上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 桐生市


桐生市新里町板橋の赤城の百足(ムカデ)鳥居。

百足鳥居 (1)
百足鳥居 (2)
赤城山へ上る東南麓の参道として、天明2年(1782年)に建てられた。高さ4.4m、笠木の長さ6.25mの安山岩製。

百足鳥居 (3)
ここには鳥居があるだけで、御神体は赤城山になる。

赤城山は、遠い昔より山麓周辺の人々に厚い信仰を受けてきた。それは神の住む山として、人々の心や生活の中心に赤城山があったから。春になると、人々は稲の豊作を願い、神を里へ迎えるため山へ登ったという。

百足鳥居 (4)
百足鳥居 (5)
鳥居の島木には1.3mの百足が陽刻されている。

何で百足が彫られているかと言うと、赤城山の神様は百足だという神話があるから(だと思う)。

赤城山の神と日光男体山(二荒山)の神との戦いは有名な神話である。赤城の神は中禅寺湖を自領であると主張し、大百足に姿を変え攻め込み、二荒の神は大蛇の姿に変わり迎撃した。

赤城の百足神は二荒山麓まで進撃、大蛇神を追いつめたが、窮地に立たされた二荒の神は、奥州から弓の名人・小野猿丸を呼び寄せた。二荒山の頂上から猿丸が放った矢は、赤城の神の左目に命中し、勝利を目前にして敗走したという。ここが日光の戦場ヶ原。赤城山は百足神の血で赤く染まった。なので「赤き山」→「赤城山」になったという。

これだと、群馬が栃木に負けたことになるので、気に入らない群馬県民は老神温泉に伝わる神話を。

老神温泉の開湯伝説では、赤城の神が大蛇で、男体山(二荒山)の神が百足と反対になっている。理由は知らない。

戦場ヶ原の戦いで傷を負った赤城の大蛇神は老神温泉付近まで撤退し、そこで刺さっていた矢を抜き地面に突き刺すと、地面から湯が湧き出た。そこに浸かるとたちどころに傷が癒え、追ってきた百足神を日光へ追い返したという。なので、この地は「追い神」→「老神」となったとさ。

まあ、この神話にはいろんな派生版があるので、そのひとつと言うことで。

百足の鳥居から話が逸れたうえ、長くなってしまった・・・。


桐生市新里町小林の天神古墳。
新里中央小の敷地内にある。

天神古墳 (1)
天神古墳 (2)
天神古墳 (3)
天神古墳は直径40m、高さ3mの円墳だが、北半分を道路により削られて現状をとどめていない。南側も削られているように見える・・・。

天神古墳 (4)
石室は安山岩を使用した自然石乱石積で、石室の形式は横穴式袖無型で、羨道長さ2.8m、玄室の長さ3.6m、玄室の幅2.13m。石室は埋め戻されている。もしかしたら、崩れているのかも(自然崩落)。

昭和33年(1958年)の調査では、刀や埴輪など貴重な遺物が多数出土している。なかでも家型埴輪は、東京国立博物館に所蔵されている。これらの副葬品から、古墳時代後期(6世紀)の築造と推定される。

小学校の敷地内のため、そっと入って即行で出てきた。


桐生市新里町新川の中塚古墳。

中塚古墳 (1)
中塚古墳 (2)
中塚古墳 (3)
中塚古墳は2段に築かれた円墳で、直径38m、墳丘5mの規模を誇る。古墳をめぐる周堀も含めると直径が約50mあり、県内でも比較的大きな円墳である。

中塚古墳 (4)
石室の開口部は南側にあり、かなり以前に開けられたようだ。

中塚古墳 (5)
中塚古墳 (6)
石室は安山岩製で、綺麗に切りそろえられ隙間なく積まれている。

高崎市山名町の山ノ上碑の碑文から、この古墳はこの一帯に勢力のあった豪族・新川臣(にいかわのおみ)の墳墓と推定され、7世紀の造営と考えられている。
(山ノ上碑は「高崎市山名町・山ノ上碑」参照)


桐生市新里町奥沢の相澤忠洋記念館。

相澤忠洋記念館 (1)
日本の歴史を塗り変えた「岩宿遺跡」の発見者・相澤忠洋の旧石器をテーマにした記念館。(岩宿遺跡は「みどり市笠懸町阿佐美・岩宿遺跡」参照)

相澤忠洋記念館 (2)
相澤忠洋記念館 (3)
この記念館は、前期旧石器時代遺跡の夏井戸遺跡のある雑木林の中に建っている。

約6万年前遺跡といわれる夏井戸遺跡の中に、昭和54年(1979年)に「赤城人類文化研究所旧石器資料室」として開館。平成3年(1991年)に「相澤忠洋記念館」となっている。

