上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 吾妻郡


吾妻郡高山村中山の田んぼアート。

田んぼアート2023 (1)
田んぼアート2023 (2)
今年は「うさぎ」。今年の干支・卯年にちなんだもの。

月に向かって飛び跳ねるようなうさぎ。それを考えると左側の丸い三色のものは、お月見の団子かなと思ったら違うらしい。高山村から見ることができる「三並山(みなみやま)」と呼ばれる「小野子山」「中ノ岳」「十二ヶ岳」の連山とのこと。

高山村の「田んぼアート」も平成21年(2009年)から始まり、早14年目を迎えた。平成27年(2015年)ころから毎年見に行っている。最初に見たのは「ぐんまちゃん」と「くまモン」だったと記憶している。

すっかり高山村の観光資源として定着したね。図案作成、古代米の準備、田植え、手入れ、そして最後の稲刈りなど大変だと思うが、是非続けて行って欲しい。


吾妻郡高山村中山の塩原太助・馬つなぎの松。

塩原太助・馬つなぎの松 (1)
県道36号線から赤根峠や金比羅峠に向かう旧道に入り、しばらく進むと写真の標柱が目に入る。「高山村指定天然記念物 塩原太助馬つなぎの松」。昭和63年(1988年)の設置。

ここは赤根峠方面と金比羅峠方面への分岐点。ところがどちらに行けばいいのか、その先への案内標識がない。この日は事前調査不十分だったので、どっちに行けば良いか分からず。

塩原太助・馬つなぎの松 (2)
正解は金比羅峠方面へ進む(実は赤根峠方面に行き、何もなく戻ってきた)。こっちの方が道が狭いので、入るには多少の勇気がいる。高山村教育委員会さん、案内標識を設置して。

塩原太助・馬つなぎの松 (3)
不安の中進んでいくと、解説板が見えてきた。

塩原太助・馬つなぎの松 (4)
塩原太助が江戸を目指して出立する際、愛馬「あお」をこの松につなぎ別れたと伝わる。

実際の馬つなぎの松は平成18年(2006年)に老木ゆえに枯れてしまい、現在の松は2代目となる。初代は樹齢約300年、目通り2.5mであった。幹の一部は「いぶき会館」に展示されているらしい。

塩原太助とあお
この写真はみなかみ町(旧新治村)新巻の塩原太助翁記念公園にある愛馬「あお」との分かれシーンの銅像。

実は太助が「あお」と別れた場所(「あお」をつないだ松)は複数箇所ある。そのうちのひとつが今回の高山村中山の金比羅峠付近。他は生家近くの「香才ヶ原」(みなかみ町師田)と旧白沢村(現沼田市白沢町)の上古語父。

塩原太助が「あお」を連れ家を出て、途中で松につなぎ別れたとされるのは伝承の域を出ない(真偽不明)。三遊亭円朝の「塩原多助一代記」(後に歌舞伎・浪曲・講談などにもなっている)が元ネタみたいだ。

「太助」を「多助」とすることで、フィクションだと言っているのだと思う。とは言え、事実と創作が入り交じっているので区別がつかなくなるんだよね。


吾妻郡高山村中山の福守石。

福守権現・福守石 (1)
福守権現・福守石 (2)
福守石は高さ80cm、太さ径30cmの男根に似た陽物石である。陽物とは男根の別称。鳥居が建っていることから、福守石をご神体とした福守神社(権現)として祀っているようだ。

福守権現・福守石 (3)
昔から「まらいし(摩羅石)さま」と言われており、子孫繁栄・子宝祈願のお守りとしてその破片を持ち帰る人も多かったと言う。

元々は現在の赤根トンネル(県道36号線)入口付近にあったが、トンネル工事のため平成7年(1995年)に現在地へ遷されている。


吾妻郡高山村中山の牛の糞岩。

牛の糞岩 (1)
牛の糞岩とは、その見た目が「牛のフン」に似ていることから名付けられている。江戸時代中ころに書かれた書物「加沢記」には、赤根(地区名)のことを「牛の糞」と書かれており、当時は地区名が「牛の糞」と呼ばれていたようだ。

牛の糞岩 (2)
岩自体は往古の赤城山・榛名山の噴火により噴出された溶岩・岩石が、長い年月をかけ、このような形になったもの。同様の形をした岩が複数個並んでいる。

牛の糞岩 (3)
昔はここから清水が湧いており、「三国街道一の清水」と言われるほどの名水であったという。別名「三石の名水」と言われる。確か、牛の糞の形の岩が3つあったと思うので、そこから「三石」なのかな。現在、清水は枯れている。

この名水にはこんな逸話が残っている。参勤交代などで三国街道を往来していた長岡藩主・牧野忠雅は、ここを通るたびに休憩し清水を賞味した。忠雅が死の間際「死ぬ前にもう一度、三石の水が飲みたい」と所望したが、家臣は臨終に間に合うように途中の水を汲んできた。

