上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 藤岡市・多野郡


藤岡市浄法寺の丹生神社。

浄法寺丹生神社 (1)
浄法寺丹生神社の由緒は不詳だが、最澄が広厳山浄法寺を訪れた際に比叡山にならい丹生都比売神を祀ったことに始まるとされる(浄法寺は後に地名となっている)。上野国神名帳の緑野郡筆頭「従三位丹生大明神」とあるのは当社とされる。

浄法寺丹生神社 (2)
二の鳥居前後の燈籠は平成19年(2007年)の奉納。

浄法寺丹生神社 (3)
浄法寺丹生神社 (4)
浄法寺丹生神社 (5)
社殿は昭和11年(1936年)の建立、昭和53年(1978年)に改築している。社殿前の燈籠は平成元年(1989年)の奉納。

浄法寺丹生神社 (6)
浄法寺丹生神社 (7)
神楽殿。春の例祭時に神楽が奉納される。

浄法寺丹生神社 (8)
浄法寺丹生神社 (9)
境内社の天照皇大神宮。

浄法寺丹生神社 (10)
明治天皇の御製歌碑。「目にみえぬ神の心にかよふこそ 人の心のまことなりけれ」

浄法寺丹生神社 (11)
浄法寺地区の戦没慰霊碑。昭和52年(1977年)の建碑。揮毫は群馬県出身の元陸軍中将・磯田三郎。


藤岡市保美の塚ノ越稲荷神社。塚ノ越は字名。

保美稲荷神社 (1)
保美稲荷神社 (2)
塚ノ越稲荷神社の由緒は不明。

保美稲荷神社 (3)
保美稲荷神社 (4)
覆屋内の木祠は鮮やかな朱色に彩られている。

保美稲荷神社 (5)
境内社。右から八坂神社、上諏訪神社、愛宕神社。この3社には標柱があった。残りの2社のうち1社は八王子神社(もう1社は不明)。石宮のひとつには明治20年(1887年)の銘があった。

保美稲荷神社 (6)
双体道祖神。紀年銘などは読めなかった。

保美稲荷神社 (7)
塚ノ越稲荷神社は藤岡市205号墳(美九里村156号墳:円墳)上に鎮座する。

以前は初午(はつうま・2月最初の午の日)に獅子舞が奉納されていたが、少子化の影響で現在は休止されているようだ。保美地区の獅子舞は、江戸時代に江戸城で将軍に奉納したとの話も伝わっている(真偽は知らない)。ちなみに、初午の日は京都・伏見稲荷大社に稲荷大明神が降臨(鎮座)したとされている日である。

*同じ保美地区にある稲荷神社(通称・失せ物稲荷)とは別神社である。
(失せ物稲荷は「藤岡市保美・稲荷神社(失せ物稲荷)」参照)


藤岡市神田(じんだ)の神田地区古墳群。

藤岡市神田古墳群 (1)
藤岡市神田古墳群 (2)
神田地区古墳群は神流川左岸の台地上に分布している後期古墳を代表する古墳群である。平成25年(2013年)に発掘調査が行われ、その後すべて埋め戻されている。17基の古墳が藤岡市の史跡に指定されている。

藤岡市神田古墳群 (3)
藤岡市神田古墳群 (4)
古墳群の中で最大規模のK-15号墳(高橋塚古墳)。全長24mの前方後円墳。

藤岡市神田古墳群 (5)
前方後円墳に見るが、2つの円墳(Mー4号墳とMー5号墳)が並んでいるもの。間に土砂が堆積したようだ。

個々の古墳に関する解説板などがないため、細かいデータはよく分からない。

藤岡市神田古墳群 (6)
古墳群の西側を走る県道13号線沿いに「頭椎太刀発見の古墳」との解説板が立っている。当地には全長30mの前方後円墳があり、明治28年(1895年)に石室中より金銅製で160cmの太刀が発見されたという。

現在その太刀は奈良の橿原神宮の宝物となっているとある。なぜ橿原神宮? なお、この前方後円墳はいつの頃か不明だが、消滅してしまったようだ。

古墳群は土地改良事業に際して、地元の要望等を受けて区域内にある古墳17基を文化財として残すため、換地により供出されたものである。土地は藤岡市に寄贈されている。


藤岡市森の少林山泉通寺。

泉通寺 (1)
泉通寺は永正6年(1509年)長年寺2世・宝晃知證の開山、小林出羽守政忠の開基。山号の少林山は政忠の法名「少林院殿光山宗厳」から。また、政忠は長根村(現吉井町長根)の熊野権現(現長根神社)に鰐口を奉納した小林豊後守秀政の弟である。
(「高崎市吉井町長根・長根神社」参照)

秀政が鰐口を奉納したのが天正17年(1589年)なので、弟である政忠が永正6年に泉通寺を開基しているのは、年代的に少し疑問が残る。永禄6年(1563年)だと合うのだが・・・。

泉通寺 (2)
泉通寺 (3)
門前の六地蔵や石仏類。

泉通寺 (4)
山門から本堂の間には松が植えられており、松並木のようになっている。

泉通寺 (5)
泉通寺 (6)
本堂には本尊の釈迦如来を祀る。

泉通寺 (7)
開基の小林忠政の墓(供養塔)。

泉通寺 (8)
境内の藤岡市小野地区戦没者供養塔(忠魂碑)。

泉通寺 (9)
泉通寺 (10)
梵鐘は先の大戦時に供出、昭和30年(1955年)に再建されている。

梵鐘には「報恩孝順大和尚」とある。孝順は泉通寺17世として嘉永7年(1855年)~安政5年(1859年)まで住職を務めている。孝順は物理の知識を持ち合わせており、中村堰と呼ばれる用水施設の暗きょ化を行い水害に強い灌漑水路としている。これにより小野地区周辺の稲作耕地は飛躍的に増えることとなった。


