Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 藤岡市・多野郡


藤岡市下栗須の瑠璃光山西勝寺。

西勝寺 (1)
西勝寺の創建は不詳だが、開基の僧・盛誉が明暦2年(1656年)に入寂しているので、創建は江戸時代初期と考えられる。

西勝寺 (2)
西勝寺 (3)
山門は参道から少しズレたところにある。現在の参道は後の付け替えと思われる。

西勝寺 (4)
西勝寺 (5)
本堂は文政・天保初期(1818~40年頃)に2度にわたり火災で焼失。天保13年(1842年)に再建されている。

西勝寺 (6)
西勝寺 (7)
本堂隣の薬師堂は万治万年(1658年)の建立。現在のものは再建されていると思われる。本堂と同じころかな。

西勝寺 (8)
参道の途中に下栗須公会堂がある。西勝寺入口にそれを示す看板が立っているが、よく見ると書き直しているのが分かる。下には「オウム信者 この街から出て行け オウム絶対阻止」とうっすら残っている。写真を拡大して見てもらえると読めると思う。

そう言えば、藤岡市にオウム真理教が道場(?)を作って、地元と揉めていたのを思い出した。道場があったのは下栗須地区だったんだ。オウムは根付くことなく撤退したけど、当時は大変だったろうな。

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市本郷の葵八幡宮。
多野藤岡地方誌(昭和57年:1976年発行)に葵御前にまつわる伝説が載っていたので再訪した。(以前の訪問記は「葵御前を祀る? -葵八幡宮-」参照)

葵八幡2 (1)
葵八幡の由緒は不詳だが、葵御前を祀るといわれる。社の両側に板碑があり、向かって右のものに応長元年(1311年)の銘が読み取れる。大正時代に葵八幡宮の周りから多数の人骨が発掘されており、板碑はその墓標とのこと。

葵八幡2 (2)
いまでも墓石らしきものが残っている。ひとつには年代的には新しいが、江戸時代の享保(1716~36年)の文字が読み取れた。

葵八幡2 (3)
社の裏側に井戸があり、井戸の底のは四方に横室があるという。埋葬施設なのか。

前回の椿社神社(「文覚上人の創建? -椿社神社-」参照)に書いた、文覚上人が苦行した場所といわれるのが葵八幡宮の井戸付近といわれているので、この井戸のことかも。

で、ここからが「葵御前伝説」。
源義賢(木曽義仲の父)に従い東国まで来た葵御前は、当地で乳飲み子がはしかにかかり進退に窮し、橋の下に身を潜めていた。しかし追手に捕まり、郎党とともに惨殺され切り干しにされた(なんと無残な)。

葵八幡2 (4)
葵御前が隠れた橋は小石橋で葵八幡宮入口の堀にかかっているとあったが、現在は堀はなく境内にそれらしき石があった。「長さ5尺、幅4尺、厚さ8寸(約190cm✕151cm✕30cm)の1枚石」とあるので、ちょうど寸法的にはぴったりだ。

地元の人は、昔からはしかが流行するとこの橋の下をくぐり、病気が軽くなるのを祈ったという。

橋から2町(約450m)西方に、葵御前が乗ってきた牛が死んだので埋めたといわれる牛伏塚がある。と言うことだが、見つけられなかった。

ところで、伝説では葵御前は切干しにされたとあるが、付近では大根や甘藷(さつまいも)などを切干しにしない家訓が、現在も残っているという。

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市本郷の椿社(つばきもり)神社。

椿社神社 (1)
椿社神社 (2)
椿社神社 (3)
椿社神社は建久年間(1190~98年)に文覚上人が神明宮を創建したことに始まるという。その後、天正3年(1575年)高山吉重が再興したとされる。元は隣村にあたる神田(じんだ)に鎮座していたが、現在地へ遷座する際に椿社神社と改めている。

高山氏は桓武平氏良文流の秩父氏の一族で、当地の御厨(みくりや)を管理(所領)していた。その家系からは、高山長五郎(養蚕家)や高山彦九郎(勤皇家)などが出ている。

椿社神社 (4)
杉並木にの覆われた参道は、季節に関係なく心地よい。

椿社神社 (5)
椿社神社 (6)
椿社神社 (7)
社殿前の狛犬は平成19年(2007年)の奉納。社殿はこじんまりとしており、いかにも「村の鎮守」と言ったところ。平成7年(1995年)に改修されている。

椿社神社 (8)
改修により役目を終えた瓦が置かれている。

椿社神社 (9)
明治42年(1909年)に椿社神社に合祀された各地の神社のお社が保存されている。合祀された神社は、「紡ぎ」が転じたといわれる積木神社、上野国志に「瓶酒明神」と記載される瓶酒神社などがある。

椿社神社 (10)
神楽殿。現在も神楽が行われてるかは知らないが、地域的に養蚕神楽だと思う。

ところで、椿社神社(元の神明宮)を勧請したのは僧の文覚上人とされるが、なぜお寺ではなく? と思う。口碑では、浅間山の噴火(天仁元年:1108年)などで土地が荒れ、穀物が採れないことを憂いた上人が苦行をするとともに、食物の神・豊受姫神を勧請したという。