この日は休館日じゃないはずなんだけど、開いていなかった。

相澤忠洋記念館には、岩宿遺跡で発見した槍先形尖頭器(石器)を初め、約300点の石器や、縄文早期の土器片、自筆原稿などが展示されているらしい。

相澤忠洋記念館 (4)
記念館前の「槍先形尖頭器」のモニュメント。

ところで、相澤が岩宿遺跡で発見した「槍先形尖頭器」は重要文化財にも何にも指定されていない。それに対して明治大学(杉原荘介)が発見した「ハンドアックス」などは、一括して国の重要文化財に指定されている。

岩宿遺跡発見の糸口になったのは、相澤が発見した「槍先形尖頭器」なんだけどね。

これは素人目にもおかしいような気がするが・・・。


桐生市本町の矢野本店&有鄰館。

有鄰館 (1)
矢野本店は享保2年(1717年)の創業で、寛延2年(1749年)に現在地に店舗を構えて以来、桐生の商業発展に大きく寄与してきた。店舗は大正5(1916年)の建築で、木造2階建て、切妻、桟瓦葺きで、江戸時代以来の商家建築である。

現在は内部を改装し、矢野園(お茶、お米・喫茶有鄰)として営業致している。

有鄰館 (2)
有鄰館 (5)
有鄰館は矢野本店敷地内に建てられた煉瓦造り建物を含む11棟の歴史的建築物群の総称(旧矢野蔵群)。古いものは天保14年(1843年)建造で、他も明治・大正期に建造されている。

有鄰館 (3)
有鄰館 (6)
煉瓦蔵の外観と内部。煉瓦建造物としては、桐生市最大規模を誇る。

有鄰館(旧矢野蔵群)は、平成6年(1994年)に桐生市に寄贈され、現在はコンサートの舞台や文化・芸術展などの会場として活用されている。


有鄰館 (3)
明治23年(1890年)の矢野蔵群(株式会社 矢野のHPより)。

創業者の矢野久左衛門は近江の商人で、当主は代々久左衛門を名乗り、清酒の醸造から、味噌、醤油の醸造、荒物、染料、薬、呉服と商売を広げている。


桐生市東7丁目の伝・桐生大炊介手植の柳。

伝桐生大炊介手植えの柳 (1)
樹齢約400年と推定されるアカメヤナギの雌株。樹高約10m、目通り4.5m、根本回り5.5mの巨木である。

伝桐生大炊介手植えの柳 (2)
伝桐生大炊介手植えの柳 (3)
永正13年(1516年)頃、桐生城主・桐生重綱がこの付近で狩を行った。この一帯は、当時荒戸野と呼ばれた荒れ地だった。

狩りの途中、突然愛馬「浄土黒」が暴れ、重綱は振り落とされてしまい、そのまま亡くなってしまった。重綱の子・大炊介(助綱)は「浄土黒」をこの地に葬り、その上に1本の柳を植えた。それがこの柳だという。

助綱はその後、周辺の小領主を討ち、桐生氏は全盛期を迎える。

桐生市の解説板では、樹齢400年とあった。でも400年だと時代が合わない。500年だとドンピシャなんだけど・・・。


桐生市菱町の無畏山普門寺。

普門寺 (1)
普門寺 (2)
天正3年(1575年)に由良成繁が、世良田(太田市)から移築して創建した。
(太田の普門寺は、「毛呂権蔵の墓・如意山普門寺」参照)

普門寺 (3)
普門寺 (4)
普門寺 (5)
天保14年(1843年)の「荒神の大火」によって、寺のほとんどの伽藍が焼失している。現在の伽藍は、昭和35年(1960年)に本堂、昭和52年(1977年)に普門閣建設、昭和62年(1987年)に観音堂が再建されている。

普門寺 (6)
観音堂へ繋がる石段。享保18年(1733年)、菱村名主・蓼沼平兵衛が先祖菩提の発願として観音堂に法華経千巻を奉納、その功徳として手造り石段が造られた(観音堂には十一面観音が安置されている)。

ここは菱町富士と言われる標高70mの台地で、「普門寺遺跡」と言われる縄文時代の遺跡で、過去に多数の土器・石器が出土しているという。また、毎年1月15日に開かれる「桐生だるま市」や、十一面観音例祭(毎月18日)も有名である。

由良成繁は鳳仙寺を創建したり、青蓮寺やこの普門寺を自分の領地である太田から移すなど、いろいろ行っている。「領主が変わったんだぞ!」ということを、桐生の領民に知ら示すことが目的だったのだと思う。


