Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 沼田市・利根郡


利根郡川場村天神の歴史民俗資料館。

川場村歴史民俗資料館 (1)
明治43年(1910年)、川場小学校の校舎として建てられ、昭和61年(1986年)移築・改修し、昭和62年に歴史民俗資料館として開館。

川場村歴史民俗資料館 (2)
川場村歴史民俗資料館 (3)
川場村歴史民俗資料館 (4)
1階は村の歴史を年代別に展示。村内の遺跡から出土した縄文・弥生式土器や刀剣、甲冑など。

川場村歴史民俗資料館 (5)
川場村歴史民俗資料館 (6)
直心影流の巻物と皆伝書があった。いち早く竹刀と防具を使用し、打ち込み稽古を導入した流派であり、江戸時代後期には全国に広まった。

第9代・長沼綱郷が沼田藩に仕官したことから、長沼家は代々沼田藩で直心影流を指南した。そのため、巻物や皆伝書が川場村に残っているようだ。

川場村歴史民俗資料館 (7)
2階は「薄幸の女流歌人・江口きち」資料室や民具、農具、教育関係資料を
展示している。

川場村歴史民俗資料館 (8)
川場村歴史民俗資料館 (9)
江口きちは、昭和時代前期の歌人で、貧困のなかで多くの歌を詠んだ。

年老いた父、病気の兄、妹を抱えた苦しい生活の中で、唯一の生きがいは短歌だったという。最期は、昭和13年(1938年)兄とともに(というか兄を道連れに)服毒自殺。享年25歳。白いドレスは自殺時に着ていたもの(実物じゃないけど)。

江口きちの資料を見てたら、ちょっとウルウルしてきて・・・・・。

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前回に引き続き、沼田市上発地町の迦葉山龍華院弥勒護国禅寺。

弥勒寺
案内図の右上に、真田伊賀守墓というのが見える。実は、これが弥勒寺に来た真の目的だったのだ。そう、真田沼田藩5代藩主・信利の墓。但し、「伝」だけど。

伝真田信利の墓 (1)
伝真田信利の墓 (2)
本堂裏手の歴代住職を墓を過ぎると、ぽつんとひとつの宝篋印塔が建っている。ひっそりと、寂しく、目立たないように・・・・・。

松代藩主になっていた叔父の信政が明暦4年(1658年)に死去、信政の子・幸道を後継者とした。信利は信之の長男・信吉の子であることを理由に、自分が後継者だと、幕府に訴えた。結局、この訴えは認められず。

これ以降、信利は10万石の松代藩に対抗するため、寛文2年(1662年)より領内総検地を行い、表高3万石に対して実高14万4000石を強引に打ち出した。領民から見れば、約5倍近い増税である。過酷な取立ても相まって、領民は飢餓に苦しみ餓死者がでるような悲惨な状況になった。

延宝8年(1680年)には、両国橋改修の用材の調達を、材木商大和屋から請負ったが、折からの台風により用材は流出し、納入期日に間に合わないという不始末を起こした。

天和元年(1681年)、杉木茂左衛門の直訴も起き、真田沼田藩は改易となった。
(上毛かるた紀行 「天下の義人 茂左衛門」参照。)

信利は山形藩奥平家にお預け(配流)となり、その後奥平家の宇都宮への転封に従って山形から宇都宮に移り、元禄元年(1688年)宇都宮で死去。享年54歳。弥勒寺に埋葬されたといわれる。

信利は、信之長男の家系と言うプライドがあったんだろうけど。それにしても相当な圧政を敷いていたようなので、改易はしょうがないかな。

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沼田市上発地町の迦葉山龍華院弥勒護国禅寺。

弥勒寺 (1)
弥勒寺 (2)
弥勒寺 (3)
嘉祥元年(848年)に、葛原親王の発願により、比叡山の円仁を招いて、天台宗の寺院として開山。康正2年(1456年)に天巽慶順禅師により曹洞宗に改宗、現在に至る。

ちなみに、葛原親王ってのは桓武天皇の第三皇子で、平氏の祖である。

弥勒寺 (4)
弥勒寺 (5)
中峯堂には、弥勒寺の代名詞となっている、大天狗が二体安置されている。一体は顔の長さ6.5m、鼻の高さ2.8m、もう一体は顔の高さ5.5m、鼻の高さ2.7m。その他にも堂内には願掛けの人たちの天狗面が多数祀られている。

参拝の際には、中峯堂から天狗の面を借りて帰り、願いが成就したら、その面ともう一つ新しい天狗の面を奉納し、また別の面を借りるという慣わしがある。

弥勒寺 (6)
弥勒寺 (7)
中雀門をくぐり、ご神橋を渡ると、和尚台への登山道となる。まあ、俗に言う奥の院で、僧たちが修行した場所。

鎖で登るような場所もある他、途中には「胎内ぐぐり」と呼ばれる割れ目や、「飛び羅漢」という五百体の羅漢像が、足場のない絶壁のあちこちに安置されている(らしい)。

当然、そんな場所に行く元気はないが、別の目的があったので、ご神橋の先の石段を頑張って登ったのさ。(その目的は次回紹介。)

