Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 藤岡市・多野郡


藤岡市鬼石の原古墳。

原古墳 (1)
原古墳は直径9mの円墳で、墳丘には土がまったく使用されず石材のみで構築された珍しい古墳である。6世紀中ころの築造と推定される。

原古墳 (2)
埋葬施設は全長約6m(羨道約3m、玄室約3m)の横穴式石室で、天井石はなくなっている。

平成20年(2008年)に国道及び橋の付け替え工事に伴い発掘調査が行われ、ガラス玉、耳飾り、鉄鍬などが出土している。平成23年(2011年)に元の位置から50m東の現在地に移築・復元されている。墳丘上部は既に失われていたので、古墳基底部のみの復元となっている。

Y字路の三角地点にあり、隣は何回も寄ったことがあるセブンイレブン。でも、原古墳の存在にはまったく気がつかなかった。何で知ったかと言うと「ぐんま古墳探訪」に紹介されていたから。早速役にたった。(「『ぐんま古墳探訪』を買ってきた」参照)

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市下戸塚の水沼神社。

水沼神社 (1)
水沼神社 (2)
水沼神社の創建年は不詳だが、永仁6年(1298年)の上野国神名帳に「従四位下水沼明神」とあり、古くから当地の鎮守として信仰されてきたと思われる。

一の鳥居は、それまでの鳥居が台風により倒壊したため、昭和57年(1982年)の再建。鳥居横の常夜燈は明治31年(1898年)の建立。

水沼神社 (3)
数段の石段を登ると二ノ鳥居。

水沼神社 (4)
水沼神社 (5)
水沼神社 (6)
社殿は明治30年(1897年)の再建。平成19年(2007年)に屋根の改修が行われている。拝殿の扁額は「雨澍殿」。大地を潤す雨といった意味か? 雨乞いの祈願あたりから来てるのかな。

なお、社殿は神流72号古墳上に建っているが、墳丘は削平されている。

水沼神社 (7)
社殿横の大石。稲荷古墳の石室天井石らしい。稲荷古墳が神流72号古墳(当地)なのか他の古墳なのかは分からない。

水沼神社 (8)
社殿裏の石宮。奥宮とのことで、しかも「日本三石宮の一つと伝えられる」とあり、調べみたがはっきりしない。

水沼神社 (9)
神社南側の湧水池。ヤリタナゴ、マツカサガイ、ホトケドジョウの生息地になっている。藤岡市でヤリタナゴとマツカサガイの生息地はここだけだと言う。

水沼神社 (10)
境内に入ってすぐの所に神流川合戦史を刻んだ石碑があった。昭和56年(1981年)の建碑。神流川合戦は天正10年(1582年)織田信長が本能寺の変によって敗死した後、織田方の滝川一益と北条氏直・北条氏邦が争った戦い。

けっこう細かいことまで滝川側の視点で書かれている。

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市中栗須の神明宮。

神明宮 (1)
神明宮は建久3年(1192年)に源頼朝の発願により佐々木盛綱が創建したと伝わる。

神明宮 (2)
神明宮 (3)
二の鳥居には諏訪大明神とあるので、諏訪神社が合祀されているようだ。

神明宮 (4)
神明宮 (5)
参道は長く、いくつか舗装道路が横切っている。車も普通に走っていたので、ご近所の生活道路として使われているようだ。

神明宮 (6)
神明宮 (7)
神明宮 (8)
社殿は天正10年(1582年)の神流川合戦で焼失、天正13年(1585年)に再建されたとの記録が残る。現在の社殿は明治39年(1906年)の再建。

神明宮 (9)
神明宮 (10)
拝殿に絵馬が掲げられているが、題材は分からない。

神明宮 (11)
ご神木。

神明宮 (12)
春の例祭には太々神楽が奉納される。ちなみに、秋の例祭では獅子舞が奉納される。

藤岡市内に鎮座しているが、参道も長く境内も広い。社歴も長いわりには諏訪神社や富士浅間神社と比較すると余り知られていない。しかし、近隣9郷の郷社として根付いている。

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市藤岡の子育て地蔵尊。
藤岡市の従来の町名では宮本町なので、宮本町子育て地蔵尊と表記。

宮本町子育て地蔵 (1)
天正18年(1590年)に芦田(依田)康勝が佐久から藤岡に移封された際、芦田氏を慕った旧領民が地蔵菩薩像を背負って来たといわれる。

文政12年(1829年)にはお堂が建立されている。現在のお堂は明治初年のもの。

宮本町子育て地蔵 (2)
宮本町子育て地蔵 (3)
本尊の地蔵菩薩像は無銘だが、隣に並ぶ石像には文政3年(1820年)の銘とともに「岩邑田」と刻まれている。岩邑田は現在の佐久市岩村田のことだと思う。つまり芦田氏の旧領。

宮本町子育て地蔵 (4)
地蔵尊は「子育て地蔵」「夜泣き地蔵」と呼ばれ、子どもの夜泣きや虚弱体質などを治す御利益があるとされる。祈願する際は、ここから地蔵像を1体借り受け、子どもの成長が順調に進んで1年を過ぎると、同じような小型の地蔵像を借りた石仏と合わせ2体を返納するというもの。