桐生市梅田町の桐生川ダム。

桐生川ダム (1)
利根川水系渡良瀬川支流の桐生川に設置された多目的ダム。

桐生川ダム (2)
桐生川ダム (3)
昭和47年(1972年)に着工し、昭和57年(1982年)に完成している。重力式コンクリートダムで、堤高60.5m、堤頂長264m。堤頂部に並んでいる越流式の非常用洪水吐が特徴的。

上から見た写真の左の方に、群馬県のマーク(植木)が見える。群馬県営のダムだから。

桐生川ダム (4)
桐生川ダム (5)
ダム湖は昭和60年(1985年)に一般公募し、梅田湖と決まった。そのまんまのネーミングだけどね。周囲に自然が残り、自然景観を保全しながら、広場や遊歩道、公園などが整備されている。

桐生川ダム (6)
ダムの下側で見つけた看板。えっっ!! この辺熊が出るの?

早々に退散したことは、言うまでもない。 


桐生市梅田町の梅田山西方寺。

西方寺 (1)
観応元年(1350年)に時の領主・桐生国綱(桐生氏5代)が、古くから阿弥陀堂のあった場所に浄土宗西方寺を建立した。後に7代豊綱の代に臨済宗に改められ、14代親綱まで桐生氏の菩提寺となっていた。

現在の「梅田山」の山号は明治時代を迎えてからのもので、明治22年(1889年)までは 「宝樹山」という山号だった。

西方寺 (2)
文政6年(1823年)に全焼した本堂は、大正10年(1921年)の再建。さらに昭和40年代に大改築されている。

西方寺 (3)
石造の十三重塔は20mと日本一の高さを誇り、桐生塔と呼ばれている。十三重塔とは仏陀の舎利・遺髪・遺物などを納める塔で、釈迦の慰霊碑、仏教のシンボル的な意味合いをもつ。平成4年(1992年)の建立。

西方寺 (4)
桐生氏の墓所は本堂左の高台にある。層塔1基、五輪塔13基が並び、この中の4基だけ銘文が判読でき、義綱、親康、重綱、助綱のものである。

開基の桐生国綱は桐生氏中興の祖で、桐生城築城・下瀞堀掘削・高津戸城攻略などにより、桐生氏の基礎を築いた。

13代助綱の時、周辺の小領主を討ち桐生氏の全盛期を迎えるが、助綱の養子・14代親綱が実家(佐野氏)からの家臣を優遇するなど内紛が生じたうえ、太田の由良氏と対立。

天正元年(1573年)由良成繁の軍勢に攻められ柄杓山城は落城。桐生氏は220余年の歴史に幕を下ろす。

*桐生氏の系譜には諸説ある。


桐生市梅田町の桐生山鳳仙寺。

鳳仙寺 (1)
鳳仙寺 (2)
由良成繁は天正元年(1573年)に柄杓山城を攻略し桐生氏を滅ぼすと、天正2年(1574年)に桐生に入部、鳳仙寺を建立し自らの菩提寺とした。

鳳仙寺 (3)
鳳仙寺 (4)
鳳仙寺 (5)
宝永元年(1704年)に建立された三間一戸の二階建て楼門で、中に仁王を配している。主柱4本と控柱8本で構成されて全てが丸柱となっている。

鳳仙寺 (6)
現在の本堂は、元禄時代以前の建立と推定され、享保12年(1727年)に大改修されている。桁行き9間、梁間8間、八室構成と、当時の曹洞宗本堂の名残がある。

鳳仙寺 (7)
鳳仙寺 (8)
由良成繁の墓。

由良氏はもともと横瀬氏と言って、新田岩松氏に仕えていたが、享禄元年(1528年)に下克上により岩松氏から太田金山城を奪っている。横瀬氏は小野氏流横山氏一族といわれているが、由良氏と改姓してからは新田氏を自称している。

成繁は天正元年(1573年)に、桐生氏の居城である柄杓山城を落として同氏を滅ぼすと、居城であった金山城を息子・国繁に譲り、翌年に柄杓山城に隠居している。

成繁は勅使門(山門)を備えた大伽藍のお寺を造り、桐生領民に由良氏の力を見せつけたかったのかもしれない。


桐生市西久方町の仏守山義国院青蓮寺。

青蓮寺 (1)
天正3年(1575年)由良成繁の開基とされる。伝えによれば、新田郡岩松郷(太田市)にあった岩松青蓮寺を移築したものと言われているが、青蓮寺の名前だけを持ってきたと考えられる。(岩松青蓮寺は、「太田市岩松町・岩松山青蓮寺」参照)