弥勒寺 (8)
麓にある旧参道入り口の山門。今は車でお寺まで行けてしまうが、昔は山麓から延々歩いて登って行った。今でも、もちろん歩っても行ける。4kmくらいの山道。

大変かもしれないけど、きっとご利益があるとともに、趣きもあると思うよ。

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沼田市町田町の法城院。

法城院 (1)
天正9年(1581年)沼田平八郎景義の死を悼み、供養するために、その遺骸を僧行芝が引き取って、小沢城本丸跡に葬り「沼田大明神」として祀った。その際、庵を建立し法喜庵と称した。

法城院 (2)
法城院 (3)
宝暦8年(1758年)、僧高眼により旧庵を庫裡とし本堂が建てられ、景義の法号を法城院と改め、沼田氏の菩提寺・法城院となった。

寺域は小沢城址で、土豪の城柵の名残をとどめ土塁、堀の跡などが見られるというが、素人目にはよく分からない。

沼田氏は荘田城→小沢城→幕岩城→沼田城と本拠を変えており、小沢城は応永12年(1405年)の築城とされる。沼田氏はここで4代24年間を過ごし、永正16年(1519年)、幕岩城に移っている。

沼田大明神
沼田城址(沼田公園)に残る平八石に置かれた景義の首は、夜になると遺体を埋めた小沢城まで飛んできて、杉の木にかみついたという。

写真は、景義の墓と杉の木の跡。首がかみついたという杉の木は、残念ながら枯れてしまっている。(「沼田平八郎景義の墓 -沼田大明神-」参照)

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沼田市東倉内町の沼田市中央公民館。

沼田市中央公民館 (1)
真田沼田藩2代藩主・信吉が鋳造させた城鐘が保存・展示されている。高さ114cm、口径67.6cm、厚さ7cm。現在、沼田城址(沼田公園)の鐘楼にある鐘は複製品。

沼田市中央公民館 (2)
沼田市中央公民館 (3)
寛永11年(1634年)に沼田で鋳造され、沼田城三の丸の鐘楼にかけられていた。天和元年(1681年)真田氏が改易となったため、平等寺の梵鐘となる。

その後、明治31年(1898年)頃から沼田町の時鍾となった。昭和58年(1983年)、沼田城址(沼田公園)に鐘楼が復元され、最上階にかけられたが、現在は中央公民館に保存・展示されている。

沼田市中央公民館 (4)
「この鐘の音は領内領民を安らかにし、領主の長久を祈るもの」という意味の文が刻まれている。信吉の文字も見える。

「滋野朝臣信吉公」となっているが、真田氏のルーツが滋野氏だから。清和天皇の皇子・貞保親王の孫、善淵王が滋野姓を賜り臣籍降下したのが始りといわれる。

滋野氏は東信濃(長野県小県郡)を中心に信濃国全域、そして西上野国の一部で栄えた。平安中期に滋野氏は三家に分かれ、それぞれ居住とする地名(小県郡海野、小県郡祢津、北佐久郡望月)をとって姓とした。海野氏・祢津氏・望月氏。これを滋野三家という。

三家の海野氏系の幸隆(信吉の曽祖父)が小県郡真田郷を領して以後、真田姓を名乗ったとされる。これだと、真田氏は清和源氏の流れをくんでいることになるが、この系図は疑問視されている。

ちょっと説明が長くなったが、だから鐘には滋野信吉って刻まれているんだと思う。

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沼田市榛名町の榛名神社。
沼田に榛名町って地名があるんだね!

沼田榛名神社 (1)
沼田榛名神社 (2)
鎌倉時代に榛名神社の信仰が広まり、榛名神社は建長7年(1255年)沼田郷鎮守となった。なので、創建はもうちょっと前だと思う。

沼田榛名神社 (3)
沼田榛名神社 (4)
沼田榛名神社 (5)
享禄2年(1529年)、沼田万鬼才顕泰が現在地に社殿を建立、元和元年(1615年)真田信之が改築し、現在に至る。

沼田榛名神社 (6)
沼田榛名神社 (7)
本殿は華やかな色合いで、側面の彫刻は草花のようだ。草花を題材にしている彫刻は珍しい。

沼田榛名神社 (8)
沼田榛名神社 (9)
武尊石は9世紀、武尊山から御神体として持ってきたものとか。武尊石は、もともと今の沼田城址(沼田公園)にあり崇められていたが、沼田万鬼才顕泰が沼田城を築城するため、ここに移したようだ。

ちなみに武尊ってのは、日本武尊から来ている。群馬も北部を中心に日本武尊伝説が多いからね。

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沼田市鍛冶町の法蔵山正覚寺。

以前、真田信之正室・小松姫の墓を紹介したが、今回は名胡桃城代・鈴木主水重則の墓といわれる墓石の紹介。(「真田信之正室・小松姫の墓 -正覚寺-」参照)

鈴木主水重則の墓 (1)
鈴木主水重則の墓 (2)
非常に見つけづらく、分かりにくかったんだけど、やっとこさ見つけた。これは知らなければ、絶対に見つけられない!!