この習慣は現在も残されており、そのため堂内には数多くのお地蔵さんが鎮座している。新しい像も目につく。

宮本町子育て地蔵 (5)
お堂外にも複数のお地蔵さんをまとめた供養塔(?)があった。

ところで、先に「文政3年 岩邑田」と刻まれていると書いたが、ちょっと不思議な気がする。芦田康勝は慶長5年(1600年)に不始末を犯し改易されており、以降藤岡市地域は幕末まで小領に細分されていた(芦田氏領ではない)。文政3年に再造仏されたということかも。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡神流町小平の土生(はぶ)神社。

土生神社 (1)
土生神社 (2)
土生神社の由緒は不明。

土生神社 (3)
土生神社 (4)
土生神社 (5)
質素な拝殿が、逆に地方の神社らしさを醸し出す(失礼)。

土生神社 (6)
土生神社 (7)
本殿は文政8年(1825年)に改修されている。その際、多くの彫刻が施されたという。これが意外にも立派な彫刻。

土生神社 (8)
土生神社 (9)
土生神社 (10)
土生神社 (11)
土生神社 (12)
本殿の彫刻は立派である。作者などは分からないが、江戸時代後期の派手目の流れをくんでいる。四方の柱に猿が付いている。意味合いは知らないけど珍しい。

土生神社には石棒も伝わっている。神流町には縄文・弥生時代の遺跡も多く発掘されており、古代の宗教行事に使用されていたものと思う。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡神流町相原の丹生(たんしょう)神社。

丹生神社 (1)
丹生神社 (2)
丹生神社は元文4年(1739年)の創建と伝わる。甘楽郡(現富岡市)の丹生(にう)神社の分霊を勧請したといわれる。元々は「にう」と読んだらしいが、いつからか「たんしょう」と読むようになった。

丹生神社 (3)
鳥居に付けられていた扁額(現在は拝殿についている)。扁額裏から墨書が見つかっており、扁額周りの透かし彫りは天保4年(1833年)製と判明した。鳥居も同時期の造立と推定され、県内でも古い部類の木造(ケヤキ)鳥居と考えられている。

ただ、鳥居は鮮やかな朱色になっており、上塗りしたのか再建鳥居か分からない。あんまりよく見てこなかったので・・・。

丹生神社 (4)
丹生神社 (5)
丹生神社 (6)
2社が祀られているようだが、もう1社は知識がなく読めない。ただ、鳥居の旧扁額には「國常立神」とあり、国之常立神(くにのとこたちのかみ)のようだ。とすると、秩父神社系の妙見社(宮)かな。

丹生神社 (7)
神楽殿? 神饌舎?

神流町には相原地区以外にも丹生神社があるのでお間違えなく(塩沢地区と黒田地区)。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡神流町万場の八幡宮。

万場八幡宮 (1)
万場八幡宮 (2)
万場八幡宮は鎌倉時代、幕命により梶原景時が創建したと伝わる。当地には古くから大日靈命(天照大神)を祀る天照皇大神宮があり、これに誉田別命を祀り八幡宮としたという。その後、寛保2年(1742年)に発生した山津波により流された春日神社が合祀され三社宮となっている。

現在の鳥居は平成19年(2007年)の再建。

万場八幡宮 (3)
万場八幡宮 (4)
万場八幡宮 (5)
社殿は寛保2年(1742年)の山津波で流されたが、宝暦9年(1759年)に再建されている。

万場八幡宮 (6)
ご神木の大ケヤキ。根元から矢じりが出たことがある。

万場八幡宮 (7)
境内の大石。詳細不明だが、何がしかの由緒がある?

万場八幡宮は「梶原景時の創建」という由緒だが、他説には平氏の落ち人が源氏からの圧迫を逃れるため、源氏の氏神である八幡神(石清水八幡宮から勧請)を祀ってカモフラージュに使ったとの伝承もある。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡神流町柏木の永松山大林寺。

大林寺 (1)
大林寺は永享11年(1439年)の創建と伝わる。寛保2年(1742年)の豪雨による山津波で寺は流され、現在地の高台に再建されている。しかし、昭和31年(1956年)の柏木地区大火により全焼するなど、幾多の災難を乗り越えてきた。

大林寺 (2)
大林寺 (3)
石段脇の閻魔大王像と不動明王像。

大林寺 (4)
大林寺 (5)
本堂は柏木地区の大火で焼失後、吉井町多比良の寺から古堂を譲り受けたもの。移築時は住民総出で協力したという。

大林寺 (6)
本堂軒に梵鐘が2つ下がっている。写真左の鐘は火災時に亀裂が入り音色がおかしくなってしまったため、右の鐘を購入している。

大林寺 (7)
柏木地区の大火は神流川の北岸側が火元だったが、北風にあおられ南岸側の方が被害が大きかった。大林寺も南岸側の、しかも高台にあるにもかかわらず全焼してしまったことをみると、相当の火勢だったようだ。

大林寺 (8)
大林寺には青銅製の銅鑼(どら)と鐃はちが伝わっている。これは昭和42年(1967年)に旧寺跡の畑から掘り出されたもの。山津波で大林寺が流された際に埋もれたものと考えられている。そうすると実に255年間も土中に埋まっていたことになる。(写真は神流町のHPから借用)