藤岡市鮎川の北野神社。

鮎川北野神社 (1)
鮎川北野神社の創建は不詳。

一の鳥居は平成7年(1995年)の建立。参道は西側に長く延びているが、途中から市道になっている。

鮎川北野神社 (2)
鮎川北野神社 (3)
一の鳥居から数百mほど離れたところに二の鳥居。二の鳥居は南面している。市道の拡幅工事のため、平成5年(1993年)に境内の一部を提供、二の鳥居の新築建立、境内の整備を行っている。

鮎川北野神社 (4)
鮎川北野神社 (5)
こじんまりとした社殿。拝殿内には関流の和算家・岸幸太郎一門が奉納した算額が残されている。拝殿の中にそれらしき額が見えたが、左側に掲示されておりよく分からなかった。

鮎川北野神社 (6)
鮎川北野神社 (7)
境内社。右の覆屋内には狐像があったので、稲荷社と思われる。

鮎川地区には獅子舞が伝承されており、北野神社の例祭時に奉納される。鮎川の獅子舞は天保年間(1831~45年)に伊勢から獅子頭などを購入し始まったといわれている。


藤岡市神田の五智山高倉寺。

高倉寺 (1)
高倉寺は大永2年(1522年)同市高山地区に開創。元和2年(1616年)火災により焼失、元禄4年(1691年)僧・勧海が再興している。明治42年(1909年)に神田・光明寺と合併し、同寺に移り高倉寺として存続している。

高倉寺 (2)
高倉寺 (3)
本堂の建立年は不詳だが、平成5年(1993年)に大改修を行っている。

高倉寺 (4)
六地蔵は本堂落慶(改築)時の奉納(平成5年)。

高倉寺 (5)
境内の延命観音。由緒などは不明。そう古くはなさそう。

高倉寺 (6)
高倉寺 (7)
境内から墓地にかけて、多くの庚申塔がある。庚申信仰が盛んだった地区なのかな。

高倉寺は「上毛国風土記」(平安時代?)にもその名が見えることから、開創は相当古く、大永2年は中興ではないかとの説もあるようだ。

また、高山地区にある薬師堂(山内上杉家の守り本尊・薬師如来を祀る)は、旧高倉寺の良山和尚が建立したもの。関東管領・上杉憲政が北条氏に攻められ越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って落ち延びる際、家来に背負わせ旧高倉寺に避難させたと伝えられている。
(「藤岡市高山・薬師堂」参照)


藤岡市金井の薬師堂。

金井薬師堂 (1)
金井薬師堂の由緒は不詳だが、元禄16年(1703年)に高山氏により当地に移築されている。享保12年(1731年)に山崩れにより倒壊、高山半兵衛重寛が再建。現在のお堂は平成4年(1992年)の新築建立。

高山氏は桓武平氏・平良文の流れをくむ秩父氏の一族。秩父三郎が武蔵国高麗郡高山邑(埼玉県飯能市にある高山不動)に住して高山三郎を名乗り、初代・高山三郎重遠となる。重遠は後に上野国緑野郡高山(藤岡市高山)を本拠とした。

高山社を興した高山長五郎や、江戸期の寛政三奇人のひとり・高山彦九郎はその末裔にあたる。

金井薬師堂 (2)
金井薬師堂 (3)
境内には石仏・宝塔、供養塔などが並ぶ。

金井薬師堂 (4)
金井薬師堂 (5)
本尊の薬師如来像。

金井薬師堂 (6)
薬師堂の前には藤岡市の重文を示す解説板がある。重文は「伝山内上杉顕定公愛用の碁盤」。上杉顕定は平井城主の関東管領。碁盤は室町時代の作で、現存する碁盤の中では全国でも古い部類に入るという。

ところで、この碁盤の所有者は仙蔵寺になっている。仙蔵寺は藤岡市西平井にあるお寺。ただ、碁盤の所在地はこの薬師堂の住所になっているので堂内にある? このお堂の管理も仙蔵寺なのかな。

碁盤には後世の加筆による「西平井村 平岩山 文殊院」という墨書があるというが、現在の西平井には同名の寺院はない。平岩山文殊院が廃寺にでもなったので、仙蔵寺に移されたのか。でも、上杉顕定の菩提寺といわれる常光寺もあるので、なぜそちらではないのかとの疑問もあるけど。

関連
 「蝸牛石(だいろいし) -仙蔵寺-
 「藤岡市西平井・平井山常光寺


藤岡市上日野の鹿島神社。

上日野鹿島神社 (1)
上日野鹿島神社は建久7年(1196年)に平維盛の子・維基が小柏と改姓した際に建立し、所蔵の甲冑や武具を納めたという。
(平維基に関しては「平維盛の末裔・小柏氏の開基・小柏山養命寺」参照)

上日野鹿島神社 (2)
上日野鹿島神社 (3)
参道を進むと山すそ(北麓)に鳥居と割拝殿(瓦屋根の幅広の建物)が見えてくる。

上日野鹿島神社 (4)
上日野鹿島神社 (5)
割拝殿は懸崖造りで、床下には藁を巻き付けた筒状の物が多数ある。何だろう?