その水を飲んだ忠雅は三石の水とは違うと見抜き、家臣は急いで汲み直して戻ってきたが忠雅は既に帰らぬ人となっていた。その家臣は責任を感じ、自害したという。

ちなみに、忠雅は天保2年(1831年)に家督を継ぎ、安政5年(1858年)に死去している。生前は幕府の老中も務めている。


吾妻郡高山村中山の万葉歌碑。

高山村・万葉歌碑 (1)
万葉歌碑は昭和9年(1934年)に陸軍特別大演習が群馬県で行われた際、聖駕奉迎記念として村民の奉仕作業により建立されている。

高山村・万葉歌碑 (2)
「安可見夜麻 久左袮可利曽気 安波須賀倍 安良蘇布伊毛之 安夜爾可奈之毛」
(あかみやま くさねかりそけ あわすかへ あらそふいもし あやにかなしも)

現代語で記すと「赤見山 草ね刈りそけ 逢はすがへ 争ふ妹し あやに愛しも」

万葉集「第十四」の東歌のうち、相聞歌に入る。歌に詠まれている「赤見山」は、みなかみ町(旧月夜野町)との境付近の「赤根山」と解釈されている。そのため、高山村を詠んだ歌として選定された。

高山村とみなかみ町を結ぶ県道36号線のトンネルは「赤根トンネル」と言い、旧道は「赤根峠」を越えて行く。

高山村・万葉歌碑 (3)
赤根峠へ向かう旧道に入り、途中で金比羅峠方面に進んだ場所に「萬葉集赤見山旧蹟」と刻まれた碑が建っている(実際の碑文の旧は旧字体)。この碑も「赤見山」の万葉歌が当地のことを詠んでいるとして、赤根山に建てられた碑だと思う。

建立年の確認はできなかったが、碑文や揮毫者の肩書きなどに旧字体が使われていることから、先の碑と同年代の建立かな。


吾妻郡高山村中山の中山城跡。

中山城址 (1)
中山城は天正10年(1582年)北条氏の築城とされる。北条氏は本能寺の変後の神流川の合戦に勝利し、上野国の主要部分を抑えることに成功。真田氏の岩櫃城と沼田城の中間にあたる当地に城を築き、真田攻めの拠点としたとされる。天正18年(1590年)北条氏滅亡により廃城となっている。

国道145号沿いに城跡の碑と解説板がある。

中山城址 (2)
中山城址 (3)
城跡の碑のすぐ後ろ(北側)の山あい一帯が城跡になる。

その構造は本丸を北・西・南の三方から囲むような形で二の丸を設置し、さらに二の丸を囲むように三の丸が造られている。これに付随し、多くの曲輪が配置された要害堅固な城郭となっている。

中山城址 (4)
中山城址 (5)
現在はその大部分が畑や藪林となっており、本丸跡のみが多少整備されている。

夏ということもあり草は伸び放題。本来ならこういう城跡訪問は夏場を外すのだが、今回はちょっと他所に来たついでだったので。本丸跡へ続く道も草に覆われてしまっていた。誤解のないように言っておくが、こういう状況は夏場の一時期だけだと思う。

中山城址 (6)
本丸跡。本丸は一辺約60mの正方形に近く、二の丸との間には深い空堀で隔てられている。

中山城址 (7)
石祠が2基と五輪塔の空輪・風輪部のようなものがある(宝篋印塔の宝珠・請花のようにも見える)。向かって左側の石祠に元禄(1688~1704年)の文字が読み取れたので、廃城後も何かの祭祀場として使われていたのかもしれない。

中山城址 (8)
中山城址 (9)
中山城址 (10)
本丸と二の丸との間の土塁や空堀。空堀は相当深い。

本丸跡にしか足を運んでいないが、中山城は相当大規模な城郭である。北条氏が真田氏攻略に本気だったことが窺える。ただその後、豊臣秀吉の裁定で真田領となっていた名胡桃城をせこい手を使って奪取したことが仇となり、結果的に滅ぼされてしまう。

中山城は廃城となり、当地は逆に真田領となったことは皮肉なことである。


吾妻郡高山村中山の田んぼアート。

田んぼアート2022
今年は「しましまとらのしまじろう」。寅年にちなんでのことのようだ。ちなみに、「しまじろう」の左側にあるのは「しまじろう」の文字。1文字づつ違う色で描かれており凝っているのだが、ちょっと分かりづらい。

今年は猛暑の影響で稲の成熟が早いみたいで、見ごろは8月下旬くらいまでという。興味がある方は、お早めにどうぞ。

そばいなり
田んぼアートを見た後は、道の駅「中山盆地」で少し買い物をするのが定番。まずは昨年から買っている「かよちゃんのそばいなり」。TVで観てから買うようになったのだが、食感の良さが気に入っている。もちろん味も美味しい。

梅干し
ほぼ毎回買っている梅干し(「織姫」と「南高梅」)。梅干しは猛暑日などの熱中症対策にも有効なので。


吾妻郡中之条町市城の仏体山宗福寺。

宗福寺 (2)
宗福寺は天文年間(1532~55年)に僧・大空が清明山十王寺を創建したのが始まり。その後衰退していたが、寛永9年(1632年)に僧・大通が現在地に再建、仏体山宗福寺となる。

