上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 太田市(旧郡部)


太田市新田反町町の矢止めの松。

矢止めの松
矢止めの松2
新田義貞が生品神社で旗揚げした際、南方に戦の吉凶を占う鏑矢を放った。その矢が当たったと云われているのが、この松。

生品神社から南に約2km。矢が2kmも飛んだということになる?

矢止めの松3
矢止めの松4
まあ、矢が本当にここまで飛んできた、ということはないだろうから、伝説の一種。松は当然、当時のものではなく、後に植え替えられている。

以前紹介した「駒つなぎの松」も、進軍経路とは違うとの説もあり、同様の伝説。
(「新田義貞 駒つなぎの松」参照。)

次回、また松がらみの伝説を紹介するよ。


太田市新田金井町の大田市新田庁舎。元の新田町役場。
ここに新田義貞像がある。

新田義貞像 (1)
オレの義貞イメージとは、ちょっと違うけど立派な銅像。オレは上毛かるた(上毛かるたの絵札)のイメージしかないので。持ってる太刀が、なんとなく青竜刀っぽく見えるけど・・・。

像の後ろを見たら、どうも一般の方が定年を迎えたので、寄贈したようなことが書いてあった。人生の節目に、地元に恩返しって感じで、すばらしいことだよね。

新田義貞肖像画
これは福井県福井市の藤島神社にある肖像画。凛々しいよね。藤島神社は、新田義貞を御祭神とし、義顕(長男)、義興(次男)、義宗(三男)、脇屋義助(弟)を御配祀神とする、義貞ファンにはたまらない神社。

2円札
明治の初めには、新田義貞は2円札になってたんだよね。分かりずらいけど、右側が新田義貞で、左側は児島高徳。児島高徳は、あんまり知られてないかもしれないけど、南朝方の忠臣。

新田庁舎
一応、新田庁舎の写真も。噴水があり、オブジェもあちこちに飾ってあり、意外とモダン。でもポリシーがよく見えないとも思ったけど。


太田市新田上江田町の江田館跡。

江田館跡 (2)
江田館跡 (1)
新田義貞とともに挙兵し、鎌倉を攻めた江田行義の館跡と言われている。江田行義は新田氏の祖・義重の四男・義季の4世と言われる。義季は徳川の祖になったとされる。

江田行義は鎌倉攻め(極楽寺坂の戦)の際、大舘宗氏とともに大将をつとめ軍功をあげた。(「太田市大舘町・大舘氏館跡」参照)

太平記には江田三郎光義と記載されているが、行義のことと思われる。

江田館跡 (3)
江田館跡 (4)
江田館跡 (5)
堀と土塁がある以外は、何にもないみたい。土塁上を1周する気にもならなかったので、奥の方へは行ってないがもしかしたら何かあったかも。

復元図を見ると、相当立派な館である。戦国時代には、金山城の出城として使われていたくらいだからね。

江田行義の最期はよく分かってないが、新田義貞同様、二度と新田荘に戻ることはなかった。江田氏は室町時代、備後国(広島県東部)に落ち延び、足利の目を逃れていたという。そして室町幕府滅亡後の文禄年間(1592年~1596年)に、10代目がようやく新田荘に帰参したという。

雌伏250年!ってところかな。


太田市新田大根町の矢太神水源。

矢太神水源
矢太神水源2
矢太神水源3
利根川に注いでいる石田川の源だそうで、水量は豊富で水が砂を噴き上げる「自噴現象」が見られる。石田川流域には、縄文時代から中世にかけての遺跡が数多く残っており、この地域に早くから文化が栄えていたことを物語っている。

ここは、国指定史跡「新田荘遺跡」の一部。

矢太神水源4
石田川の周辺には、江田、田中、小角などの郷があり、新田荘の開発に石田川の水が利用されたこと示しているってさ。

子供が落ちないための配慮なのか、あんまり水源には近づけないが、見た目にもきれいだった(ような気がする)。

矢太神水源5
ホタルの里公園として整備されていて、のんびりすることができる。ホタルの里って言うくらいだから、夏にはホタルが見られるのかな?