でもそれなら、御厨(みくりや)を管理する高山氏が、その守護のために神田(地名)に豊受姫神(神明宮)を勧請したとする方が、素人的にはそれっぽく感じるのだが・・・。

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市小林の小林山寿楽寺。
寿楽寺 (1)
寿楽寺は寛永13年(1636年)芦田氏の元家臣・水沼寿楽斎副茂の開基。元々は神流川の近くにあったが、度重なる洪水により文化年間(1804~18年)に現在地へ移転している。

寿楽寺 (2)
門前には平成22年(2010年)建立の仁王像が鎮座する。

寿楽寺 (3)
寿楽寺 (4)
寿楽寺 (5)
参道の恵比寿さん、七福神、文殊菩薩像。文殊菩薩が乗っている獅子が、そう見えないのはご愛敬?。

寿楽寺 (6)
寿楽寺 (7)
観音様が慈悲の眼で見守っている。

寿楽寺 (8)
寿楽寺 (9)
本堂は昭和30年(1955年)の新築建立。屋根の鬼瓦は「名工」として名高い山口茂氏の手による(平成12年:2000年)。

寿楽寺 (10)
庭園も平成22年(2010年)に整備されたようだ。余り広くない境内に、これでもかっ! ってくらい詰め込んでいる印象。

寿楽寺 (11)
比較的新しい石仏群に混じって、昔からの石仏も残されている。全体的に新しいものばかりなので、何かホッとする感じ。

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市小林の大塔寺天満宮。

大塔寺天満宮 (1)
大塔寺天満宮 (2)
大塔寺天満宮は享保11年(1726年)に、小林大塔寺村の人々が太宰府天満宮から菅原道真の分霊を勧請したと伝わる。明治時代に藤岡諏訪神社に合祀されたが、昭和18年(1943年)に分祀され再び現在地に戻っている。

現在の鳥居は昭和56年(1981年)の建立。

大塔寺天満宮 (3)
大塔寺天満宮 (4)
拝殿に見えるのは覆屋で社殿は中にある。社殿は勧請時に建立され、「一間社流れ権現破風造り」と呼ばれる江戸中期に形成された神社様式。切妻造りの屋根の正面に千鳥破風を付け、軒を唐破風にしている。

社内には木造の神像が安置されており、その後ろの神璽の木箱に安永7年(1778年)と書かれている。

最近では昭和63年(1988年)補修・改築されているようだが、約300年の歴史を誇る貴重な社殿である。

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市保美の稲荷神社。
以前、保美地区の稲荷神社を紹介したが、それとは別の稲荷神社。
(「浅間山の火山灰を集めた丘に鎮座 -藤岡市保美・稲荷神社-」参照)

保美稲荷神社2 (1)
保美稲荷神社の創建は不詳だが、鳥居(コンクリートで補強されているところの上部)に「安永」の文字が読み取れた。安永は江戸時代の1772~81年。

保美稲荷神社2 (2)
鳥居の上に石が投げ上げられている。昔から、鳥居の上に石を乗せると願い事が叶うといわれている。なかなか街中の神社では危なくてできないが、田畑が広がる中の神社らしい風景だ。また、石鳥居ならではでもある。

ただし、自分が投げた石で他の石を落とすと、逆に縁起が悪いといわれているので、ちょっと注意が必要だ。

保美稲荷神社2 (3)
保美稲荷神社2 (4)
小さい社が台座の上に乗っている。

保美稲荷神社2 (5)
社の中には狐の像と剣があった。剣は何?

保美稲荷神社は別名「失せ物稲荷」の名で地域住民の方々に親しまれている。「なくした物を探したいときに願をかけると、不思議と必ず出てくる」ことから、そう呼ばれている。そして、なくした物が見つかったら、油揚げをお礼に奉納する風習がある。

昔は社の周りに参拝者が奉納する油揚げや酒が数多く並んだという。

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市篠塚の道標付笠石四角塔。

道標付笠石四角塔 (1)
道標付笠石四角塔 (2)
道標付笠石四角塔は篠塚地区の通称「東四ツ辻」に建っている。総高は128.9cmで、天明7年(1787年)の銘がある。塔身部の3面に薬師如来や地蔵菩薩の名が3体ずつ刻まれている。

道標付笠石四角塔 (3)
道標付笠石四角塔 (4)
蓮華台座の東面に「右くらかの・左ふしおか」、南面に「右志んまち・左よしい」と刻まれ、道標にもなっている。

笠塔婆は本来供養塔であるので、元は供養塔として建てられたが、道ばただった(もしくは後に道ばたになった)ため、道標の役割も付加されたものと考えられる。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡神流町柏木のお蝶ヶ穴。

お蝶ヶ穴 (1)
お蝶ヶ穴 (2)
お蝶ヶ穴は、名主と武士一族の争いに巻き込まれた「お蝶」という幼女が匿われていたという大岩の穴。

ある時、柏木村に馬之丞と名乗る武士が落ち延びてきて、柏木村中島に住み着いてしまった。馬之丞は次第に村内での勢力を伸ばし、名主をも圧迫し始めた。このため、名主・新井家とのもめ事が絶えなかった。

馬之丞は鉢形(寄居町)での戦さに招集され向かう途中、待ち伏せしていた名主に鉄砲で撃ち殺されてしまった。これが元で新井家は馬之丞一族の恨みを買い、皆殺しにされそうになった。名主の従人たちは幼女の「お蝶」を救い出し、谷底深くにあった小さな穴に匿い育てることにした。

その後、村では馬之丞一族と村人が和解し、お蝶を名主の後継として迎え入れた。お蝶が育てられた穴が「お蝶ヶ穴」である。

お蝶ヶ穴 (3)
水量が少ないこの時期でも、穴には神流川の水が流れ込んでいる。穴の中はどうなってるのかな?