宗福寺 (3)
宗福寺 (4)
本堂は数度の火災に見舞われたが、明治27年(1894年)に再建されている。

宗福寺 (5)
本堂前には池などがあしらわれ、庭園っぽくなっている。

宗福寺 (6)
境内には如意輪観音などの石仏が並んでいる。

明治41年(1908年)御座右不動堂を合併。不動明王も本堂に祀られている。


吾妻郡中之条町平の北野山林昌寺。

林昌院 (1)
林昌院は慶長18年(1613年)観芝文察という僧が関小左衛門と協力し創建したといわれる。開山が観芝文察、開基が関小左衛門ということになる。

林昌院 (2)
林昌院 (3)
参道(石段)脇には石仏群や普門品供養塔などが並ぶ。

林昌院 (4)
文政13年(1831年)に堂塔楼廓門に至るまで焼失。天保9年(1839年)に檀徒の協力もあり再建。本堂には本尊の釈迦牟尼仏を祀る。大正2年(1913年)に高津観音堂と長久保薬師堂を合併。境内にお堂の類いが見えなかったので、観音菩薩、薬師如来も本堂に祀られているようだ。

林昌院 (5)
林昌院 (6)
鐘楼は大正5年(1916年)の建立。

林昌院 (7)
境内の六地蔵。平成15年(2003年)の造立。

林昌院 (8)
仏足石。足下二輪相仕様だ。

林昌院 (9)
本堂前には達磨大師の石像があった。ちなみに、達磨大師は中国禅宗の開祖とされているインドの僧。壁に向かって9年間座禅を続け、悟りを開いたという。そのため手足が腐ってしまったという伝説から、玩具としての「ダルマ」ができている。これは現在も「福ダルマ」「縁起ダルマ」として、多くの商店や家庭に飾られている。


吾妻郡中之条町大塚の大塚観音堂。
西向きに立てられているので、通称・西向観音と呼ばれる。

大塚観音堂 (1)
大塚観音堂は弘仁年間(810~24年)に榛名山大坊満行院菩提寺よりこの地に分かれ、無量山菩提寺として創建されたと伝わる。その後衰退していたが、大永年間(1521~28年)に再興されている。

詳細は不明だが、この時に観音堂のみとなったのかな。それとも、元々無量山菩提寺が観音菩薩を本尊とする寺院だったのか。

他説では、再興は江戸時代に入ってからの元禄3年(1690年)に、林権左衛門幸盛ら9名によるともされる。

大塚観音堂 (2)
観音堂の建立年は不明だが、昭和51年(1976年)に道路拡幅工事に伴い若干移動しているようだ。

大塚観音堂 (3)
大塚観音堂 (4)
堂内の観音さま。聖観音菩薩だと思う。

大塚観音堂 (5)
境内には常夜灯や石塔・石仏などが置かれている。左の常夜灯は寛政4年(1792年)の奉納。

大塚観音堂は吾妻33番観音札所の33番霊場にあたる。吾妻観音霊場は永延2年(988年)に整備されたとされる。その由来は坂東の聖地を巡礼していた花山法皇以下11名の高僧の元に熊野権現が現れ、「吾妻の人々の心は荒んでいて、このままではみな地獄へ墜ちてしまいます。私が道案内しますので、人々をお救いください」と懇願したと言う。これにより法皇らは吾妻の地を巡り、吾妻観音霊場(33ヶ所)を整備したとされる。

花山法皇(天皇の出家後の尊称)は、熊野から33ヶ所の観音霊場を十数年にわたり巡礼し、その33ヶ所は現在も「西国33所巡礼」として継承されている。永延2年は花山法皇が出家して3年目にあたり尤もらしい年代だが、さすがに法皇が坂東の吾妻まで下ってくることはないだろう。

関連
 「高山村尻高・熊野神社

吾妻郡高山村尻高の鏜々(どうどう)淵。

鏜々淵 (1)
鏜々淵 (2)
名久田川の流れがいくつかの滝となり、その下が深い淵となっている場所がある。その滝の音が「どうどう」と遠くまで響いたので「鏜々淵」と呼ばれている。現在は水量が減少し、その光景は見られないようだ。

ここには川床のくぼみに落ちた小石が川の流れで回り、長い年月をかけて穴を掘った甌穴(ポットホール)も見ることができる。大きなものは径20cm、深さ50cmもある。実際には近くまで行けなかったので見られてないけど。

甌穴は中之条町付近の四万川や渋川市村上の吾妻川でも見られる。下記参照。
 「中之条町・四万川の甌穴」 「渋川市村上・かに石甌穴

鏜々淵には「椀貸伝説」や「龍宮伝説」が残っている。

「椀貸伝説」は、人寄せで膳椀が足りないので泉照寺(現、龍泉寺)へ借りに行ったところ、住職がこの淵に立って祈りを捧げると膳椀が淵の中から現れた。用が済んで淵に返しに行くと川底へ沈んでいった。この話が広まり、どの家でも椀を借りるようになったが、ある家で椀を壊し返さないことがあってから、借りることができなくなってしまった。

「龍宮伝説」は、与五右衛門という人が鏜々淵に鉈(なた)を落としてしまった。鉈を拾おうと淵に潜ると、着物を着た女性たちが酒や料理を振る舞っくれた。宴を楽しんだ後、家へ帰ると自分の葬式が行われていた。驚く家族・知り合いに淵の話を聞かせた。後年、与五右衛門が死の間際、鏜々淵で飲んだ酒が飲みたいので、ひょうたんを浮かべてみよと言う。その通りすると、ひょうたんは沈み、酒がいっぱい入って返ってきた。与五右衛門は大変喜び、嬉しそうに酒を飲み最期を迎えたという。

