Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 吾妻郡


吾妻郡中之条町上沢渡の北向三十三番観世音。

北向第三十三番観音 (1)
北向第三十三番観音 (2)
北向三十三番観世音は、明治35年(1902年)に赤痢や凍霜害の犠牲者の慰霊と天下泰平、村民安徳、現世利益を祈願して造られた。

北向第三十三番観音 (3)
旧沢田村は明治29年(1896年)に赤痢が蔓延し、多くの犠牲者をだした。また明治34年(1901年)には凍霜害の被害により、作物の実りが悪く村全体が困窮していた。村人は相談の上、沢渡温泉に近い北向の斜面を借り受け、観音像を造立した。

北向第三十三番観音 (4)
馬頭観音の台座には、発願主や世話人、石工の名前が刻まれている。

現在も7月29日には久森前尻地区の方々により草刈りや掃除を行い、供養とお祈りを続けている(「お山刈り」と呼ぶ)。

北向の斜面に観音様が多数造立されているんだけど、全景を撮って来なかったので分かりづらいかも。

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吾妻郡中之条町上沢渡の旧大岩学校。

旧大岩学校 (1)
旧大岩学校 (2)
旧大岩学校 (3)
旧大岩学校は明治12年(1879年)に大岩村民自らにより建てられた子弟教育学校である。昭和29年(1954年)に新校舎の完成まで地域教育の中心として使われた。

旧大岩学校 (4)
庭(校庭)には若山牧水の歌碑がある。
若山牧水が大正11年(1922年)に暮坂峠から沢渡へ行く途中、この校庭で遊ぶ子供の様子を見て歌を詠んでいる。「人過ぐと 生徒等はみな 走せ寄りて 垣よりぞ見る 学校の庭のわれもまた  かかりき村の学校に この子等のこと 通る人見き」

旧大岩学校 (5)
旧大岩学校 (6)
新校舎建設後は地域の集会場として使用されている。名称も「牧水会館」と若山牧水にちなんだ名称になっている。

山間部に明治の建築当時のまま現存する校舎は県下でも珍しい。

若山牧水銅像
ところで、暮坂峠にあった若山牧水の銅像が盗まれてしまった。(左は在りし日の銅像、右は盗難後。産経新聞から)

幸い犯人は逮捕されたが、銅像は金属買取業者に売却され、さらに海外へ輸出されてしまったという。現時点で銅像は見つかっていない。とんでもないヤツらだ!

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吾妻郡中之条町五反田の空閑の墓。

空閑の墓 (1)
前回の旧五反田学校へ向かっている時、道を間違えてしまい「あれっ?」って思った時に、偶然この案内板を見つけたので寄ってみた。
(旧五反田学校は「明治時代の小学校建築 -旧五反田学校-」参照)

和利堂 (1)
車を路駐し(ほとんど車は通らなそうだったので)歩っていくとお堂が見えてくる。和利堂とある。空閑の住居跡をお堂としたのかな?(勝手な想像)

和利堂 (2)
和利堂 (3)
和利堂境内にはいろいろな石仏があった。

空閑の墓 (2)
和利堂の脇に空閑の墓がある。空閑は江戸時代に当地に住み着いていた僧侶。

永禄6年(1563年)岩櫃城が武田信玄、真田幸隆らに攻められ落城。城主・斎藤憲広は越後の上杉謙信を頼り落ち延びたが、その末子・城虎丸は嵩山城に籠もり奮闘。しかし永禄8年(1565年)遂に落城。

嵩山  (1)
若き城主・城虎丸(18歳といわれる)は大天狗岩から身を投げ自害したという。また多くの女性も同様に大天狗岩から身を投げたという。

この嵩山城の犠牲者を弔うため、元禄15年(1702年)に空閑と地元の人たちが、嵩山の登山口を1番とする坂東三十三観音を建立した。(その後、秩父三十四観音、西国三十三観音も建立)

空閑の素性は調べてもよく分からなかったが、地域の人から嵩山城落城の話を聞いて、僧侶として菩提を弔い供養しようと思ったんだろうね。

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吾妻郡中之条町五反田の旧五反田学校。

旧五反田学校 (1)
旧五反田学校 (2)
旧五反田学校は明治41年(1909年)に伊勢宮の森の木を使用して建築されている。敷地は旧五反田村の住民が総出で造成したという。木造平屋建ての板葺き・合掌入母屋造り(現在は、亜鉛鉄板葺き)で、間口は28間(50.9m)、奥行き5間(9m)。