実は4月(だったと思う。桜が咲いていたので)に1度行ったのだが、その時は水量が多く岩自体がほぼ水没してた(岩の色が変わってる辺りまで)。岩の左に写っている擁壁上は駐車場になってるんだけど、そこも水没していた。今回も水量の確信はなかったのだが、結果的にこの時期に行って正解だった。

それにしても、かなり水量の増減が激しいみたいだが、この辺りまで神流湖(下久保ダムのダム湖)なのかな。

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市鬼石の原古墳。

原古墳 (1)
原古墳は直径9mの円墳で、墳丘には土がまったく使用されず石材のみで構築された珍しい古墳である。6世紀中ころの築造と推定される。

原古墳 (2)
埋葬施設は全長約6m(羨道約3m、玄室約3m)の横穴式石室で、天井石はなくなっている。

平成20年(2008年)に国道及び橋の付け替え工事に伴い発掘調査が行われ、ガラス玉、耳飾り、鉄鍬などが出土している。平成23年(2011年)に元の位置から50m東の現在地に移築・復元されている。墳丘上部は既に失われていたので、古墳基底部のみの復元となっている。

Y字路の三角地点にあり、隣は何回も寄ったことがあるセブンイレブン。でも、原古墳の存在にはまったく気がつかなかった。何で知ったかと言うと「ぐんま古墳探訪」に紹介されていたから。早速役にたった。(「『ぐんま古墳探訪』を買ってきた」参照)

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市下戸塚の水沼神社。

水沼神社 (1)
水沼神社 (2)
水沼神社の創建年は不詳だが、永仁6年(1298年)の上野国神名帳に「従四位下水沼明神」とあり、古くから当地の鎮守として信仰されてきたと思われる。

一の鳥居は、それまでの鳥居が台風により倒壊したため、昭和57年(1982年)の再建。鳥居横の常夜燈は明治31年(1898年)の建立。

水沼神社 (3)
数段の石段を登ると二ノ鳥居。

水沼神社 (4)
水沼神社 (5)
水沼神社 (6)
社殿は明治30年(1897年)の再建。平成19年(2007年)に屋根の改修が行われている。拝殿の扁額は「雨澍殿」。大地を潤す雨といった意味か? 雨乞いの祈願あたりから来てるのかな。

なお、社殿は神流72号古墳上に建っているが、墳丘は削平されている。

水沼神社 (7)
社殿横の大石。稲荷古墳の石室天井石らしい。稲荷古墳が神流72号古墳(当地)なのか他の古墳なのかは分からない。

水沼神社 (8)
社殿裏の石宮。奥宮とのことで、しかも「日本三石宮の一つと伝えられる」とあり、調べみたがはっきりしない。

水沼神社 (9)
神社南側の湧水池。ヤリタナゴ、マツカサガイ、ホトケドジョウの生息地になっている。藤岡市でヤリタナゴとマツカサガイの生息地はここだけだと言う。

水沼神社 (10)
境内に入ってすぐの所に神流川合戦史を刻んだ石碑があった。昭和56年(1981年)の建碑。神流川合戦は天正10年(1582年)織田信長が本能寺の変によって敗死した後、織田方の滝川一益と北条氏直・北条氏邦が争った戦い。

けっこう細かいことまで滝川側の視点で書かれている。

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市中栗須の神明宮。

神明宮 (1)
神明宮は建久3年(1192年)に源頼朝の発願により佐々木盛綱が創建したと伝わる。

神明宮 (2)
神明宮 (3)
二の鳥居には諏訪大明神とあるので、諏訪神社が合祀されているようだ。

神明宮 (4)
神明宮 (5)
参道は長く、いくつか舗装道路が横切っている。車も普通に走っていたので、ご近所の生活道路として使われているようだ。

神明宮 (6)
神明宮 (7)
神明宮 (8)
社殿は天正10年(1582年)の神流川合戦で焼失、天正13年(1585年)に再建されたとの記録が残る。現在の社殿は明治39年(1906年)の再建。

神明宮 (9)
神明宮 (10)
拝殿に絵馬が掲げられているが、題材は分からない。

神明宮 (11)
ご神木。

神明宮 (12)
春の例祭には太々神楽が奉納される。ちなみに、秋の例祭では獅子舞が奉納される。

藤岡市内に鎮座しているが、参道も長く境内も広い。社歴も長いわりには諏訪神社や富士浅間神社と比較すると余り知られていない。しかし、近隣9郷の郷社として根付いている。