すぐ南側にも池のある公園があって(なんとか寺跡ってあったと思う)、散歩にもいいね。


太田市岩松町の岩松尚純夫妻の墓。
今は尚純萩公園として整備されている。

岩松尚純の墓 (7)
岩松尚純の墓 (6)
岩松尚純の墓 (3)
正面には墓碑があり、その左側に五輪塔が建っている。岩松尚純はこのブログで最近よく出てくる岩松氏の総領。時代的には1500年ころの人。

岩松氏は新田氏本宗家没落後、新田氏にとって代わったが、尚純の時代になると家臣・横瀬氏(後の由良氏)の台頭を抑えられず、追われるように隠居している。

岩松尚純の墓 (4)
尚純は隠居した後、青蓮寺で連歌の道に励んだという。そのためか歌碑のようなものもある。号は静喜庵。

岩松尚純の墓 (1)
ところでこの墓所は萩公園と名が付いているくらいだから、尚純と萩には何か関係があるんだろうか?それとも、この辺は萩の群生地?


太田市岩松町の義国神社。

義国神社 (1)
義国神社 (3)
義国神社 (4)
源義国を御祭神とする義国神社。

義国は八幡太郎義家の三男で、新田氏の祖・新田義重、足利市の祖・足利義康の父である(義家の四男との説もある)。

義国神社は青蓮寺(岩松館跡)から約200mのところにある。畑の中にポツンとあるので(周りに何もない)、その場所はすぐに分かる。ただ歩いていくには畑の中を突っ切るわけにもいかず、回り道をしないといけないので5分くらいかかる。

義国神社 (5)
義国神社 (2)
社の裏には義国夫妻の供養塔といわれる五輪塔があり、その没年(久寿2年:1155年)が記されている。義国夫妻の墓所ともいわれている。

義国はまず足利に地盤を張り、そこを次男・義康に譲り、長男・義重とともに新田荘を開拓。晩年は岩松館(青蓮寺)に居住していたと考えられている。新田の地で死去したといわれているので、あながちここが墓所でもおかしくない気がする。

でも、正式な墓所があるのは、足利市の鑁阿寺(ばんなじ)だという。そこは足利義康の館跡。後に足利氏と新田氏の立場には大きな差がついたため、足利氏が義国の墓所を鑁阿寺に後から造ったといったところかな?


太田市岩松町の岩松山青蓮寺(しょうれんじ)。

青蓮寺 山門
青蓮寺 本堂
青蓮寺は岩松山義国院といい、新田・足利両氏の祖・源義国の開基とされている。義国は、あの有名な八幡太郎義家(源義家)の三男。(四男との説もある。)

岩松館跡 解説
ここは義国の館跡と推定され、境内からは堅固な掘立柱跡等の遺構が、数多く出土している。義国の他、義重やその嫡男・義兼らが住んでいたと推定されている。

後にこの館は、岩松時兼に譲られている。岩松時兼は、義重の嫡男・義兼の娘の子という関係。

仁王像 (1)
仁王像 (2)
山門には立派な2体の仁王像がある。特に解説板もなかったので、いつの時代のものなのか、謂れは何かあるのか等、分からず。運慶作との説もあるようだが・・・。

室町時代後期には、金山城主だった岩松尚純が隠居後に、この青蓮寺で連歌の道に励んだとか。

いやぁ~、前回岩松氏の勉強しておいて良かったよ。今回の人物のつながりが、それなりに理解できた。(「太田市岩松町・八幡宮」参照。)


太田市岩松町の八幡宮。

岩松八幡宮 (1)
岩松八幡宮 (3)
岩松八幡宮 (4)
新田氏の祖・新田義重が、京都の石清水八幡宮に参拝した際、松の実を持ち帰ってこの地に蒔いたところ、松の木が生えたので、岩松と地名を改めて八幡宮を建てたと言われている。創建は、1170年ころと推定される。

生品神社、笠懸の赤城神社とともに、新田三社と呼ばれる。

岩松八幡宮 (2)
南北朝以降、新田氏の実権が新田本宗家から、傍流の岩松氏に移ったことから、ここを「新田総鎮守」と称するようになった。

岩松氏に関しては、色んな資料を見たのだが、見れば見るほど混乱して・・・。結局は(多分)、足利氏の祖・足利義康の子・義純を祖とする源氏の家系ってこと。でも、義純は新田義重に養育されたという。義重は、新田荘に来る前は足利にいたから、その頃の話し??