鈴木主水重則は真田昌幸が沼田城を攻略した際に、沼田城の支城である名胡桃城にいた武将である。重則は昌幸の沼田城攻略軍に降り、その後真田家家臣となっている。しかし、名胡桃城代であった時、北条氏方の猪俣邦憲に謀られ、城を乗っ取られてしまう。それを恥じた重則は正覚寺にて自刃している。

城代を務めていた程の武将の墓としては、ちょっと粗末な感じ。鈴木重則の墓と言われているが、その信憑性は薄いらしい。

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沼田市井土上町の智徳山成孝院。
ここには真田沼田藩4代藩主・信政の3男・信武の墓がある。

成孝院 (1)
成孝院 (2)
貞和2年(1346年)沼田氏初代・景家の開基、相実法印の開山と伝わる。このときは天台宗の寺院(善桂寺)として創建。

成孝院 (3)
成孝院 (4)
文明4年(1472年)沼田氏6代・景久が中興開基となり、大盛宗隆禅師が、中興開山として、曹洞宗に転じている。

明応4年(1495年)現在地に移り、七堂伽藍の並ぶ広大な寺領を有していたという。境内には山門、鐘楼門、透門とあり、成孝院の三門といわれ有名であったらしいが、天保14年(1843年)火災に遭い建物は焼失した。

弘化2年(1845年)伽藍を再建したが、山門、鐘楼門等は再建されていない。

成孝院 (5)
真田大学信武の墓。
信武は正保2年(1645年)、異母兄・信守とのいさかいから、殺害されている(信守も自刃)。信守17歳、信武16歳といわれている(信武は14歳との説もある)。
(「真田信政二男・信守の墓 -舒林寺-」参照。)

元々仲が悪かったのか、突発的な事件なのかは不明だが・・・・・・。兄弟げんかもここまで来ると・・・、ってことかな。

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沼田市材木町の慈眼山舒林寺。
ここには真田沼田藩4代藩主・信政の2男・信守の墓がある。

舒林寺 (1)
舒林寺 (2)
宝徳元年(1449年)大友長忠が開基となり、心華乗芳禅師が開山したのが始まりといわれる。

舒林寺 (3)
舒林寺 (4)
当初は利根郡後関にあったが、寛文8年(1668年)沼田へ移転・再建、現在の本堂は文政年間(1818年~29年)に建立されたもの。

舒林寺 (5)
真田又八郎信守の墓。
信守は正保2年(1645年)のある夜、何かのいさかいにより異母弟・大学信武を殺害し、自刃している。信守17歳、信武16歳といわれている(信武は14歳との説もある)。

理由は定かではないが、藩主の息子の起こした事件であり、家中は大騒ぎになったと思われる。

信政は男子2人を同時に失い、後に後継者に苦労する。結果的に6男が後継者(松代藩)になるが、このとき5代沼田藩主・信利が口を挟み、真田家のお家騒動、真田沼田藩の改易へと進んでいく。

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沼田市町田町の沼田大明神。
ここには沼田平八郎景義の墓がある。

沼田大明神 (1)
沼田大明神 (2)
沼田平八郎景義は、沼田氏12代・万鬼斎顕泰の側室の子で、摩利支天の再来といわれた勇将。

永禄12年(1569年)万鬼斎顕泰は、愛妾・ゆのみ(景義の母)とその兄・金子泰清に唆され、嫡男・朝憲(沼田城主)を謀殺してしまう。ゆのみが自分の子ども(景義)を城主にしたかったから。結局、沼田城兵に攻められ会津に逃れることになる。

景義は天正9年(1581年)挙兵し、沼田城攻略を目指す。当時沼田城は真田昌幸が治めており、伯父の金子泰清はうまく立ち回り、真田方にいた。

景義は真田昌幸の謀計に乗った泰清に欺かれ、城内にて謀殺された。景義42歳、これで沼田氏は亡びてしまった。

平八石
沼田城址(沼田公園)に残る平八石。景義の首級を乗せたといわれる石。

沼田大明神 (3)
沼田大明神 (4)
景義の死を悼み、その遺骸を僧行芝が引き取って、小沢城本丸跡に葬り沼田大明神として祀った。お堂内には、景義と思われる像があった。

沼田大明神 (5)
沼田大明神 (6)
お堂裏にある景義の墓。
側面には「前沼田城主 沼田平八郎平景義公 天正九辛巳三月十四日」の銘が、まだ読み取れる。

景義が沼田城主だったかは?だけどね。

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沼田市柳町の晴雲山三光院智徳寺。

三光院 (1)
三光院 (2)
三光院 (3)
三光院は沼田城の北東、いわゆる鬼門の位置にある。

三光院 (4)
応永13年(1406年)に村上出羽守なるものが利根に攻め入り、沼田氏支城の川田、名胡桃両城を攻略した。時の領主・沼田景朝は、逆に村上氏を打ち破り、十一面観音像を持ち帰った。

現在、この十一面観音は沼田市の重文に指定されており、上の写真の観音堂ではなく、宝物庫(?)に安置されている。

十一面観音 (1)
十一面観音 (2)
ヒノキ材の寄木造りで、玉眼及び六臂の立像。総高186.5cm。文永7年(1270年)の造立銘が像の内面にあることが確認されている。作者は快覚。名前が似ているけど、快慶と関係ある??

