上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 太田市(旧郡部)


太田市大舘町の東楊寺。
東楊寺には津軽藩代官・足立氏の墓があり訪問済みだが、石田三成の娘・辰姫の墓もあるので再訪した。(「津軽藩代官 足立氏の墓・東楊寺」参照)

辰姫の墓 (1)
辰姫の墓 (2)
石田三成の三女・辰姫の墓。

津軽藩・津軽家は関ヶ原の戦いの功績により、上野国2千石を加増されている。現在で言うと旧尾島町(現太田市)周辺。旧大舘村には津軽藩の陣屋が置かれ、参勤交代など江戸出府の際には藩主は東楊寺に滞在したという。

辰姫は慶長3年(1598年)ころ、高台院(ねね)の養女となり、慶長15年(1610年)ころ津軽藩2代藩主・信枚(のぶひら)に嫁いでいる。後に家康養女・満天姫が信枚の正妻となったため側室扱いとなった辰姫は大舘村に移され大舘御前と呼ばれていたが、元和9年(1623年)32歳で死去。

ちなみに辰姫は信枚との間に3代藩主・信義をもうけており、信義は大舘で生まれている。


太田市新田木崎町の照光山長明寺。

長命寺 (1)
長命寺 (2)
長命寺 (3)
長命寺は延長3年(925年)の創建と伝わる。その後、木崎宿の火災により伽藍が焼失したが、慶長3年(1598年)に再興されている。

長命寺 (4)
長命寺 (5)
境内左手に石仏・石塔などが配されており、その後ろの小山は豊城塚という円墳である。名前からして、豊城入彦命の墓とかの伝承がある?

長命寺 (6)
長命寺 (7)
墳頂には五輪塔と双体道祖神があった。

長命寺 (8)
長命寺 (9)
寺前や境内には植込みが整備されており、美しい佇まいを感じる。

長命寺は木崎宿の総鎮守・貴先神社の別当寺を務めている。ちなみに貴先が転じて木崎となったといわれる。

また、長命寺の門前には「木崎宿の色地蔵」がある。(「太田市新田木崎町・木崎宿の色地蔵」参照)
木崎宿は例幣使一行が小休止する程度の小さな宿場だったが、飯盛り女がいたことから、宿場町として大きく発展した。


太田市藪塚町の新井家の五輪塔。

新井家の五輪塔
新井家の墓地内にある凝灰岩製の五輪塔。空輪、風輪は欠落しており、他の石材で代用されている。空輪を除いた高さは85cm。火輪、水輪は三分の一ほど欠損していたが、昭和60年(1985年)に風化を防止する化学処理をした際に復元している。

五輪塔は火輪の直線的な稜線、軒端の垂直に近い切り口、水輪の膨らみなどから鎌倉初期のものと考えらる。旧藪塚本町に現存する五輪塔では最古・最大のものである。

新井家は新田義重の曾孫・荒井覚義の末裔と考えられる。ちなみに、荒井覚義の兄・新田政義は鎌倉時代に新田氏が没落するきっかけを作った人物である。

ちょっと話が逸れるが・・・。
政義は寛元2年(1244年)京都大番役時に、幕府に無許可で朝廷に昇殿と官位を無心し、断られると今度は幕府に無許可で勝手に出家し幕府への出仕を拒否してしまった。妻の実家である足利氏の取り成しがあったから、所領総没収にはならなかったが、これにより新田氏の没落は決定的となってしまった。

まあ、政義の心中を代弁すれば、源氏の本宗家は既になく(実朝は建保7年:1219年に暗殺されている)、「北条ごときが大きな顔しやがって。オレは源氏の本流だ!」って感じだったんだと思う。

4代後の義貞が鎌倉幕府を滅ぼし、新田氏が世に再浮上したのは、これから約90年後のことである。


太田市新田上江田町の庚申塔。

上江田の庚申塔 (1)
上江田の庚申塔 (2)
上江田の庚申塔は安山岩製で高さは約165cm。笠部・塔身・蓮台からなり、塔身の正面に青面金剛像が浮き彫りされている。台座に「◯禄◯年とあり」、塔の形態から元禄年間(1688~1704年)の造立と推定される。

像はひとつの体に頭が3つ、手が6本あり、中の手2本は合掌している。左の上の手は蛇を下の手は弓を握り、また右の上の手は矛を下の手は矢を握っている。像の左右には鶏が彫られ、像の下には三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)が彫られている。