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市藤岡の子育て地蔵尊。
藤岡市の従来の町名では宮本町なので、宮本町子育て地蔵尊と表記。

宮本町子育て地蔵 (1)
天正18年(1590年)に芦田(依田)康勝が佐久から藤岡に移封された際、芦田氏を慕った旧領民が地蔵菩薩像を背負って来たといわれる。

文政12年(1829年)にはお堂が建立されている。現在のお堂は明治初年のもの。

宮本町子育て地蔵 (2)
宮本町子育て地蔵 (3)
本尊の地蔵菩薩像は無銘だが、隣に並ぶ石像には文政3年(1820年)の銘とともに「岩邑田」と刻まれている。岩邑田は現在の佐久市岩村田のことだと思う。つまり芦田氏の旧領。

宮本町子育て地蔵 (4)
地蔵尊は「子育て地蔵」「夜泣き地蔵」と呼ばれ、子どもの夜泣きや虚弱体質などを治す御利益があるとされる。祈願する際は、ここから地蔵像を1体借り受け、子どもの成長が順調に進んで1年を過ぎると、同じような小型の地蔵像を借りた石仏と合わせ2体を返納するというもの。

この習慣は現在も残されており、そのため堂内には数多くのお地蔵さんが鎮座している。新しい像も目につく。

宮本町子育て地蔵 (5)
お堂外にも複数のお地蔵さんをまとめた供養塔(?)があった。

ところで、先に「文政3年 岩邑田」と刻まれていると書いたが、ちょっと不思議な気がする。芦田康勝は慶長15年(1600年)に不始末を犯し改易されており、以降藤岡市地域は幕末まで小領に細分されていた(芦田氏領ではない)。文政3年に再造仏されたということかも。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡神流町小平の土生(はぶ)神社。

土生神社 (1)
土生神社 (2)
土生神社の由緒は不明。

土生神社 (3)
土生神社 (4)
土生神社 (5)
質素な拝殿が、逆に地方の神社らしさを醸し出す(失礼)。

土生神社 (6)
土生神社 (7)
本殿は文政8年(1825年)に改修されている。その際、多くの彫刻が施されたという。これが意外にも立派な彫刻。

土生神社 (8)
土生神社 (9)
土生神社 (10)
土生神社 (11)
土生神社 (12)
本殿の彫刻は立派である。作者などは分からないが、江戸時代後期の派手目の流れをくんでいる。四方の柱に猿が付いている。意味合いは知らないけど珍しい。

土生神社には石棒も伝わっている。神流町には縄文・弥生時代の遺跡も多く発掘されており、古代の宗教行事に使用されていたものと思う。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡神流町相原の丹生(たんしょう)神社。

丹生神社 (1)
丹生神社 (2)
丹生神社は元文4年(1739年)の創建と伝わる。甘楽郡(現富岡市)の丹生(にう)神社の分霊を勧請したといわれる。元々は「にう」と読んだらしいが、いつからか「たんしょう」と読むようになった。

丹生神社 (3)
鳥居に付けられていた扁額(現在は拝殿についている)。扁額裏から墨書が見つかっており、扁額周りの透かし彫りは天保4年(1833年)製と判明した。鳥居も同時期の造立と推定され、県内でも古い部類の木造(ケヤキ)鳥居と考えられている。

ただ、鳥居は鮮やかな朱色になっており、上塗りしたのか再建鳥居か分からない。あんまりよく見てこなかったので・・・。

丹生神社 (4)
丹生神社 (5)
丹生神社 (6)
2社が祀られているようだが、もう1社は知識がなく読めない。ただ、鳥居の旧扁額には「國常立神」とあり、国之常立神(くにのとこたちのかみ)のようだ。とすると、秩父神社系の妙見社(宮)かな。

丹生神社 (7)
神楽殿? 神饌舎?

神流町には相原地区以外にも丹生神社があるのでお間違えなく(塩沢地区と黒田地区)。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡神流町万場の八幡宮。

万場八幡宮 (1)
万場八幡宮 (2)
万場八幡宮は鎌倉時代、幕命により梶原景時が創建したと伝わる。当地には古くから大日靈命(天照大神)を祀る天照皇大神宮があり、これに誉田別命を祀り八幡宮としたという。その後、寛保2年(1742年)に発生した山津波により流された春日神社が合祀され三社宮となっている。

現在の鳥居は平成19年(2007年)の再建。

万場八幡宮 (3)
万場八幡宮 (4)
万場八幡宮 (5)
社殿は寛保2年(1742年)の山津波で流されたが、宝暦9年(1759年)に再建されている。

万場八幡宮 (6)
ご神木の大ケヤキ。

万場八幡宮 (7)
境内の大石。詳細不明だが、何がしかの由緒がある?

