Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 太田市(旧市部)


太田市矢場町の笑岩山恵林寺(えりんじ)。

恵林寺 (1)
恵林寺 (2)
矢場国隆の子・植繁が永正17年(1520年)に父母の菩提を弔うために建立したもの。開山は植繁二男・大年宗彭とされている。

恵林寺 (3)
矢場氏って全然知らなかったけど、始祖は矢場惣左衛門国隆と言って、金山城主・岩松家純の重臣横瀬国繁の弟らしい。横瀬氏ってのは、後の由良氏。

ちなみに、横瀬国繁の子に成繁がいるが、岩松氏を下剋上し戦国大名として独立した成繁は、同名だが曾孫になる。また、この成繁の子が国繁って言うから本当にまぎわらしい。

ついでに、天正元年(1573年)柄杓山城を攻略し桐生氏を滅ぼし、桐生市に鳳仙寺や青蓮寺を建てたのは、戦国大名の成繁である。
(「由良成繁の開基 -桐生・青蓮寺-」「由良成繁の墓 -鳳仙寺-」参照)

恵林寺 (4)
恵林寺 (5)
矢場氏の墓所。五輪塔が多いが、宝篋印塔・石幢なども見られ、総数約40基。3代・矢場繁和の宝篋印塔(写真の左から4番目)の基礎には、「為大椿宗寿禅定門霊位敬白永禄五年壬戌霊月八日」とある。永禄5年ってのは1562年。

恵林寺の南側には、矢場氏の居城・矢場城があったらしい。矢場国隆が築城し、以来矢場氏6代の拠点となり金山城の支城となっていたが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めにより廃城となったと考えられている。

しかし矢場地区はもともと群馬と栃木(足利)にまたがっており、矢場城の所在地として足利市新宿町を比定する説もある。(矢場地区は、昭和35年(1960年)に旧矢場川村が、太田市と足利市に分かれている。)

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太田市龍舞町の瑞蓮山浄光寺。

浄光寺 (1)
浄光寺 (2)
天正12年(1584年)の北条氏による金山城攻撃の際、兵火にかかり焼失、その後、舜庵全尭大和尚が再建したと伝えられる。

浄光寺 (3)
本堂西の墓地内に、鎌倉時代末の五輪塔が4基ある。総高150cm前後で、いずれも凝灰岩製。現在は風化により判読できないが、右端五輪塔地輪部の中央に「アー」の梵字、右側に「蓮生幽儀助信□霊」の銘文があったといわれている。

江戸時代に著された「上野国志」によると、「幽儀助信」は新田小四郎義忠の法名とされる。

かつては、「元弘三年(1333年)癸酉二月廿九日」の紀年銘も見られたが、今では梵字以外は判読が困難となっている。

新田義忠って、新田義貞のことだって書いてある資料もある。時代的にはあってるが、義貞の没年は延元3年/建武5年(1338年)なのでちょっと違うし・・・。

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太田市堀口町の駒形山浄蔵寺。

浄蔵寺 (5)
浄蔵寺 (6)
浄蔵寺 (7)
鎌倉時代創建と伝わる真言宗の古刹。元弘3年(1333年)新田義貞が鎌倉攻めに向う際、利根川渡河を前にしてここで馬を休め、戦勝を祈願したことから「駒形」の山号を持つ。亀岡町にも、同様に新田義貞が馬をつないだ「駒つなぎの松」があるね。
(「新田義貞 駒つなぎの松」参照)

浄蔵寺 (4)
このお寺の名物は、なんと言っても「大銀杏」。根元周囲14m、目通り周囲12m、樹高28m、枝張り18mほどである。樹齢は4百年ほどと推定される。

浄蔵寺 (3)
周りのお墓(墓石)と比較すると、その大きさが分かりやすい。

浄蔵寺 (2)
浄蔵寺 (1)
落雷により主幹が折れたため、幹が多くに分かれている。

この銀杏に新田義貞が馬をつないだ、という伝承があるみたいだけど、樹齢400年では年数が合わないけどね。

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太田市東本町の東武鉄道・太田駅北口前に、新田義貞像がある。

新田義貞像 (1)
威風堂々とした、たたずまいの新田義貞像。昭和63年(1988年)に建立された。改築前の太田駅北口時代は、目立ないところにあったらしいが、今や駅前に鎮座状態。

ところで、もう一人は誰?? 碑文にも書いてないし。弟の脇屋義助?