全国的にも珍しい形態の庚申塔である。


太田市新田中江田町の辻地蔵尊。

辻地蔵 (1)
辻地蔵 (2)
辻地蔵は正徳5年(1715年)に中江田本郷地区に住んでいた椎名長兵衛が、西国33ヶ所、坂東33ヶ所、秩父34ヶ所の合計100ヶ所の観音札所を無事に参詣したのを記念して建立したもの。

お地蔵様は、高さ120cm、幅30cmで台座に銘文が刻まれている。

新しい道標が脇にあるが、それには「三本辻地蔵尊」とある。お地蔵さんのある場所は、日光例幣使道から利根川中瀬の渡しに通じる三叉路であった場所。なので、三本辻地蔵尊らしい。

利根川に通じる道は斜めの道であったため、明治時代後期に施行された耕地整理の際、消滅したという。


太田市新田中江田町の旧来迎寺の宝篋印塔。

旧来迎寺跡の宝篋印塔
安養山来迎寺は明治元年(1868年)の火災により焼失し、寺は800m北へ移転され墓地だけが残っている。

その墓地に応安3年(1370年)の銘がある宝篋印塔が建っている。相輪・塔身は他の石造物の石材を使っているが、他の部分は残り、基礎の4面には銘文が刻まれている。銘文には宝篋印塔を造立した18人の僧侶の名前が刻まれている。

当時(南北朝期)は岩松氏が新田荘を治めていたため、北朝側の年号が刻まれていると思われる。岩松氏は足利氏と新田氏の両方と姻戚関係にあったので、その立場を上手く利用し足利氏から新田荘領有を認めさせ、さらに新田氏の惣領職も奪い栄えていく。

ついでに、戦国時代になると家臣の横瀬氏(後の由良氏)に下剋上され没落している。


太田市新田木崎町の旧常楽寺の石塔群。

紫雲山常楽寺はもともと当地にあったが、明治25年(1892年)に連蔵寺、円通寺と合併し上田島町に移転し、墓地だけが元の場所に残っている。
(現在の常楽寺は「太田市上田島町・紫雲山常楽寺」参照)

旧常楽寺の石塔群 (1)
墓地内の五輪塔3基、宝篋印塔3基が太田市の重文に指定されている。

旧常楽寺の石塔群 (2)
旧常楽寺の石塔群 (3)
五輪塔1基には延文4年(1359年)の銘がある。他の2基も同時代の造立と考えられる。宝篋印塔3基には暦応4年(1341年)、康永3年(1344年)、貞和2年(1346年)の銘がある。

いずれも北朝の年号であり、当時新田荘が足利氏の勢力圏となっていたことを示している。

ところで、上の写真でも分かるように、真ん中の宝篋印塔(貞和2年銘)の塔身上部が欠け落ちてしまっている。自然崩落なのか、いたずらなどによる破壊なのか分からないが・・・。康永3年銘の宝篋印塔もだいぶ傾いている。何か手をうった方がいいと思うぞ。

太田市の文化財課はこのことを知っているのか?


太田市藪塚町の羽黒山胎養寺。

胎養寺 (1)
胎養寺は永暦年間(1160~61年)に出羽国羽黒山から寺院を移し、修験者の道場としたことに始まる。その後、享禄年間(1528~31年)に元屋敷(伝藪塚氏館跡)に移り、寛文2年(1662年)に岡登景能により現在地に移されている。

胎養寺 (2)
山門はないが、2本の銀杏が天然の山門の役割を果たしている。

胎養寺 (3)
明治16年(1879年)に火災により堂宇は焼失したが、本堂は同21年(1884年)に再建、昭和30年(1955年)に大改修されている。

本堂に安置されている断臂(ひじきり)不動は、弘法大師が羽黒国湯殿山に参籠した際、大日如来が忽然と不動明王の姿となり自ら断ち切った御臂(おんて)を衆生のために与えたのが始まり。

ちなみに、弘法大師が自ら刻んだ断臂不動明王は目白不動尊にあるらしい。

胎養寺 (4)
胎養寺 (5)
江戸時代の建立と思われる宝篋印塔。

胎養寺 (6)
境内のお洗い地蔵。願を掛けた後にお地蔵さんを洗うらしい。ちょっと寒かったのでお地蔵さんをなでてきただけ。願いは叶わないかな。


太田市新田小金井町の青池山医王寺。

医王寺 (1)
医王寺は正保2年(1645年)良伝の開山と伝わる。明治8年(1875年)に火災により堂宇が焼失、寺歴などは失われている。

医王寺 (2)
本堂は明治10年(1877年)に再建。その本堂も最近新築されたようだ。

医王寺 (3)
医王寺 (4)
医王寺 (5)
本堂手前の参道脇に「不動堂兼観音堂」がある。プレハブ小屋で風情の欠けらもない。古いだけが取り柄じゃないけど・・・。