上日野鹿島神社 (6)
上日野鹿島神社 (7)
社殿は延享元年(1744年)火災により焼失、翌年に再建されている。再建の中心になったのは地元の豪族・酒井興惣左衛門。社殿は割拝殿をから境内に入ると右手にある。境内は狭いので、再建時に社前を広く取るために移されたと考えられている。

上日野鹿島神社 (8)
拝殿内にはきれいな絵馬が掲げられていた。題材は分からない。

上日野鹿島神社 (9)
拝殿の掲額。天狗の絵が描かれているが、当社は「日野のお天狗」と呼ばれている。新井左京という人物が安政2年(1855年)に秋熱病に罹り、大山石尊に祈願したところ全快した。それから右京には天狗が乗り移り、呪占師のようなことを行っていた。その弟子や神職も同様に境内で呪占をやっていたことから。

この風習は昭和初期まで続いていたといから、ちょっと驚き。(額の内容は薄れていて読み切れないが、第二次世界大戦がどうのとある)

上日野鹿島神社 (10)
上日野鹿島神社 (11)
神楽殿。社殿のすぐ隣にある。春の例祭時に奉納されていた(現在は行われていない)。

上日野鹿島神社 (12)
上日野鹿島神社 (13)
境内社の鳥居。ちょっとエッチな雰囲気を醸し出す。

上日野鹿島神社 (14)
金精さま(左)。右は分からないが、女陰関係かな。金精さまは子宝、安産、縁結びのご利益があるので、昔から各地に祀られている。

上日野鹿島神社 (15)
上日野鹿島神社 (16)
リアルなオブジェがある。平成2年(1990年)地元の方々の奉納。

ところで、上日野鹿島神社には天正18年(1590年)の国峰城落城時に、国峰城を守っていた小幡信秀(城主・小幡信貞の養嗣子)が社殿内に隠れ、難を逃れたという伝承が残っている。同じような話が甘楽町の向陽寺(「甘楽町天引・友月山向陽寺」参照)にも伝わっている。


藤岡市下日野の瀧向山示春院。

示春院 (1)
示春院 (2)
示春院は元和元年(1615年)柴崎氏の開基、正室曇栄和尚の開山。柴崎氏は下日野村の名主で、「日野の名主5家」のひとつ。他は上日野村・小柏氏、小柴氏、下日野村・黒澤氏、金井村・高山氏。

鮎川にかかる金属製の橋を渡っていく。

示春院 (3)
昔の橋だろうか。木橋らしきものが見えた。

示春院 (4)
山門は昭和50年(1975年)の新築建立。

示春院 (5)
示春院 (6)
本堂は明治33年(1900年)に火災により焼失。同年に再建されている。本尊の如意輪観音を祀る。

示春院 (7)
平成14年(2002年)建立の聖観音。

示春院 (8)
示春院 (9)
由緒などは分からないが、地蔵尊が祀られていた。

ところで、地図を見る限り川に架かる橋以外示春院へ行く道がないんだよね。橋は車は通れないので、お寺の人はどうしてるんだろう。川の手前に1階が駐車場になっている仮家みたいのがあるので、これがお寺のものかもね。


藤岡市上日野の実大山養浩院。

養浩院 (1)
養浩院は永正年間(1504~21年)酒井氏の開基。埼玉県児玉郡の大興寺・章室祖文の開山。酒井氏は地元の郷氏だったが、現在は絶家している。

養浩院 (2)
山門(鐘楼門)への石段は急すぎて怖い。写真は上から撮ったが、ほぼ垂直(まあ言い過ぎだけど)。それくらいに感じる。

養浩院 (3)
石段横の地蔵菩薩像は文化7年(1810年)の建像。

養浩院 (4)
お地蔵さまの隣には松尾芭蕉の句碑がある。「志ばらくは 花のうえなる 月夜かな」。明治3年(1870年)に当地の俳人たちが芭蕉の墓に参詣し、金2円を寄進して墓土をもらい受け、明治5年(1872年)に俳塚の形式で建立したもの。

養浩院 (5)
養浩院 (6)
享和3年(1803年)鋳造の梵鐘は先の大戦時に供出。近年鋳型の一部が発見され、それを元に昭和49年(1974年)に再鋳造されている。

養浩院 (7)
養浩院 (8)
本堂は天保年間(1831~45年)の建立。明治期に小学校校舎として利用されている。明治42年(1909年)以降、数度の渡り改修が行われている。

鐘楼門から本堂までの距離が短く、どうやっても本堂の全景写真が撮れなかった・・・。

養浩院 (9)
養浩院 (10)
弘法大師石像。

養浩院 (11)
養浩院 (12)
子育て地蔵(左)と水子地蔵(右)。

養浩院 (13)
養浩院 (14)
養浩院は県道71号線から少し山側に入るが、入口に六地蔵がある。県道にかかる小さな橋は「六地蔵橋」というらしい。

養浩院には明治40年(1907年)に陸軍大将・寺内正毅が奉納した砲弾4個(日露戦争紀年)が宝物として遺されている。奉納の経緯は分からない。


藤岡市上日野の野宮神社。

野宮神社 (1)
野宮神社の創建は不詳。永禄年間(1558~70年)に当社から半里(約2km)ほどの谷合で、小柏左馬助高政が武田氏に属し北条氏と戦い、敵十数人を滝に斬り落としたという。このとき、大谷川下流の鮎川との合流地点に七日七夜に渡り血が流れ着いたので、血のりの宮となり、後に野宮となったとされる。

野宮神社 (2)
大谷川と鮎川の合流地点。ここが真っ赤になった? ところで、大谷川の上流に「千が滝」という滝があり、ここが高政が敵を切り落とした場所とされる。千が滝の名は、高政が千人の敵を斬り落としたことから名付けられたという。千人とは大きく出たな(笑)。

野宮神社 (3)
野宮神社 (4)
参道は木々が覆い、ちょっと不安な状態。この先に神社があるのか、すごく心配してしまったが、すぐに鳥居(1枚目の写真)が見え一安心。

野宮神社 (5)
野宮神社 (6)
野宮神社 (7)
社殿内に祀られているご本尊は日本武尊。他に鹿屋野比売命。こちらは草(萱)の女神。

野宮神社 (8)
舞台があるが、神楽が伝わっているのな。

ところで、社名の由来ともなっている登場人物・小柏高政は、平清盛の嫡孫・維盛の子・維基の末裔といわれる。高政は維基から17世といわれる。
(「平維盛の末裔・小柏氏の開基 -養命寺-」参照)