昭和13年(1938年)に伊勢尋常高等小学校第2分教場となり、その後中之条町立第4小学校の分校として昭和44年(1969年)まで使われた。

旧五反田学校 (3)
ほとんど改造されないまま、差込み式の窓の鍵などが当時のまま残されている。校舎内の柱などには児童の指導のための書き込みが見られる。という。

旧五反田学校 (4)
中を覗いて見たら、当時使用していたと思われる机や椅子が残されていた。

旧五反田学校 (5)
校舎の端には講堂と思われる広いスペースがある。

現在、旧五反田学校は中之条ビエンナーレの会場としても活用されている。中之条ビエンナーレは平成19年(2007年)から始まった(2年に1度)アートイベント。海外も含めた多くのアーティストが参加しており、地域住民との交流も盛んなようだ。

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吾妻郡中之条町中之条町の伊勢宮。
(以前も書いたが、この住所表記は間違いではないよ)

伊勢宮 (1)
伊勢宮(伊勢神宮の略称)の創建は不明だが、この地には戦国時代在地領主・狩野氏の中条城(吾妻城)があったとされ、その中に祀られていたのが伊勢宮である。

伊勢宮 (2)
伊勢宮 (3)
伊勢宮 (4)
伊勢宮 (5)
1月の「鳥追い祭」や8月の「祇園祭」では、伊勢宮で太鼓や山車をお祓いしてから祭りの行事を行う。

「鳥追い祭」は田畑を荒らす害鳥を追い払い豊作を祝う祭りで、慶長9年(1604年)から始められたといわれる。中之条町の鳥追い祭は、県下最大の鳥追い行事である。

伊勢宮 (6)
拝殿には弓矢が奉納されていた。

伊勢宮 (7)
伊勢宮の境内には目通り2~3mの杉の木が40本、目通り4mのケヤキの木が1本あり、神社境内の景観を守るため、町の天然記念物に指定されている。

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吾妻郡東吾妻町原町の大宮巌鼓(いわづつみ)神社。

大宮巌鼓神社 (1)
大宮巌鼓神社 (2)
大宮巌鼓神社 (3)
大宮巌鼓神社の創建は不詳だが、日本武尊が東征のおり当地の吾妻姫との間に大若宮彦という子をなし、その大若宮彦(大宮や巌鼓尊と呼ばれた)を祀ったのが大宮巌鼓神社だという。

また、他説では、吾妻太郎行盛が武蔵国氷川明神を分祀したのが始まりともいわれる。さいたま市(旧大宮市)の氷川神社のこと。そのため大宮という。
(吾妻太郎は「吾妻太郎行盛の墓 -長福寺-」参照)

大宮巌鼓神社 (4)
大宮巌鼓神社 (5)
大宮巌鼓神社 (6)
拝殿は入母屋造りで威厳を感じる造り。本殿は春日造り。

大宮巌鼓神社 (7)
大宮巌鼓神社 (8)
大宮巌鼓神社 (9)
境内社の神明宮は、昭和50年(1975年)に伊勢神宮の古殿材を使用して創建された。その旨を記した記念碑があった。

先に大若宮彦(大宮や巌鼓尊と呼ばれた)を祀ったのが大宮巌鼓神社との説を書いたが、ご祭神を調べると大若宮彦は祀られていない。ちなみにご祭神は日本武尊、弟橘姫命、素戔嗚尊、保食命。

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吾妻郡高山村中山のぐんま天文台。

ぐんま天文台 (1)
ぐんま天文台は平成5年(1993年)に群馬県の人口が200万人に達したこと、及び平成6年(1994年)に日本初の女性宇宙飛行士・向井千秋(館林市出身)が宇宙に飛び立ったことなどを記念して天文台建設が計画され、平成11年(1999年)にオープンした。

ぐんま天文台 (2)
ぐんま天文台 (3)
屋上に設置された口径30cmの望遠鏡を太陽に向け、その光を展示室の直径約1mの投影板に映している。(上の写真の円柱の台)ゴミのようにも見えるが、太陽の黒点がはっきり見える。また、プロミネンスも見ることができる。(当然のことながら、晴れている昼間しか見られない)

ぐんま天文台 (4)
150cmの反射望遠鏡。この望遠鏡は、目で直接覗くことができるものとしては世界最大クラス。係員の方が構造とか理屈を非常に丁寧に説明してくれた。ちょっと難しい。子ども心に戻って、星を見たくなった。

ぐんま天文台 (5)
大きくて全体写真がうまく撮れなかったので、ぐんま天文台HPから写真を拝借。

ぐんま天文台 (6)
65cm反射望遠鏡。150cm反射望遠鏡に比べ鏡が小さいため集光力は劣るが、視野は広いという利点がある。

ぐんま天文台 (7)
小惑星探査機「はやぶさ」の回収カプセルのレプリカ(実物大モデル)。これは株式会社IHIエアロスペース社が群馬県に寄贈してくれたもの。

ぐんま天文台 (8)
ぐんま天文台 (9)
天文台本館前広場には、英国の古代遺跡ストーンヘンジに似たストーンサークルと18世紀のインドの天体観測施設ジャンタル・マンタルが再現されており、実際に太陽や月・星の動きを観察できる。