医王寺 (6)
不動堂内の不動明立像。青銅製で高さは約1.7m。背面の銘文には、明和4年(1767年)に時の医王寺住職・永雄が建立したとある。

観音堂には半伽思惟の如意輪観音が安置されていると聞いていたが、本堂の新築を機に本堂へ移されたようだ。

不動堂と観音堂の中は敷居もなく一体型だが、観音堂はすっかり物置状態だった(苦笑)。


太田市新田小金井町の松尾神社。

松尾神社 (1)
松尾神社の創建は承平年間(931~38年)に山城国(京都)・松尾大社の神霊を勧請したと伝わる。

松尾神社 (2)
参道を進んでいくと、一般道が横切っている。

松尾神社 (3)
松尾神社 (4)
松尾神社 (5)
社殿は天保6年(1835年)に再建され、昭和26年(1951年)に改修されている。

松尾神社 (6)
松尾神社には「太々神楽」が伝わる。享保12年(1727年)に松尾大明神が正一位をいただいたお祝いに、村の若衆が奉納したのが始まりとされる。一時途絶えてしまい神楽が奉納されなくなると、悪病、飢饉、災害などが続発したが、天保8年(1837年)に再び神楽が奉納されるようになると、豊作続きで災害もなくなったという。

松尾神社 (7)
神楽殿脇の銀杏。明治33年(1900年)の大正天皇ご成婚を記念して植樹されたもの。樹齢100年を超える。樹高30m、幹周り3.6m。旧新田町は昭和55年(1980年)に銀杏を町の木と定めている。


太田市新田小金井町の金井山東雲寺。

東雲寺 (1)
東雲寺は第5代鎌倉公方、後に初代・古河公方の足利成氏の開基と伝わる。成氏は関東管領・山内上杉氏と対立し、鎌倉を占拠され古河へ本拠地を移している(享徳4年:1455年)。

東雲寺の創建は成氏が古河へ移ってからと推定されるので、享徳4年から亡くなる明和6年(1497年)までの間かな。当時の上野国は、平井城をもつ山内上杉氏の勢力内だったが、東部は成氏を支持する岩松氏の勢力内のため、新田荘内に成氏開基のお寺が建ったということかも。

東雲寺 (2)
参道両側に観音様がずらっと並んでいる。百体あり、新田百観音霊場というらしい。戦国時代に由良氏家臣・小金井治繁が中興開基しているので、新田色が強くなっている(由良氏は新田氏の子孫を自称)。

東雲寺 (3)
本尊である薬師如来を祀る本堂。薬師如来の由緒は、東雲寺裏の堀に光明を放つ薬師如来が流れ着いたからという。永禄7年(1564年)の銘がある。

東雲寺 (4)
東雲寺 (5)
墓地にある足利成氏の墓。礎石に「成氏公墓」と刻まれている。(公式には成氏の墓は、栃木県野木町の満福寺にある)

鎌倉公方と室町幕府の対立は以前からあったが、成氏の時代では関東管領・山内上杉氏との対立も激化し、関東における戦国時代の幕開けを担ってしまった。


太田市藪塚町の西野の層塔及び残片。

西野の層塔 (1)
西野の層塔 (2)
2基の層塔が残っているが、残片も含め相輪部2・笠部7・基壇2あるため、実際は2基以上のものが混在しているものと考えられ、正しい組合せは不明のようだ。

製作年代は、凝灰岩を使用していること、屋根部の稜線と軒端の反りが少ないこと等から、鎌倉時代中期のものと考えられてる。

この塔についての由来は一切不明だが、有力氏族の供養塔と考えられている。近くには「伝・藪塚氏の墓」もあることから、藪塚氏との繋がりのある関係者といったところか。


太田市藪塚町の白髯山西福寺。

西福寺 (1)
西福寺 (2)
西福寺 (3)
西福寺は寛文年間(1661~73年)の創建と伝わる。雰囲気的に現在は無住のようだ。

西福寺 (4)
西福寺 (5)
地蔵堂に安置されている赤子地蔵。台座・光背・本像が一石造りの石造地蔵菩薩像で、高さ71cm、幅51cm。安山岩製で、加工技術から室町期の作と考えられる。旧薮塚本町では最も古い地蔵像である。

赤子地蔵は西福寺の東の丘陵(通称「地蔵が窪」)に埋まっていたのを掘り出し、当寺に祀ったといわれている。

赤子地蔵の名前の由来は、子どもの夜泣きなどを治すといわれていることから、名付けられたという。また地蔵が窪を「赤子山」という伝承もあり、そこにあった(埋まっていた)ことから赤子地蔵という説もあるようだ。