似たような伝説
 「蓮池と渡月橋・世良田山長楽寺 その5
 「浦島太郎伝説・龍神宮


吾妻郡高山村尻高の「添うが森」と「添わずが森」。
高山村内を東西に流れる名久田川を挟み、南側に「添うが森」、北側に「添わずが森」が相対している。

添うが森 (1)
名久田川南の森の中に入って行くと、鳥居と石祠が見えてくる。「添うが森」と呼ばれる。

添うが森 (2)
添うが森 (3)
添うが森 (4)
「あわび姫」と呼ばれた女性とその子・小太郎の墓とされる石祠。「添うが森」と呼ばれるようになったのは次の伝承による。

平将門の乱(天慶2年:939年)鎮圧のため当地に下向していた小野俊明は「あわび姫」と呼ばれる女性を慕うようになり、そのせいで出陣の機を逸してしまった。俊明はそのことを恥じて、出家して名を熱退(袮津太江とも)と改め龍海山泉照寺(現、熊野山泉龍寺)の住職となった。

天慶7年(944年)あわび姫は一子・小太郎を伴い熱退に逢いに来たが、熱退は決して逢おうとしなかった。そしてあわび姫に歌を贈った。「美しき花に一足踏み迷ひ 出家の道にかがやきにけり」
*「かがやく」は当地の言葉で「探し求める」ことを言う

あわび姫は大いに悲しみ、小太郎とともに名久田川に身を投げてしまった。その際に一首残している。「半形となるもあわびの片思ひ 未来は深く添うが森せぬ」

村人はあわび姫母子を哀れんで亡骸を葬った。この塚を鳥見塚といい、この塚に願いをかけると必ず叶うというので「添うが森」と呼ぶようになった。

今風に言うと恋愛成就のパワースポットといったところかな。

添わずが森 (1)
「添うが森」から名久田川を挟んだ北側、国道145号脇を上って行くと石祠が見えてくる。「添わずが森」と呼ばれる。

添わずが森 (2)
添わずが森 (3)
この石祠は熱退の墓とされる。

「添わずが森」と呼ばれるのは、熱退とあわび姫の伝承の続きによる。

天延3年(975年)熱退は病に倒れ、「吾れ死なば鳥見塚の相向かいに埋めよ」と遺言し、一首の歌を残して亡くなった。「身を思へば世に名を汚す人々の 迷ひの花を散らしけるらむ」

村人は遺言に従い「鳥見塚」と名久田川を挟んだ向かいの地に葬り、「熱退の塚」と名づけた。その後、熱退の亡霊が悪縁切れない人の夢枕に立ち、「吾れを信ずれば必ず縁を切らせるであろう」と言った。そこで願をかけると縁を切ることができたので、熱退の塚を「添わずが森」と呼ぶようになったとされる。

こちらは逆に縁切り成就のパワースポットかな。


吾妻郡高山村尻高の熊野神社。

尻高熊野神社 (1)
尻高熊野神社は元弘3年(1333年)里見五郎左衛門尉の立願により、熊野三山を村々に分けて勧請(尻高村:本宮、大塚村:速玉(新宮)、赤坂村:那智)した中のひとつとされる。ちなみに、大塚村と赤坂村は現在の中之条町区域になる。

また伝承では、永延2年(988年)坂東の聖地を巡礼していた花山法皇以下11名の高僧の元に熊野権現が現れ、「吾妻の人々をお救いください」と懇願したと言う。これにより法皇らは吾妻の地を巡り、吾妻観音霊場(33ヶ所)を整備したとされる。

そして熊野権現は「永くこの地に留まって人々を護りましょう」と言われたので、村人は熊野三山を村々に勧請したという。こちらでは尻高村が新宮、大塚村が本宮、赤坂村が那智になっている。

尻高熊野神社 (2)
尻高熊野神社 (3)
尻高熊野神社 (4)
鳥居と覆屋(社殿に見えるが)の間には、石段の下から続く道路が横切っている。

尻高熊野神社 (5)
覆屋内には朱色の社(本殿)が納められている。

尻高熊野神社 (6)
脇障子には彫刻も施されている立派な本殿である。

尻高熊野神社 (7)
神楽殿だろうか。高山村の多くの神社では、現在も神楽が奉納されている。

尻高熊野神社は明治41年(1908年)に中之条町の吾妻神社(当時は和利宮)に合祀されている(旧大塚村熊野神社、旧赤坂村熊野神社も)。現在の尻高熊野神社が再分祀されたのかは分からない。


吾妻郡高山村中山の界中山法信寺。

法信寺 (1)
法信寺 (2)
法信寺は天正10年(1582年)に中山家家臣・奈良左近が僧(宝蔵坊)となり、中山古城跡に室を結んだのが始まりとされる。慶長17年(1612年)に僧・真念のとき法信寺となる。そのため真念を開山としている。