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市浄法寺の広厳山浄法寺。
前回、見落とした道忠禅師の供養塔を写真に撮るため再訪。
(「伝教大師ゆかりの寺 -浄法寺-」参照)

道忠禅師供養塔 (1)
道忠禅師供養塔 (2)
浄法寺を創建したと伝わる道忠禅師の供養塔。
明応5年(1496年)の建立。「南無阿弥陀仏」の文字が見てとれる。道忠は天台宗ではないが、最澄との関連や浄法寺が天台宗となっていることから、「南無阿弥陀仏」と刻まれたんだろう。

道忠は唐招提寺を開いた鑑真の弟子で、東国を巡って律宗の教えを広めた高僧。その際に、浄法寺を開基したといわれる。道忠から菩薩戒を受けた円澄が最澄の弟子となったことから最澄と知り合い、最澄の天台宗発展のための支援も行っている。

相輪橖
道忠は浄法寺に最澄を招き、ここを東国布教の拠点としたといわれる。浄法寺の相輪橖は弘仁6年(815年)建立で、最澄存命中に完成した2橖の内の1橖。最澄がこの相輪橖の前で説教を行った際には、数万人が集まったと書く資料もあるが・・・。

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市高山の高山社情報館。

高山社情報館 (1)
高山社情報館は高山社跡が世界遺産に登録されたことを受け、平成28年(2016年)に開館した。

高山社情報館 (2)
情報館前には高山長五郎の銅像が建っている。確か、以前は藤岡市役所の中庭にあったと思う。情報館の開館に伴い移転したんだと思う。

情報館では高山社の各種資料や藤岡地域の養蚕についてのパネル、養蚕道具・資料等を展示している。

高山社情報館 (3)
高山長五郎の人形。

高山社情報館 (4)
高山社蚕業学校の全景模型。

高山社情報館 (5)
高山社情報館 (6)
蚕や養蚕に関する説明パネル。

高山社情報館 (7)
高山社情報館 (8)
高山社蚕業学校の卒業証書と教員免状。

高山社情報館 (9)
高山社情報館 (10)
実際の養蚕道具。
下の写真の左の道具は「福島式桑刻機」。右は座繰り機。
(「福島式桑刻機を発明 -福島元七顕彰碑-」参照)

高山社跡自体は以前行っているので、今回は寄っていない。中に入れたかもしれないが、別にって感じなので・・・。
(「養蚕群馬の牽引者 -高山長五郎/高山社跡-」参照)

ついでに、高山長五郎のお墓は高山社のすぐ西(ちょっと山の中腹)の興禅院にある。
(「高山長五郎の墓 -興禅院-」参照)

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市鬼石の慶石山福持寺。

福持寺 (1)
福持寺 (2)
福持寺は天平年間(729~49年)行基の開創と伝わる。行基手彫りの地蔵菩薩を祀ったのが始まりとされ、地蔵院と称した。建久6年(1195年)に梶原景時の3男・福持丸が当地で落馬により死去したのでここに葬ったことから、景時が大旦那(中興開基)となり寺号を福持寺に改めたといわれる。

福持寺 (3)
山門横の「光明真言 五百億遍 供養塔」。光明真言は梵字23字(最後の休符を入れても24字)とは言え、五百億遍とは。

福持寺 (4)
福持寺 (5)
本堂は平成21年(2009年)に改修されている。山門は東向きだが本堂は南向き。昔は山門の先に本堂があったのかもしれない。現在、山門の先は墓地になっている。

福持寺 (6)
福持寺 (7)
福持寺 (8)
境内の不動堂。不動明王が鎮座している。

福持寺 (9)
福持寺 (10)
福持寺 (11)
弘法大師御影堂。

福持寺 (12)
福持寺 (13)
福持寺 (14)
太子堂。聖徳太子16歳を祀っている。鬼石町の上町にあった太子堂を大正6年(1917年)に福持寺に移転したもの。

福持寺 (15)
福持寺 (16)
福持寺 (17)
地蔵堂。

福持寺 (18)
文永7年(1270年)銘の板碑。緑泥片岩製で高さ147cm。蓮座上に阿弥陀種子が刻まれている。

福持寺 (19)
文永8年(1271年)銘の板碑。緑泥片岩製で高さ127cm。蓮座上に阿弥陀種子が刻まれている。

福持寺 (20)
文永7年(1270年)銘の板碑。緑泥片岩製で高さ 65cm。他の2碑同様、蓮座上に阿弥陀種子が刻まれている。碑下部の紀年銘のところで切れているので、下部は大きく欠損しているようだ。

群馬県内の板碑(供養塔)の最古は仁治元年(1240年)なので、文永銘の板碑は古い部類に入る。そのため、3碑とも相当風化が進んでいる。貴重な板碑なのだから、覆屋などで保護した方がいいと思う。