藤岡市上日野の小柏山養命寺。

養命寺 (1)
養命寺 (2)
養命寺は天正年間(1573~92年)小柏氏がその先祖と家臣の菩提寺として開基、宝積寺(甘楽町)10世・魯獄林誉禅師を招いて開山。小柏氏は江戸時代に上日野村の名主を務めた名家。

養命寺 (3)
養命寺 (4)
天和年間(1681~84年)に宝積寺21世・祥山寂瑞禅師が中興開山。

小柏氏は平清盛の嫡孫・維盛の末裔といわれる。維盛は源平の合戦の中で、平家が没落する原因となった富士川の合戦と倶利伽羅峠の合戦の総大将で、後に一ノ谷の合戦前後に逃亡。その後の消息には諸説あるが不明。平家物語では那智の沖で入水自殺したとされるが、相模国で病没説や、生き延びて子をなしたなど様々ある。

この維盛の子・維基が上日野村小柏に土着し小柏姓を名乗ったとされる。戦国時代には高政・定重父子が武田家家臣として武功をあげ、武田勝頼から甲冑・武具を添えて感状が贈られたという。

どういう経緯で小柏氏が維盛の子孫ということになったのかは不明だが、山深い(失礼!)日野地区に平家の落ち武者伝説っぽい伝承があるのは、何となく分かるような気もする。


藤岡市上日野の大弘山千手院法輔寺。

千手院 (1)
千手院は永禄年間(1558年~70年)柴崎松之助の開基。松之助は下日野村名主・柴崎家の分家で、子もなく無常を感じて出家、居宅を寺としている。

千手院 (2)
千手院 (3)
千手院の本寺は藤岡市浄法寺の浄土院で、本寺にあった千手院を移し寺号を授かったといわれる。

ちなみに、浄土院は天文年間(1532~55年)に兵火にかかり焼失、北条氏に寺領を没収されたため、現在は明暦年間(1655~58年)開創の戒禅寺の境内となっている。

千手院 (4)
千手院 (5)
本堂は昭和17年(1942年)の焼失、昭和48年(1973年)に再建されている。けっこう長い期間仮本堂だったんだね。

千手院 (6)
境内の子育て地蔵。昭和63年(1988年)の建立。

千手院 (7)
千手院近くの道ばたに庚申塔・道祖神が集められていた。昭和63年(1988年)に整備されたらしい。

千手院 (8)
千手院のあるところは、上日野の尾根という地区。その名の通り、けっこう高い場所。山に囲まれ緑がきれいだ。


藤岡市下日野の猪田山興春寺。

興春寺 (1)
興春寺 (2)
興春寺は興禅院2世・雪山東天和尚の開山。創建年は定かではないが、雪山東天の没年が寛永18年(1641年)なので、江戸初期の創建と考えられる。興春寺はちょっと山中にあり、山門もなくお寺らしくない佇まい。本堂は比較的新しく、近年の建立と思われる。

興春寺 (3)
興春寺 (4)
お寺らしいものはと言うと、石仏が数基見られるくらい。

興春寺 (5)
本堂脇から山道を登ると狭い墓地がある。そこにある義民・馬之助の墓。

馬之助は下日野村の農民で「御荷鉾山一件」の農民総代。訴願により目的を達したが、所払い(追放)となった。後に赦免されたが帰村せず、嘉永2年(1849年)奥州白河で没している。

「御荷鉾山一件」とは、文政・天保年間(1818~45年)に上日野・下日野・金井3村の農民による哀訴事件。3村の役人と吉井藩役人が共謀し、吉井宿商人に御荷鉾山(土地)を売却、入会権を守るため3村農民が幕府に強訴したもの。

総代4名(上日野村・常吉、下日野村・馬之助、金井村・作右衛門と繁右衛門)と、金井村の幸右衛門(繁右衛門の子)、寅五郎の6名が捕縛・入牢。幸右衛門と寅五郎は獄死。繁右衛門は宿預け後に病死。常吉、馬之助、作右衛門は所払いとなった(後に赦免)。

一般にはまったく知られてない農民の強訴事件。群馬県では茂左衛門が有名だけど、他にも数多くの義民が命がけで強訴している。


藤岡市緑埜の厳上山大聖峯寺。

大聖峯寺 (1)
大聖峯寺 (2)
大聖峯寺の創建は不詳。大正3年(1914年)に正福寺、西福寺、板倉不動尊を合併している。

大聖峯寺 (3)
大聖峯寺 (4)
石段脇の大ケヤキ。樹高18m、幹周り8m、推定樹齢500年(平成2年:1990年データ)。落雷により樹心部が空洞となっているが、石段が波打つほど根がはっており樹勢は良い。

大聖峯寺 (5)
大聖峯寺 (6)
境内の六地蔵と慈母観音。

大聖峯寺 (7)
大聖峯寺 (8)
大聖峯寺の寺域手前に鳥居がある。扁額は「板倉不動尊」。鳥居は平成27年(2015年)の建立。大正3年に合併された板倉不動尊の鳥居である。

大聖峯寺 (9)
大聖峯寺の境内にある板倉不動尊。由緒は不明だが、奥州ヘ安倍氏討伐に向かう源義家が戦勝祈願を行い、勝利後の康平5年(1062年)に7堂伽藍を造営したといわれる。その後、建久8年(1197年)には源頼朝が伽藍を修理、応永4年(1397年)に関東管領・上杉憲実が鳥居7基を奉納している。

上記の逸話は多野藤岡地方誌(昭和51年:1976年刊行)によるが、いくつが誤りがある。康平5年だと前九年の役になり源義家ではなく父の頼義になる。義家ならば後三年の役で寛治元年(1087年)。

また、上杉憲実が出てくるが、憲実の生年は応永17年(1410年)とされており、応永4年ではまだ生まれていない。応永4年時の関東管領は上杉朝宗で、まだ在鎌倉。憲実が関東管領になり、平井城へ下ったのは永享10年(1438年)のこと。