太田市藪塚町の藪塚中央公民館に建つ伏島近蔵氏の銅像。

伏島近蔵の銅像 (1)
伏島近蔵の銅像 (2)
伏島近蔵(ちかぞう)は、江戸幕末から明治にかけて主に横浜で活躍した実業家であり、横浜商人の代表的人物の一人である。

近蔵は天保8年(1837年)旧新田郡藪塚村(現太田市藪塚町)の出身。慶応元年(1865年)横浜に出て、商館「アメリカ一番館」に勤務し才能を示し、商人として頭角を現す。慶応4年(1868年)に独立し、唐物、蚕卵紙等を扱う商売をし財を成す。

その後帰郷し、家業に従事する一方で、大間々町から鳥の郷(太田市)に至る用水路を開削し、その功績により明治9年(1876年)の明治天皇東北御巡幸の際には特に拝謁を許され、奈良晒二匹を下賜された。また、藪塚尋常小学校建設に多額の寄付をするなど、郷里の発展のために惜しみなく財をなげうった。

晩年には北海道の開拓を決意し明治34年(1901年)北海道に渡ったが、札幌で病となり稚内で病死。享年64歳。

銅像は近蔵の没後100年の平成12年(2000年)、旧薮塚本町内外の多額の寄付により建立された。


太田市新田金井町の医王山長命寺。

長明寺 (1)
長明寺は、永禄3年(1560年)僧・重圓により開創されたが、当初は長福寺と称していた。

長明寺 (2)
長明寺 (3)
長明寺 (4)
明治13年(1880年)の火災により全堂が焼失したが、本尊大日如来と薬師如来は難をまぬがれた。昭和28年(1953年)に明源寺と合併し長明寺に改称している。(明源寺も明治期に焼失している)

現在の本堂は間口七間の入母屋造り瓦葺で、平成4年(1992年)の再建。

長明寺は新田一族の金井氏の館跡といわれているが、当時をしのぶ遺構などは残っていない。金井氏は岩松氏の祖とされる岩松時兼の3男・長義から始まるとされる。

長明寺 (5)
長明寺 (6)
長明寺は関東88ヶ所霊場の第6番霊場となっている。


太田市世良田町の長楽寺遺跡1号墳跡。

長楽寺遺跡1号墳跡 (1)
長楽寺遺跡1号墳跡 (2)
長楽寺遺跡1号墳は、現在の新田荘歴史資料館正面玄関前にあった径18mの円墳。盛り土は失われていたため高さは不明。現在は石槨の位置を示す形が残っているだけ。

石槨はローム層を掘りこんで、凝灰岩を側壁・天井石に使い、側壁の周りを河原石で覆い、さらに全体を粘土で覆っていた。

長楽寺遺跡は、新田荘歴史資料館の前身である東毛歴史資料館建設に伴う発掘により、古墳時代の住居跡30軒、古墳5基などが見つかっている。

関連
 「太田市世良田町・新田荘歴史資料館


太田市新田木崎町の木崎宿色地蔵。

木崎宿色地蔵 (1)
木崎宿色地蔵 (2)
木崎宿色地蔵は高さ73cmの石地蔵尊で、風邪のはやる季節に亡くなった子ども達の霊を慰め、子ども達の成育を祈願して建立されたといわれている。

台座には施主名などとともに寛延3年(1750年)の銘が刻まれており、平成13年(2001年)に改築された茅葺のお堂に安置されている。

江戸時代の木崎宿には飯盛売女が多数おり、女たちは前借年季奉公で遠出が制限されていたことから、宿はずれのこの地蔵様によく参詣していた。そのため「色地蔵様」と呼ばれるようになったといわれている。

木崎音頭には
「木崎下町の三方の辻に、お立ちなされし石地蔵様は、男通ればニコニコ笑い、女通れば石持て投げる、これがヤー本当の、色地蔵様だがヤー」
と唄われている(らしい)。


田市出塚町の大和神社・行者堂。

大和神社・行者堂 (1)
大和神社・行者堂 (2)
大和神社(行者堂)は、もと長福寺の境内にあったもので、役行者の像を安置している。寛平年間(889~98年)大和から来た僧が、この像を背負って来たという。

大和神社・行者堂 (3)
役行者は役君小角、役小角、神変大菩薩などとも呼ばれ、奈良時代初期の山岳者呪術者で修験道の祖といわれている。

文化12年(1815年)の大火災で長福寺が全焼、役行者の像も半焼となった。その後、新たに同じ像が一体彫られ、半焼した像は御隠居様と呼んで別の厨子に保存されている。