ところで、藤岡市のHPでは3基目の板碑の紀年銘を文永8年としている。しかし現地の旧鬼石町の案内板には文永7年とある。現物も文永7と見えた。自信はないが・・・。

参考(群馬県内最古ベスト3)
 「群馬県最古の供養碑 -小島田の供養碑-
 「甘楽町最古の板碑 -仁治の板碑-
 「富岡市最古の板碑 -仁治の碑-

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市上栗須の高樹山浄雲寺。

浄雲寺 (1)
浄雲寺は寛永年間(1624~45年)陽室的重の創建。

浄雲寺 (2)
浄雲寺 (3)
本堂は明治22年(1889年)に火災により焼失。その後、埼玉県の農家から古屋(蚕室)を借り仮本堂としていたが、昭和55年(1980年)に現在の本堂を再建。

浄雲寺 (4)
境内の六地蔵。預天賀地蔵や放光王地蔵など、それぞれお地蔵さんの見分けが付く。

浄雲寺 (5)
本堂前の「なでなで賓頭盧尊」。

浄雲寺 (6)
浄雲寺 (7)
浄雲寺は南毛観音霊場第三番札所。如意珠観音を祀る。

浄雲寺 (8)
浄雲寺 (9)
本堂を覆い隠すように建つ瑠璃光閣。何の施設かよく分からない。奥行きも相当あり、檀徒会館みたいなものか? それにしても、スペースの問題とは思うが、本堂前に建てちゃうなんてすごいな。

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市譲原の文明の板碑。

文明の板碑
板碑は総高約2mで、阿弥陀三尊仏を表す梵字(種子)が刻まれている。室町時代の文明(1469~86年)の銘がある。室町時代のもので、しかも露天にもかかわらず非常に状態が良く、梵字もはっきり読める。

当地の横田一族が一揆により滅んだ際に、生き残った者が供養のため建てたと伝えられている。横田一族の素性は不明。

引きの写真しか撮ってこなかったが、道路端すぐの2mくらいの高さのところにある。金網フェンスと板碑の間は1mもなく、後も畑になっており入るのが憚られたため道路越しの写真しかない。

藤岡市の解説版も道路側を向いており、読めないと思うぞこれは。もう少し考えて欲しい。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡上野村乙父の天岩山泉龍寺。

泉龍寺 (1)
泉龍寺は天正3年(1575年)僧・恵翁の開山。慶長3年(1598年)僧・善知がお堂を建立、寺容を整備した。

泉龍寺 (2)
入り口右側に建つ庚申塔。この庚申塔は庚申の文字が100刻まれている「一石百庚申塔」と呼ばれるもの。上野村では唯一。高さ245cm、幅52cmで、江戸末の文久元年(1861年)の銘がある。

泉龍寺 (3)
入り口左側には閻魔大王像。

泉龍寺 (4)
永徳元年(1381年)から同2年にかけて書写された大般若経600巻の内、現存する599巻が所蔵されている宝物庫。ちなみに永徳は南北朝期の北朝の年号。南朝は弘和。

書写は金讃山大光普照寺(埼玉県神川町)などの僧の手により、現在の乙父神社に奉納されたもの。泉龍寺に移った理由は不明。後に100巻余りが焼失したが、江戸時代に複数回にわたり修復されている。焼失の修復なので再書写したということ。

泉龍寺 (5)
本堂脇にある木地師の墓。
高さ48cmの舟形で聖観音像が浮き彫りされており、幼児のものと言われている。上部に菊のご紋があしらわれている。

木地師の墓は同じく上野村の宝蔵寺にもある。
(木地師については「木地師の墓 -上野村・宝蔵寺-」参照)

木地師の墓は、塩ノ沢タルノ沢地内で発見され泉龍寺に移されている。地図で調べたら塩ノ沢って、相当山奥の方だった。木地師が職業がら山奥で生活していたことが分かる。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡上野村楢原の三笠山中正寺。

中正寺 (1)
中正寺は延長年間(923~31年)に比叡山の僧・円忍坊実仙が毘盧遮那仏を背負ってきて、当地にお堂を建て祀ったのが始まりと伝わる。

もとは中越山の山号だったが、昭和30年(1955年)に三笠山開闢で知られる普寛の6世の法孫である徳忍大阿闍梨により、三笠山と改称されている。ちなみに、普寛は江戸中期(享保から享和)の修験者で、御岳講・御岳教の開祖。秩父の三峰山観音院で修行し、のちに諸国を巡行して、三笠山などを開いている。

中正寺 (2)
永正9年(1512年)に洪水により本堂などが流出。天正年間(1573~93年)に僧・順海が再建。現在の本堂は明治15年(1882年)の再建。

中正寺 (3)
こぢんまりとした梵鐘。

中正寺 (4)
中正寺 (5)
境内のしだれ桜。訪問の季節がら枝のみだが。
永正年間(1504~21年)に實仙和尚が比叡山延暦寺から持ち帰り植えたといわれる。当地は永正9年(1512年)に大洪水の被害に遭っているので、それ以降に植えられたと考えられる。樹齢は約500年と推定され、「仏乗桜」と呼ばれている。根回り7.8m、目通り3.5m、樹高約20m。


中正寺には火渡りの護摩行が伝承されている。裏山で毎年行われる(近年は5月3日)。不動明王の大智慧の光明という火を通すことにより、迷いを燃焼し心の垢を落とし清浄な身体となり、運気上昇、開運厄よけ、大願成就等、ご利益が授かるといわれている。