万場八幡宮の「梶原景時の創建」という由緒は疑わしいが、景時は多少上野国とのつながりがある。前橋市富士見町の珊瑚寺には、景時父子の墓と伝わる宝塔がある。(「梶原景時父子の墓? -珊瑚寺-」参照)

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡神流町柏木の永松山大林寺。

大林寺 (1)
大林寺は永享11年(1439年)の創建と伝わる。寛保2年(1742年)の豪雨による山津波で寺は流され、現在地の高台に再建されている。しかし、昭和31年(1956年)の柏木地区大火により全焼するなど、幾多の災難を乗り越えてきた。

大林寺 (2)
大林寺 (3)
石段脇の閻魔大王像と不動明王像。

大林寺 (4)
大林寺 (5)
本堂は柏木地区の大火で焼失後、吉井町多比良の寺から古堂を譲り受けたもの。移築時は住民総出で協力したという。

大林寺 (6)
本堂軒に梵鐘が2つ下がっている。写真左の鐘は火災時に亀裂が入り音色がおかしくなってしまったため、右の鐘を購入している。

大林寺 (7)
柏木地区の大火は神流川の北岸側が火元だったが、北風にあおられ南岸側の方が被害が大きかった。大林寺も南岸側の、しかも高台にあるにもかかわらず全焼してしまったことをみると、相当の火勢だったようだ。

大林寺 (8)
大林寺には青銅製の銅鑼(どら)と鐃はちが伝わっている。これは昭和42年(1967年)に旧寺跡の畑から掘り出されたもの。山津波で大林寺が流された際に埋もれたものと考えられている。そうすると実に255年間も土中に埋まっていたことになる。(写真は神流町のHPから借用)

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市浄法寺の広厳山浄法寺。
前回、見落とした道忠禅師の供養塔を写真に撮るため再訪。
(「伝教大師ゆかりの寺 -浄法寺-」参照)

道忠禅師供養塔 (1)
道忠禅師供養塔 (2)
浄法寺を創建したと伝わる道忠禅師の供養塔。
明応5年(1496年)の建立。「南無阿弥陀仏」の文字が見てとれる。道忠は天台宗ではないが、最澄との関連や浄法寺が天台宗となっていることから、「南無阿弥陀仏」と刻まれたんだろう。

道忠は唐招提寺を開いた鑑真の弟子で、東国を巡って律宗の教えを広めた高僧。その際に、浄法寺を開基したといわれる。道忠から菩薩戒を受けた円澄が最澄の弟子となったことから最澄と知り合い、最澄の天台宗発展のための支援も行っている。

相輪橖
道忠は浄法寺に最澄を招き、ここを東国布教の拠点としたといわれる。浄法寺の相輪橖は弘仁6年(815年)建立で、最澄存命中に完成した2橖の内の1橖。最澄がこの相輪橖の前で説教を行った際には、数万人が集まったと書く資料もあるが・・・。

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市高山の高山社情報館。

高山社情報館 (1)
高山社情報館は高山社跡が世界遺産に登録されたことを受け、平成28年(2016年)に開館した。

高山社情報館 (2)
情報館前には高山長五郎の銅像が建っている。確か、以前は藤岡市役所の中庭にあったと思う。情報館の開館に伴い移転したんだと思う。

情報館では高山社の各種資料や藤岡地域の養蚕についてのパネル、養蚕道具・資料等を展示している。

高山社情報館 (3)
高山長五郎の人形。

高山社情報館 (4)
高山社蚕業学校の全景模型。

高山社情報館 (5)
高山社情報館 (6)
蚕や養蚕に関する説明パネル。

高山社情報館 (7)
高山社情報館 (8)
高山社蚕業学校の卒業証書と教員免状。

高山社情報館 (9)
高山社情報館 (10)
実際の養蚕道具。
下の写真の左の道具は「福島式桑刻機」。右は座繰り機。
(「福島式桑刻機を発明 -福島元七顕彰碑-」参照)

高山社跡自体は以前行っているので、今回は寄っていない。中に入れたかもしれないが、別にって感じなので・・・。
(「養蚕群馬の牽引者 -高山長五郎/高山社跡-」参照)

ついでに、高山長五郎のお墓は高山社のすぐ西(ちょっと山の中腹)の興禅院にある。
(「高山長五郎の墓 -興禅院-」参照)

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市鬼石の慶石山福持寺。

福持寺 (1)
福持寺 (2)
福持寺は建久7年(1196年)の創建と伝わる。

福持寺 (3)
山門横の「光明真言 五百億遍 供養塔」。光明真言は梵字23字(最後の休符を入れても24字)とは言え、五百億遍とは。

福持寺 (4)
福持寺 (5)
本堂は平成21年(2009年)に改修されている。山門は東向きだが本堂は南向き。昔は山門の先に本堂があったのかもしれない。現在、山門の先は墓地になっている。

福持寺 (6)
福持寺 (7)
福持寺 (8)
境内の不動堂。不動明王が鎮座している。

福持寺 (9)
福持寺 (10)
福持寺 (11)
弘法大師御影堂。

福持寺 (12)
福持寺 (13)
福持寺 (14)
太子堂。聖徳太子16歳を祀っている。鬼石町の上町にあった太子堂を大正6年(1917年)に福持寺に移転したもの。