行者堂はもともと現在地より南西約50mのところにあり、明治29年(1896年)に建て替えが行われた後、昭和14年(1939年)に現在地へ移築されている。この際、大和から運ばれた像に由来することから大和神社と呼ばれるようになったが、地元では古くから行者堂の名で親しまれている。


太田市大舘町の八幡宮。

大舘八幡宮 (1)
大舘八幡宮 (2)
大舘八幡宮の創建年代は不明であるが、平安時代末期の文書にも大舘の地名が見られ、新田義貞の曽祖父・政氏の弟にあたる大舘氏が、この地に勧請したと伝えられてる。

大舘八幡宮 (3)
大舘八幡宮 (4)
大舘八幡宮 (5)
文禄3年(1594年)から大舘地域七ヶ村二千石を領した弘前藩の記録には、「津軽信敏が天和2年(1682年)に上州大舘に八幡の祠を建つ」とあることから、社殿は津軽信敏の再建と考えられている。本殿は覆屋内のため見られないが、軒唐破風檜皮茸の荘重なものである。

大舘氏は新田政氏の弟・家氏を祖とし、家氏の子・宗氏は、新田義貞の鎌倉攻めに、右大将として参戦している(極楽寺坂で戦死)。

大舘町には大舘氏の館跡と伝わる場所もある。遺構は失われており、小さな諏訪神社が建っているのみである。(「太田市大舘町・大舘氏館跡」参照)


太田市押切町の中島知久平邸。

中島知久平邸 (1)
中島飛行機の創業者・中島知久平が両親のための建てた近代和風建築。写真は表門と門衛所。主屋は昭和5年(1930年)、門衛所は昭和6年(1931年)の上棟。

中島知久平邸 (2)
中島知久平邸 (3)
正面玄関の車寄せ。床には御影石が敷かれている。中央に照明を1基吊り、四周に家紋の彫物を施した蟇股を配している。

玄関を入るとシャンデリアが掛かった22.5畳の玄関広間が広がる。(写真は撮り忘れた)

中島知久平邸 (5)
中島知久平邸 (6)
中島知久平邸 (7)
玄関右手に2間続きの応接室がある。応接間には大理石の暖炉が置かれ、窓やドアにはステンドグラスで装飾されている。知久平邸で洋風になっているのは応接間のみである。

実は現在公開されているのはここまで。耐震強度の問題で、他の部屋、建屋は非公開。太田市では耐震補強を行ったうえで公開予定という。

主屋は、玄関棟、客室棟、居間棟、食堂棟など複数棟からなり、回廊式の構造をとり、中庭を囲んだ「ロ」の字型となっている。主屋南側の前庭から、客室棟と居間棟の一部は見学することができる。

中島知久平邸 (8)
客間棟の次の間は、折上天井でシャンデリアが吊るされている。地袋と軍配片の窓を備えた書院と押入れがあり、押入れの襖絵には波、雲に千鳥が描かれている。

中島知久平邸 (9)
客間(奥はさきほどの次の間)。2基のシャンデリアが吊るされており、棚・床・付書院が見える。現在敷かれている絨毯は、玄関広間に敷かれていたもの。

中島知久平邸 (10)
居間棟の両親居間。年代もののソファーが置かれていた。当時のものかな。

中島知久平邸 (11)
中島知久平邸 (12)
広大な前庭から見た玄関棟(応接間側)と客室棟。下の写真は客室棟を正面から。ちなみに庭は約3000平方m。

中島知久平邸 (13)
建設当時の知久平邸(昭和7年:1932年撮影、太田市のHPから)。写真右側が玄関で、左上が前庭と客室棟。その下が居間棟。(赤字の説明はオレの追記)

中島知久平邸は敷地面積1万平方mを超える大きなもので、当時の知久平の経済力が窺われる。知久平は大正6年(1917年)に中島飛行機の前身会社を設立し、家を建てた昭和5年(1930年)には衆議院議員に当選している。

この当時はもう飛行機王と呼ばれていたんだと思うが、建築費は当時の金額で約100万円。現在の金額に換算するといくら位になるのだろう??