その名の通り天文台なので、天体観望や天体観察会などの実際の観測体験を行うことが主眼のため、オレのように施設見学だけで行くよりは、やっぱり月や星の観測体験も兼ねて行くべきだ。

実は小学生高学年だったか中学生の頃、本気で天体望遠鏡を買おうかと思ったこともあるくらい、天文って好きだったんだよね。(諸般の事情で買わなかったけど。買えなかったかな)その頃に、こんな立派な天文台があったら違っていたかもね。

ぐんま天文台 (10)
ところで、天文台へは駐車場から約600m(標高差60m)の遊歩道という名の階段(522段!)を登って行かなくてはならない。10~15分程度だけど、けっこう大変。ただ、標高も高いし山の上なので、風が涼しく助かった。

ぐんま天文台 (11)
さらにはクマの目撃情報もあるようで、熊に出会ってしまった時の注意事項が書いてあった。遊歩道入り口には、クマよけの鈴も置いてあった。

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吾妻郡高山村中山の田んぼアート。

田んぼアート
高山村では平成21年(2009年)から田んぼアートを始めている。今年の図柄は「ぐんまちゃん」と「くまモン」。

最初はその年の干支+アルファだったらしいが、昨年(2014年)に突如「ぐんまちゃん」と「ふなっしー」というゆるキャラ路線に変更。今年もその流れのようだ。

過去の田んぼアートは高山村HPで見ることができるが、最初の頃に比べると、格段にクオリティーが向上している。(過去の田んぼアートの写真:高山村観光案内ページ

道の駅・中山盆地
田んぼアートの写真は道の駅・中山盆地から撮ったもの。「中山盆地」は昨年(平成26年:2014年)3月から共用が開始されたばかりの道の駅。

昨年の秋に中山盆地に寄ったときは、既に稲刈り終了後でアートを見られなかった(というか、見に行ったわけでもないが・・・)。その時買った梅干しがおいしくて。今回もまた買ってきた。併せて桃とぶどうも。

実は、この道の駅・中山盆地前(というか田んぼアート脇)の道は、とあるゴルフ場への行き帰りに毎回通っている道。でも、田んぼアートをやってるなんて、まったく気が付かなかった。まあ、田んぼアートは横から見ても、なんだか分かんないだろうけど。

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吾妻郡東吾妻町新巻の長徳寺。

長徳寺 (1)
長徳寺の創建は寛永年間(1624~44年)と伝わる。

長徳寺 (2)
本堂は茅葺で趣きがある。最近ではめっきり見なくなった。境内の植木類は良く手入れが行き届いている。

ところで、ここの住職さんは著書も多数あり、更には各地で講演活動をしているようだ。その講演の様子をネットで見たら、自分は日本一野暮ったい寺に住んでいると言ってた(笑)。

開いている戸は閉まらない、閉まっている戸は開かない、本堂を歩いていると自分が斜めになっているような気がすると、本堂の古さで笑いを取っていた。

本堂の建築年は分からなかったが、100年以上経ってるかな。

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吾妻郡中之条町伊勢町のツインプラザ。

中之条町ツインプラザ (1)
中之条町ツインプラザ (2)
中之条町ツインプラザは、様々な文化活動に対応した交流拠点としての学習センターと、幅広い分野の本を所蔵した図書館を併設した生涯学習施設。平成12年(2000年)4月のオープン。敷地面積は約1万4000平方m、延べ床面積6000平方mの広さ。

田舎町には似つかわしくない立派な施設である。なんで、中之条町にこんな立派な施設があるかというと、この人の存在なくしては語れない。

中之条町ツインプラザ (3)
中之条町出身の小渕恵三元首相。
昨年、いろいろ世間を騒がせた小渕優子衆議院議員の父親である。そう言えば、調査して報告すると言っていたカネの問題はどうした?? このまましらばっくれるつもりか??

話を恵三元首相に戻すと、昭和37年(1962年)の初当選以来、連続12期当選。平成10年(1998年)から平成12年(2000年)には首相を務めた。首相在任中に脳梗塞で倒れ、そのまま退陣。さらには1ヶ月後、意識が回復することなく死亡した。62歳、若すぎる死であった。