福持寺 (15)
福持寺 (16)
福持寺 (17)
地蔵堂。

福持寺 (18)
文永7年(1270年)銘の板碑。緑泥片岩製で高さ147cm。蓮座上に阿弥陀種子が刻まれている。

福持寺 (19)
文永8年(1271年)銘の板碑。緑泥片岩製で高さ127cm。蓮座上に阿弥陀種子が刻まれている。

福持寺 (20)
文永7年(1270年)銘の板碑。緑泥片岩製で高さ 65cm。他の2碑同様、蓮座上に阿弥陀種子が刻まれている。碑下部の紀年銘のところで切れているので、下部は大きく欠損しているようだ。

群馬県内の板碑(供養塔)の最古は仁治元年(1240年)なので、文永銘の板碑は古い部類に入る。そのため、3碑とも相当風化が進んでいる。貴重な板碑なのだから、覆屋などで保護した方がいいと思う。

ところで、藤岡市のHPでは3基目の板碑の紀年銘を文永8年としている。しかし現地の旧鬼石町の案内板には文永7年とある。現物も文永7と見えた。自信はないが・・・。

参考(群馬県内最古ベスト3)
 「群馬県最古の供養碑 -小島田の供養碑-
 「甘楽町最古の板碑 -仁治の板碑-
 「富岡市最古の板碑 -仁治の碑-

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市上栗須の高樹山浄雲寺。

浄雲寺 (1)
浄雲寺は寛永年間(1624~45年)陽室的重の創建。

浄雲寺 (2)
浄雲寺 (3)
本堂は明治22年(1889年)に火災により焼失。その後、埼玉県の農家から古屋(蚕室)を借り仮本堂としていたが、昭和55年(1980年)に現在の本堂を再建。

浄雲寺 (4)
境内の六地蔵。預天賀地蔵や放光王地蔵など、それぞれお地蔵さんの見分けが付く。

浄雲寺 (5)
本堂前の「なでなで賓頭盧尊」。

浄雲寺 (6)
浄雲寺 (7)
浄雲寺は南毛観音霊場第三番札所。如意珠観音を祀る。

浄雲寺 (8)
浄雲寺 (9)
本堂を覆い隠すように建つ瑠璃光閣。何の施設かよく分からない。奥行きも相当あり、檀徒会館みたいなものか? それにしても、スペースの問題とは思うが、本堂前に建てちゃうなんてすごいな。

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市譲原の文明の板碑。

文明の板碑
板碑は総高約2mで、阿弥陀三尊仏を表す梵字(種子)が刻まれている。室町時代の文明(1469~86年)の銘がある。室町時代のもので、しかも露天にもかかわらず非常に状態が良く、梵字もはっきり読める。

当地の横田一族が一揆により滅んだ際に、生き残った者が供養のため建てたと伝えられている。横田一族の素性は不明。

引きの写真しか撮ってこなかったが、道路端すぐの2mくらいの高さのところにある。金網フェンスと板碑の間は1mもなく、後も畑になっており入るのが憚られたため道路越しの写真しかない。

藤岡市の解説版も道路側を向いており、読めないと思うぞこれは。もう少し考えて欲しい。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡上野村乙父の天岩山泉龍寺。

泉龍寺 (1)
泉龍寺の由緒は不明。

泉龍寺 (2)
入り口右側に建つ庚申塔。この庚申塔は庚申の文字が100刻まれている「一石百庚申塔」と呼ばれるもの。上野村では唯一。高さ245cm、幅52cmで、江戸末の文久元年(1861年)の銘がある。

泉龍寺 (3)
入り口左側には閻魔大王像。

泉龍寺 (4)
永徳元年(1381年)から同2年にかけて書写された大般若経600巻の内、現存する599巻が所蔵されている宝物庫。ちなみに永徳は南北朝期の北朝の年号。南朝は弘和。

書写は金讃山大光普照寺(埼玉県神川町)などの僧の手により、現在の乙父神社に奉納されたもの。泉龍寺に移った理由は不明。後に100巻余りが焼失したが、江戸時代に複数回にわたり修復されている。焼失の修復なので再書写したということ。

泉龍寺 (5)
本堂脇にある木地師の墓。
高さ48cmの舟形で聖観音像が浮き彫りされており、幼児のものと言われている。上部に菊のご紋があしらわれている。

木地師の墓は同じく上野村の宝蔵寺にもある。
(木地師については「木地師の墓 -上野村・宝蔵寺-」参照)

木地師の墓は、塩ノ沢タルノ沢地内で発見され泉龍寺に移されている。地図で調べたら塩ノ沢って、相当山奥の方だった。木地師が職業がら山奥で生活していたことが分かる。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡上野村楢原の三笠山中正寺。

中正寺 (1)
中正寺 (2)
中正寺の由緒は不明。
もとは中越山の山号だったが、昭和30年(1955年)に三笠山開闢で知られる普寛の6世の法孫である徳忍大阿闍梨により、三笠山と改称されている。

ちなみに、普寛は江戸中期(享保から享和)の修験者で、御岳講・御岳教の開祖。秩父の三峰山観音院で修行し、のちに諸国を巡行して、三笠山などを開いている。

中正寺 (3)
こぢんまりとした梵鐘。

中正寺 (4)
中正寺 (5)
境内のしだれ桜。訪問の季節がら枝のみだが。
永正年間(1504~21年)に實仙和尚が比叡山延暦寺から持ち帰り植えたといわれる。当地は永正9年(1512年)に大洪水の被害に遭っているので、それ以降に植えられたと考えられる。樹齢は約500年と推定され、「仏乗桜」と呼ばれている。根回り7.8m、目通り3.5m、樹高約20m。