言密教において最も厳しい修行とされるが、一般の人も希望者は全員渡ることができる(もちろん安全面配慮)。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡上野村新羽の天守山宝蔵寺。

宝蔵寺 (1)
宝蔵寺の由緒は不明だが、天真という僧が当地を行脚中、野栗沢川の川底から阿弥陀如来像を見つけたことから、それを本尊として創建したと伝わる。

天真が天真自性だとすると、南北朝期(1370~80年)の僧なので、その頃の創建か。

宝蔵寺 (2)
宝蔵寺 (3)
意外に(失礼)立派な山門。よく見ると2階に梵鐘が吊されており鐘楼門であった。

宝蔵寺 (4)
宝蔵寺 (5)
本堂側から見ると梵鐘がよく見える。階段がついているので登らせてもらった。

宝蔵寺 (6)
宝蔵寺 (7)
由緒にある本尊の阿弥陀如来を祀る本堂。本堂の扁額は「救世殿」。

宝蔵寺 (9)
宝蔵寺 (10)
宝蔵寺は南毛観音霊場の32番札所である。写真は観音堂だと思われるが、扁額は「御巣鷹山」。上野村は江戸時代「山中領(天領)」で、鷹狩り用の鷹を育てていた場所。そのため御巣鷹山という地名(山)がある。

JAL機が不幸にも御巣鷹の尾根に墜落したため、御巣鷹山の名前は全国区になってしまった。

宝蔵寺 (8)
宝蔵寺 (9)
参道脇の木地師の墓。

木地師とは轆轤(ろくろ)を用いて椀や盆、木鉢、杓子などの木工用品を加工・製造する職人のこと。文徳天皇(在位850~58年)の第一皇子・惟喬親王が木工技術を伝授したといわれる。

木地師は材木が豊富な場所を10~20年単位で移動し、里人などとの交易で生計を立てていた。木地師は惟喬親王の家臣の末裔を称し、「菊の紋章」の使用が許されていた。そのため、戒名の上に菊の紋章が彫られている。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡神流町平原(へばら)の土屋山城守高久の墓。

ここは延命寺というお寺だが、無住で本堂の老朽化が進み、お寺として機能しているか不明のような感じ。土屋山城守高久の墓は本堂の裏山にあるが、墓地として整備されている状態ではない。足を滑らせながらの確認となった。

土屋山城守高久の墓 (1)
土屋山城守高久の墓。
土屋山城守は武田家の家臣で、武田勝頼の嫡男・信勝を上州に落ち延びさせたという伝説を持つ。

通説では、信勝は父・勝頼とともに天正10年(1582年)天目山にて自害している。16歳であった。

しかし下仁田町などに伝わる古文書によると、「勝頼は信勝の身代わりを立てて自害させ、本当の信勝は土屋山城守とともに峠を越え山中領(上野村・神流町)に入り、さらに南牧村に逃れた」(要約)という。

その後、土屋山城守は旧中里村に移り住み、文禄2年(1593年)に当地で亡くなったとされる。

土屋山城守高久の墓 (2)
ちょっと見づらいが、墓石には「文禄二年四月十七日 土屋山城守高久」とある。

土屋山城守が晩年を当地で暮らしていたのは事実のようだ。しかし信勝を落ち延びさせた伝説はどうなんだろう。

ちなみに、信勝は南牧村で過ごしていたが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に豊臣方(浪人)とし参陣し、討ち死にしたという。ついでに信勝には3人の男子がいて、長男(信義)が信勝の首級を持ち帰り南牧村に埋葬したという。信義の墓は下仁田町にあるという。

少し興味があるので、見つけに行ってみようかな。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡神流町神ケ原の慧日山東福寺。

東福寺 (1)
東福寺は慶長2年(1597年)甘楽宝積寺12世・芳谷の創建と伝わる。

東福寺 (2)
本堂は正徳3年(1713年)の建立で、約300年の歴史を誇る。もちろん、適宜改修されているだろうが。

東福寺 (3)
「圓通閣」の扁額は月舟宗胡の筆。
月舟宗胡は江戸初期の僧で、曹洞宗開祖・道元の教えへの回帰と古規を重んじる宗統復興運動を主導している。弟子の卍山道白は曹洞宗中興の祖と称されている。

月舟宗胡は16歳から修行のため諸国を廻っており、その道中で東福寺に立ち寄ったのだろうか。

東福寺 (4)
東福寺 (5)
東福寺 (6)
境内にお地蔵さんが多い。

東福寺 (7)
東福寺 (8)
庚申塔の三猿(見ざる言わざる聞かざる)も風化しているが、見ることができる。

本堂内にある殿鐘は、元禄14年(1701年)丹生村(富岡市)の鋳物師・柳田権之丞の作。上州鋳物師の半鐘としては二番目の古さだといわれる。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡神流町魚尾(よのお)の中山神社。

中山神社 (1)
中山神社 (2)
中山神社は貫前神社の分霊を勧請した魚尾神社が始まりという。創建年は不詳だが、社宝の鰐口に応仁2年(1468年)の銘があるので、同年代かそれ以前と考えられる。