新田義貞像 (2)
新田義貞像 (3)
太田駅には7、8年前に仕事できたことがあるけど、その時は工事中だった記憶がある。しかも、用事があったのが南口方面で、北口に新田義貞像があることなど、知るよしもなかった。

それにしても立派な駅になったのね。太田市の規模を考えれば、当然だけど。でも、日曜の午後にしては、人通りが少ない・・・・・。

新田義貞像 (4)
義貞像の目線に立つと、駅舎の壁がまじかに見えるだけ。もう少し、開放感があった方が、義貞も安心できるのに、なぁ~んて考えてしまった。

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太田市本町の高山神社。
江戸時代後期の勤皇思想家、高山彦九郎を祀る。

高山神社 (1)
高山神社 (5)
創建は明治6年(1873年)に、高山彦九郎生誕の地・太田市細谷町に祠が設けられたのが始まり。その後、明治12年(1879年)天神山中腹に社殿が造営され、昭和7年(1932年)現在地に遷座している。

天神山の山頂にあるため、下から石段を上っていく。石造りの鳥居は重厚感があり、明治維新の礎となった勤王思想家を祀るにふさわしい。

高山神社 (2)
高山神社 (3)
高山神社 (4)
拝殿は横に大きく、威圧感がある。透かし塀の中の本殿は、神明造りで荘厳である。とは言え、社殿周りには余計なものはなく、悪く言うと閑散というか・・・・・。

ここは、拝殿の掲額以外に、高山神社の社号標がなかったと思う。ちゃんと場所を調べて行ったので、こことは思いながらも、拝殿の掲額を見るまでは一抹の不安があった。

太田市にはちょこちょこ来てるとはいえ、太田の地理には不案内なので・・・・・。

ちなみに、太田市細谷町には、高山彦九郎記念館がある。
(「勤皇の先駆者 -高山彦九郎記念館-」参照。)

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太田市脇屋町の脇屋山正法寺。

正法寺 (2)
正法寺本堂
正法寺 (1)
醍醐寺開山の聖宝が、源経基の請願を受け延喜年間(901年~923年)に開山。元歴年間(1184年~1185年)新田義重が堂塔を修理し、元弘年間(1131年~1334年)に脇屋義助が脇屋郷、大般若経を寄進したと伝えられ、脇屋氏の菩提寺となった。

正法寺仁王門 (1)
正法寺仁王像 (1)
正法寺仁王像 (2)
仁王門には2体の仁王像が。開口しているのが「阿」、閉口しているのが「吽」。貞亨2年(1685年)京都の大仏師、左京入道勅法眼康祐の作と確認されている。

脇屋義助
脇屋義助 遺髪塚
本堂横には、新田義貞の弟・脇屋義助像がある。また、本堂裏には、義助の遺髪塚がある。

脇屋義助は、兄・新田義貞と生品神社での挙兵から行動を共にし、義貞の死後も軍勢をまとめ奮戦している。中国・四国方面の総大将に任命され、四国にわたるも伊予国(愛媛県)で発病し、そのまま病没している。1342年、38歳だった。

義貞、義助とも、故郷の新田荘から遠く離れた地で亡くなっおり、その無念さを思うと・・・。

勝者は歴史の表舞台で、往々にして実像以上の評価を得るが、敗者はその記録が残るだけ。厳しいもんだね。

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太田市東今泉町の祥寿山曹源寺。

曹源寺山門 (1)
曹源寺山門 (2)
新田氏の祖・新田義重が京から迎えた養姫・祥寿姫の菩提を弔うため、文治3年(1187年)に開基したと伝えられている。祥寿姫は、悪源太・源義平の正室になり、義平の首を持ち帰ったという姫。(「悪源太義平の墓? -清泉寺-」参照。)

曹源寺仁王像 (1)
曹源寺仁王像 (2)
2体の仁王像は、ちょっと微妙な雰囲気。なんか、いまいち精悍さがなく、素人目には・・・。まあ、逆にこれが柔和でいい、という人もいるかも。

曹源寺さざえ堂 (2)
曹源寺さざえ堂 (1)
曹源寺さざえ堂(4)
江戸時代に本堂が火災にあい、その後観音堂が造られ、観音堂を本堂としている。観音堂はさざえ堂と呼ばれ、寛政5年(1793年)に創建された。