青蓮寺 (2)
青蓮寺 (3)
本堂は建築当時そのままの姿とされ、柱は安土桃山期の特徴を残している。

青蓮寺 (4)
天正元年(1573年)桐生五郎右衛門から寄進された日限地蔵尊。桐生五郎右衛門は由良家に滅ぼされた桐生家の人物。このお地蔵さんのおかげで、五郎右衛門は由良氏の落人狩りを逃れて、無事に頚(くび)が繋がったので、「頚継地蔵」と呼ばれている。

青蓮寺 (5)
青蓮寺 (6)
インドの象徴であるサールナートで発掘されたアショカピラーを、モニュメントとしてインドの地で作成し招来。インド仏跡のお砂踏み、仏足石などもあった。

由良氏はもともと横瀬氏と言って、新田岩松氏に仕えていたが、享禄元年(1528年)に下克上により岩松氏から太田金山城を奪っている。横瀬氏は小野氏流横山氏一族といわれているが、由良氏と改姓してからは新田氏を自称している。

成繁は天正元年(1573年)に、桐生氏の居城である柄杓山城を落として同氏を滅ぼすと、居城であった金山城を息子・国繁に譲り、翌年に柄杓山城に隠居している。

新田氏ゆかりの青蓮寺を桐生に建立したのは、新田氏の家系だということを誇示したかったから思う。

ちなみに、明治維新後に男爵の爵位を与えられた新田氏は、由良氏ではなく、岩松氏の末裔・岩松俊純である。


桐生市川内町の萬松山崇禅寺。

崇禅寺 (1)
崇禅寺 (2)
元久2年(1205年)法然上人の弟子・ 智明上人による開創。

崇禅寺 (3)
山門は享保12年(1727年)に、仙林和尚の叔母の寄付(100両!)により造られたもの。

崇禅寺 (4)
崇禅寺 (5)
現在の本堂は開創780年を迎えた昭和60年(1985年)に、その奉讃記念事業として建立を発願、昭和63年(1988年)に落慶したもの。

崇禅寺 (6)
この坂を上ると寿命が伸びる? 1往復したので、寿命が1年くらい伸びたかな。

ところで、智明上人は元々は園田成家という武士だったが、京都に巡回警護に上がった際、法然上人に接し仏の魅力にひかれ弟子となり、智明と名乗った。

修行を終え故郷に帰る際、法然から阿弥陀如来像を与えられ、桐生まで運んできた。その阿弥陀如来像は、檜材を組み合わせた寄木作りで、全体に漆箔がほどこされている。

桐生まで運んで来るのに牛に乗せてきたが、その牛が力尽き死んだ場所に牛の供養塔が建っている(太田市藪塚町)。(「太田市藪塚町・牛之塔」参照)



桐生市川内町の不老山観音寺。

観音寺 (1)
観音寺 (2)
寛永4年(1627年)に比叡山延暦寺の僧・実呼が寺院を再興し、天海から不老山薬師院観音寺の寺名を賜ったという、補任状が残されている。山門はその当時に建立されたと推定されており、切妻、萱葺、一間一戸、四脚門で、桐生市内では数少ない古建築物である。

観音寺 (3)
天明元年(1781年)火災のため全焼しているので、後の再建。(山門は火災から免れている。)

観音寺 (4)
境内にある石幢(高さ150cm)は永正9年(1512年)に造られたもので、銘文には「大日本国上野州山田郡須永郷下仁田庵住」、「奉為逆修功徳主妙春霊位」、「于時永正九天壬申三月五日啓白」と刻まれている。

銘文に「大日本国」と刻まれているものは例がなく、非常に珍しい。なお、塔身から上は別のものと考えられる。

本堂や境内はきちんと整備されている。茅葺屋根の少しくたびれた本堂(山門の雰囲気)だったら、味わいあるんだけどなぁ~。


桐生市川内町の白滝神社。

白滝神社 (1)
白滝神社 (2)
京から仁田山に嫁いだ白滝姫によって、機神である八千々姫命を祀った神社が創建されたことを起源とする。

白滝神社 (3)
白滝神社 (4)
白滝神社 (5)
仁田山の地に養蚕業を広めた白滝姫は、後に桐生織の祖神として、八千々姫命ととも祀られるようになった。

白滝神社 (6)
境内にある降臨石。天から降ったといわれており、白滝神社の神体石。

桐生織の発祥については、白滝姫伝説という伝承が残されている。今から1200年前の桓武天皇の時代、上野国山田郡出身の男が、京都で宮中の白滝姫に恋をした。男は天皇の前で見事な和歌の腕前を披露し、白滝姫を桐生に連れて帰ることを許してもらった。

桐生に移った白滝姫は、絹織物の技術を桐生の人々に伝え、その技術が今でも受け継がれているのだという。

白滝姫が桐生に来た時、桐生市川内の山々を見て「ああ、あれは京で見ていた山に似た山だ」と言ったことから、この地域を「仁田山」といい、特産品となった絹織物を「仁田山紬」と言うようになった。