もうちょっと付き合って。
で、義純は義重の子・義兼の娘を娶るが、後に畠山重忠の未亡人を娶ったので、前妻(義兼の娘)の子(岩松時兼)は新田方に残った。ということで、父方(義純)は足利氏、母方(新田義兼の娘)は新田氏という関係。

南北朝以降、新田本宗家の没落後、足利氏、新田氏両家との関係をうまく、使い、新田氏の総領職を奪い新田荘を中心に栄えたとか。

戦国時代には、重臣・横瀬氏(後の由良氏)に下剋上され没落した。横瀬氏も新田義貞の子孫と称している。義貞三男・義宗の三男・貞氏の家系。貞氏が横瀬氏に婿入りした、ということみたいだけど・・・。

ちなみに、明治維新後に男爵の爵位を与えられた新田氏は、この岩松氏の末裔・岩松俊純である。

ふぅ~、疲れた。
岩松八幡宮の紀行記のはずが、オレの勉強ページになってしまった。申し訳ないです・・・。(間違いもあるかも。)


太田市安養寺町の呑嶺山明王院安養寺。

明王院

明王院2
明王院は「新田触不動(にったふれふどう)」とも言われる。創建は康平4年(1061年)で、源頼義が開基である。後に新田義貞が七堂伽藍十二坊を有する大寺院へ再建したという。

明王院3
明王院4
明王院5
不動堂には二体の不動明王が納められている。そのうち一体が義貞鎌倉攻め(旗揚げ)の際、山伏に化身し越後方面の新田一族に一夜にして触れまわったという。それで「新田触不動」と言うそうな。

二天門には、持国天と多聞天があるとのことだったが、修理中との表示が。

明王院6
明王院7
明王院8
境内には、江戸時代建立のピラミッド型の千体不動尊がある。これは、高さが6mもあり、合計で千体の不動明王像が彫られている(陽彫)。

小川宇兵衛重政という人が、延亨4年(1747年)に江戸の石工に85両で造らせたという記録があるとか。ところで、小川宇兵衛重政って誰?? その後、この方のご子孫が昭和32年(1957年)に修復もしているらしい。


太田市亀岡町の新田義貞・駒つなぎの松。

新田義貞 駒つなぎの松 (1)
新田義貞 駒つなぎの松 (2)
生品神社で旗揚げた義貞は、鎌倉を目指して進軍を開始した。とは言っても、このときわずか150騎。

進軍経路は諸説あるようだが、生品神社から南進し、国境を流れる利根川を渡る前にこの地で休したという。そのとき愛馬をつないだのが、この松といわれている。

西に向かい、前橋あたりで利根川を渡り、高崎経由で鎌倉に向かったとの説もある。今も残っている鎌倉街道を見ると、こっちの方が正しいような気も・・・。

松じたいは立派であるが、樹齢1000年には見えないので、何度か植え替えられているようだ。

こういう伝説じたいが、この地の人々が新田義貞を慕っていたことの表れかな。

そう言えば、松につないだ愛馬にも伝説がある。義貞が討ち死にする戦に出陣する際、義貞が乗れないほど大きく暴れ、主人の死を予感していたという逸話が太平記に出てくる。

ちなみに、埼玉県狭山市の八幡神社にも、義貞が愛馬をつないだという松がある。


太田市大舘町の大舘氏館跡。

大館氏館跡 (3)
大館氏館跡 (1)
大館氏館跡 (2)
大舘氏は、新田政義の次男・家氏を祖とする。政義は、例の政義である。過去記事を見てね。(「古墳の中にある神社 -十二所神社-」参照。)

大舘は「おおだち」と読む。大館と書いて「おおだて」と読む場合もあるようだが、今回は大舘(おおだち)で通す。

家氏の子・宗氏は、新田義貞の鎌倉攻めに右大将として参戦している。残念ながら極楽寺坂で戦死している。稲村ケ崎に大舘氏主従十一人塚という慰霊碑がある。

その大舘氏の館があったと言われている場所。

大館氏館跡 (4)
今は何にも残っておらず、小さな諏訪神社が建ってる。ほんとうに何もない。

大館氏館跡 (5)
大館氏館跡 (6)
幹線道路からちょっと入ったところにあるんだけど、辺り一面畑ばっかり。レタス畑の向こうに、何か社が見えるなって感じ。まあ、昔は大きな館があったんだろうけど・・・。

ちなみに、幹線道路にはきちんと案内標識がある。最近太田市(含む旧新田町、旧尾島町)を巡っているが、案内標識が整備されていて本当に助かっている。

さすが、歴史の街!