二臂または四臂の十一面観音は多いが、六臂は非常に珍しい(と思う)。顔の雰囲気など、全体的にちょっとポッチャリ型。

実は観音堂と灯籠は、真田信利が寛文4年(1664年)に献納したもの。おっ!信心深いと思ったけど、事情はちょっと違う。

信利がこの十一面観音を気に入り、「寄こせ!」って要求したら、お寺に「ダメだ!」と言われ、参拝の妨害をするなどの嫌がらせをした。すると病が蔓延し、自身も病にかかってしまたため、慌てて観音堂を建て灯籠を献納したということ。

残念ながら、信利はやっぱりこの程度の殿様だったということ。

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沼田市西倉内町の旧土岐邸洋館。

旧土岐家洋館 (1)
旧土岐家洋館 (2)
土岐頼稔が寛保2年(1742年)、黒田氏の後を受けて沼田藩主となって以来、12代頼知まで127年間この地を治めていた。明治4年(1871年)に沼田を離れ東京に転居した土岐家は、明治政府から子爵に叙せられている。

ちなみに歴代沼田藩主は、真田氏5代後、天領、本多氏3代、黒田氏2代、土岐氏12代を経て、明治維新を迎えている。

この洋館は土岐章・子爵が大正13年(1924年)、現在の東京都渋谷区に平屋の和館部と連接して建築したもの。平成2年(1990年)に、土岐實光氏より沼田市が寄贈を受け、沼田公園内へ移築している。

旧土岐家洋館 (3)
玄関を入ると、土岐沼田藩初代藩主・土岐頼稔の像がある。

旧土岐家洋館 (4)
旧土岐家洋館 (5)
洋間の内部意匠は、装飾を豊かに用いた明治期の西洋館と異なり、壁・天井ともに白漆喰仕上げをして、表面の装飾的な扱いを避け、生活空間の充実を基本としている。

旧土岐家洋館 (6)
旧土岐家洋館 (7)
1階にも2階にも和室があり、和洋折衷になっている。

なんだかんだ言って、旧大名家は明治になっても爵位を得て、優雅に暮らしていたということ。

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沼田市西倉内町の旧生方家住宅。

旧生方家住宅 (1)
旧生方家住宅は妻入・板葺の町家で、その様式・技法から見て17世紀末の建築とされ、東日本で最も古い町家造りの建築物とされる。

沼田市の繁華街の中心にあったが、昭和48年(1973年)沼田市に寄贈され、沼田公園内に移築している。

旧生方家住宅 (2)
旧生方家住宅 (3)
旧生方家住宅 (4)
生方家は旧沼田藩の薬種御用達を勤めた家柄で、建物構造も商家ならではの造り。薬を調合する匙や天秤などが展示されている。

旧生方家住宅 (5)
旧生方家住宅 (6)
旧生方家住宅 (7)
隣には、元沼田町長であり旧生方家住宅の前所有者であった生方誠氏が、生前収集した書や出土品などが展示されている資料館がある。資料館の建設費用は、たつゑ夫人が寄付している。

ちなみに、夫人は歌人で沼田市名誉市民。

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沼田市坊新田町の成田山金剛院。

北関東三十六不動尊霊場第二番札所である。明徳・応永年間(1390年~1427年)、沼田五郎景次の開基といわれる。明治14年(1881年)成田山新勝寺から不動明王を迎えている。

金剛院 (1)
参道入り口に大き石灯籠がある。高さ9m、重さ150tという巨大さ。多分日本一。

金剛院 (2)
旧山門は沼田城の西門を移建したもので、桔梗文瓦を使用した門であった。昭和33年(1958年)に改築、平成19年(2007年)には解体・増築、翌年には仁王門が完成している。

金剛院 (3)
金剛院 (4)
山門を入った右手には、水掛け不動尊がある。昭和55年(1980年)に完成したもの。

金剛院 (5)
金剛院 (6)
本堂は天明7年(1787年)の建立。正面7間、側面6間の入母屋造り。

金剛院 (7)
本堂前には、丸石を配した石庭がある。何を意味しているのかは・・・不明。

金剛院 (8)
年4回、「金剛院友引寄席」と題し、若手落語家(二つ目クラス)を招いて本堂で落語会を行っているらしい。(近隣の小学校での交流会も。)
看板の絵と題字は、林家木久扇。木久扇は今年の節分に、豆まきに来たようだ。

友引寄席
11月24日には毒蝮三太夫が来るらしい(大ベテランだけどね)。

寄席の木戸銭は無料で、募金をお願いしている。この募金は沼田市社会福祉協議会に寄付される。すばらしい!!