曹源寺さざえ堂(3)
現在、埼玉県児玉町の成身院と福島県会津若松市の旧正宗寺と合わせて、日本三さざえ堂と言われているが、曹源寺のさざえ堂が最大だとか。

ここは先代の住職が植えたという、アジサイが有名。アジサイ寺とも言われている。

まあ、季節外れもいいとこなので、人もいなくのんびり見学できた。さざえ堂内部の拝観は有料なので、入ってないけどね。

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太田市細谷町の冠稲荷神社。

冠稲荷神社 (4)
冠稲荷神社 (5)
冠稲荷神社 (2)
冠稲荷神社は、天治2年(1125年)源義国が居館である岩松館(青蓮寺)の、鬼門(北東)にあたるこの地に、源氏一門の守り神として創建した、といわれている。

車を停めた場所の都合で、南鳥居、南参道から入った。

冠稲荷神社 (7)
承安4年(1174年)、牛若丸と名乗っていた源義経が、奥州平泉へ下向のおり、この井戸の水で斎戒沐浴(さいかいもくよく)したと伝えられている。それ以来、「ご神水の井戸」と呼ばれている。

境内にはいろんな社があり、それぞれにご祭神がいて、御利益も様々。

聖天宮日高社(4)
聖天宮日高社 (1)
これは、聖天宮日高社。ご祭神は、伊邪那岐神(イザナギノカミ)・伊邪那美神(イザナミノ カミ)。御利益は、夫婦和合・災難・ストーカー除だって。

聖天宮日高社(3)
本殿内には、中央にイザサギ、向かって右にイザナミ、左にカムヤマトイワレヒコ。カムヤマトイワレヒコ?神武天皇じゃないですかぁ~!

聖天宮以外にも、実咲稲荷社、厳島社、八坂社、七福神殿、諏訪社、猿田毘古社、いなり白狐社等、数えただけで10社以上あった。しかも、みんな御利益が違うので、一周すれば開運厄除けから、交通安全、合格必勝、縁結び、健康長寿まで、何でもそろう。

すっげぇ~っ、って素直に思うとともに、ちょっとねぇ~、とも思った。

義経が沐浴したという井戸を見に行って、何でもあり神社に気を取られた。

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太田市由良町の正英山威光寺。
新田義貞の次男・義興のお墓と伝えられる宝篋印塔がある。

威光寺 (1)
威光寺 (2)
威光寺 (3)
新田義貞の次男・義興の開基で、元徳2年(1330年)開山。かつては医光寺といったらしい。

応永年間(1394年~1428年)、横瀬氏が伽藍を修繕し、義興を追悼した。その時に、義興の法号にちなんで、正英山威光寺となった。以後、新田氏の祈願寺として繁栄した。

新田義興の墓
義興の墓といわれる宝篋印塔は、本堂の裏手にある。まあ、小っちゃいのはしょうがないにしても、境内やお墓に案内板も解説板もなし。オレも最初はどこにあるんだか分かんなかった。

義興は、1337年に北畠顕家に呼応し旗揚げ、吉野で後醍醐天皇に謁見し元服。父(義貞)戦死後は、越後に潜伏していたといわれる。その後、鎌倉を一時奪還する等の戦果をあげたが、江戸多摩川の矢口渡で謀殺される。1358年のことである。享年28歳。

謀殺された義興の怨霊を鎮めようと、祠を建て新田大明神として祀った。これが、東京都大田区矢口にある新田神社である。ここは、破魔矢の発祥の地としても有名。破魔矢も源氏に関係あるよ。

義興謀殺から新田大明神建立の詳細や経緯は、新田神社HPのアニメで詳しく知ることができる。1度覗いてみて。

 新田神社HP

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太田市由良町の台源氏館跡。

台源氏館跡 (2)
台源氏館跡 (1)
新田義貞、脇屋義助兄弟の生誕地と云われる、台源氏館跡。新田政義が由良郷台に館を構え、村人が台源氏と呼んだことが、その由来と云われている。