太田市世良田町の世良田館跡。

世良田館跡 (1)
世良田館跡 (2)
長楽寺の西に広がる芝生公園。世良田氏の館跡といわれる。昭和63年(1988年)に実施された芝生広場建設に伴う世良田館跡の発掘調査では、比丘尼蓮性板碑が出土している(比丘尼蓮性板碑は新田荘歴史資料館に常設展示されている)。

碑文に「正慶元年壬申十月八日」と刻まれている。正慶元年は1332年で、新田義貞の鎌倉幕府討幕前年となる。

世良田館跡 (3)
世良田館跡 (4)
発掘調査では堀の一部、さらにそれより古い小溝等も発見している。堀の規模は幅約6m、深さ3m、小溝は、幅約1m、深さ約1m。

発掘調査の面積が狭かったため、中世の館跡としての決め手を欠いているが、昭和9年(1934年)の「世良田村旧蹟案内」には「世良田義政館跡」と記載されている。

世良田義政は南北朝期の武将で、新田義貞に従い戦功をたてるが後に足利氏に従っている。しかし南朝方に通じているとの嫌疑をかけられ、足利基氏(尊氏の4男、後の初代鎌倉公方)の追討を受け長楽寺で自害したという。

出土した比丘尼蓮性板碑の碑文と世良田義政の年代が合致しており、鎌倉末から室町初期の館跡ということでよさそうだ。


太田市世良田町の世良田山長楽寺の5回目。

長楽寺の勅使門から入ると(実際は閉まっていて入れないけど)蓮池がある。蓮池にかかっているのが渡月橋。

蓮池と渡月橋 (1)
蓮池と渡月橋 (2)
蓮池は承久3年(1221年)の長楽寺創建当時の遺構を残す。別名心字池といい、心の字をかたどっている(らしい)。以前は白、紅の蓮があり、盛夏には池一面に花が咲いたという。

中央にかかる橋が渡月橋。元は木橋であったが、寛政8年(1796年)に石橋に改修されている。

蓮池と渡月橋 (3)
蓮池の北の池は、底が竜宮に通じていて、何か必要なものがあれば品名を紙に書いて投げ込むと、その品物が浮上するといわれていた。ただ返さなければならなかった。

ある時、寺の行事で千畳張りの蚊帳を借りたが、非常に精巧なものだったので惜しんで返さなかったら、以降いくら紙を投げ込んでも池には何も起こらなくなったという。

僧が欲を出してはいけないという教えかな。


太田市世良田町の世良田山長楽寺の4回目。

岩松守純・豊純父子の供養塔 (1)
岩松守純・豊純父子の供養塔 (2)
長楽寺開山堂の脇に岩松守純・豊純父子の供養塔がある。厳密には、それぞれ奥方の戒名もあるので、それぞれの夫婦の供養塔ということになる。

岩松守純・豊純って?
守純は岩松家14代当主で、家臣の横瀬氏(由良氏)の下剋上にて居城の金山城を奪われている。守純以前から横瀬氏の専横に苦しんでいたが、ついに守純の時代に大名・岩松氏は滅亡した。

守純は徳川家康から20石を与えられ、旗本として世良田郷に居住。元大名が20石の旗本。新田氏の家系図を出せと言われ、断ったためともいわれている。

岩松守純・豊純父子の供養塔 (3)
台座にいろんな人名が記されており、供養塔を造立した人々と思わ
れる。分かったのは土岐美濃守頼布くらい。1800年前後の沼田藩主。これらの人たちの共通点は、みな源氏ということ。(三浦帯刀のみ平氏みたいだけど)

なので、この供養塔の造立は1800年以降と思われるが、理由は分からなかった。もう少し幕末に近いと、討幕からみかなぁ、なんて考えもできるけど。

岩松氏累代の墓 (1)
岩松氏累代の墓 (2)
開山堂の西に岩松氏累代の墓がある。季節がらなのか、草ぼうぼうだった。もともとは普門寺にあったが、寛永年間(1624~44年)に長楽寺に移されている。

守純・豊純の供養塔が岩松氏累代の墓所内に造立されなかったのもよく分からない。


太田市世良田町の世良田山長楽寺の3回目。

開山堂 (1)
長楽寺本堂の南に開山堂がある。開山・栄朝禅師をまつる堂で、中央堂内に栄朝の塑像が安置されている。左右には伝世良田義季夫妻像などが安置されているらしい。

栄朝禅師像
開山堂に安置されている栄朝禅師の塑像(太田市のHPから)。総高122.2cm、像高81.4cmの塑造による塑像で、制作年代は鎌倉時代前期と考えられている。

栄朝無縫塔 (2)
開山堂の裏には歴代住職の墓があり、その中に栄朝の無縫塔がある。無縫塔とは、主に僧侶の墓塔として使われる石塔のことで、塔身に縫い目がない(ひとつの石でできている)ことから、そう呼ばれる。