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沼田市戸鹿野町の 亀井山 東源寺。
真田沼田藩4代藩主・真田信政の側室である浜松の局の墓がある。

東源寺 (1)
東源寺 (2)
浜松の局が、承応元年(1652年)余生を過ごすために開山した。

東源寺 (3)
浜松の局は、開山後わずか3年の明暦元年(1655年)死去。墓所には立派な宝篋印塔が建っている。

東源寺 (4)
東源寺 (5)
すぐ隣には、稲荷神社があった。5月上旬のお蚕の季節になると、白狐を借りる農家の奥さんたちが片品、利根、新治など利根郡全体からたくさん参詣にきてに賑わったという。

そのときに寺にある桑の枝を一本折って行き、それを蚕室に供えておくと蚕があたったという。(蚕があたるとは、たくさん繭が取れるということ。)

いまも白狐が多数奉納されている。

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沼田市坊新田町の慶寿山妙光寺。
ここには、加藤清正の孫・藤枝正良の墓がある。

妙光寺 (1)
案内板も何もなかったけど、多分これだと思う・・・。墓石正面に「藤」の字が読めたので。あんまり自信はないけど。

何で加藤清正の孫の墓が沼田にあるかというと、慶長16年(1611年)清正死後、3男・忠広が後を継いだが、寛永9年(1632年)に改易になる。その際、嫡男の光広は飛騨高山藩に、次男・正良は沼田藩に、それぞれ預けられたから。

沼田の寺院って、あんまり案内板を設置してないので(市重文以外)、ほんとに分かりずらい。さらに、歴史ありそうな墓石が多いのと、すごく立派な一般の方のお墓も多く、けっこう探すのに難儀をする。

やっぱりここでも、ウロウロ。

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沼田市坊新田町の慶寿山妙光寺。
真田沼田藩2代藩主・真田信吉の側室である慶寿院の墓がある。

妙光寺 (1)
妙光寺 (2)
妙光寺 (3)
元々は本隆寺といったが、2代藩主・真田信吉の側室・慶寿院が寛文7年(1667年)に慶寿山妙光寺と寺名を改め、自ら開基となり中興開山した。慶寿院は後の5代藩主・信利の生母である。

妙光寺 (4)
慶寿院は寛文9年(1669年)65歳で没している。信利の藩主時代に没しているためか、立派な宝篋印塔である。

慶寿院は依田氏の娘で、元は信吉の侍女であった。寛永12年(1635年)信利を産んだが、信吉は既に前年没しており、3代藩主・熊之助の後見人信政(信吉の弟、後の4代藩主)から、5000石の捨扶持を与えられ、母子で月夜野の小川村へ移り住む。

まあ、正室の子である長男が後を継いだら、側室の子で次男には通常出番は回ってこない。

しかし、異母兄・熊之助が夭逝し、信政が4代藩主に就任。さらには、松代藩主・信之(祖父)が隠居、信政の松代藩主就任によって、信利に5代藩主の座が転がり込んでくる。信利はもちろんだけど、慶寿院の生活も一変したことだろう。

信利が各種不始末により改易されるのは天和元年(1681年)。慶寿院の死から、わずか12年後である。

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沼田市材木町の月宮山天桂寺。
真田沼田藩2代藩主・真田信吉の墓がある。

天桂寺 (1)
天桂寺は真田沼田藩2代藩主・真田信吉の菩提寺。

天桂寺 (2)
天桂寺 (3)
天桂寺 (4)
本堂のあっちこっちに真田家家紋・六文銭が飾られている。

信吉は元和2年(1616年)、父・信之が上田に移った後、沼田藩主として3万石の所領を相続した。信吉は沼田藩主として18年間、川場~沼田用水を完成させたり、善政を行った。今も残る沼田城址の鐘楼の鐘(実物は中央公民館で保存)は、領民の繁栄と国家安全を祈って造らせたもの。

寛永11年(1634年)、父・信之に先立ち江戸屋敷において死去。40歳とも42歳ともいわれるが、まだ働き盛りであった。

天桂寺 (5)
天桂寺 (6)
天桂寺 (7)
信吉の墓は、総高297cmの宝篋印塔。
屋蓋に真田家の家紋、六連銭を刻み、威厳と風格がある。

信吉が若くして死去したため、長男の熊之助がわずか4歳で後を継ぐ。しかし熊之助も7歳で夭逝し、信吉の弟・信政が4代藩主となる。結局、このあたりから、真田沼田藩のお家騒動の火種が燃え始めることになる。(この辺は追い追い)

信吉がもう少し長生きをしていたら、真田沼田藩の運命も変わっていたことだろう。

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沼田市鍛冶町の法蔵山正覚寺。
真田沼田藩初代藩主・真田信之の正室である小松姫(大蓮院)の墓がある。
*厳密には、沼田藩の立藩は信利の時だが、実質的には信之を初代とする。

正覚寺 (1)
正覚寺 (2)
天正2年(1574年)、小松姫(大蓮院)の開基。山門は入母屋造平入の銅瓦葺、一間一戸の四脚門で、建築年代は万延元年(1860年)と推定される。正面には千鳥破風(はふ)を付け、その下側を向唐破風とし、鬼板部分には「立ち葵」(本多家家紋)を飾る。