太田市世良田町の二体地蔵塚。

二体地蔵塚 (1)
二体地蔵塚 (3)
元弘3年(1333年)、鎌倉幕府執権・北条高時は、西国(近畿地方)の乱を鎮めるため、10万の兵を京都に派遣することになった。その戦費を調達するため関東各国から臨時の税金を取り立てた。ちなみに、西国で乱を起こしたのは楠木正成。

その際に新田荘世良田は裕福な者が多いという理由で、特に莫大な税金を課した。その使者を新田義貞が「ふざけんなっ!!」って、斬って首を晒したのがここ。

使者を斬ったのは、新田館(総持寺)であるといわれている。ここから1kmくらい。
(「太田市世良田町・威徳山総持寺」参照。)

二体地蔵塚 (2)
出雲介親連と黒沼彦四郎入道の2人が使者で来たが、何故か斬られたのは黒沼ひとり。なので、黒沼彦四郎入道梟首遺跡となっている。二体地蔵塚の二体のもう一体は、後で別のお寺から移した。この一件により、義貞は鎌倉幕府討幕へ進んでいくことになる。

でもかわいそうなのは、執権殿の命令を伝えにきただけなのに斬首されてしまった黒沼彦四郎入道。権力をかさにいろいろやったのかな?


太田市世良田町の八坂神社。

八坂神社 (1)
八坂神社 (3)
八坂神社 (2)
上野国新田祇園牛頭天王縁起によると、貞観18年(876年)の創建とあるので約1200年の歴史。

夏祭りは「世良田祇園」として知られ、11台の屋台が繰り出して競う祇園ばやしは、関東の三大祭りのひとつに数えらたとか。

八坂神社(4)
近年は、規模は縮小されたものの、神輿の渡御などの伝統が受け継がれている。どんなお祭りか、見てみたい気もする。

芭蕉句碑 (1)
芭蕉句碑 (2)
境内には、芭蕉の句碑がある。文政9年(1826年)建立で、仁井田碓嶺(にいたたいれい)とかいう俳人の筆らしいんだけど、何で芭蕉の句なの? 当時の俳人にとって、松尾芭蕉ってのはすごい存在だったんだろうけど。

明治になっての神仏分離以前は新田天王社と言われており、新田氏代々の崇敬社だった。


太田市世良田町の威徳山総持寺。

総持寺 (2)
総持寺 (4)
総持寺は、新田館の一角に建てられたお寺で、中世の堀跡と掘立建物、井戸などが確認されている。新田館は、その規模から新田一族の総領クラスの居住館とみられている。

調べると、保元元年(1157年)に新田義重が築いたと言われているらしい。その後代々新田氏の総領が住んでいたってことかな。新田義貞は、ここから生品神社に向かい、鎌倉に出陣したという説もある。

総持寺 (3)
吾妻鏡に出てくる、源頼朝が那須に狩りに行った帰りに立ち寄った「新田館」は、ここだという。また、太平記に出てくる、新田義貞が鎌倉幕府からの使者を斬首した、「わが館」もここだという。

総持寺 (5)
総持寺
鐘楼と鐘。解説板もあったんだけど、よく読んでこなかった。太田市の重文みたいだけど。

今の総持寺境内には、当時を偲ばせるものは残っておらず、ちょっと残念。申し訳ないけど、ただのお寺。

太田市徳川町の伝新田義重夫妻の墓。

伝新田義重の墓(3)
伝新田義重の墓
伝新田義重の墓 (2)
前回の徳川東照宮から数百mのところにある。今は畑の中にポツンって感じ。

新田義重は源義国の長男で、新田氏の始祖である。義国の次男・義康は足利氏の始祖である。義重や義康は、あの有名な八幡太郎義家の孫ということになる。

義重は四男である義季(徳川)を寵愛し、晩年は義季の館に同居していたといわれている。義季は義重の死後邸内にその墓を建てたという伝承があり、それがこの墓である。つまり、昔は義季の邸内だったということ。