中山神社 (3)
中山神社 (4)
元は魚尾字宮地にあったが、天明5年(1785年)に現在地へ遷座している。明治45年(1912年)に村内17社を合祀し中山神社と改称している。

中山神社 (5)
本殿は遷座時に新築したもので、向かって右に天之御中主命、左に経津主命を祀る二間社造りとなっている。様式は流れ作りで、正面に千鳥破風、唐破風を配している。施されている彫刻は宮大工の弁蔵作という。

経津主命は抜鉾神社のご祭神だろうが、天之御中主命はどういう経緯で祀られているのだろうか。天之御中主命は妙見社で祀られていることが多いので、地域的に秩父神社あたりと関係があると思われるが、よく分からない。

中山神社には太々神楽が伝わっており、毎年例祭で奉納されている。また、「お川瀬下げ」も伝統行事として残っている。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡神流町青梨の岩壺観音堂。

岩壺観音堂 (1)
岩壺観音堂の創建は不詳だが、同青梨の普明寺の分院として建立された。当地の新井家に、文政11年(1828年)の観音堂修復に関する資料が残っている。

岩壺観音堂 (2)
岩崖の斜面下に洞窟があり、そこに観音堂が建っている。老朽化が進んでおり、茅葺き屋根には穴が開いている。

岩壺観音堂 (3)
本尊は如意輪観音だが、現在は本院(普明寺)に安置されている。堂内には僧像と七福神像が置かれている。本院が真言宗なので、僧像は空海だと思われる。

観音堂が建っている洞窟は岩津保洞窟といい、縄文時代から弥生時代にかけての複合遺跡。土器・石器の他、屈葬の人骨や貝殻の腕輪などが出土している。

岩壺観音堂 (4)
岩壺観音堂 (5)
観音堂の裏に回ってみたら、洞窟の奥に人工的な入り口が見えた。ちょうどドア1枚分くらい。写真は明るく写っているが、実は真っ暗でうっすら入り口が見える程度。ビビって入る勇気なし。どうやら、昭和初期に蚕種貯蔵庫として掘った跡らしい。

機会があれば、懐中電灯持参で探検してみようかな。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡神流町魚尾(よのお)の神流川鮎神社。

神流川鮎神社 (1)
神流川鮎神社 (2)
鮎神社は神流川緑水会という団体が建立したもの。

神流川鮎神社 (3)
神流川鮎神社 (4)
太古の昔、丸岩で休んでいる神様に、村人が鮎を添えて麦飯を差し出したところ、鮎の尾まで召し上がり日本一の鮎だと喜んで、この地を魚尾と名付けたと伝えられている。

このような伝説と神流川の清流にちなみ、「水の神」「漁猟の神」「魚類の神」を祀ったという。

神流川鮎神社 (5)
境内の魚魂碑。

丸岩 (1)
丸岩 (2)
丸岩は神流川にある周囲50m、高さ15mの巨岩。
(「神流川にゴロ~ン -丸岩-」参照)
丸岩の上にも何やら祠があるが詳細は不明。

ところで、2011年掲載の丸岩の記事では「付近に車を停めるところもなく」と書いたが、現在は駐車スペースができていた。丸岩見学用なのか安全面からのスペースなのかは分からないが。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡神流町塩沢の洞谷山龍松寺。

龍松寺 (1)
龍松寺は弘治2年(1556年)に甘楽町・宝積寺の格翁全超を迎え創建。西塩沢の大松山麓の洞窟にあった小堂を移築したため、山号を洞谷山とした。また、大松山頂にあった大松が龍のように見えたため、寺号を龍松寺としたという。

龍松寺 (2)
龍松寺 (3)
本堂は明治45年(1912年)に火災により焼失。以降、古屋を仮本堂としていたが、平成2年(1990年)に新築・再建。

龍松寺 (4)
龍松寺 (5)
石段脇の子育て地蔵と六地蔵。

龍松寺 (6)
本堂前の慈母観音

龍松寺 (7)
本堂の軒に梵鐘が掛けられている。でもよく見ると、屋根が別になっているみたいなので、一応鐘楼なのかな。

龍松寺 (8)
龍松寺 (9)
境内のしだれ桜。季節的に枝だけだが。樹齢は約350年。樹高約18m、枝張り16mで四方に広がる。垂れ下がった細枝は5m余りにおよぶ。満開時は夜間ライトアップされる。

塩沢地区は明治27年(1894年)、35年(1902年)、45年(1912年)の3度火災に見舞われ、龍松寺も2度焼失しているが、しだれ桜は生き延びている。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡神流町柏木の阿弥陀三尊画像板碑。

阿弥陀三尊画像板碑 (1)
阿弥陀三尊画像板碑 (2)
阿弥陀三尊画像板碑(中央)は、秩父産の緑泥片岩製で総高110cm、最大幅32cm。

阿弥陀三尊画像板碑 (3)
阿弥陀如来、勢至観音(右脇侍)・観音菩薩(左脇侍)の三尊が雲に乗った来迎図を線刻したもの。乾元2年(1303年)の銘がある。

この板碑は昭和初期まで地中に埋まっており、画像が良好な状態で残されている。

画像板碑は県内でも13基(といわれる)しか確認されていない貴重なものである。

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市岡之郷の白華山観音寺。

観音寺 (1)
観音寺は正治2年(1200年)の開創と伝わる。天正10年(1582年)の神流川の合戦で焼失、承応2年(1654年)法印盛長が中興開山となり、現在地に再興した。