まあ、近畿地方からの移住者が織物の技術を伝えたんだろうけど、それが姫物語になったってことかな。

関連 「桐生市織姫町・織姫神社


桐生市相生町の相生の松。

相生の松 (1)
相生の松 (2)
アカマツとクロマツ各一株が根元で完全に癒着し、特異な姿で並び立っている。高さは約20mで樹齢300年といわれる。

相生の松 (3)
目通り3.6m、根本回り3.9mで、地上2.6mのところで二幹に分かれている。昔から「相生の松」と呼ばれている。

明治22年(1889年)の町村制施行により、蕪町、天王宿村、天沼新田村、下新田村、如来堂村などが合併した際、この松にちなみ相生村と名づけられた。

ところで、この松の生えている場所が、少しややこしい。JR両毛線、東武桐生線、わたらせ渓谷線が交差する三角形の真中にある。行き着く自信があんまりなかったんだけど、なぜか迷いもせず到着。まあ、行ったらあった、と言うのが本当のところだけど。


桐生市広沢町の廣澤山大雄院。

大雄院 (1)
大雄院 (2)
天正11年(1583年)由良家家臣で桐生城代であった、藤生紀伊守の開基といわれる。開山は日栄春朔和尚。

山門は寛保3年(1743年)に建立されたもので、三間一戸、八脚楼門、入母屋、銅板葺き、四天王を安置している。上層外壁と軒下が朱色で彩られ、下層部の欄間には極彩色で彩られた精巧な龍の彫刻が施されている。

大雄院 (3)
大雄院 (4)
15段の石段を上り、さらに4段の石段上に平成12年(2000年)再建の本堂がある。非常に立派な本堂である。

大雄院 (5)
大雄院 (6)
本堂の左に周囲100mほどの池(大雄池)があり、その先に三重塔がある。三重塔は平成19年(2007年)建立。池は蓮の葉で覆われており、その中を大きな鯉が優雅に泳いでいた。

開基の藤生紀伊守は、天正元年(1573年)の桐生氏との戦いで由良氏の指揮を執り、勝利を収めている。

桐生城代を務めるくらいの有力者だが、その最期は正月に酔っ払っているところを、門松の陰から弓で射られたことによる。そのため、藤生家では正月に門松を飾らない風習があるという。


桐生市広沢町の八幡山法楽寺。

法楽寺 (1)
和銅元年(708年)、行基が諸国行脚のおり当地に立寄り、小寺を造営し仏像を安置したのが始まりと伝えられる。

法楽寺 (2)
法楽寺 (3)
天喜年間(1053年~58年)の前九年の役では、源義家が戦勝祈願に訪れ、また奥州平定後の凱旋時には、賀茂神社と当寺前に舞台を造営して、法楽の舞を奏上したといわれている(これは賀茂神社と共通の由緒。)
(賀茂神社は、「上野国十一之宮 -賀茂神社-」参照)

後に義家家臣の周東刑部左衛門は当地に残り、戦没者の慰霊のため当寺を建て替え、山号を八幡太郎の八幡山とし、寺号は法楽の舞を奏上したところから法楽寺と名付けている。

しかし、特に義家関連のものがあるというわけではないようだ。


桐生市広沢町の広沢山福厳寺。

福厳寺 (1)
天正16年(1588年)憲俊法師の開山とされるが、慶長16年(1611年)彦部信勝が三好の乱で戦死した父と兄の供養のために開基したとも伝えられている。両者には23年のずれがある。(彦部信勝は「桐生市広沢町・彦部家住宅」参照)

福厳寺 (2)
福厳寺 (3)
現在の本堂は銅板本葺屋根、地元で伐り出した桧を主材に造られ、平成11年(1999年)に完成したもの。

屋根の中央に宝珠を戴いた宝形造りの屋根は、小さなお堂ではよく見かけるが、本堂のような大きな建物では比較的珍しい。宝珠は、不幸災難を除き濁水を清水に換える徳があるといわれている。

福厳寺 (4)
福厳寺 (5)
観音堂内には福寿観音(洒水観音)が祀られている。

福厳寺 (6)
本堂裏の小高い一角に、彦部家累代の墓所がある。

彦部家の歴史は古く、出自は天武天皇に行き着くらしい(桐生への土着は戦国期)。


桐生市織姫町の織姫神社。

織姫神社 (1)
織姫神社 (2)
明治28年(1895年)に日本織物(後の富士紡績)によって、山田郡川内村(現、桐生市川内町)の白滝神社から現在地に勧請されたものである。