正覚寺 (3)
正覚寺 (4)
本堂の屋根や窓にも、「立ち葵」が金色に輝いている。

なんで本多家の家紋があちこちについているかと言うと、小松姫は徳川四天王・本多忠勝の娘だから。家康の養女になり、信之に嫁いでいる。

正覚寺 (5)
高さ271cmの宝篋印塔が小松姫の墓。
元和6年(1620年)江戸で病を得た小松姫は、草津で療養することを許され、上州へ戻る途中に武州鴻巣(埼玉県鴻巣市)で死去。享年48歳。小松姫の亡骸は駕籠で運ばれ、ここに葬られた。

正覚寺 (6)
正覚寺から沼田駅方面を臨む。

正覚寺は利根川と薄根川の合流点の北東、河岸段丘の台地上に位置する。二つの川側は約70mほどの崖となっているので、眺めは非常に良い。小松姫も日常的に、この景色を見ていたかと思うと感慨無量。

正覚寺には名胡桃城代・鈴木主水重則の墓といわれる墓石もある。記事はこちら。
名胡桃城代・鈴木重則の墓?? -正覚寺 その2-

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沼田市西倉内町の沼田城址。
現在は沼田公園として、市民の憩いの場となっている。

沼田城址 (1)
沼田城を築いたのは、鎌倉時代以来この地方の有力者であった沼田氏の12代万鬼斎顕泰で、天文元年(1532年)といわれている。

沼田城址 (2)
沼田城址 (3)
近世的な城郭の整備を行ったのは、真田沼田藩初代藩主・信之である。二の丸、三の丸、堀、土塁、大門等の普請の後、慶長2年(1597年)には天守が完成したといわれている。

沼田城址 (4)
沼田城址 (5)
現在、本丸と捨曲輪と二の丸・三の丸跡の一部が沼田公園に、総曲輪の一部が沼田小や沼田女子高の敷地となっている。

本丸跡には鐘楼が復元され、2代藩主・真田信吉が鋳造させた城鐘の複製品が吊り下げられている。(本物は市中央公民館で、保存・展示されている。)

沼田城址 (6)
大正5年(1916年)、旧沼田藩士の子である久米民之助氏は、城址の荒廃を惜しみ、私財を投じて公園として整備し、大正15年(1926年)沼田町に寄付している。久米氏は沼田市の名誉市民になっている。

真田氏時代には、5層の天守や3層の櫓が建てられ威容を誇っていたが、天和元年(1681年)の真田氏改易後、城は幕府に明け渡され、翌2年にすべて破却され堀も埋められた。本多氏時代以降は、三の丸を改修して館を建てる程度の規模になった。

ちなみに歴代沼田藩主は、真田氏5代後、天領、本多氏3代、黒田氏2代、土岐氏12代を経て、明治維新を迎えている。

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沼田市戸鹿野町の戸鹿野八幡宮。

戸鹿野八幡宮 (1)
戸鹿野八幡宮 (2)
戸鹿野八幡宮は、沼田氏12代で沼田城を築城した沼田万鬼斎顕泰が、享禄3年(1530年)に後閑八幡宮を迎えて現在地に祀り、城の守護神としたのが始まりとされている。

戸鹿野八幡宮 (3)
戸鹿野八幡宮 (4)
現在の本殿は三間社流造。棟札によれば、万治元年(1658年)に真田沼田藩5代藩主・真田信利により建てられたものである。

真田信利と言えば、茂左衛門の直訴などにより改易されちゃった人。
(上毛かるた紀行、「天下の義人 茂左衛門」参照。)

戸鹿野八幡宮 (5)
拝殿内には武術に関連した、特徴ある絵馬群が奉納されている。左上のは、鉄砲の命中した的板を絵馬として奉納した「砲術図」である。

戸鹿野八幡宮 (6)
南側の参道(旧参道?)入口の鳥居は倒れそうだ。正面に車が見えるが、そこは民家の庭先。参道が民家の庭を通っている。と言うか、後から民家が参道内に建ったのだろうが・・・。

戸鹿野八幡宮 (7)
当然、民家の庭を通るわけにもいかず、迂回して行くと石段が見えてくる。

南側の方が、石段があって神社っぽいんだけどね。どういう理由で参道に民家が出来ちゃったんだろう??