万治2年(1659年)に現在地に移ったと伝わる。

法信寺 (3)
本堂には本尊の阿弥陀如来を祀る。阿弥陀如来像は江戸の仏師・光祐法印の作で総高230cm。脇侍に観音菩薩と勢至菩薩を従える阿弥陀三尊形式。

法信寺 (4)
法信寺 (5)
鐘楼と梵鐘。

法信寺 (6)
本堂前は枯山水までは行かないが、石を配置して庭園風にしている。

法信寺 (7)
法信寺 (8)
境内の石塔、石仏など。右端の石幢には六地蔵が浮彫りされている。

本堂や鐘楼がまだ新しいので、近年境内も含め整備されたようだ。


吾妻郡高山村中山の中峰山雙松寺。

雙松寺 (1)
雙松寺は天文2年(1533年)に草庵が結ばれ、そこに雙林寺(渋川市中郷)から僧が来て仏事を執り行ったのが始まりとされる。それを天正18年(1590年)に当地の平形丹波が開基となり、雙林寺から大通観徴を招いて開山、雙松寺としている。

平形丹波は三国街道新田宿本陣の平形家の祖とも言える人物。正保2年(1646年)平形作右衛門が土地を寄進し、現在地へ移転している。

雙松寺 (2)
山門前の仁王像は平成9年(1997年)の建立。

雙松寺 (3)
聖観音は檀家の方が平成16年(2004年)に奉納している。

雙松寺 (4)
石段脇の閻魔像。隣りは風化していて像容が分からないが、奪衣婆像かな。

雙松寺 (5)
本堂は宝暦元年(1751年)の建立。当然、修築・改修はされている。

雙松寺 (6)
雙松寺 (7)
延宝元年(1673年)に鋳造された梵鐘は、先の大戦時に供出。昭和48年(1973年)に再鋳造している、併せて鐘楼も再建している。

雙松寺 (8)
雙松寺 (9)
雙松寺 (10)
丘上には天満宮が祀られている。由緒などは分からない。

雙松寺には寛保元年(1741年)平形家・6代作右衛門が寄進した一切経と、安永2年(1773年)中山神社宮司・中山喜根丸が寄進した大般若経が伝わっている。


吾妻郡高山村中山の中山神社。

中山神社 (1)
中山神社は元慶2年(878年)に美濃国(岐阜県)一宮・南宮大社を勧請したものという。上野国上名帳記載の従四位上中山明神は当社とされる。

当地と美濃国(南宮大社)の関係性は不明。しかも中山神社の主祭神は木花咲弥姫命であり、南宮大社の主祭神である金山彦神ではない。美濃国神名帳(延喜式)には仲山金山彦神社と記載されていることから、「なかやま」繋がり? かな。

元弘2年(1332年)中山城主となった中山五郎左衛門光能が社殿を修復、破敵明神と称している。中山神社との復称は明治初年である。

中山神社 (2)
中山神社 (3)
森の中へと繋がる石段を上って行く。

中山神社 (4)
中山神社 (5)
鎮守の森といった雰囲気の境内。拝殿前の灯籠は昭和12年(1937年)の奉納。

中山神社 (6)
中山神社 (7)
社殿の建立年は不明だが、昭和55年(1980年)に屋根を銅板に葺替えている。

中山神社 (8)
神楽殿。高山村のご当地かるたにも「豊作喜ぶ 太々神楽」と詠われている。

中山神社 (9)
中山神社 (10)
中山神社 (11)
境内社・末社。鴟尾付きは大己貴命宮とあったので大国社と思う。

中山神社 (12)
境内には樹齢400年以上とされる大杉が9本ある。これらの大杉は高山村の天然記念物となっている。


吾妻郡高山村中山のなぎなた坂の歌碑。

なぎなた坂 (1)
なぎなた坂の歌碑は昭和9年(1934年)の建碑。三国街道(旧道)のなぎなた坂の中腹にあったものを、現在の県道36号沿いに遷している。

なぎなた坂 (2)
記されているのは道興の「杖をだに重しといとふ山超えて 薙刀坂を手婦理(手振り)にぞゆく」。

道興は関白・近衛房嗣の子。幼少期に出家し僧侶となっている。寛正6年(1465年)に「准后」宣下を受けたことから道興准后と呼ばれる。聖護院の門跡であったことから、末寺の掌握のため文明18年(1486年)から東国を巡廻している。

その際に中山峠を通り鎌倉に向かう途中、当地で詠んだ歌である。

なぎなた坂 (3)
歌碑の隣には山神宮の石宮がある。歌碑との関連性は不明。


吾妻郡高山村中山の田んぼアート。

田んぼアート
今年は「鳳凰」と「鳳」(おおとり)の文字。

パッと見、鳳凰はちょっと分かりづらいのだが、両翼を広げ複数の長い尾をたなびかせている。手塚治虫の「火の鳥」を思わせる。特に尾の形状はよく似ている。

鳳凰は霊鳥とされ、霊力を持ち瑞祥をもたらすと言われる。昨年来のコロナ禍にあって、昨年のアマビエに続き新型コロナ終息を願ってのもの。
(「高山村『田んぼアート2020』は妖怪・アマビエ