織姫神社 (3)
織姫神社 (4)
織姫町周辺は、かつて富士紡績桐生工場があった場所で、太平洋戦争中は、中島飛行機の時局産業に転用されていた。終戦により返還されたが、富士紡績は土地・建物を桐生市に譲渡している。

白滝姫
御神体は等身大の白滝姫立像である。平成12年(2000年)に神社の補修調査を行った際、幕末・明治期に活躍した生人形師・安本亀八の作であることが判明している。白滝姫は身の丈163cmで、左手に金糸の糸巻、右手に扇を持っている。

白滝姫の写真は、桐生市織姫自治会のHPから拝借。平成21年(2009年)11月、織姫神社115周年祭のご開帳時のもの。今後5年ごとに御開帳予定らしいので、次回は平成26年(2014年)。

桐生市民センター
織姫神社は市民文化会館の敷地内なので、すぐ隣にスカイホールが見える。繭形の大きな屋根が特徴。遠くから浮遊しているように見えるよう設計され、外壁は光の加減によって白やシルバー、光沢のあるグレーに変化する。

総事業費140億円だってさ。金かかってんなぁ~。桐生市の住民税、高そう!

話がそれたけど、白滝姫は色白で美しいね!


桐生市宮本町の桐生西宮神社。

西宮神社 (1)
兵庫県西宮市のゑびす宮総本社西宮本社の直系分社として、明治34年(1901年)に分霊勧請された。御祭神は蛭子大神で、美和神社の境内に遷座している。まあ早く言えば美和神社の境内社。

ところで、この鳥居の写真に写っている社号標は、美和神社のもの。

西宮神社 (2)
確認のため鳥居を見ると、やっぱり西宮神社の鳥居。

西宮神社 (3)
西宮神社 (4)
鳥居の右側に広い参道がある。毎年11月のゑびす講で賑わうので、後から作ったものかな、と勝手な想像。

西宮神社 (5)
西宮神社 (6)
西宮神社 (7)
境内社だということを考えると、社殿はものすごく立派である。ゑびす講というお祭り(例大祭)を見ても、すでに境内社の域ではなく、ひとつの単独神社と扱っていいと思う。

ちなみに、桐生西宮神社は「関東一社」の称号を受けており、関東における唯一の直系分社の格式をもっている。


桐生市宮本町の美和神社。
延喜式内社・上野国十二社の十之宮である。

美和神社 (1)
崇神天皇の御代に大和国の三輪山から御分霊を勧請したことに始まると伝えられる。延暦15年(796年)に賀茂神社とともに官社に列した。賀茂神社は上野国十一之宮。
(賀茂神社は「上野国十一之宮・賀茂神社」参照)

美和神社 (2)
美和神社 (3)
美和神社は上野国延喜式内社の古社で、何となくだけど威厳を感じる。

美和神社 (4)
本殿も落ち着いた雰囲気である。

美和神社 (5)
鳥居の前に大きく湾曲しながらも、たくましく上へ伸びる「ド根性松」がある。樹齢100年以上とみられる高さ約6mのアカマツ。約2mの高さで北側に大きく湾曲しているのが特徴で、いったん下に向いた枝葉が再び上に向く珍しい形をしている。「美和の上がり松」と言うらしい。

ところで、これで延喜式内社・上野国十二社のうち、11社参拝完了である。残すところ、四之宮・甲波宿禰(かわすくね)神社(渋川市)のみとなった。まあ、最初は意図的じゃなかったけど、途中からはどうせなので全部回りましょうと。あと1社なので頑張ろう。


桐生市仲町の桐生倶楽部会館。

桐生倶楽部 (1)
社団法人「桐生倶楽部」は、明治33年(1900年)に誕生した産業人の社交機関「桐生懇話会」をその設立母体としている。当時桐生町と周辺町村の有力者は協力して、桐生停車場、銀行誘致、電話設置などに尽力、桐生町発展の基礎を作った。

桐生倶楽部 (2)
桐生倶楽部 (3)
桐生倶楽部会館は、大正8年(1919年)に桐生倶楽部の活動拠点として造られた木造2階建て、寄棟、瓦葺きの大正モダニズムの薫りを伝える洋館。縦長の上げ下げ窓、4本の煙突、玄関ポーチにはギリシャ神殿風の柱、玄関扉上部はファンライトと呼ばれる半円形の欄間を設えている。

桐生倶楽部 (4)
外壁はリシン吹き付けで、桐生倶楽部のマーク(?)「K」の文字が。

桐生倶楽部 (5)
桐生倶楽部 (6)
桐生倶楽部 (7)
各部屋は机や椅子、暖炉にランプ、絵画など、それぞれの部屋の用途、雰囲気に合った調度品が置かれ、部屋の個性をさらに引き立てている。