昭和45年(1970年)の墓地整備の際、礎石下から火葬骨の入った骨壺が発見されている。骨はまた埋め戻されたが、誰の骨だったのか・・・。

義重が頼朝の挙兵に非協力的だったことから、新田氏は鎌倉時代に冷や飯を喰わされることになる。さらに後の政義の不始末により、新田氏は没落していく。

それにしても、新田氏関係のお墓っていっぱいあるね。義重のお墓は大光院にもあった。
(上毛かるた紀行、「太田金山 子育呑龍」参照)

新田氏累代の墓と称するものも、行っただけでも長楽寺、円福寺にある。
(「太田市世良田町・世良田山長楽寺」「新田氏累代の墓・御室山円福寺」参照)

まあ、新田氏は地元では慕われているから、みんなで弔っているということだね。


太田市徳川町の東照宮。

徳川東照宮 (2)
徳川東照宮 (4)
徳川東照宮は寛永21年(1644年)徳川郷主だった生田義長が邸内に建立した。

徳川東照宮 (3)
郷主の私神社なので、一般の人は限られた時しか参拝できなかった。明治5年(1871年)に東照宮の社地が徳川村に寄進されている。

徳川東照宮
もともとここは徳川氏の祖・義季の館跡である。義季は新田氏の祖・義重の子で、新田郡の世良田郷、得川郷(徳川郷)を譲られた。

義季から8代目の親氏が南朝に加担し徳川郷を追われた時、生田隼人が後任となった。その後この生田氏が家康に新田氏家系図を差し出したことで、系図の捏造が行われ晴れて家康は源氏の家系に名を連ねることになった。この功により、正田氏(生田氏から改姓)は德川氏館を正式に所有できることになった。

徳川家康はそれまでは藤原姓だと言っていたのに、新田氏(徳川氏)の家系図を手に入れたら源姓だと言い出した。これにより慶長8年(1603年)に征夷大将軍になり、慣習により江戸幕府を開けたってこと。


太田市新田反町町の反町館跡。

反町館跡2
反町館跡3
現在も4方の堀に水をたたえ、かつての館跡の面影を残す。中世の代表的な平城。南側には土塁も残っており、この辺はそれっぽさを醸し出している。

反町館は、新田義貞が青年期に居住したとも言われている。14世紀初頭の築城、というか建設らしい。

照明寺本堂
現在は瑠璃山照明寺の境内となっている。

本堂裏手には、「鳴かずの池」というのがあるはずなんだけど、塀があってよく見えず。なんとなく草むらがあったような。どこかに、行く道があったのかなぁ~。

この「鳴かずの池」っていうのは、義貞が池のカエルの鳴き声がうるさいので、一喝したら鳴きやんだ、といういわれがある。

戦国時代は城(砦)として使われていた、っちゅうくらいなので堀や土塁はそれなりだけど、それ以外は・・・。新田義貞がらみの物は残ってないみたいだし。

写真の堀は南側のもの。他の3方の堀の写真はない。何でかって言うと、立派すぎて(整備されすぎていて)、この南側が当時をしのぶって感じがしたので。


太田市世良田町の世良田山長楽寺。

長楽寺
長楽寺・本堂
長楽寺は新田氏の始祖・新田義重の子・義季を開祖、栄朝を開山として承久3年(1221年)に創建された。関東最初の禅寺と言われる。

家康が新田氏の家系に目を付けたことから(義季は徳川氏の祖!)天海を住職として送り込み(別のお寺との兼務らしいが)、境内の整備や伽藍の修復を行った。この頃は相当没落していたらしいので、結果的に寺の再興になった。

長楽寺・太鼓門
長楽寺・三仏堂
太鼓門と三仏堂の間には一般道が通っている。世良田東照宮からはこの道を歩いて来たけど、両側が長楽寺なんだよね。最初は分かんなかった。