まっ、細かいことはいいか。

大聖峯寺 (10)
大聖峯寺 (11)
大聖峯寺 (12)
不動堂は元禄13年(1700年)僧・祐意が建立したとされる。扁額は中央に「大聖堂」、脇に「不動堂」。

大聖峯寺 (13)
ご本尊の不動明王像は厨子の中のようだ。この不動明王像は行基の作とされ、行基がノミ1本で彫刻したといわれる。

板倉不動尊が中心となり寺院が形成され、その中のひとつが大聖峯寺に発展したということかな。


藤岡市下日野の弘法井戸。

弘法の井戸 (3)
弘法の井戸 (4)
弘法井戸は弘法大師(空海)が山越えをしようとしたが、喉が渇いて進めなくなった。そこで、ある家に行き水を所望したところ、出てきた女性は「しばらくお待ちください」と言って水を汲みに行った。ところがなかなか戻ってこない。やっと戻ってきたので、大師が「どこまで汲みに行っていたのか」と尋ねると、「半里ほど離れた下方の川から汲んできました」。

気の毒に思った大師は、持っていた錫杖で岩の間を突くと、きれいな水がこんこんと湧き出したという。

弘法の井戸 (5)
何の写真だか分からないと思うが、井戸(覆屋の中)の写真。写真下部は澄んだ水がなみなみとしている。

弘法の井戸 (6)
弘法の井戸 (7)
井戸の手前には石塔・石仏が並んでいる。

弘法の井戸 (8)
これは弘法大師像かな。

弘法の井戸 (1)
弘法の井戸 (2)
県道175号線に入口の案内板が立っている。どころが、そこから登っていく道はナビに表示されない(ナビデータが古いわけではない)。ナビ上では右から入る道は表示されるのだが、この道も相当狭く心配になって、いったん県道に戻って案内板の入口から入った。結果的には、どっちもどっちだった・・・。

山間部などで水の便が悪い地域では、この手の伝説が残っている。弘法大師以外にも、伝教大師(最澄)や行基にもあるね。


藤岡市金井の稲荷神社。

金井稲荷神社 (1)
金井稲荷神社 (2)
金井稲荷神社は享禄年間(1528~38年)に関東管領・山内上杉氏の平井城笹曲輪の守護神として創建された。笹曲輪は平井城二の丸南に永享10年(1438年)に築かれたとされる。

平井城在城最後の関東管領・憲政が北条氏の追われ越後・長尾景虎(上杉謙信)の元へ逃れた後は荒廃したが、江戸時代に入ると高山氏が再興している。

金井稲荷神社 (3)
金井稲荷神社 (4)
一の鳥居、二の鳥居とも扁額は「正一位 稲荷大明神」。どちらも平成4年(1992年)の建立。

金井稲荷神社 (5)
石段下の灯籠は平成9年(1997年)の奉納。石段上部脇には古い灯籠も残っているが、紀年銘は読み取れなかった(元年しか読めなかった)。

金井稲荷神社 (6)
金井稲荷神社 (7)
金井稲荷神社 (8)
幣殿、本殿は白壁に囲まれている。余り見ない構造だ。

金井稲荷神社 (9)
金井稲荷神社 (10)
金井稲荷神社 (11)
境内社の宗像神社。県内ではあまり見たことがない(同じ市杵嶋姫命をご祭神とする厳島神社はあるけど)。

宗像神社の総本山である宗像大社は、「宗像・沖ノ島と関連遺産群」として平成29年(2017年)に世界遺産に登録されたことは記憶に新しい。特に宗像大社・沖津宮の沖ノ島が、島全体がご神体で神の島だと話題になった。


藤岡市藤岡の神明宮。旧町名は芦田町。

芦田町神明宮 (1)
藤岡(芦田町)神明宮は、天正18年(1590年)に藤岡に移封された芦田康勝が、その祖・芦田光玄の霊を祀った信州芦田・神明神宮を遷し、芦田大明神と称したのが始まり。神明宮になったのは明治時代。

芦田町神明宮 (2)
芦田大神宮ともいわれていたようで、社殿がある山を「大神宮山」と言う。

芦田町神明宮 (3)
芦田町神明宮 (4)
芦田町神明宮 (5)
領主の祖先を祀った神社なので、創建当初は荘厳な社殿だったと考えられるが、現在は屋根の修理もままならい地域の神社になっている。

芦田氏が藤岡領主だったのは慶長5年(1600年)までのたった10年。康勝が不始末を犯し改易され後は、幕末まで諸小領に細分統治された(主に旗本領)。忠臣蔵の悪役で有名な吉良義央も藤岡(白石)に領地を持っていた。

芦田町神明宮 (6)
立派な境内社。社名は不明。

芦田町神明宮 (8)
境内の「神明宮昇格之碑」。裏側には説明ではなく寄付者名が記されているだけなので詳細不明。当初は芦田光徳を祀っていたのだろうが、後にご祭神を天照大神に変更し、神明宮として認可された記念なのかな。


多野郡上野村新羽の乃久里神社。

乃久里神社 (1)
乃久里神社の創建は不詳だが、日本武尊の妃・弟橘媛の髪の毛を祀っている。

当地で日本武尊は今ままで身につけていた弟橘姫の遺髪を祀り、重臣を残してこれを護らせた。当地に留まった重臣は「残りの臣」と称したが、後に「のこり」が「のぐり」と変じ、「野栗郷」と呼ばれるようになったといわれる。当社も野栗神社と呼ばれるようになったが、現在は乃久里と表記している。この理由は分からない。

乃久里神社 (2)
鬱蒼とした森の中に鎮座しており、いかにも鎮守の森といった雰囲気。

乃久里神社 (3)
乃久里神社 (4)
社殿前の灯籠には寛政(1789~1801年)の元号が見て取れた。社殿も寛政の頃の建立かも。

乃久里神社 (5)
神楽殿。乃久里神社の神楽は、旧中里村(現神流町)の産泰神社から伝わった説と、同じく旧中里村の中山神社から伝わった説の2説ある。面や衣装は中山神社の神楽と共通している。