観音寺 (2)
観音寺 (3)
観音寺 (4)
仁王門をくぐるとまた中門があり、その先にも山門(楼門?)がある。

観音寺 (5)
本堂は最近の再建のようで、まだ新しい。

観音寺 (6)
観音堂。観音寺は南毛観音霊場の第1番札所で、千手観音、如意輪観を祀る。弘法大師の作といわれ秘仏となっている(60年毎のご開帳)。

弘法大師は承和2年(835年)に亡くなっており、観音寺の創建は正治2年(1200年)。当地で弘法大師が作ったわけではないようだ・・・。

観音寺 (7)
境内にはたくさんの歌碑があった。俳聖・松尾芭蕉の句碑。
「しばらくは 花の上なる 月夜かな」
寛延元年(1744年)建立で、群馬県内最古の芭蕉の句碑といわれるが、定かではない。一般的には、富岡太子堂古墳上にある句碑が寛延4年(1755年)で県内最古とされている。

観音寺 (8)
作曲家・服部良一の句碑。

他にも、詩人・鈴木比呂志、俳人・田島武夫、俳人・西條砂郎、高尾山主・山本指月などの句碑がある。

観音寺 (9)
平成24年(2012年)に起きた関越自動車道でのツアーバス事故の犠牲者を慰霊する供養塔がある。記憶にあるが、痛ましい事故だった。犠牲になった方々のご冥福をお祈りする。

観音寺 (10)
観音寺 (11)
スズラン(百貨店)従業員の慰霊碑と初代社長夫妻の顕彰碑がある。スズランと観音寺のつながりは知らない。創業者で初代社長の渋沢康平は高崎出身だと思ったが。

観音寺では4月の第2日曜には火渡り護摩が行われている。修験者の修行の一環として行なわれるものだが、赤ちゃんを抱っこして渡ってもらうとい、元気に育つといわれ、多くの家族が訪れるという。

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市藤岡の龍田山光徳寺。
光徳寺は芦田氏の菩提寺で累代の墓がある。また算聖・関孝和の墓も
ある。
 「芦田氏の菩提寺 -光徳寺-
 「算聖・関孝和の墓 -光徳寺 その2-

前回、同じ藤岡市の源性寺の松井宗直の墓を紹介したが、光徳寺にも
松井宗直の墓がある。こちらが本墓のようだ。
 「松井宗直の墓 -源性寺-

松井宗直の墓
中央が松井宗直の墓。
(向かって左は宗直3男・松井宗利、右は宗直室の墓)

宗利が松井家の家督を継いでいる。また、宗直の室は後室である大森
泰頼の娘。宗利の母は大森泰頼の娘なので、3人が一緒に葬られている
のだろう。

宗直の墓石には「自天源性大居士」とあり、この戒名が前回の源性寺の
「自天山」「源性寺」という山号・寺名になっている。

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市下大塚の自天山源性寺。

源性寺 (1)
源性寺は慶長元年(1596年)松井與平衛宗直が、正室の菩提を弔うために創建したと伝わる。正室は依田信守の娘である。

ちなみに、藤岡市の天陽寺にある信守の墓は、正室の父である信守ではなく、その孫にあたる信守のもの。信守は関ヶ原の戦い、大坂の陣の功績により、徳川家康から祖父名・信守を名乗ることを許されている。(天陽寺は「武田家家臣・長井正實の開基 -天陽寺-」参照)

源性寺 (2)
源性寺 (3)
山門(仁王門)がど~んといった感じで構える。周りが空いているので存在感がある。仁王像をアップで撮ろうとしたが、アクリル板がはめられていて、反射して良く撮れなかった。

源性寺 (4)
飯塚臥龍斎興義という人物の顕彰碑があった。戸田越後守が始祖といわれる(諸説あり)気楽流(柔術を中心とした総合武術)の11代目で、中興の祖といわれている人物らしい。緑野郡下大塚村(源性寺がある地区)の出身。江戸時代後期の人。

源性寺 (5)
松井宗直の墓。
写真では分かりずらいが、かなり大きな五輪塔型。まだ新しいが、実はこの中に墓が保存も兼ねて納められている。

松井氏は源為義の子・惟義(松井冠者)を祖とする。宗直は惟義から数えて15代目という。今川氏、武田氏に仕えた後、天正13年(1585年)ころには徳川氏に仕えている。

宗直の本墓は藤岡市の光徳寺にあるようなので、また行ってみるかな。光徳寺は芦田氏の菩提寺で、関孝和の墓もある。
 「芦田氏の菩提寺 -光徳寺-
 「算聖・関孝和の墓 -光徳寺 その2-

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市上大塚の緑埜精糸社跡。

緑埜精糸跡 (1)
緑埜精糸社は明治12年(1879年)に創立された組合製糸である。養蚕農家が20~30軒集まり「組」を作り、緑埜精糸社には21の「組」が参加していた。組合製糸は、農家が生糸を持ち寄って品質を均一にし、販路の開拓まで行う自主組織。