牛石
開山堂の前にある牛石。栄朝禅師と旅をしていた牛がここで倒れ、そのまま石になったという。

どこかで聞いた話だと思ったら、安中市の蓮華寺(栄朝開山)でもまったく同じ話が伝わっている。蓮華寺にも栄朝禅師の木像が残っている。(「安中市中宿・清水山蓮華寺」参照)

逆竹
栄朝禅師が旅をしていた時に使っていた竹杖を逆さにさしたところ芽吹いたという仏頂竹。水戸黄門もこの竹の杖を使っていたってさ。

ところで、開山堂を覗けば栄朝禅師の像が見られたのかなぁ。実は開山堂付近をウロウロしていたときは、蚊に刺されて痒くて痒くてもう集中力がなかったんだよね。


太田市世良田町の世良田山長楽寺。
以前、長楽寺を紹介した時に触れなかったものを中心に再度紹介。
(「太田市世良田町・世良田山長楽寺」参照)

世良田義季累代の墓 (1)
長楽寺境内(本堂南側)にある文殊山に世良田義季累代の墓がある。文殊山は約50mの前方後円墳で、累代の墓があるのは後円部(前方部は世良田東照宮)。

世良田義季累代の墓 (2)
世良田義季累代の墓 (3)
墓所には16塔の石塔が並んでいる。

世良田義季累代の墓 (4)
前回も紹介した宝塔。建治2年(1276年)の銘があり、国に重要文化財になっている。

世良田義季累代の墓 (5)
世良田義季の墓といわれる宝篋印塔(2番目の写真の1番左に写っているもの)。いろいろ調べたら、これが義季の墓だと書いてある書籍があり、どの程度の信憑性かは不明だが一応そういうこと。

長楽寺の開基は義季である。しかも徳川氏の祖として扱われている。それが中心にある訳でもなく、その他と一緒に並んでいるというのは、普通に考えれば・・・だと、素人のオレでも考えるけどね。真ん中にある宝塔(4番目の写真)が義季の墓という説もあるらしい。建治2年(1276年)だと、少し年代が合わないような気もする。

はっきり言えることは、どれが義季の墓だか分からないということ。本当にここにあるのか? という気がしないでもない。

ちなみに、世良田義季は新田氏の祖・義重の4男で、世良田郷・得川郷を譲り受けている。この末裔が徳川家康ということになってる。まあ、家康が源氏一族を名乗りたかったために、使われたということだけどね。


太田市世良田町の普光庵跡。
世良田東照宮の境内にある。

普光庵は長楽寺5世・月船琛海のために11世・牧翁了一が建てた塔所(たっちゅう)。塔所は禅寺で祖師や高僧の死後に、その弟子が師のために建てた墓所や庵のこと。

普光庵跡 (1)
普光庵跡 (2)
月船琛海は延慶元年(1308年)に京都・東福寺にて没し、牧翁了一が分骨したもの。

普光庵は所在不明となっていたが、昭和12年(1937年)に枯木の根を掘った際、月船琛海の石櫃と6人の弟子の骨臓器(壺)が発見された。これにより、ここが月船琛海の塔所であることが判明している。

長楽寺には普光庵以外に、大光庵、正伝庵、万象庵、互融庵、龍興庵など、多数の塔所があったらしい。しかし現存するものはない。幕末(弘化2年:1845年)の世良田村絵図を見ると、現在の世良田小のあたりに塔所が描かれている。

多分、世良田東照宮(社殿)や新田荘歴史資料館の辺りにも、埋もれているに違いない。

ちなみに、普光庵跡の真ん中に置かれている宝篋印塔のかけらのようなものは、何かはまったく不明。


太田市世良田町の真言院井戸。
世良田東照宮の境内にある。

真言院井戸 (1)
真言院井戸 (2)
真言院は鎌倉時代に長楽寺の別院として建立された。真言院は灌頂(かんじょう)のための専門道場であったが、長楽寺住職となった天海によって長楽寺が臨済宗から天台宗へ改宗した際に廃されている。跡地に建ったのが世良田東照宮。

この井戸は密教の儀式である灌頂に用いる浄水を汲むためのもので、花崗岩の一石を刳り抜き、角には唐戸面取りが施されており、天海が寛永19年(1642年)に造り替えたものという。

*灌頂
主に密教で行う、頭頂に水を灌ぎ、正統な継承者とする為の儀式。

長楽寺、世良田東照宮には来たことがあるのだが(記事もUP)、近くに行ったついでに再度寄ってみた。なので、今回は前回あまり触れなかったものを中心にいくつか紹介していく。