乃久里神社 (6)
乃久里神社 (7)
境内社の根之権現とえびす(と思われる)像が置かれている社。山間部なので足腰の神(子の権現)が祀られている? また、えびすさんは漁業の神でもあり上野村とは不釣り合いのように思えるが、実は神流川での漁が盛んだった。

乃久里神社 (8)
山々に囲まれたのどかないい場所だ。

乃久里神社には「お川瀬下げ」の神事が伝わっており、毎年8月に行われる。神事で神流川に小麦団子を流すが、弟橘媛には77人の子どもが有り(伝説)、それを祀っている各社に捧げるためという。

ちなみに神流川の名前の由来は、野栗郷で疫病が流行った際に野栗の神の怒りと感じた住民たちが、ご神体(遺髪)の穢れを浄めるために川に流したことから髪流川、神流川となったといわれる(諸説あり)。

かなり川下だが、藤岡市浄法寺の野栗神社にも似たような伝説が残っている。
(「藤岡市鬼石・野栗神社」参照)


多野郡上野村新羽の龍神の滝。

龍神の滝
龍神の滝は野栗沢川にある落差約20m(上段15m・下段5m)の2段の滝。大蛇が棲むとの伝説のあり、大蛇が龍となって昇天する姿に見えることからその名がついている。

上野村には大小多くの滝があるが、一番お気楽に行けるところだと思う。すぐ手前の野栗キャンプ場までクルマで行けて、しかもそこから徒歩1分! しかも滝壺脇まで降りられ、中間の崖にも上がれる。でも、やっぱり危険もあるので、写真くらいのところからのんびり眺めるのがいいね。


多野郡上野村新羽の新羽神社。

新羽神社 (1)
新羽神社 (2)
新羽神社は元八幡神社で、その創建は不詳。明治42年(1909年)に地区内他社を合祀し新羽神社となっている。

新羽神社 (3)
岩をくり抜いた手水鉢。

新羽神社 (4)
新羽神社 (5)
新羽神社 (6)
春日造りの拝殿など、社殿の建立年は不明。

新羽神社 (7)
灯籠の建っている場所が、鳥居からの参道とずれている。鳥居を新しく建立する際に位置をずらしたみたいだ。それとも灯籠の方をずらしたのか。

新羽神社 (8)
鳥居横に文字の刻まれた岩があったが、読めなかったので何か分からない。

新羽神社には「お川瀬下り」の神事が伝わっている。これは日本武尊妃・弟橘媛が入水された様子を遺すものとの説もある。

神流町(旧中里村地域)から上野村にかけては、いくつかの神社に「お川瀬下げ」の神事が伝わっている。旧中里村の中山神社、上野村の乃久里神社、乙父(おっぷ)神社の3件は、群馬県の無形重文に指定されている。


藤岡市譲原の子宝神社。

子宝神社 (1)
子宝神社 (2)
子宝神社は譲原地区が旧三波川村から分離し「村」になる時に、三波川村の総鎮守である姥神社から分祀したのが始まり。その際「姥」に対して「子宝」にしたといわれる。
(姥神社は「藤岡市三波川・姥神社」参照)

譲原村が三波川村から分離したのがいつかは分からなかった。地名の由来は慶長8年(1603年)に当地を関東郡代・伊奈忠次に「譲り渡した」ことからとされる。忠次は現玉村町周辺の新田開発を行ったことでも知られる。

子宝神社 (3)
写真のイメージよりも急な石段。実は一気に上れずに途中休憩したほど。

子宝神社 (4)
子宝神社 (5)
子宝神社 (6)
余り広くない境内に、こじんまりとした社殿が建っている。平成14年(2002年)に改修が行われている。

子宝神社 (7)
子宝神社 (8)
本殿も以前は彩色され、壁画も描かれていたことを想像させる。

子宝神社 (9)
子宝神社 (10)
舞台かな。中には数枚の奉納絵馬が掲げられていた。写真の絵馬には文政(1818~31年)の文字が見える。

子宝神社のご祭神は大穴牟遅神(おおあなむのかみ)である。分祀したという姥神社のご祭神は石凝姥命(いしこりどめのみこと)と異なっている。詳細は分からない。大国主が縁結びの神ともいわれるので、子宝の名からそうなった?

まあ細かいことは別にして、子宝神社って名前は素晴らしいね。


藤岡市三波川の琴平神社。

三波川琴平神社 (1)
三波川琴平神社は明治21年(1888年)新井岡五郎氏創建の御嶽教神社。同氏は少年期に物乞いの姿で当地に現れた琴平大神から、直々に神技を伝授されたといわれる。現在も新井家が管理している。

三波川に掛かる朱色の欄干が目に付く「瀧乃橋」。

三波川琴平神社 (2)
三波川のかなり上流になるので、川幅も狭い。と言うか沢程度の流れ。

三波川琴平神社 (3)
三波川琴平神社 (4)
明治22年(1889年)には奥の院にあたる雨降山を開山し、山頂付近に御嶽三柱大神を祀り山岳道場としている。

三波川琴平神社 (5)
創建者かと思ったら、創建者のお孫さんらしい。平成元年(1989年)の建像。

三波川琴平神社 (6)
湧き水が引かれていた。

三波川琴平神社 (7)
三波川琴平神社 (8)
二の鳥居以降、ちょっときつめの石段。

三波川琴平神社 (9)
三波川琴平神社 (10)
三波川琴平神社 (11)
社殿の建立年は不詳だが、創建と同時の建立かな。

奥の院のある雨降山は、東西御荷鉾山の東麓にあたる1012.5mの比較的低い山(この辺りでは)でハイカーも多い。5月の山開き時には、火渡り護摩の神事が行われる。


藤岡市三波川の堅固山金剛寺。

三波川金剛寺 (1)
三波川金剛寺は養老2年(718年)行基の開基と伝わる。天長3年(826年)弘法大師(空海)が教化の道場とした。そのため、平安時代末には醍醐三宝院の中本寺として、末寺39寺を有していたという。創建は御荷鉾山であったが、山崩れなどのため現在地へ移っている。