緑埜精糸社は14年という短い歴史であったが、生糸の品質を高めるために農家が自ら養蚕法を改革したことなど、当時としては画期的な効果をもたらした。

緑埜精糸跡 (2)
緑埜精糸跡 (3)
緑埜精糸跡 (4)
緑埜精糸社の製糸工場があった近くの稲荷神社境内に、記念碑(緑埜精糸社発祥の地)が建っている。平成25年(2013年)の建立。

旧緑埜郡、旧多胡郡、旧南甘楽郡には、同様の組合製糸として甘楽社、下仁田社、碓氷社が設立されている。

関連 
 「ホームセンターの駐車場? -旧碓氷社本社事務所-

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市上大塚の大塚山大雲寺。

大雲寺 (1)
大雲寺は文禄3年(1594年)、光徳寺(藤岡市)10世・光山梵徳和尚の開山と伝わる。

光徳寺が天正18年(1590年)の創建といわれているので、4年後に10世?って思ってもう一度調べてみたら、光徳寺は芦田氏(依田氏)が信濃国佐久から藤岡に移封された際、佐久光徳寺の7世を伴ってきたらしい。

それでも4年で7世から10世に? の疑問は消えず。と言うことで、光徳寺の創建がもっと古いか、大雲寺の創建がもっと遅いかということ。
(光徳寺は「芦田氏の菩提寺 -光徳寺-」参照)

大雲寺 (2)
本堂は安永8年(1779年)の建立。当然、その後改修を重ねているが、当時の様式を残しているという。

大雲寺 (3)
境内に庚申塔が集められている。

大雲寺 (4)
大雲寺 (5)
聖観音を祀る観音堂。観音堂は昭和54年(1979年)の再建。

大雲寺は南毛33観音霊場の第8番札所である。

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市神田(じんだ)の浅間神社。

神田浅間神社 (1)
神田浅間神社 (2)
神田浅間神社は建仁年間(1201~03年)に源賴朝の家臣が駿河国から冨士浅間神社の分霊を勧請したと伝わる。神田、三本木、保美の3地区の鎮守さまとなっている。

神田浅間神社 (3)
舗装はされているが、けっこうな坂道を登って行くと社殿が見えてくる。この日は春の例大祭。関係者や参拝の方々が多数訪れていた。

神田浅間神社 (4)
神田浅間神社 (5)
文化9年(1812年)に社殿を焼失。拝殿は明治16年(1883年)の再建、平成元年(1989年)に改修されている。

神田浅間神社 (6)
神田浅間神社 (7)
神田浅間神社 (8)
拝殿の裏山にある本殿。安政5年(1858年)の再建。覆屋はかなり新しいので、平成に入ってからの新築かもしれない。

神田浅間神社 (9)
神田浅間神社 (10)
春の例大祭には神田地区に古くから伝わる獅子舞が奉納される。神田獅子舞保存会のみなさんの入場。

神田浅間神社 (11)
神田浅間神社 (12)
神田浅間神社 (13)
いろいろな演目があるようだ。知識のないオレには違いがよく分からないが、けっこうダイナミックな舞もある。

実は神田地区の獅子舞を子供のころ(ン十年前)観たことがある。その時は保美地区の獅子舞もあったが、現在は少子化の影響で子供の踊り子がおらず、休眠中のようだ。

*神田獅子舞保存会のみなさん、顔出ししてしまってすみません。変に目隠しやぼかしを入れるのもおかしいと思い、そのまま写真を掲載しました。ご了承を。

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市保美の地蔵菩薩石像。

保美地蔵尊 (1)
保美地蔵尊 (2)
地蔵菩薩石像の由緒は不明だが、隣に建っている石塔に天保(1830~44年)の銘が見えたので、同時代あたりか?

保美地蔵尊 (3)
保美地蔵尊 (4)
この地蔵菩薩石像は、地元では「子育て地蔵尊」と慕われており、毎年1回のお祭り(3月)には多くの方が参拝に訪れる。特に子供が生まれた、孫が生まれたなど、報告がてらお参りにくるようだ。

写真では見えないが、地蔵尊の前掛けや帽子は地元の方の手作りで、奉納者のお名前があった。聞いたところでは、曾孫さんが生まれたお祝いだという。

地蔵菩薩は「最も弱い立場の人々を最優先で救済する菩薩」であることから、日本における民間信仰では「子供の守り神」とされる。

保美地蔵尊 (5)
地蔵尊の隣には庚申塔、二十二夜塔などが建っている。最初に書いた天保の銘がある石塔は、真ん中の二十二夜塔。二十二夜塔には如意輪観音が刻まれている。

二十二夜塔は、二十二日の夜に人々が集まり勤業や飲食を共にし、月の出を待つ行事を行った講で、その供養のために造立するた塔のこと。月を拝みながら経を唱え、悪霊を追い払うという行事。一般的には二十三夜講が多いが、埼玉県北西部から群馬県にかけては二十二夜講が多い。

このエントリーをはてなブックマークに追加

↑このページのトップヘ