察会などの実際の観測体験を行うことが主眼のため、オレのように施設見学だけで行くよりは、やっぱり月や星の観測体験も兼ねて行くべきだ。

実は小学生高学年だったか中学生の頃、本気で天体望遠鏡を買おうかと思ったこともあるくらい、天文って好きだったんだよね。(諸般の事情で買わなかったけど。買えなかったかな)その頃に、こんな立派な天文台があったら違っていたかもね。

ぐんま天文台 (10)
ところで、天文台へは駐車場から約600m(標高差60m)の遊歩道という名の階段(522段!)を登って行かなくてはならない。10~15分程度だけど、けっこう大変。ただ、標高も高いし山の上なので、風が涼しく助かった。

ぐんま天文台 (11)
さらにはクマの目撃情報もあるようで、熊に出会ってしまった時の注意事項が書いてあった。遊歩道入り口には、クマよけの鈴も置いてあった。


吾妻郡高山村中山の田んぼアート。

田んぼアート
高山村では平成21年(2009年)から田んぼアートを始めている。今年の図柄は「ぐんまちゃん」と「くまモン」。

最初はその年の干支+アルファだったらしいが、昨年(2014年)に突如「ぐんまちゃん」と「ふなっしー」というゆるキャラ路線に変更。今年もその流れのようだ。

過去の田んぼアートは高山村HPで見ることができるが、最初の頃に比べると、格段にクオリティーが向上している。(過去の田んぼアートの写真:高山村観光案内ページ

道の駅・中山盆地
田んぼアートの写真は道の駅・中山盆地から撮ったもの。「中山盆地」は昨年(平成26年:2014年)3月から共用が開始されたばかりの道の駅。

昨年の秋に中山盆地に寄ったときは、既に稲刈り終了後でアートを見られなかった(というか、見に行ったわけでもないが・・・)。その時買った梅干しがおいしくて。今回もまた買ってきた。併せて桃とぶどうも。

実はこの道の駅・中山盆地前(というか田んぼアート脇)の道は、とあるゴルフ場への行き帰りに毎回通っている道。でも、田んぼアートをやってるなんてまったく気が付かなかった。田んぼアートは横から見ても、なんだか分かんないだろうけど。


吾妻郡東吾妻町新巻の長徳寺。

長徳寺 (1)
長徳寺の創建は寛永年間(1624~44年)と伝わる。

長徳寺 (2)
本堂は茅葺で趣きがある。最近ではめっきり見なくなった。境内の植木類は良く手入れが行き届いている。

ところで、ここの住職さんは著書も多数あり、更には各地で講演活動をしているようだ。その講演の様子をネットで見たら、自分は日本一野暮ったい寺に住んでいると言ってた(笑)。

開いている戸は閉まらない、閉まっている戸は開かない、本堂を歩いていると自分が斜めになっているような気がすると、本堂の古さで笑いを取っていた。

本堂の建築年は分からなかったが、100年以上経ってるかな。


吾妻郡中之条町伊勢町のツインプラザ。

中之条町ツインプラザ (1)
中之条町ツインプラザ (2)
中之条町ツインプラザは、様々な文化活動に対応した交流拠点としての学習センターと、幅広い分野の本を所蔵した図書館を併設した生涯学習施設。平成12年(2000年)4月のオープン。敷地面積は約1万4000平方m、延べ床面積6000平方mの広さ。

田舎町には似つかわしくない立派な施設である。なんで、中之条町にこんな立派な施設があるかというと、この人の存在なくしては語れない。

中之条町ツインプラザ (3)
中之条町出身の小渕恵三元首相。
昨年、いろいろ世間を騒がせた小渕優子衆議院議員の父親である。そう言えば、調査して報告すると言っていたカネの問題はどうした?? このまましらばっくれるつもりか??

話を恵三元首相に戻すと、昭和37年(1962年)の初当選以来、連続12期当選。平成10年(1998年)から平成12年(2000年)には首相を務めた。首相在任中に脳梗塞で倒れ、そのまま退陣。さらには1ヶ月後、意識が回復することなく死亡した。62歳、若すぎる死であった。

小渕元首相が脳梗塞に倒れたのが4月2日、亡くなったのが5月14日。ツインプラザのオープンは4月15日。小渕元首相の遺産のようなもんだね。

ツインプラザの銅像は平成14年(2002年)5月に建立されている。


吾妻郡東吾妻町大戸の華庭山大運寺。

大運寺 (1)
大運寺 (2)
大運寺は興国年間(1340~46年)に宝誉上人の開山。

大運寺 (3)
大運寺 (4)
当時、上州の三大尽のひとりと言われた富豪・加部安左衛門(7代目)の寄進により大運寺は荘厳な堂宇となった。

本堂は平成2年(1990年)に火災により焼失、現在の本堂は平成6年(1994年)の再建。

大運寺 (5)
大運寺 (6)
大運寺 (7)
大運寺の境内は加部家屋敷跡の一部である。屋敷跡の遺構としては石垣が見られる程度だが、頌徳碑が建っている。

大運寺 (8)
加部家の墓。さすがに立派である。

加部家の初代は戦国の頃、まだ武士だったようだ。4代目の時代に大戸の関所が設置され、関守になっている(他三家)。

7代目(大運寺に多くの寄進をした)が、農業の他に酒造業や麻の売買などにより、多くの財をなしている。8代目は事業をさらに大きくした。また天明の浅間山の大噴火に際し、吾妻川流域の村への援助を行っている。その後、商売が傾いた時期もあるが、13代目が明治7年(1874年)まで続けていた。現在ご子孫は東京在住。

ちなみに、上州三大尽のもう2名は、佐羽吉右衛門(桐生)と鈴木重兵衛(甘楽)である。

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