中正寺には火渡りの護摩行が伝承されている。裏山で毎年行われる(近年は5月3日)。不動明王の大智慧の光明という火を通すことにより、迷いを燃焼し心の垢を落とし清浄な身体となり、運気上昇、開運厄よけ、大願成就等、ご利益が授かるといわれている。

言密教において最も厳しい修行とされるが、一般の人も希望者は全員渡ることができる(もちろん安全面配慮)。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡上野村新羽の天守山宝蔵寺。

宝蔵寺 (1)
宝蔵寺の由緒は不明だが、天真という僧が当地を行脚中、野栗沢川の川底から阿弥陀如来像を見つけたことから、それを本尊として創建したと伝わる。

天真が天真自性だとすると、南北朝期(1370~80年)の僧なので、その頃の創建か。

宝蔵寺 (2)
宝蔵寺 (3)
意外に(失礼)立派な山門。よく見ると2階に梵鐘が吊されており鐘楼門であった。

宝蔵寺 (4)
宝蔵寺 (5)
本堂側から見ると梵鐘がよく見える。階段がついているので登らせてもらった。

宝蔵寺 (6)
宝蔵寺 (7)
由緒にある本尊の阿弥陀如来を祀る本堂。本堂の扁額は「救世殿」。

宝蔵寺 (9)
宝蔵寺 (10)
宝蔵寺は南毛観音霊場の32番札所である。写真は観音堂だと思われるが、扁額は「御巣鷹山」。上野村は江戸時代「山中領(天領)」で、鷹狩り用の鷹を育てていた場所。そのため御巣鷹山という地名(山)がある。

JAL機が不幸にも御巣鷹の尾根に墜落したため、御巣鷹山の名前は全国区になってしまった。

宝蔵寺 (8)
宝蔵寺 (9)
参道脇の木地師の墓。

木地師とは轆轤(ろくろ)を用いて椀や盆、木鉢、杓子などの木工用品を加工・製造する職人のこと。文徳天皇(在位850~58年)の第一皇子・惟喬親王が木工技術を伝授したといわれる。

木地師は材木が豊富な場所を10~20年単位で移動し、里人などとの交易で生計を立てていた。木地師は惟喬親王の家臣の末裔を称し、「菊の紋章」の使用が許されていた。そのため、戒名の上に菊の紋章が彫られている。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡神流町平原(へばら)の土屋山城守高久の墓。

ここは延命寺というお寺だが、無住で本堂の老朽化が進み、お寺として機能しているか不明のような感じ。土屋山城守高久の墓は本堂の裏山にあるが、墓地として整備されている状態ではない。足を滑らせながらの確認となった。

土屋山城守高久の墓 (1)
土屋山城守高久の墓。
土屋山城守は武田家の家臣で、武田勝頼の嫡男・信勝を上州に落ち延びさせたという伝説を持つ。

通説では、信勝は父・勝頼とともに天正10年(1582年)天目山にて自害している。16歳であった。

しかし下仁田町などに伝わる古文書によると、「勝頼は信勝の身代わりを立てて自害させ、本当の信勝は土屋山城守とともに峠を越え山中領(上野村・神流町)に入り、さらに南牧村に逃れた」(要約)という。

その後、土屋山城守は旧中里村に移り住み、文禄2年(1593年)に当地で亡くなったとされる。

土屋山城守高久の墓 (2)
ちょっと見づらいが、墓石には「文禄二年四月十七日 土屋山城守高久」とある。

土屋山城守が晩年を当地で暮らしていたのは事実のようだ。しかし信勝を落ち延びさせた伝説はどうなんだろう。

ちなみに、信勝は南牧村で過ごしていたが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に豊臣方(浪人)とし参陣し、討ち死にしたという。ついでに信勝には3人の男子がいて、長男(信義)が信勝の首級を持ち帰り南牧村に埋葬したという。信義の墓は下仁田町にあるという。

少し興味があるので、見つけに行ってみようかな。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡神流町神ケ原の慧日山東福寺。

東福寺 (1)
東福寺は慶長2年(1597年)甘楽宝積寺12世・芳谷の創建と伝わる。

東福寺 (2)
本堂は正徳3年(1713年)の建立で、約300年の歴史を誇る。もちろん、適宜改修されているだろうが。

東福寺 (3)
「圓通閣」の扁額は月舟宗胡の筆。
月舟宗胡は江戸初期の僧で、曹洞宗開祖・道元の教えへの回帰と古規を重んじる宗統復興運動を主導している。弟子の卍山道白は曹洞宗中興の祖と称されている。

月舟宗胡は16歳から修行のため諸国を廻っており、その道中で東福寺に立ち寄ったのだろうか。

東福寺 (4)
東福寺 (5)
東福寺 (6)
境内にお地蔵さんが多い。

東福寺 (7)
東福寺 (8)
庚申塔の三猿(見ざる言わざる聞かざる)も風化しているが、見ることができる。

本堂内にある殿鐘は、元禄14年(1701年)丹生村(富岡市)の鋳物師・柳田権之丞の作。上州鋳物師の半鐘としては二番目の古さだといわれる。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡神流町魚尾(よのお)の中山神社。