小渕元首相が脳梗塞に倒れたのが4月2日、亡くなったのが5月14日。ツインプラザのオープンは4月15日。小渕元首相の遺産のようなもんだね。

ツインプラザの銅像は平成14年(2002年)5月に建立されている。

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吾妻郡東吾妻町大戸の華庭山大運寺。

大運寺 (1)
大運寺 (2)
大運寺は興国年間(1340~46年)に宝誉上人の開山。

大運寺 (3)
大運寺 (4)
当時、上州の三大尽のひとりと言われた富豪・加部安左衛門(7代目)の寄進により大運寺は荘厳な堂宇となった。

本堂は平成2年(1990年)に火災により焼失、現在の本堂は平成6年(1994年)の再建。

大運寺 (5)
大運寺 (6)
大運寺 (7)
大運寺の境内は加部家屋敷跡の一部である。屋敷跡の遺構としては石垣が見られる程度だが、頌徳碑が建っている。

大運寺 (8)
加部家の墓。さすがに立派である。

加部家の初代は戦国の頃、まだ武士だったようだ。4代目の時代に大戸の関所が設置され、関守になっている(他三家)。

7代目(大運寺に多くの寄進をした)が、農業の他に酒造業や麻の売買などにより、多くの財をなしている。8代目は事業をさらに大きくした。また天明の浅間山の大噴火に際し、吾妻川流域の村への援助を行っている。その後、商売が傾いた時期もあるが、13代目が明治7年(1874年)まで続けていた。現在ご子孫は東京在住。

ちなみに、上州三大尽のもう2名は、佐羽吉右衛門(桐生)と鈴木重兵衛(甘楽)である。

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吾妻町東吾妻町の川戸神社。

川戸神社 (1)
川戸神社は貞治年間(1362~67年)の創建と伝わる。当時は首宮大明神といった。吾妻太郎行盛の首級を祀っているから。明治2年(1869年)に川戸神社となっている。

川戸神社 (2)
川戸神社 (3)
川戸神社 (4)
行盛は里見氏との戦いに敗れ討死しているが、川戸神社に伝わるところによると、行盛の最期は自ら首を切って相手に投げ、その首が2丁あまり先の大木の枝にとどまり霊光を放ったという。それが川戸神社の場所ということ。

川戸神社 (5)
宝物として行盛使用の甲冑や太刀等があったらしいが、慶応2年(1866年)に火災により焼失したという。

敗者や恨みを持って横死したものを手厚く祀るのは、日本の良き風習のひとつである。怨霊封じという意味合いもあるけどね。

関連
吾妻太郎行盛の墓 -長福寺-

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吾妻郡東吾妻町原町の普光山善導寺。

東吾妻町・善導寺 (1)
善導寺は貞治年間(1362~68年)に岩櫃城主斎藤氏家老・秋間備前守が創建したといわれる。岩櫃城廃城後に現在地に移っている。

東吾妻町・善導寺 (2)
東吾妻町・善導寺 (3)
東吾妻町・善導寺 (4)
本堂は平成元年(1989年)の再建。

善導寺は吾妻太郎行盛の子・斎藤憲行(秋間斎藤氏の養子になった)の5代末裔・斎藤憲広(岩櫃城主)の怨念により、本堂の工事が仕上がるたびに火災に見舞われたという。

それは岩櫃城が武田信玄、真田幸隆などに攻められた際、善導寺の住職が岩櫃城に秘密の水源があることを武田方に話してしまい、それを断たれたことが原因で岩櫃城は落城したから。

住職は脅されて話したのだが、憲広は善導寺が裏切ったと思い、以後上記のように火災が発生するようになった(善導寺の怪火)。永禄年間(1558~70年)、慶長4年(1599年)、寛文3年(1663年)、享和3年(1803年)、天保8年(1837年)、明治35年(1902年)に火災で焼失している。

現在の本堂は平成元年(1989年)の新築。87年ぶりに本堂が再建された。現在は斎藤氏を祀る斎藤堂(小祠)があるので大丈夫!?

東吾妻町・善導寺 (5)
東吾妻町・善導寺 (6)
参道を歩いて行くと、吾妻線の踏切がある。踏切を超えると、今度は国道145号のバイパスが頭上を通っている。

参道を公共交通が横切ってしまったのも、斎藤憲広の呪いか(笑)。

*長福寺の記事でも書いたが、吾妻氏の系譜には諸説あり、斎藤氏の岩櫃城最後の城主説に関しても資料により違っていたりする。オレは斎藤憲広としたが、斎藤基国という名で書かれているものもあることを付記しておく。 (「吾妻太郎行盛の墓 -長福寺-」参照)

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吾妻郡東吾妻町原町の密教山顕徳寺。

顕徳寺 (1)
顕徳寺は元和2年(1616年)に真田家家臣・出浦対馬守が潜龍院を移築して開基したといわれる。

顕徳寺 (2)
顕徳寺 (3)
天正10年に武田勝頼が織田、徳川、北条に攻められ、さらに身内からも裏切り者が続出した際、真田昌幸が勝頼を岩櫃城に迎え入れるために岩櫃城搦手付近に御殿を建てた。

結果的に勝頼は小山田信茂の進言もあり岩殿山城を目指したが、信茂は元々裏切るつもりだったため、勝頼は追い詰められ天目山にて自刃して果てた。迎えるべき主を失った御殿は、昌幸配下の祢津潜竜斎昌月なる者がもらい受け、潜龍院という山伏修験寺となった。