大正時代は15年と短かったが、日本が大きく変化した時期である。このように大正モダニズムを感じる建物は数少なくなっており貴重と思う。


桐生市天神町の桐生天満宮。

桐生天満宮 (1)
景行天皇の御代(71年~130年)に天穂日命を祀る神社として創建されたと伝えられ、当初は磯部の岡に鎮座していたため磯部明神といった。南北朝時代初期に桐生綱元(桐生氏の祖)が、京都・北野天満宮から菅原道真を合祀して天満宮とし、桐生の総鎮守とした。

桐生天満宮 (2)
桐生天満宮 (3)
御神橋を渡ると神門がある。神門は平成大修理で新設されたもので、桐生門と名付けられている。

桐生天満宮 (4)
桐生天満宮 (5)
社殿は、群馬県内の江戸時代の神社建築に多くみられる、本殿が幣殿・拝殿につながるいわゆる権現造りの形式である。

桐生天満宮 (6)
本殿・幣殿は岩の上に建ち、社殿すべてが当時の建築装飾技術の粋を集めた建造物である。岩の上に建っていることから、「岩の上の天神」と称される。って、そのまんまね。

桐生天満宮 (7)
本殿・幣殿の外壁には、極彩色の精巧かつ華麗な彫刻が施されており、内部にも同様な彫刻とともに壁画も描かれている。「きりゅう」の語源になったともいわれる「貴龍」は拝殿の天井絵。

桐生天満宮のすぐ近くには、桐生一高や桐生工高、桐生女子高があるので、学問の神様も受験シーズンは忙しそうだね。


桐生市堤町の水道山記念館。

水道山博物館 (1)
水道山博物館 (2)
桐生市水道課(現在の桐生市水道局)の配水事務所として昭和7年(1932年)に建設された。木造平屋建、外壁はスクラッチタイル貼り、屋根は瓦葺である。

昭和47年(1972年)、40年に及んだ配水場事務所としての役割を終え、昭和60年(1985年)から昭和61年(1986年)にかけて改修工事が行われ、「水道山記念館」と改称している。

昭和初期に造られた貴重な近代化遺産である。

水道山博物館 (3)
現在は資料展示と会議や研修会などで、市民に利用されている。

桐生市には西洋風やモダンな建築物が多いね。


桐生市相生町の桐生明治館。

桐生明治館 (1)
明治11年(1878年)に衛生所兼医学校として、前橋(現群馬会館位置)に建設される。その後、昭和3年(1928年)に山田郡相生村役場として移築される。

昭和59年(1984年)から昭和61年(1986年)にかけて保存・修理工事行い、創建当時の姿に復元されている。

桐生明治館 (2)
建物は木造二階建の桟瓦葺で、当時の洋風潮流に基づくポーチやベランダを付けた典型的な擬洋風建物。玄関を中心に、ほぼ左右対称。

桐生明治館 (3)
桐生明治館 (4)
明治期の人力車・自転車・カメラ、ピアノや家紋入りのドローイングデスクなど、身の回りの品が展示されており、当時の面影を感じることができる。ピアノは桐生随一の豪商・12代書上文左衛門が、大正11(1922)年に納入したもの。

桐生明治館 (5)
2階中央の貴賓室。奥の赤い二脚の椅子は、明治35年(1902年)に皇太子時代の大正天皇がご来桐の折にご使用になられたもので、昭和9年(1934年)に行幸された昭和天皇が再びご使用になられたものらしい。(ただ、この明治館とは関係ないみたいだけど。)

明治の初期洋風建築のさまざまな特徴が見られ、古き時代の面影と異国情緒を今に伝えている。


桐生市広沢町の桐生自動車博物館。

桐生自動車博物館 (0)
ここはトヨタ車を集めた小さな自動車博物館。油彩画のギャラリーも併設されている。建物は大谷石造りの「のこぎり屋根工場」で、70年以上前に建てられた桐生を代表する建物。

桐生自動車博物館 (1)
桐生自動車博物館 (2)
桐生自動車博物館 (3)
桐生自動車博物館 (4)
桐生自動車博物館 (5)
日本の自動車産業の歴史を物語る、昭和30年・40年代のトヨタ車を中心に展示している。

館長さんがいろいろ話をしてくれて、「へぇ~!」「そっかっ!」って分かったような気になっていたんだけど、帰ってきて写真を見ても、どれがなんだか分からず・・・・。

ところで、ここは開館日が非常に少ない。だいたい月に2日(日曜)くらい。HPで事前に調べてから行かないと閉まってる。8月みたいに、「暑かったから開けなかった」(by 館長さん)みたいなこともあるらしい。