そばいなり
道の駅・中山盆地にでは、最近のマイブーム・そばいなりを購入。これはオアシズの大久保佳代子が、ある番組で紹介していたのを観てから買うようになった。

いつも買っている梅干しは今回はパス。7月に買ったばかりなのと、友人(ゴルフ仲間のKさん)からもいただいたので。


吾妻郡高山村中山の田んぼアート。

田んぼアート2020
今年の題材は「妖怪・アマビエ」(アマビエと「祷」の文字)。

アマビエは江戸時代に肥後の国(熊本)に出現した妖怪。外見は人魚のようで、鳥に似たくちばしがある。「病がはやったら私の写し絵を人々に見せよ」と言い残し海へ消えたとの言い伝えがあることから、疫病の流行を防ぐご利益があるといわれている。

新型コロナが蔓延している現在では、タイムリーな内容だ。

アマビエ
弘化3年(1846年)のアマビエについて記した瓦版(京大付属図書館蔵)。アマビエについてはこの瓦版でしか確認されておらず、しかも熊本にそのような目撃談や伝説が残されていないことから、同類の妖怪・アマビコの誤記とする説などもある。

梅干し
田んぼアートを見た後は、道の駅「中山盆地」で梅干しを買って帰るいつものパターン。今年も「南高梅」と「織姫」の梅干しを買ってきた。


吾妻郡高山村中山の田んぼアート。

高山村田んぼアート2019
恒例の田んぼアートだが、今年の題材は「何これ?」。左は傘を持ったネズミ? 右はタヌキ? 隣で見ていた女の子(小学校低学年くらい)も「タヌキ?」と言っていたので、オレと意見が一致(苦笑)。

高山村のHPでも2019年の作品について記載なし(2018年から更新されていない)。

「傘を持ったネズミ」と言えばストリートアーティスト・バンクシーが有名だが、関連がある? 左がネズミなら右は「ネコ」なのかも。頭上に「?」がついているのも、何か意味があるのかな。

2014年から「ぐんまちゃん」が続いていたが、ライセンス契約が5年で終わったのかも。どうせなら、高山村のキャラクター「ひかるくん」「つぼみちゃん」「いぶきちゃん」にすればいいのに(「つぼみちゃん」は2018年に登場)。知名度アップになるのに。

梅干し (1)
田んぼアートを見た後は、道の駅「中山盆地」で梅干しを買って帰るのも恒例。いつのもように「織姫」と「南高梅」の梅干しを買って帰ってきた。

関連
 「高山村『田んぼアート』2018
 「高山村『田んぼアート』2017
 「『ぐんまちゃん』と『くまモン』 -高山村・田んぼアート


吾妻郡東吾妻町萩生の浅間神社。

萩生浅間神社 (1)
萩生浅間神社 (2)
萩生浅間神社 (3)
萩生浅間神社は長享2年(1488年)富士山より勧請。上野国神名帳に記載されている「従三位 浅間明神」に比定されている。

萩生浅間神社 (4)
萩生浅間神社 (5)
拝殿は権現造り。近年改築(修復)されているようだ。

萩生浅間神社 (6)
繭玉が奉納されていた。日付は昭和37年(1962年)。

萩生浅間神社 (7)
輝神征四海と記された石塔。何だろう?

萩生浅間神社 (8)
萩生浅間神社 (9)
東吾妻町の神社の多くは山麓にあり、巨樹が林立しており、鎮守の森といった雰囲気・趣きを漂わせている。

萩生浅間神社の春・秋の例祭には獅子舞と雅楽が奉納される。


吾妻郡東吾妻町須賀尾の諏訪神社。

須賀尾諏訪神社 (1)
須賀尾諏訪神社 (2)
須賀尾諏訪神社 (3)
須賀尾諏訪神社の創建は不詳。天慶2年(939年)に再建されたと伝わるので、創建はそれ以前と考えられる。また、建久4年(1193年)に源頼朝が浅間山麓での巻狩りの際に参拝したという。

須賀尾諏訪神社 (4)
須賀尾諏訪神社 (5)
社殿は享保14年の建立(その後の再建屋修築などは不明)。石敷の参道に対し社殿が少し横を向いている。

本殿は覆屋内で見えないが、三社に別れており、中央に八幡宮、右殿は諏訪神社、左殿は浅間神社となっている。これは建久4年に源頼朝が参拝した時に、鶴岡八幡宮と浅間神社を勧請し合祀したからといわれる。

須賀尾諏訪神社 (6)
神楽殿は大正6年(1917年)の建設。春秋の例祭に神楽が奉納される。

須賀尾諏訪神社 (7)
須賀尾諏訪神社 (8)
境内には杉やケヤキの古木が多く、幹周りが6m規模のものもある。

須賀尾諏訪神社 (9)
写真では分かりづらいが、剣を持った武人が線刻されている。勝手に想像するに日本武尊かな。弘化4年(1848年)の銘があった。


吾妻郡東吾妻町大柏木の佐奈神社。

佐奈神社 (1)
佐奈神社 (2)
佐奈神社の創建は不詳だが、上野国神名帳に「従五位上佐奈明神」と記載される古社である。ご祭神(主神)は建御名方神と八坂刀売神なので、諏訪大社からの勧請? ちなみに佐奈は旧字名。