三波川金剛寺 (2)
山門前の六地蔵。

三波川金剛寺 (3)
三波川金剛寺 (4)
寛文5年(1665年)の火災により堂宇は焼失。宝暦3年(1753年)に再建されている。その後、本堂は昭和24年(1949年)に老朽化により解体。長きに渡り仮本堂だったが、昭和57年(1982年)に現在の本堂を新築建立。

三波川金剛寺 (5)
三波川金剛寺 (6)
境内の不動堂。近年の建立と思われる、本尊は大同2年(807年)弘法大師作と伝わる。

三波川金剛寺 (7)
本堂裏の「十三仏積庭石」というもの。十三仏がいるのかなとと思って一生懸命探したが、写真の1体しか見つけられなかった。

三波川金剛寺 (8)
三波川金剛寺 (9)
三波川金剛寺 (10)
本堂裏山にお堂があり、「厄除 弘法大師」とあった。中には石仏があり、風化していてのっぺりしているが弘法大師像なのかな。

三波川金剛寺 (11)
山門手前の庚申塔群。寛延2年(1749年)、宝暦2年(1752年)の銘が見られる。

三波川金剛寺 (12)
三波川金剛寺 (13)
訪問した時は裏山のヤマツツジが満開で、斜面を赤く染めていた。

ところで、金剛寺には源義経が寄進したとされる鞍と鐙(あぶみ)が寺宝として残されている。吾妻鏡にも義経が金剛寺を宿願所としたと書かれている。義経と三波川地区・金剛寺との関係性はよく分からない。


藤岡市三波川の子育日切地蔵尊。

三波川 子育日切地蔵 (1)
三波川子育日切地蔵尊の建像年などは不詳だが、古くから子どもを病気などから護り、日限(期限)を切ってお願いすると全快するといわれる。

三波川 子育日切地蔵 (2)
三波川 子育日切地蔵 (3)
地蔵尊は地域の方々が奉納した(と思われる)様々なものを身につけ、石の部分はお顔の一部しか見えない。

三波川 子育日切地蔵 (4)
三波川 子育日切地蔵 (5)
三波川 子育日切地蔵 (6)
庚申塔が多く並んでいる。奥には青面金剛像もあった。

石碑には子どもの夜泣き・かんの虫・夜尿症などから、大人の頭痛・腹痛・肩痛・腰痛などへの効能も書かれていた。さらには、交通安全・無病息災などの諸願が成就するともあり、地域の護り神的な存在のようだ。

藤岡市三波川の妹ヶ谷不動尊。

妹ヶ谷不動尊 (1)
妹ヶ谷不動尊 (2)
妹ヶ谷不動尊は元禄8年(1695年)江戸小石川無量院4世・快慈がお堂を建て、不動明王像を安置したのが始まりとされる。妹ヶ谷は字名。三波川に掛かる橋を渡って行く。

妹ヶ谷不動尊 (3)
境内入口前に湧き水が引かれていた。きれいな水だったが、飲むのはパス。

妹ヶ谷不動尊 (4)
最後の石段を登ると境内。

妹ヶ谷不動尊 (5)
妹ヶ谷不動尊 (6)
現在の不動堂は明治元年(1868年)の建立。祀られている本尊(不動明王像)は勇尊和尚の作とされる。像高約54cmの純金製というが本当だろうか。

妹ヶ谷不動尊 (7)
妹ヶ谷不動尊 (8)
妹ヶ谷不動尊 (9)
お堂の彫刻は素晴らしい。

妹ヶ谷不動尊 (10)
旧不動堂だろうか。

妹ヶ谷不動尊 (11)
神楽殿かな。

妹ヶ谷不動尊 (12)
妹ヶ谷不動尊 (13)
明治初年に梵鐘が寄進されたが、先の大戦時に供出。現在の梵鐘は昭和21年(1946年)の寄進。

妹ヶ谷不動尊 (14)
比較的新しい不動明王像。

妹ヶ谷不動尊 (15)
松尾芭蕉の句碑(裾山や 虹はくあとの 夕つつじ)。天保年間(1831~45年)の建碑。

妹ヶ谷不動尊 (16)
境内の宝篋印塔。元文3年(1738年)の銘が読み取れた。

妹ヶ谷不動尊 (17)
不動堂に向かって山道を歩いている途中に「不動滝入口」の案内板があったので、帰りに寄ってみた。かなり急な道を下って行く。

妹ヶ谷不動尊 (18)
こじんまりとしているが、よく見ると2段の滝。弘法大師(空海)が巡錫の際に修行した場所との伝承もある。

妹ヶ谷不動尊 (19)
滝壺というほどではないが、そのほとりに仏塔らしきものが見えた。よく見ると石を積んだだけのものだった。宮崎・高千穂などでよく見かけるが、石を積みながら願い事をすると叶うといわれるので、訪れた人が積んだのだろう。

ところで、妹ヶ谷の地名は平家に縁があるとされる。同じ藤岡市の日野地区(妹ヶ谷から山を越えると日野地区)の小柏氏は平維盛の子・維基の末裔とされる(真偽は・・・)。その小柏氏の妹が住んだ所なので「妹ヶ谷」との地名になったといわれる。


藤岡市三波川の姥神社

姥神社 (1)
姥神社は大同年間(806~10年)の創建と伝わる古社である。祖母大明神と称していたが、宝暦6年(1756年)神祇官領長上・卜部朝臣兼雄から宣旨を受け姥大明神と改称している。