関連
太田市世良田町・東照宮
太田市世良田町・世良田山長楽寺


太田市押切町の大悲山徳性寺。
ここは「日本の飛行機王」中島知久平(中島家)の菩提寺である。

徳性寺 (1)
徳性寺 (2)
徳性寺の創建は不明。元和年間(1615~24年)に中興される。

本堂は享保(1716~35年)以前の建立で、以後の再建・修復の後昭和63年(1988年)に修復されている。

徳性寺 (3)
本堂前にある、本堂の山号額の奉納碑。奉納者は中島源太郎。源太郎は中島知久平の長男(庶子)で、文部大臣を務めている。

徳性寺 (4)
徳性寺 (5)
徳性寺 (6)
中島家墓所。ここに中島知久平の墓がある。知久平の墓は多磨霊園にあるが、後に徳性寺に分骨されている。

中島知久平像 (1)
太田市役所尾島庁舎にある知久平の銅像。

知久平は、明治17年(1884年)旧尾島町に生まれ、18歳の時に海軍機関学校に入学、卒業後は海軍の軍人(大尉まで昇進)となる。

知久平は航空の将来に着眼し、航空機は国産すべきこと、それは民間製作でなければ不可能という信念から、大正6年(1917年)海軍を退役し中島飛行機製作所を設立。(飛行機研究所、中島飛行機研究所を経て、中島飛行機製作所となる)

昭和5年(1930年)には国政にも進出し、第1次近衛内閣で鉄道相、東久邇宮内閣で軍需相、商工相を歴任した。戦後はGHQにA級戦犯に指名され(後に解除)、昭和24年(1949年)66歳で死去。

中島飛行機はGHQにより解体されたが、その一部が現在の富士重工業であることはご存じの通り。


太田市新田上江田町の江田山龍得寺。

龍得寺 (1)
龍得寺 (2)
天文元年(1532年)横瀬泰繁により創建されたと伝えられる。

横瀬泰繁は成繁の父親で、泰繁の代にはすでに岩松氏は傀儡となっていた。泰繁は筆頭家老として専権をふるっており、当主・岩松昌純を殺害するなどしている。泰繁は昌純を討ったことで、実質上の金山城主になっている。(岩松氏は昌純の弟・氏純が当主になった。)

龍得寺 (3)
龍得寺 (4)
龍得寺 (5)
横瀬泰繁の墓と伝わる五輪塔。
みどり市笠懸町にある天神山で産出した凝灰岩で作られており、高さは地輪が43cm、水輪が38cm、火輪が5cm、空輪・風輪が31cm。

水輪には「龍得寺殿」、地輪には「天文十四年巳九月九日 前信州大守威岳宗虎大居士 由良信■守源泰繁」と刻まれていることから、横瀬泰繁の墓石と伝えられている。天文14年は1545年。泰繁は同年の壬生合戦で戦死している。

ただ、全体的な形状や笠懸町天神山の凝灰岩を使用していることなどから、鎌倉時代未から南北朝時代にかけて作られたと推定され、後の時代になって追刻されたものとも考えられる。

五輪塔は覆屋に入っているが、鍵がかかってなかったので勝手に開けさせてもらった。もちろん、ちゃんと閉めてきた。


太田市世良田町の旧世良田町役場。

旧世良田村役場 (0)
旧世良田村役場庁舎・正門は、昭和3年(1928年)に建設されたもの。

旧世良田村役場 (2)
旧世良田村役場 (3)
鉄筋コンクリート造り2階建ての建物で、正面を南に向きに建てられている。平面形をコの字形とし、正面には玄関ポーチを突き出す形で、基礎・腰部は大理石、外壁はモルタル、華美な装飾を排除した昭和初期の庁舎建築の典型。

平面規模は正面18.4m、側面19.4mで、外部、内部とも改造は少なく建造当初の姿をよくとどめている。現在は「尾島文化財事務所」として使用されている。

旧世良田村役場 (4)
敷地南側の街路沿いにある門柱。鉄筋コンクリート造,大谷石張の門柱4本からなる。主柱は4.5m、左右の脇柱は2mの間隔で立つ。高さ2.1mで、頂部には雪洞灯を設ける。年代、意匠とも庁舎と一連のもので、役場の正面景観を形作っている。

世良田村は明治22年(1889年)の町村制施行に伴い、世良田村、徳川村、上矢島村など12村が合併してできたが、昭和32年(1957年)世良田、徳川など旧5村は尾島町、上矢島村など旧7村は境町にと、分割編入され消滅している。

現在は、平成の大合併で、尾島町は太田市、境町は伊勢崎市になっている。

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