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利根郡昭和村糸井の小高神社。

小高神社 (1)
小高神社 (2)
平安時代の歴史書「三代実録」に、「貞観5年(863年)に小高神社に従五位下を授く」とあるため、それ以前の創建と思われる。

小高神社 (3)
社殿前に大きな神楽殿がある。木造、瓦葺きで、表の梁には唐草模様の彫り物がある。文化・文政年間(1804年~30年)の建築と推定される。

小高神社 (4)
小高神社 (5)
小高神社 (6)
拝殿蟇股の亀の親子と波。最初彫刻かと思ったんだけど、よく見ると作り物っぽい。素人眼なので不明だけど。

明治の初めには、地元の見城駒吉という人が、尾上菊五郎の門下に入り、尾上扇之助と名乗り有名な役者となったという。

駒吉帰郷後は、ここの神楽殿で地芝居が盛んに行われたらしい。「セリ出シ」、「セリ込み」、「ヒラキ」、「天井ツリ」、その他どの段にも不自由がないように大道具、小道具が揃っていたらしい。

今もその伝統は続いているんだろうかね。

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利根郡昭和村橡久保の加藤丹波守腹切石。

加藤丹波守腹切石 (1)
加藤丹波守腹切石 (2)
天正10年(1582年)10月、沼田城の支城である森下城は北条氏邦に攻められ、城を守っていた加藤丹波守は城を出て最後の一戦を行った後、城の東500mにあるこの石に腰をかけ、切腹して果てたという。

時代背景を補足しておくと、天正10年(1582年)は武田家の滅亡、本能寺の変という大歴史イベントがあった年。本能寺の変で織田信長が倒れると、北条氏が上州へ侵攻し、神流川の合戦で織田方の滝川一益を破ったのを皮切りに、箕輪城まで手中治める。

そんな中での、北条氏による沼田攻略のひとつとして、支城である森下城攻めであった。

加藤丹波守の奮闘により、迎撃態勢を整えることができた沼田城代・矢沢頼綱は北条氏邦を撃退している。(当時の沼田城は、真田昌幸が支配していた。)

沼田地方は北関東の要所で、上杉、武田、北条がしのぎを削っていた。支配者も目まぐるしく変わり、なかなか理解が難しい。

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利根郡昭和村森下の道の駅・あぐりーむ昭和。

あぐりーむ昭和 (1)
平成23年(2011年)オープンの新しい道の駅。農業のアグリカルチャーと夢のドリームをくっつけた造語。関越道昭和ICのすぐ脇にあり、立地条件は良い。

あぐりーむ昭和 (2)
農産物直売所の旬菜館。昭和村産の野菜の直売所。買う気はなかったんだけど、ブラブラしていたらイチゴがおいしそうで、思わず買ってしまった。ついでに、完熟イチゴジュースも。どっちもおいしかった。

写真を撮っておけばよかったと、食べ(飲み)終わった後で気づく。

あぐりーむ昭和 (3)
あぐりーむ館は、食事処とちょっとしたお土産売り場。

あぐりーむ昭和 (4)
無料の足湯があった。浸かってこようかと思ったけど、タオルがなかったので断念。この日は何人か足を浸けていた。ちなみに泉質は、アルカリ性低張性高温泉。

あぐりーむ昭和 (5)
赤兎馬に乗った関羽の像があった。像というほどではないな、ハリボテ。なんで三国志で有名な関羽がいるのかと思ったら、昭和村は横浜中華街と関係があるらしい。細かいことは分かんないけど、横浜中華発展会協同組合からもらったと書いてあった。でも、なんで関羽なんだろうか??

帰りに、昭和ICからすぐそばの赤城高原SAに寄ったら、イチゴを売っていた。値段を見ると、あぐりーむ昭和では450円のものが600円だった。SA料金といったところ??

あぐりーむ昭和で買って正解だった。

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利根郡みなかみ町藤原の利根川に建設された藤原ダム。

藤原ダム (3)
藤原ダム (5)
堤高94.5m、堤頂長230mの重力式コンクリートダムで、利根川の治水と首都圏への利水を司る利根川水系ダムとしては、県内最古である。昭和26年(1951年)着工、昭和32年(1957年)完成。

藤原ダム (1)
藤原ダム (4)
藤原ダム (2)
ダムによって出来た藤原湖は、奥利根湖(八木沢ダム)、洞元湖(須田貝ダム)とともに奥利根三湖を形成している。この日は水が濁っていて、あんまりきれいじゃなかった。

さらに、ダム上に通じる道の側壁工事中で、片側交互通行になっていて、ゆっくり車を停めて見学、って雰囲気じゃなかった。

慌ただしく、何を見るでもなく、写真を数枚撮って終わり。まあ、特別ダムが好きってわけでもないので、別にいいんだけどね。

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利根郡みなかみ町の利根川水系楢俣川に建設された奈良俣ダム。

奈良俣ダム (5)
昭和53年(1978年)より着手され、平成3年(1991年)に完成した。

奈良俣ダム (7)
奈良俣ダム (3)
奈良俣ダム (1)
奈良俣ダムは、中央土質遮水壁型ロックフィルダムであり、堤頂高158m。利根川水系のダムでは最も堤高が高いダムとなる。

奈良俣ダム (2)
ダム湖のならまた湖。湛水面積は約2平方km、周囲に遊歩道やキャンプ場、サービスセンターや展望台などが整備されている。

奈良俣ダム (4)
奈良俣ダム (6)
資料館(ヒルトップ奈良俣)もあったが、個人的にはほとんど見るものがなかった。ただ、居合わせたおじさんは、食い入るように資料を見ていた。