佐奈神社 (3)
佐奈神社 (4)
こじんまりとした社殿。

佐奈神社 (5)
佐奈神社 (6)
神楽殿。表と裏で印象がまったく異なる。境内までの高さを利用した2階建て。

佐奈神社 (7)
佐奈神社 (8)
鎮守の森といった風情で、巨木が林立している。古来からケヤキの巨木が多く、明治23年(1890年)に枯れてしまったため伐採したケヤキは、幹周囲が30尺(約9m)以上あったと鳥居手前の碑に書いてあった。

樹齢は定かではないが、こういうケヤキの存在が佐奈神社の歴史の長さの証かな。


吾妻郡東吾妻町金井の一宮神社。

金井一宮神社 (1)
金井一宮神社 (2)
一宮神社は貞観3年(861年)に甘楽郡・抜鉾大明神(貫前神社)の分霊を勧請し、川戸村・金井村両村の鎮守として祀ったのが始まりという。

真新しい鳥居は平成28年(2016)の建立。

金井一宮神社 (3)
ご神橋を渡ると、社殿は右側にある。参道が直角に曲がっている。

金井一宮神社 (4)
金井一宮神社 (5)
金井一宮神社 (6)
徳治年間(1306~07年)に、吾妻太郎行盛が武運長久のために社殿を再建したといわれる。現在の社殿は昭和43年(1968年)の改築。

金井一宮神社 (7)
明治5年(1872年)奉納の算額。高橋富比の門人による。

金井一宮神社 (8)
3つの巨石からなる磐座。

源義家が奥州征討(後三年の役)のおり、当社で戦勝祈願をしたという。その際、宝物の剣を乞請けし、奥州平定の帰路に剣を返納するとともに、太刀・矢の根(鏃)など多数の品を奉納したといわれる。これらの品は現存しているらしい。

ところで、一宮神社の西方約1kmの川戸地区内から、奈良・平安時代の竪穴住居や掘立柱建物などが発掘されており、「吾妻郡衙」跡と推定される。また、100mくらいのところには金井廃寺遺跡がある。複数の巨大礎石が確認されていることから、古代の巨大寺院跡と推定されている。

これらのことを総合すると、一宮神社と金井廃寺は「吾妻郡衙」の中核をなした寺社だったのではないかと考えられる。そうすると、当地に上野国一宮・抜鉾大明神を勧請し、一宮神社としたのもうなずける。


吾妻郡東吾妻町五町田の三島神社。

五町田三島神社 (1)
五町田三島神社は、約500年前に伊豆国三島神社の分霊を勧請し、現在地に社殿を建立したと伝わる。昭和4年(1929年)の吾妻郡誌記載なので、西暦1400年代の創建か。

鳥居は明治31年(1898年)の建立。

五町田三島神社 (2)
五町田三島神社 (3)
社殿は明治末から大正年間の再建。

五町田三島神社 (4)
東吾妻町の神社の多くに神楽殿がある。松谷神社の記事でも書いたが、養蚕(繭の豊穣)祈願のための神楽奉納が盛んだったのではないかと思う。(「東吾妻町松谷・松谷神社」参照)

五町田三島神社 (5)
五町田三島神社 (6)
五町田三島神社 (7)
境内から奇岩が見えた。方向は渋川市の小野子・村上(旧小野上村)あたりだと思う。名のある奇岩かもと調べてみたけど分からなかった。


吾妻郡東吾妻町松谷の松谷神社。

松谷神社 (1)
松谷神社 (2)
松谷神社は元々荒魂神社で、明治40年(1907年)に地区内の諏訪神社などを合祀し松谷神社と改称している(荒魂神社の創建は調べられなかった)。

松谷神社 (3)
参道を進むと社殿は右側にある。大きな石灯籠2基は平成18年(2006年)の奉納。

松谷神社 (4)
松谷神社 (5)
松谷神社 (6)
社殿は明治40年の合祀時に改築・整備されたが、平成17年(2005年)に屋根を銅板に吹き替えている。

松谷神社 (7)
松谷神社 (8)
神楽殿は平成18年(2006年)の新築。旧神楽殿もまだ隣に残っている。

松谷神社 (9)
境内の「神楽講創立百年紀念碑」。碑の裏に「昭和58年建立」とあったので、100年前は明治16年(1883年)。神楽は武蔵国・御獄神社から伝えられている。

米のとれない山間地では、養蚕は生計を得るための重要な産業であったため、人々は神仏に繭の豊穣を祈願した。「養蚕御祈祷」「蚕守護」などの御札や繭の作柄安定を祈願する奉納神楽などが催されることになった。松谷神社(荒魂神社)は古来から養蚕祈願の参拝者が多く、特に春の例祭時は「立錐の余地なし」と吾妻郡誌は綴っている。

旧岩島村(松谷はその大字)は養蚕集落としての一面もある(他は宿場、麻の産地)。地域には屋根の上に櫓がついた養蚕農家住宅を現在も見ることができる。


吾妻郡東吾妻町川戸の浅間神社。

川戸浅間神社 (1)
川戸浅間神社は徳治2年(1307年)岩櫃城主・藤原行光の創建と伝わる。鎌倉時代後期に既に岩櫃城が築城されていたかは「?」だけど。代々真田氏の崇敬厚く、一の鳥居は延宝元年(1673年)真田信利(信直)の寄進。