中山神社 (1)
中山神社 (2)
中山神社は貫前神社の分霊を勧請した魚尾神社が始まりという。創建年は不詳だが、社宝の鰐口に応仁2年(1468年)の銘があるので、同年代かそれ以前と考えられる。

中山神社 (3)
中山神社 (4)
元は魚尾字宮地にあったが、天明5年(1785年)に現在地へ遷座している。明治45年(1912年)に村内17社を合祀し中山神社と改称している。

中山神社 (5)
本殿は遷座時に新築したもので、向かって右に天之御中主命、左に経津主命を祀る二間社造りとなっている。様式は流れ作りで、正面に千鳥破風、唐破風を配している。施されている彫刻は宮大工の弁蔵作という。

経津主命は抜鉾神社のご祭神だろうが、天之御中主命はどういう経緯で祀られているのだろうか。天之御中主命は妙見社で祀られていることが多いので、地域的に秩父神社あたりと関係があると思われるが、よく分からない。

中山神社には太々神楽が伝わっており、毎年例祭で奉納されている。また、「お川瀬下げ」も伝統行事として残っている。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡神流町青梨の岩壺観音堂。

岩壺観音堂 (1)
岩壺観音堂の創建は不詳だが、同青梨の普明寺の分院として建立された。当地の新井家に、文政11年(1828年)の観音堂修復に関する資料が残っている。

岩壺観音堂 (2)
岩崖の斜面下に洞窟があり、そこに観音堂が建っている。老朽化が進んでおり、茅葺き屋根には穴が開いている。

岩壺観音堂 (3)
本尊は如意輪観音だが、現在は本院(普明寺)に安置されている。堂内には僧像と七福神像が置かれている。本院が真言宗なので、僧像は空海だと思われる。

観音堂が建っている洞窟は岩津保洞窟といい、縄文時代から弥生時代にかけての複合遺跡。土器・石器の他、屈葬の人骨や貝殻の腕輪などが出土している。

岩壺観音堂 (4)
岩壺観音堂 (5)
観音堂の裏に回ってみたら、洞窟の奥に人工的な入り口が見えた。ちょうどドア1枚分くらい。写真は明るく写っているが、実は真っ暗でうっすら入り口が見える程度。ビビって入る勇気なし。どうやら、昭和初期に蚕種貯蔵庫として掘った跡らしい。

機会があれば、懐中電灯持参で探検してみようかな。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡神流町魚尾(よのお)の神流川鮎神社。

神流川鮎神社 (1)
神流川鮎神社 (2)
鮎神社は神流川緑水会という団体が建立したもの。

神流川鮎神社 (3)
神流川鮎神社 (4)
太古の昔、丸岩で休んでいる神様に、村人が鮎を添えて麦飯を差し出したところ、鮎の尾まで召し上がり日本一の鮎だと喜んで、この地を魚尾と名付けたと伝えられている。

このような伝説と神流川の清流にちなみ、「水の神」「漁猟の神」「魚類の神」を祀ったという。

神流川鮎神社 (5)
境内の魚魂碑。

丸岩 (1)
丸岩 (2)
丸岩は神流川にある周囲50m、高さ15mの巨岩。
(「神流川にゴロ~ン -丸岩-」参照)
丸岩の上にも何やら祠があるが詳細は不明。

ところで、2011年掲載の丸岩の記事では「付近に車を停めるところもなく」と書いたが、現在は駐車スペースができていた。丸岩見学用なのか安全面からのスペースなのかは分からないが。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡神流町塩沢の洞谷山龍松寺。

龍松寺 (1)
龍松寺は弘治2年(1556年)に甘楽町・宝積寺の格翁全超を迎え創建。西塩沢の大松山麓の洞窟にあった小堂を移築したため、山号を洞谷山とした。また、大松山頂にあった大松が龍のように見えたため、寺号を龍松寺としたという。

龍松寺 (2)
龍松寺 (3)
本堂は明治45年(1912年)に火災により焼失。以降、古屋を仮本堂としていたが、平成2年(1990年)に新築・再建。

龍松寺 (4)
龍松寺 (5)
石段脇の子育て地蔵と六地蔵。

龍松寺 (6)
本堂前の慈母観音

龍松寺 (7)
本堂の軒に梵鐘が掛けられている。でもよく見ると、屋根が別になっているみたいなので、一応鐘楼なのかな。

龍松寺 (8)
龍松寺 (9)
境内のしだれ桜。季節的に枝だけだが。樹齢は約350年。樹高約18m、枝張り16mで四方に広がる。垂れ下がった細枝は5m余りにおよぶ。満開時は夜間ライトアップされる。

塩沢地区は明治27年(1894年)、35年(1902年)、45年(1912年)の3度火災に見舞われ、龍松寺も2度焼失しているが、しだれ桜は生き延びている。

このエントリーをはてなブックマークに追加

↑このページのトップヘ