桐生市広沢町の賀茂神社。
延喜式内社・上野国十二社の十一之宮である。

賀茂神社 (1)
崇神天皇の御代(前97年~前29年)、豊城入彦命が東国鎮護のため山城国賀茂神を勧請したと伝わる。延暦15年(796年)に美和神社とともに、官社に列したとある。美和神社は上野国十之宮。

賀茂神社 (2)
賀茂神社 (3)
境内に入ると、なんとなく雰囲気が厳か。緑が多いからかな。

賀茂神社 (4)
賀茂神社 (5)
意外と小さい本殿。彫刻の題材は分からないけど、なんとなく面白い。

賀茂神社 (6)
拝殿右横にある石灯籠。高さ210cmで、永和4年(1378年)の造立。造立年代の明らかな石灯籠では、桐生市最古である。

賀茂神社 (7)
天喜年間(1053年~1058年)の前九年の役では、源義家が戦勝祈願に訪れ、また奥州平定後の凱旋時には神楽を奏上したという。

社務所前には源義家が腰掛けたと言われる休み石がある。ちょっと高くて座りづらそうだけど。


桐生市新里町山上の山上城址。

山上城址公園 (1)
山上城址公園 (2)
山上城は、鎌倉時代に藤原秀郷の子孫・山上五郎高綱によって築城され、戦国時代末期に武田勝頼に攻められたのち廃城となっている。

ちなみに、藤原秀郷は俵藤太の通称で知られ、三上山の大百足退治の伝説で有名である。

城の構造は並郭で、北から南へ笹郭・北郭・本丸・二の丸・三の丸・南郭と一直線に並んでおり、川や谷などの自然を要害とした丘城。南北650m、東西220mの細長い形をしている。

山上城址公園 (3)
山上城址公園 (4)
本丸、二の丸跡は、標識が立っているのみで、特になし。

山上城址公園 (5)
山上城址公園 (6)
山上城址公園 (7)
三の丸跡は緩やかな丘陵を活かして、ローラー滑り台やロープクライミングなどの遊具のある芝生広場となっている。

山上城址公園 (8)
太鼓橋や滝を配した庭園も整備されている。

この芝生広場はいいねぇ。広い!! 行った時も子どもたちが、丘陵を段ボールを敷いて滑って遊んでいた。


桐生市新里町山上の塔婆(石造三重塔)。通称、山上多重塔。

山上多重塔 (1)
平安時代初期の延暦20年(801年)に僧道輪によって建てられた供養塔。塔には安楽と平和を願う45の文字が刻まれている。

山上多重塔 (2)
山上多重塔 (3)
材質は多孔質の安山岩を加工したもので、上から相輪、屋蓋、塔身、礎石で構成される。高さは1.85mで、下層は幅48cmで垂直に立ち上がり、中層と上層は「八」の字状に造られている。

それそれの塔身の四面は、朱が塗られていたらしい。塔身上部には、経典を収めたとされる深さ20cmほどの窪みがある。

刻まれている45文字の意味は、「朝廷や衆生などのため、小師の道輪が法華経を安置する塔を建てた。これで、無間の苦難より救われ、安楽を得て彼岸へ行ける」

多重塔は明治時代の開墾時に発見されたというから、けっこう長い期間地中に埋まっていたと思われる。だから、欠損することなく残ってるんだね。


桐生市新里町武井の武井廃寺塔跡。

武井廃寺塔跡 (1)
武井廃寺塔跡 (3)
古代寺院の跡と伝えられており、昭和16年(1941年)に国の史跡に指定されている。

武井廃寺塔跡 (2)
武井廃寺塔跡 (4)
土を盛って作られた基壇上に直径107cmの安山岩製加工石があり、その中央部に直径42cm、深さ38cmの穴が開けられている。この加工石を塔の礎石とみなし寺院跡とされた。ところが、これ以外に礎石が発見されず、また地形が傾斜していて寺院が建っていたにしては不自然なため、以前から寺院遺跡であることが疑問視されていた。

昭和44年(1969年)の調査の結果、基壇は一辺約7.8mの8角形で、斜面に化粧石が施された特殊な構築物であることが判明した。つまりは古墳ということ。しかも八角墳は主に天皇陵に採用された形式で、全国でも10例ほどが知られるにすぎない貴重なもの(ここが天皇陵、もしくはそれに準ずると言っているわけではない)。

さらにこのあたりでは、8世紀代以降の石製蔵骨器を伴う火葬墓が多数発見されており、古墳説を裏付ける証拠となっている。現在では礎石と思われていた加工石は、火葬したお骨を入れる「骨壺」とされている。

しかし一度史跡に指定されると、明らかな間違いでもよほどのことがない限り正されることはないと言うこと。例外は「ゴッドハンド」が捏造した旧石器遺跡くらいかな。

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