川戸浅間神社 (2)
川戸浅間神社 (3)
七澤山から流れる渓流にかかるご神橋を渡ると、参道両側の杉木立が迎えてくれる。

川戸浅間神社 (4)
川戸浅間神社 (5)
二の鳥居から社殿周りにも杉の巨木が林立している。そのせいで、境内は昼間でも薄暗い。

川戸浅間神社 (6)
川戸浅間神社 (7)
口碑では吾妻太郎行盛が社殿を再建したとの伝説もあるが、当地が真田氏の領地になってから整備が進んだようだ。真田幸隆が斎藤氏を滅亡させたのは永禄8年(1565年)。

川戸浅間神社 (8)
ご神木の高野槙。

一の鳥居を寄進した真田信利は無理な検地による課税で住民を苦しめたが、その際にも川戸浅間神社の社領を安堵したという。それくらい真田氏は代々崇敬していたようだ。
(真田信利については「伝真田信利の墓・迦葉山弥勒護国寺 その2」参照)


吾妻郡東吾妻町岩井の白山神社。

岩井白山神社 (1)
岩井白山神社 (2)
岩井白山神社の創建は不詳だが、吾妻太郎行盛の子・斎藤憲行(秋間斎藤氏の養子になった)が創建したと伝わる。憲行が岩櫃城主になったのは延文2年(1357年)といわれているので、岩井白山神社の創建もそのあたりか。

岩井白山神社 (3)
岩井白山神社 (4)
岩井白山神社 (5)
明治元年(1868年)当地に遷座。社殿は昭和52年(1977年)焼失、昭和59年(1984年)氏子のみなさんの浄財により再建されている。

岩井白山神社 (6)
岩井白山神社 (7)
明治40年(1907年)に合祀された境内社群。

ところで、斎藤氏の系譜には諸説あり、越前国出身ともいわれる。藤原秀郷(俵藤太)の子孫で、越前から移り斎藤憲行が岩櫃城主になったという説。岩櫃入城は応永12年(1405年)とされる。この場合、吾妻行盛の子・斎藤憲行と越前出身の斎藤憲行は別人。

斎藤氏が越前出身だとすると、隣国の加賀国(石川県)の白山比咩神社(白山神社の総本社で加賀国一宮)の分霊を勧請したと考えると、何となくそれっぽい。


吾妻郡東吾妻町植栗の鹿島宮

鹿島宮 (1)
鹿島宮 (2)
植栗鹿島宮は元慶2年(878年)に奈良・春日大社の分霊を勧請し創建された。

鹿島宮 (3)
鹿島宮 (4)
社殿は大永3年(1524年)斎藤越前守、天正元年(1573年)植栗安芸守が造営・再建などの記録が残る。その後も元禄6年(1708年)に建替えられている。

斎藤越前守は岩櫃城主・斎藤憲実あたりか。植栗氏は吾妻氏の分家とされるが、植栗安芸守については分からない。

鹿島宮 (5)
境内の末社群。一番左の祠には寛政3年(1791年)、別の祠(写真には写ってない)には宝暦2年(1752年)の銘があった。

鹿島宮 (6)
鹿島宮 (7)
石段脇から水が出ていたが、鹿島のご神水ってこれかな。水量はあまり多くないが、きれいな水なので湧き水っぽい。手水舎に引いているのもご神水だと思う。かなり山の方まで管が伸びている。

嵩山
中之条町のシンボル・嵩山がきれいに見えた。切り立った岩肌や奇岩の類いなど岩櫃山との共通点も多い。いずれも単独峰だと思うが、関連はあるのかな?


吾妻郡東吾妻町大戸の畔宇治(くろうじ)神社。

畔宇治神社 (1)
畔宇治神社は文永元年(1264年)に近江国(滋賀県)堅田郷の白鬚神を勧請したといわれる。ちなみに、畔宇治は地名。

畔宇治神社 (2)
畔宇治神社 (3)
畔宇治神社 (4)
畔宇治神社 (5)
鳥居前の石灯籠は、文政9年(1826年)に大戸の大富豪・加部安左衛門が寄進したもの。(加部家については「東吾妻町大戸・華庭山大運寺」参照)

畔宇治神社 (6)
畔宇治神社 (7)
鳥居をくぐり石段を下ると、そこは国道406号線。

畔宇治神社 (8)
畔宇治神社 (9)
旧道に面していた神社だったが、新道の開通により鳥居と社殿が分かれてしったということ。国道を渡り細い道に入って行く。

畔宇治神社 (10)
社殿は木々に覆われ、いかにも鎮守の森と言った感じの趣き。

畔宇治神社 (11)
畔宇治神社 (12)
二ノ鳥居は比較的新しく、平成12年(2000年)の建立。

畔宇治神社 (13)
畔宇治神社 (14)
社殿は文永10年(1273年)に建立され、天正10年(1582年)には真田信之が改修している。現在の社殿は寛政6年(1794年)の再建。

国道406号を走っていると、東吾妻町の重文である石灯籠を示す案内板が見える。これを頼りに行くと、鳥居と石灯籠しかない。事前に調べて行ったので社殿は国道の反対側にあることを知っていたが、知らなかったら神社はどこだ? ってなっていたかな。

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