前置きが長くなったが、その潜龍院が元和2年に移築され顕徳寺となったが、本堂は移築時のものだと伝えられている。但し、移築後顕徳寺は焼失し再建されているとか、潜龍院自体が焼失しており、建物は移築されていないとか、諸説あるらしい。

ちなみに、潜龍院跡(つまり勝頼御殿跡)には石垣などが残っており、面積もかなり広いらしい。

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吾妻郡高山村尻高の名久多教会。

名久多教会 (1)
名久多教会 (2)
名久多教会は、日本基督教団関東教区群馬地区の教会。教会建物は、明治20年(1887年)に信者22名により建築された県内に現存する教会中、最も古い洋風建築物である。建築費用、資材なども信者の寄付で賄われている。

名久多教会 (3)
昭和46年(1971年)に復元工事、平成5年~6年(1993~94年)に屋根と内部全体の改修工事が行われている。この両工事も信者によって行われたという。

宗教には思いっきり疎いが、けっこう田舎(失礼)だけど明治初期からキリスト教を信仰していた方がいたんだね。しかも、奉仕の精神で教会建屋まで造ってしまうとは。

当然のことながら現在も現役の教会である。

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吾妻郡高山村中山の三国街道中山宿の本陣跡。

中山宿 (1)
中山宿 (2)
中山宿は本宿と新田宿に分かれ、交代制で業務を営んでいた。これは新田宿本陣跡。

新田宿の本陣は文政年間(1818~30年)に焼失しだが、平形家が問屋であったこともあり、長岡藩主をはじめ三国街道筋の荷主飛脚問屋、その宰領の寄進によって、本陣として復興された。

写真の門屋と母屋の間には殿様が泊まった棟があり、上段の間、違い棚の床の間、畳敷きで木戸の無い風呂場、近臣が控えた次の間、宿札などが当時のまま保存されているという。

中山宿 (3)
中山宿 (4)
本宿の本陣は大正12年(1923年)に火災で焼失し、街道に面した門構のみが残っている。

三国街道は五街道に次ぐ要路として慶長17年(1612年)に整備された。それは天領(直轄地)である佐渡金山の重要性を示している。越後からは金を始めとし、米や海産物が多く輸送されたが、江戸からは「佐渡送り」と呼ばれた金山で労役につく犯罪人や無宿人も多数連行されている。

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吾妻郡高山村尻高の熊野山福蔵寺。

福蔵寺 (1)
福蔵寺 (2)
福蔵寺 (3)
福蔵寺は永保元年(1081年)、修験者・熊野坊によって創建された。応永10年(1403年)には、白井長尾氏の一族である尻高氏が福蔵寺を祈願所としている。

福蔵寺 (4)
江戸時代の化政年間(1804~29年)、福蔵寺第16世法印廣順の夢枕に聖観音が現れ「信州別所北向観音を勧請せよ。厄災消除、寿命長久諸願成就の利益を與えん為なり」と告げたと言う。

北向観音は、厄除・家内安全・無事故交通安全・商売繁盛・諸願成就などの祈願に参拝者も多い。

福蔵寺 (5)
よく見たら七福神のようだ。通常情のものとはだいぶイメージが違うが。

ところで、肝心の北向観音の写真を撮ってくるのを忘れた。また吾妻方面に行く機会があったら、ということで。

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吾妻郡中之条町横尾の桃瀬の水牢跡。

桃瀬の水牢跡 (1)
水牢は人を水の中に入れる水責めの一種で、おもに年貢の取立てに使われたといわれる。

水牢は吾妻郡の東部(東吾妻町や中之条町)にのみ残っている。きちんとした資料はないみたいだが、岩櫃城主の斉藤氏が行っていたのを、その後吾妻郡東部を勢力圏に入れた、真田氏も引き継いだようだ。

桃瀬の水牢跡 (2)
桃瀬の水牢跡 (3)
水牢は8ヶ所残っているようだが、ここが1番原型を残しているという。以前、池の薬師の水牢跡(東吾妻町)に行ったことがある。
(「澄んだ水とは裏腹に・・・ -水牢跡-」参照)

「天下の義人 茂左衛門」で有名な杉木茂左衛門の直訴などにより真田沼田藩は真田信利の時に改易になった。茂左衛門資料館(?)でも、信利の悪行が紹介されている。
(「天下の義人 茂左衛門」参照)

で、オレも信利ってしょうもないヤツだなぁ~って思ってるんだけど、水牢が残っているのは吾妻郡東部のみ。利根・沼田方面には残ってない。また、資料の裏付けもない。ということで、一部には岩櫃城主・斎藤氏の時代にのみ行われていたという説もあるらしい。

まあ、よく分かんないけど、農民やその家族が入れられていたことは事実だと思うので、やっぱり悪領主が出てきちゃうと悲惨だよね。

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吾妻郡中之条町日影の岩景山龍沢寺。

龍沢寺 (1)
龍沢寺 (2)
龍沢寺 (3)
龍沢寺は天養元年(1144年)、妙全尼の創建と伝わる。その後、永禄年間(1558~70年)に戦火で焼失したが、文禄3年(1594年)に再建されている。