小さな公園っぽくなってるんだけど、全体的な雰囲気の写真を撮れなかった。

なんでかって言うと、前の道に車を停めて写真を撮っていたんだけど、その道が狭くて。後ろから車が来てしまい、自車を動かさなくてはいけなくなったので。

義貞生誕の地も諸説あり、ここも候補地のひとつ、といったところ。ちなみに、反町館や新田館(総持寺)、高崎市榛名町里見館とか。

碑の揮毫(きごう)が海軍大将・加藤寛治とあった。このひとは海軍の、強硬派で、ロンドン海軍軍縮条約に大反対し、後に統帥権干渉問題にも発展する。

碑の建立は昭和13年(1938年)なので、時代的にしょうがなかったんだろうけど、こういう超国家主義者に新田義貞が利用されていたと考えると、ちょこっとガッカリ・・・。

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太田市別所町の十二所神社。

十二所神社4
十二所神社
前回の円福寺同様、茶臼山古墳上にある。円福寺が前方部、この十二所神社が後円部。

十二所神社 (2)
十二所神社 (3)
本殿には、16体の神像が安置されており、5体には正元元年(1259年)の銘がある。創建年は不明であるが、付近に散在した十二の末寺を円福寺に寄せ、各寺の本尊をここに合祀して十二所神社とした、との伝承がある。

円福寺の創建が寛元3年(1245年)ころと推定されるので、正元元年(1259年:神像の銘)の創建でいいところでは。

ちょっと話しがそれるけど・・・。
円福寺開祖の新田政義っちゅうのは、実はとんでもないやつで。寛元2年(1244年)京都大番役時に、幕府に無許可で朝廷に昇殿と官位を無心し、断られると今度はまた幕府に無許可で、勝手に帰郷し出家してしまった。(出家するんで円福寺を創った。)

妻の実家である足利氏の取り成しがあったから、所領総没収にはならなかったが、これにより新田氏の没落は決定的となってしまった。

まあ、政義の心中を代弁すれば、源氏の本宗家は既になく(実朝は建保7年(1219年)に暗殺されている)、北条ごときが大きな顔しやがって。オレは源氏の本流だ!って感じだったんだと思う。

義貞が鎌倉幕府を滅ぼし、新田氏が世に再浮上したのは、これから約90年後のことである。

再浮上も一時だったけどね。

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太田市別所町の御室山円福寺。

円福寺 (2)
円福寺 (4)
新田氏4代の政義が開基したと伝えられている。本堂には、政義以下、政氏、基氏、朝氏の位牌が安置されている。

千手観音堂
千手観音堂 (2)
境内正面の階段を上っていくと、千手観音堂がある。

もともとここは茶臼山古墳という、群馬県で3番目に大きい前方後円墳。全長168mもの大きさ円福寺のある場所は、その前方部にあたる。茶臼山古墳は5世紀前半の造営と推定されるので、当然寺の方が後からできている。

伝新田氏累代の墓 (2)
伝新田氏累代の墓
前方部東側には、新田一族のお墓と伝わる、五輪塔、石層塔などが20余基ある。そのうち奥から2番目の五輪塔地輪部には、「沙弥道義七十二逝去元亨四年甲子六月十一日巳時」との銘文が読みとれる。

沙弥道義とは、開基・政義の孫・基氏の法名である。基氏は新田義貞の祖父という関係でもある。元亨四年は1324年である。

茶臼山古墳
後円部には、国良親王御陵とある。

ちなみに国良親王とは、後醍醐天皇の皇子・宗良親王と新田義貞の娘・山吹姫との間の子である。もちろん、古墳の被葬者は別にいるが、国良親王がここに葬られていても不思議ではないような気がする。

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太田市金山町の大田山金龍寺。
寺名は、新田義貞の法名「金龍寺殿眞山良悟大禅定門」にちなんだもの。

金龍寺
応永24年(1417年)に横瀬貞氏が、その祖とした新田義貞を追悼するために創建したと言われてる。横瀬氏は、後に下克上により岩松氏を退け、実質的な金山城の城主となった。