ここは日本一美しいダム、と言う人もいるほどのダムらしい。ふぅ~ん。

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利根郡みなかみ町藤原の雲越家住宅。
現在は、資料館として雲越仙太郎翁が使っていた農具や生活用品を中心に展示している。

雲越家住宅 (1)
雲越家住宅 (2)
雲越家住宅 (3)
明治20年(1887年)に建てられた木造2階建て、茅葺き両妻兜造の典型的な山村地域の農家。雲越家9代目・仙太郎翁が昭和55年(1980年)84歳で亡くなるまで居住しており、日本の原風景がそのまま残されている。

雲越家住宅 (8)
雲越家住宅 (7)
仙太郎翁は11歳で父親を事故で亡くし、その後は家族のため寝る間も惜しんで働き続けた。昭和35年(1960年)に母親が亡くなった後の高度成長時代においても、時代の変化を無視するかのように、自給自足に近い生活を続けた。

雲越家住宅 (4)
雲越家住宅 (5)
雲越家住宅 (6)
内部には、仙太郎翁が生前に使用していた食器、布団、家具類、農具などの生活用品がそのまま展示されている。

仙太郎翁は金銭を出して安易に物を買うことを嫌い、生活必需品の多くは自ら身近な材料を使い、創意工夫をして作り上げている。そのため、ここでしか見られない貴重な家財道具等も多い。

帰り際に管理人さん(?)に、囲炉裏で焼いたジャガイモをいただいた。うっ、うまっっ!!って感じで、アツアツのジャガイモをほうばった。ちょこっと仙太郎翁の心持ちが分かったような・・・。


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利根郡みなかみ町藤原の奥利根民俗集古館。

奥利根民俗集古館 (1)
茅葺き屋根の築300年以上の農家を利用し、奥利根地方の農具や民俗資料などを多数を展示している。

奥利根民俗集古館 (6)
奥利根民俗集古館 (7)
囲炉裏に火が入っており、暖かかった。写真が青っぽくなっているのは、囲炉裏からの煙。

奥利根民俗集古館 (3)
熊の剥製があった。今年は山の木の実が豊富だったみたいで、熊が人里まで降りてきていない、と経営者の奥さん(?)が言っていた。

奥利根民俗集古館 (2)
甲冑が2体あったが、顔の部分に変な絵が(笑)。1体は頭にキジが・・・。壁には、時計やら帽子やら提灯が、所狭しと掛けてある。

奥利根民俗集古館 (4)
奥利根民俗集古館 (5)
2階は狭い通路以外は、農具や草鞋、かんじきなどがぎっしり。展示というよりも、山積みに置いてあるって感じ。

近所の人がいろいろ持ってきて、最初は預かっておいて、ってことだったけど、誰も取りに来ないから、こんなに集まったんだって。

お茶とお菓子とらっきょうをご馳走になりながら、昔話や藤原地区の冬の様子を、いろいろ聞かせてもらった。最近ではなかなか味わえない、レトロでアットホームな雰囲気だった。

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利根郡みなかみ町湯原の成田山水上寺。
北関東三十六不動尊霊場の第1番札所である。

水上寺 (6)
水上寺 (1)
昭和35年(1960年)の開山。千葉県成田市の真言宗智山派・大本山成田山新勝寺より勧請した不動明王を祀っている。

水上寺 (2)
水上寺 (3)
明治21年(1888年)に勧進し、不動明王像は仮宮に奉安されていたが、73年後の昭和35年に開山、本堂落慶という経緯らしい。

水上寺 (4)
天保年間(1830年~1843年)に、新勝寺の境内に有った1本の御神木から彫刻されたうちの1体で、日本三体不動尊と呼ばれる由緒深い像だそうだ。

水上寺 (5)
本堂前にも不動明王像が。

水上寺は地域に根ざした開放的なお寺としても知られている。除夜の鐘を一般参詣客に撞かせてくれたり、春・秋大祭ではカラオケ大会を行ったりしている。

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沼田市白沢町の武尊山雲谷寺。
ここには新田義宗の墓と伝わる五輪塔がある。

雲谷寺 (1)
雲谷寺 (2)
雲谷寺 (3)
雲谷寺は元徳2年(1330年)の創建と伝わる。

雲谷寺 (4)
雲谷寺 (5)
本堂の裏山に並ぶ南北朝期の五輪塔。いずれも総高120cmを越える堂々としたものである。中央の無銘の五輪塔が、うつぶしの森で最期をとげた新田義宗の墓といわれている。

向かって右側の五輪塔は、「長州禅門永禅応安三年」とあり、船田長門守経政の墓と推定されている。経政は義宗の亡骸をこの地に葬った執事である。左側の五輪塔は「聖慶禅尼文和三年」とあるが、誰であるかは不明。(禅尼とあるから、奥方?)

義宗の墓と伝わる五輪塔が無銘なのは、足利方に破壊されることを恐れてのことか?

五輪塔の後ろには、樹高37m、目通り4.5mの大杉がそびえている。長い間五輪塔を見守り続けている。(五輪塔は一時期土中に埋もれていたが、近年雲谷寺の墓地事業の際に掘り出され、整備された。)

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