龍沢寺 (4)
龍沢寺 (5)
石段脇にある妙全杉。樹齢850余年、樹高38m、幹囲約6mの大杉。

妙全尼は村人の尊敬と親愛の念を一身に集めており、遠方の集落にもお勤めに出る機会が多かったという。そのため、常に杖をついていたといい、お勤め帰りに石段の下にその杉の杖を逆さに挿しておいたところ、そのまま根づいて成長したものと伝えられている。

龍沢寺 (6)
本堂前にあったカエル像。これは特定読者へのサービスショット(笑)。

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吾妻郡長野原町長野原の大洞山雲林寺。

雲林寺 (1)
雲林寺 (2)
雲林寺は弘長3年(1263年)龍幡和尚の創建。

雲林寺 (3)
雲林寺 (4)
その後、火災により焼失したため、永禄2年(1559年)海野幸光が開基となり、現在地に伽藍を再建した。

雲林寺 (5)
天明3年(1783年)の浅間山大噴火の供養石地蔵。長野原地域の被害も甚大で、雲林寺も溶岩泥流に流されている。雲林寺は、地域の有志の手によって文化10年(1813年)に再建されている。

雲林寺 (6)
この青面金剛塔は平成16年(2004年)に発見されたもの。浅間山の泥流に流されて来たものと考えられている。塔の右側面には明和5年(1768年)の銘がある。どこに建立されていたか不明であるため、雲林参道に置かれている。

雲林寺では、毎年8月5日に天明の大噴火供養祭を行っている。

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吾妻郡長野原町北軽井沢の旧草軽電鉄・北軽井沢駅舎。

来た軽井沢駅舎 (1)
来た軽井沢駅舎 (2)
北軽井沢駅は大正7年(1918年)、草津軽便鉄道の地蔵川駅として開業。その後、別荘地組合から駅舎が改築・寄贈され、昭和2年(1924年)に北軽井沢駅と改称された。

来た軽井沢駅舎 (3)
来た軽井沢駅舎 (5)
昭和24年(1949年)~昭和34年(1959年)にかけての台風被害で橋梁の流出、沿線各所への被害が相次ぎ、昭和35年(1960年)に新軽井沢-上州三原間廃止に伴い廃駅となった。

ちなみに、草軽電鉄は軽井沢と草津温泉を結ぶ鉄道交通だったが、上記のような部分廃線を経て、昭和37年(1962年)全線廃線となっている。

来た軽井沢駅舎 (6)
来た軽井沢駅舎 (7)
屋根の形が信州の善光寺をモデルにした駅舎となっている。また、欄間には法政大学の「H」があしらわれている。

なんで法政大かと言うと、付近の別荘地開発に当時の学長が大きく関わっているから。松室致学長は、教職員と学生を中心とした理想的な教育と共同生活の場「法政大学村」をつくろうと思い立ち、開発を推進している。

駅舎を別荘地組合が寄贈したと書いたが、それは法政大学村のことである。現在は「社団法人・北軽井沢大学村組合」、通称「大学村」。

来た軽井沢駅舎 (8)
デキ12形電気機関車(木製)が実物大のモニュメントとして展示されている。パンタグラフが高く、カブトムシが角を突きだしているように見えることから、「カブトムシ」の愛称で、草軽電鉄の当時の利用者だけでなく、鉄道ファンにも広く親しまれた電気機関車(らしい)。

平成17年(2005年)に改修されてはいるが、基本的に建築当時(昭和2年:1924年)のままである。

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吾妻郡長野原町北軽井沢の浅間大滝と魚止めの滝。

浅間大滝 (1)
浅間大滝 (2)
浅間大滝は落差約10mで、北軽井沢最大の滝である。豊富な水流をもち、周囲を木々で囲まれた自然と調和した滝。

浅間大滝 (3)
この橋を渡ると滝壺付近まで行ける。橋自体は頑丈でないらしく、2人づつ渡ってくださいとあった。

浅間大滝 (4)
滝下流の沢の感じもいい。
浅間大滝に行く遊歩道は平坦で、気軽に行ける。

魚止めの滝 (1)
魚止めの滝 (2)
魚止めの滝は、浅間大滝の下流5分ほどの場所にある。「魚が登りきれないほど激しい滝」という名前の通り、3段に落ちる迫力ある滝である。

夏なら滝すべりも可能? (いい加減なことを書くとまずいので、滝すべりは危険です!)