ちなみに横瀬貞氏は、新田義貞三男・義宗の三男で、横瀬氏に婿入りしたという。横瀬氏が新田氏子孫を「自称」するのは、戦国時代以降である。

金龍寺 (2)
金龍寺 (3)
新田義貞公墓入口とあるが、あるのは義貞の供養塔。寛永14年(1637年)の義貞300回忌法要に際し造立されたもの。

金龍寺 (4)
義貞供養塔前には、歴代の金山城主とその一族を弔う五輪塔がある。金山城の実質城主であった横瀬氏(後の由良氏)一族の、菩提寺として興隆した。

横瀬氏(由良氏)は後に茨城牛久に移封され、金龍寺も僧とともに同地に移った。現在の金龍寺は、後に館林城主となった榊原氏によって、再興されたもの。

新田氏、岩松氏、横瀬氏の関係って、よく分かんないんだよね。どこかで機会があったら、勉強がてら纏めてみるよ。

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太田市細谷町の高山彦九郎記念館。

高山彦九郎記念館 (7)
高山彦九郎記念館 (2)
延享4年(1747年)に上野国新田郡(現太田市)に生まれた彦九郎は、13歳の時に太平記を読んだことをきっかけに勤皇の志を持ち、18歳で書置きを残して家を出て、京をはじめ諸国を廻り勤皇論を説いた。

高山彦九郎記念館 (3)
太平記に自分の先祖が新田義貞の部下で、南朝に殉節したことを知り尊王の大義に目覚めたらしい。

高山彦九郎記念館 (5)
京都・三条大橋のたもとにある、御所に向かい伏拝している彦九郎の銅像の写真・・・の写真。決して土下座をしているわけではない。

高山彦九郎記念館 (4)
高山彦九郎記念館 (6)
彦九郎は膨大な日記を残している。その日記に記された旅先は、蝦夷地(北海道)と四国を除く日本全国に及んでいる。旅道具も展示してあった。

高山彦九郎記念館 (1)
彦九郎は寛政5年(1793年)筑後国久留米(福岡県久留米市)で自刃して果てている。徳川幕府を批判し王政復古を唱えていたが、果たせずの憤死とも言われている。写真右の手紙に、どす黒い汚れのようなものが見られるが、彦九郎の血痕だと言う。

彦九郎の思想は、長州の吉田松陰に大きな影響を与えたと言われている。ちなみに、吉田松陰の号「松陰」は、彦九郎の諡(おくりな)「松陰以白居士」からきているとの説も一部にあると、記念館の方から聞いた。

長州の高杉晋作、久坂玄瑞、土佐の中岡慎太郎らが、この地を訪れている。

彦九郎の死から75年後に、王政復古、明治維新が成し遂げられている。

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太田金山城の本丸址にある、新田義貞を祀る新田神社。

新田神社 (2)
新田神社・金山城本丸跡
新田神社 (3)
金山城の御台所曲輪の大ケヤキを通り過ぎ、石段を登って行くと本丸址。そこに新田神社がある。

明治6年(1873年)の創建というから歴史はまだ浅い。ここに建っている経緯はよく分からないが、金山に新田義貞が砦を作ったという説もあるので、それでかな?(考古的な裏付け資料はない。)

個人的には、新田神社のある場所として打って付けだと思う。

新田神社 (1)
案内板を見ると、これまでに大正天皇、昭和天皇、秩父宮殿下、高松宮殿下、三笠宮殿下等が参拝されている。やはり新田義貞が後醍醐天皇に尽くしたから、皇族方のご参拝が多いのかな。

明治になって天皇中心の中央集権国家に生まれ変わり、新田義貞や楠木正成は忠臣になった。個人的には、尽くしすぎて・・・と思うが。

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太田市(旧市)のほぼ中央にそびえる標高235.9mの金山に築かれた金山城。

金山城址
金山城址 (2)
応仁3年(1469年)新田一族の岩松家純によって築城される。新田義貞が鎌倉時代末に、砦として整備したとの説もある(裏付けデータなし)。戦国城郭史の定説をくつがえした、石垣・石敷きの城といわれている。

金山城址 (3)
大手虎口道。復元みたいだけど、城って雰囲気!

金山城址 (4)
日ノ池。

金山城址 (5)
月ノ池。

山城のため水の確保が重要なのだ。日ノ池の近くにも、大きな(深そうな)井戸があった。水の準備は万全といったところか。

金山城址7
御台所曲輪にある大ケヤキは推定樹齢800年。このケヤキの左の石段を登って行くと本丸址。現在そこには新田義貞を祀る新田神社がある。(新田神社は次回紹介。)

さすがに金山は太田のシンボルだけあって、よく整備されている。南曲輪からの眺めも非常にいい。天気が良ければ富士山も見えるとか。

ただ、この南曲輪に中島知久平の胸像が建ってる。中島知久平じたいは太田の偉人であるが、なぜここにある必要が・・・。

オレ、こういう場違いな銅像・胸像の類、嫌いなんだよね。

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