長楽寺・義季累代の墓
長楽寺・宝塔
敷地内には文殊山があり、世良田義季累代の墓と言われている。宝塔は貴重なものらしい。

長楽寺・新田氏累代の墓
裏の方には、新田氏累代の墓もある。

世良田東照宮から真ん中の道路を来ると、右側に三仏堂や勅使門、左側に太鼓門や文殊山、本堂がある。

そう言えば、明智光秀が生き延びて、天海僧正になったという伝説がある。源義経がチンギス・ハーンになったというのと同じレベルだけど。


太田市世良田町の東照宮。

世良田東照宮
世良田東照宮2
世良田東照宮は寛永21年(1644年)徳川家光の命により長楽寺の境内に創建。明治に入り神仏分離により長楽寺から分離されている。

世良田東照宮3
拝殿は日光東照宮奥社拝殿を移築したもの。中井正清最後の作といわれている。中井正清は関ヶ原後に家康に作事方として仕え、江戸城・増上寺・日光東照宮などを手掛けた大工頭。

世良田東照宮4
世良田東照宮5
本殿は伝左甚五郎作。狩野探幽の彫刻「巣籠りの鷹」が有名。いずれも国指定の重要文化財。その他、写真はないが唐門も重文。

とは言っても、拝観料には見合ってない。狭いし。境内には人がけっこういたのに、有料拝観する人がほとんどいないのも分かる気がする。オレが行った時は、オレ以外は親子連れ3人のみ。

世良田東照宮6
宝物館と称するところには、相変わらずの家系図が。「本当だよ、本当だよ」と一生懸命言い訳しているようで、笑ってしまった。


太田市世良田町の新田荘歴史資料館。
昭和60年(1985年)に開館した東毛資料館が平成21年(2009年)に太田市に移管され、太田市立の新田荘歴史資料館として新たに開館した。

新田荘歴史資料館
新田義貞
お~っ、いきなり新田義貞像。期待が持てる。

ちなみに、この銅像の写真は上毛かるた紀行、「歴史に名高い新田義貞」でも使ってるので、そっちも見てね。

新田荘歴史資料館 (6)
新田荘歴史資料館 (5)
新田荘歴史資料館 (4)
新田荘歴史資料館 (3)
新田氏や義貞関係の展示であふれている・・・わけではなく、古代から時代順に並んでいた。義貞関係って、こんなもんしかない。おっと、肩すかし。もう少し新田義貞や新田氏に関しての展示が多いと思ってた。

確かにこの辺は歴史的な遺跡が多く、また各時代に渡っているので、平均的になってしまうのも分からなくはないが。

新田荘歴史資料館 見取り図
この資料館けっこう大きいのに、資料展示に半分しか使ってないんだよね。左側の空いてるところを新田氏と義貞専用展示ブースにするとか、もっと工夫できると思うけど。歴史資料には事欠かない地域なんだから。

あと、事務員何人いるか知らないけど、事務所デカ過ぎ!


太田市徳川町の徳川山満徳寺。
鎌倉の東慶寺とともに、日本でふたつの縁切寺・駆け込み寺である。

満徳寺
満徳寺2
徳川家の祖とされる徳川義季の娘を開祖とする。徳川2代将軍秀忠の娘・千姫が再婚するに際し、前夫豊臣秀頼との離婚の名目を立てるため入寺したと伝えられる。実際は代理の代理が入寺したようだが。

檀家を持たず徳川の庇護のもとに成り立っていたため、江戸幕府瓦解とともに明治5年(1872年)に廃寺となった。

近年本堂が復元され、隣には資料館も併設された(1992年開館)。

満徳寺3
駆け込み門 外から。

満徳寺4
駆け込み門 中から。駆け込み門を外からと中から見た。門の外と中では大違いだった?

満徳寺5
再建された本堂は中の見学もできる。まあ、何があるという訳ではないが、東照大権現様(笑)の位牌があった。

満徳寺6
資料館には千姫関係の資料もちょこっとあった。写真はないけど、歴代徳川将軍の位牌もずら~っと並んでいた。

映像コーナーでは、アニメで縁切の仕組みとかが解説されていて、ナレーションは「家政婦は見た」で有名なお方であった。

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