遊歩道は浅間大滝に行くほど平坦ではない。特に最後の階段の急なこと。特殊装備が必要というわけではないが、体力とよく相談した方がいい。それと、ハイヒールはやめた方がいいね。

浅間大滝も魚止めの滝も、濡れても良ければかなり滝に近づける。もちろん安全には十分注意が必要だけど。

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吾妻郡東吾妻町岩井の巖光山長福寺。

長福寺 (1)
長福寺 (2)
長福寺は弘安年間(1278~87年)に吾妻氏の菩提寺として吾妻太郎行盛を開基として創建された。元禄4年(1691年)中興開山弘鑁(弘算法印)により、現在地に移転している。

長福寺 (3)
観音堂には元禄4年の寺地移転の際に、吾妻太郎行盛の墓地から見つかった金仏一寸八分の観音像が祀られていたが、平成13年(2001年)盗難に遭ってしまった。

長福寺 (4)
吾妻太郎行盛の墓と伝えられる五輪塔(中央、左は夫人、右は家老)。表面に藤原行盛、貞和五己丑年五月廿五日と刻まれている。貞和5年は西暦1349年である

吾妻太郎行盛は当時北朝方に属しており、南朝方の里見氏に攻められ、原町の立石川原で討死している。

吾妻氏は東吾妻町の岩櫃城の築城者とされている。鎌倉時代初期の吾妻太郎助亮である。しかしこの吾妻氏は助亮の子の代に滅び、下河辺行家が岩櫃城主となり吾妻氏を名乗っている。行盛はこちらの系列となる。

*吾妻氏の系譜、岩櫃城の築城者、築城時期に関しては諸説あり、上記はそのひとつである。

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吾妻郡東吾妻町箱島の箱島湧水。

箱島湧水 (1)
箱島湧水 (2)
箱島湧水 (3)
箱島湧水は、樹齢400~500年の大杉(東吾妻町天然記念物)の根元から湧き出す水。湧出量は1年間を通して1日あたり約3万トンで、榛名湖を水源にしていると考えられている。

湧出後は高さ12m、幅7mの「山雀の瀑」と呼ばれる滝となって流れ落ちている。この水は鳴沢川となり、地元の方々の飲料水、農業用水として利用されている。

箱島湧水 (4)
箱島湧水 (5)
箱島湧水 (6)
水源脇に石段を登ると箱島不動尊がある。

箱島湧水にまつわる伝説がある。原町(東吾妻町)の善導寺2世・円光上人の母(北の方)が怨敵に追われ榛名湖に入水して果てた。その後、榛名湖には大蛇が棲むという話が取りざたされ、大蛇は北の方の化身と思われるようになった。

そこで、供養のため北の方の位牌を榛名湖に沈めたところ、その位牌が箱島湧水からでてきたという。この位牌は今も箱島不動堂に納められているという。

ところで、軟水である箱島湧水はそのまま飲めるので、水を汲みに来る人が後を絶たないようだ。オレが行った日もペットボトルに水を汲んでいる人を見かけた。

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吾妻郡草津町南本町の伊勢宇橋の碑。
「泣き燈籠」の隣にある。

伊勢宇橋の碑
天保年間(1830~43年)、江戸浅草花川戸の伊勢屋宇平衛という常陸の国出身の商人が、長年の病が草津温泉での湯治で全快したことに感謝し、草津への道筋の90箇所もの沢に橋を架けた。

これに対し、草津宿が橋のたもとに「伊勢宇橋碑」を建てたという。

170年経った現在、橋と碑が全存するのは、わずか3基になっている。

草津温泉には様々な碑がある。以前、その碑巡りをした時の記事。
 草津温泉の碑
 草津温泉の碑 その2
 草津温泉の碑 その3

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吾妻郡草津町南本町の泣き燈籠。
町の入り口、運動茶屋公園内にある。

泣き燈籠 (1)
泣き燈籠 (2)
万延元年(1860年)新田郡阿久津村の白石栄左衛門という人が、宿病全快の記念と草津温泉への感謝の気持ちから寄進したもの。

当時の湯治客は長期間滞在するため、湯治客の間で親交を持ち、帰郷の際、宿の女中や湯治客がこの燈籠まで見送り、別れを惜しんだことから「泣き燈籠」と呼ばれるようになった。

実は以前草津の行った時、この「泣き燈籠」がどうしても見つからなかったんだよね。道の駅・運動茶屋公園内にあるという情報は持っていたんだけど。

運動茶屋公園は国道292号を挟んで両側に広がってるんだけど、逆側しか探してなかったから。今回、草津白根山からの帰りに、ちらっと燈籠が見えたので行ってみたらあったということ。

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吾妻郡中之条町の日本国道最高地点。

国道最高地点 (1)
国道292号を草津温泉街を抜け、白根山(湯釜)を横目にさらに長野県境(渋峠)へ向かうと、「日本国道最高地点」の石碑が建っている。標高は2172mで、日本全国の国道でも最も標高が高い地点である。

国道最高地点 (2)
草津白根山の火口湖・湯釜の外壁の反対側(裏側)。

国道最高地点 (3)
崖下には高層湿原・芳ヶ平が広がる。芳ヶ平は、白根山の北から横手山南東方向に広がり、標高1830mにある湿原。 芳ヶ平には約300種類の植物が自生している。荒涼とした白根山(湯釜)とは対照的に、緑あふれる高原である。

国道最高地点 (4)
この辺りの国道292号線は、11月下旬から冬季は豪雪のため閉鎖される。開通はだいたい4月下旬からゴールデンウイークあたり。よくニュース映像に開通式の映像と、雪の回廊が映し出される。(写真はWikipediaから)

この最高地点からちょっと行った群馬-長野県境上にホテル(ヒュッテ)があり、「日本国道最高地点到達証明書」を売っているとのこと。帰って来てから知った。

証明書を買うかは別にして、ホテルの外観で県境を示しているとかいうので、せっかくここまで行ったので、寄って来ればよかった。ちょっと後悔・・・。

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吾妻郡草津町の草津白根山・湯釜(ゆがま)。

白根山は那須火山帯に属する標高2160mの活火山。近隣の逢ノ峰と本白根山を含めた三山の総称とすることもあり、この場合は標高2171mの本白根山が最高峰となる。

白根山・湯釜 (1)
草湯の温泉街から車で20分ほど登っていくと、白根レストハウスがある。ここから湯釜へ歩いて登って行く。

湯釜立ち入り規制
白根山・湯釜 (2)
火山活動は現在「噴火警戒レベル1(平常な状態)」を保っているが、第1次規制(湯釜より半径500m以内立入禁止)は継続実施中。そのため、中央の登山道から展望台へは行けず、上の図の左側緑部の展望所へ向かう。

白根山・湯釜 (3)
白根山・湯釜 (4)
紹介サイトなどでは、湯釜まで「緩やかな登りで20分」とあるが、これがけっこうきつい。石を敷いた登山道は歩きにくい。それに言うほど緩やかではない!緩やかどころか急坂だ! (緩やかって、中央登山道のことだったのかな?)

白根山・湯釜 (5)
白根山・湯釜 (6)
白根山・湯釜 (7)
ぜいぜい言いながら山頂部へ。エメラルドグリーンの湯釜が目の前に。おぉ~っ!! ちょっと興奮。登山道を頑張って登った者だけが味わえる感動、といった感じかな。

湯釜は白根山頂にある火口湖で、直径300m、水深30m。白い岩肌の火口壁にエメラルドグリーンの湖水をたたえる姿は神秘的である。

pHが1.0前後であり、世界でも有数の酸性度が高い湖。これは火山ガスに含まれる塩化水素や二酸化硫黄が水に溶け込み、塩酸や硫酸となったためと考えられている。

湖水がエメラルドグリーンに見えるのは、水に溶け込んでいる鉄イオンや硫黄などの影響で、特定の波長の光が吸収されるから。

白根山・湯釜 (8)
国道292号(志賀草津道路)の反対側にある弓池。白根山の火口湖のひとつだが、豊かな緑に覆われた湿原になっており、木製の遊歩道が整備されている(1周約20分)。

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吾妻郡高山村大字中山の中山三島神社。

三嶋神社 (1)

三嶋神社 (2)
三島神社の創建は宝亀2年(771年)と伝えられる。後の元亀元年(1570年)、当地を治めていた真田氏が再建した。

三嶋神社 (3)
三嶋神社 (4)
三嶋神社 (5)
参道の杉並木は27本あり、うちの1本は藤原秀郷(俵藤太)が戦勝祈願に植えたものだという。樹齢は推定1000年。他の杉は真田氏が神社再建のおり、やはり戦勝祈願に植えたという。

三嶋神社 (6)
三嶋神社 (7)
三嶋神社 (8)
鬱蒼と林立する杉並木を過ぎ石段を登ると、神社社殿が見えてくる。

杉はいずれもすばらしく、昭和48年(1973年)に伐採された切り株から、年輪400余年が確認されている。つまり、真田氏が植えたというのは間違いないようだ。

ただ、この27本の中に樹齢1000年の杉があるかは、分かってないんじゃないかな、と個人的には思う。本当の樹齢は切って年輪を調べるしかないからね。

ただ、個人的にはこういう伝承は大好きである。

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吾妻郡高山村大字中山の中山敷石住居跡。

中山敷石住居跡 (1)
昭和47年(1972年)農作業中に、平らな石を敷き並べた跡が見つかり、発掘調査の結果、4000年ほど前の縄文時代の住居が1棟、完全な形で発見された。

中山敷石住居跡 (2)
円形の住居部分と長方形に細長く張り出す出入り口からできている。住居の床に敷いた平らな石のすき間には、小さな石を入れている。中央には石組の炉があり、張出部は住居より一段高くなっている。

住居から廊下状に平坦な石が2石あり、張出部には板石を立てて囲っており、内側にも石が敷かれている。

この辺一体には、さらに多くの住居跡が畑の下に眠っていると考えられている。

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