姥神社 (2)
現在の鳥居は昭和5年(1930年)の建立。

姥神社 (3)
姥神社 (4)
社殿の建立年などは不明。

姥神社 (6)
姥神社 (7)
境内社と道祖神。

姥神社のご祭神は石凝姥命(いしこりどめのみこと)。石凝姥命は日本神話に登場する神で、天照大神の岩戸隠れの際に八咫鏡を作ったことで知られる。三波川地区と鏡作部の関係はよく分からないが、旧鬼石町から神流町、秩父市(埼玉県)一帯では、古代の石器・石棒が多く発見されている。これは同地域が青石の産地であるためとされる。

三波川流域は三波石(青石の一種)の産地であるので、古代から祭祀にかかわる石器の産地でもあったのかもしれない。石凝姥命を祀るのはその繋がりからかな。


藤岡市保美濃山(ほみのやま)の抜鉾神社。

保美濃山抜鉾神社 (1)
保美濃山抜鉾神社 (2)
保美濃山抜鉾神社 (3)
保美濃山抜鉾神社の創建は不詳だが、貫前神社(抜鉾神社)から経津主命の分霊を勧請したものと思う。

保美濃山抜鉾神社 (4)
保美濃山抜鉾神社 (5)
下久保ダムのダム湖・神流湖の岬のような丘上に社殿は建っている。拝殿は正面の軒唐破風の兎の毛通しの裏に、神山和泉守が文政11年(1828年)に建立した旨の墨書銘がある。神山和泉守については分からない。

保美濃山抜鉾神社 (6)
保美濃山抜鉾神社 (7)
拝殿内には絵馬が多数奉納されている。いずれも明治期のもの。

保美濃山抜鉾神社 (8)
保美濃山抜鉾神社 (9)
本殿覆屋の彫刻は、鶴に乗る王子喬仙人と鯉の乗る琴高仙人だろうか。いずれも周(中国)の時代の人とされる。

保美濃山抜鉾神社 (10)
保美濃山抜鉾神社 (11)
境内に敷石住居跡らしき遺構があった。旧鬼石町の文化財を示す標識があった(石棒とある)が、合併後の藤岡市の文化財一覧には見当たらない。石棒自体も見当たらなかった。

ちなみに、御荷鉾山の鬼が投げたという石棒(投石峠のもの)を、村人が担いできて祀ったとの伝説が残っている。「鬼が投げた石」は旧鬼石町(現藤岡市鬼石地区)の名前の由来とされる。(「藤岡市鬼石・鬼石神社」参照)

保美濃山抜鉾神社 (12)
保美濃山抜鉾神社 (13)
保美濃山抜鉾神社 (14)
南側参道に貞治(1362~67年))、康応(1389年のみ)銘の板碑が2基ある。貞治・康応のいずれも南北朝期の北朝側の元号。その他、無銘の板碑も4基ある。

保美濃山抜鉾神社 (15)
保美濃山抜鉾神社 (16)
昭和43年(1968年)建立の「水没の碑」。揮毫は時の首相・佐藤栄作。昭和43年に完成した下久保ダム・神流湖により、保美濃山地区の大半は水没している。境内から水を湛えた神流湖が見通せる。

上記の板碑も水没地域から抜鉾神社参道へ移転されたものである。


藤岡市浄法寺の日枝神社。

浄法寺日枝神社 (1)
浄法寺日枝神社は元応2年(1320年)に当地の引田氏が近江国二宮(日吉大社)の分霊を勧請し、山王大権現として創建されたと伝わる。明治初年に日枝神社と改称。なお、引田氏については分からない。

浄法寺日枝神社 (2)
浄法寺日枝神社 (3)
拝殿は寛保2年(1742年)、本殿は正徳5年(1715年)の建立。以降の改築なども棟札が残っているという。

浄法寺日枝神社 (4)
明治42年(1909年)に合祀された稲荷神社。

浄法寺日枝神社には、常陸国鹿島神宮から伝習したとされる獅子舞が伝わっており、現在も例祭時に奉納されている。

当地は「山王の森」と呼ばれていたが、当然のごとく現在は「森」の面影はまったくない。


藤岡市浄法寺の御倉御子神社。

御倉御子神社 (1)
御倉御子神社 (2)
御倉御子神社 (3)
御倉御子神社の創建は不詳。日本書紀の安閑天皇2年(532年)の条に、全国26ヶ所に屯倉を設置とあり、その中に上毛野国緑埜の地名が見られること、またご祭神が稲倉魂命(うかのみたまのみこと:穀物・食物の神)であることから、この一帯が緑埜屯倉でその守護のために祀られたと考えられる。

御倉御子神社 (4)
鳥居前の石段脇に「表参拝道」の標識。横には「御倉御子神社男坂」とある。まあ、あまり深く考えずに登り始める。

御倉御子神社 (5)
山あいなので参道は長くはないが、写真のイメージよりもず~っと急坂。しかも中ほどで石段がなくなってしまう。

御倉御子神社 (6)
「自分で道撰び ここより石段がありません。あなたの好きな道を撰び登坂してください。(中略)急な険しい道ですので注意して登ってください。痛いのはあなた持ちですよ!」とのこと。

御倉御子神社 (7)
これが本当にけっこう危ない。足場を選びながら慎重に登る。足が痛い。でも「あなた持ちですよ」と言われているので(苦笑)。

御倉御子神社 (8)
御倉御子神社 (9)
御倉御子神社 (10)
何とか割拝殿にたどり着いたと思ったら、境内から見たら神楽殿だった。御倉御子神社の太々神楽は藤岡下栗須(稲荷神社?)から伝えられたもので、流派は大和流。元は江戸の流れをくんだ当地にて、最初に奉納舞を行ったとされている。

御倉御子神社 (11)
御倉御子神社 (12)
御倉御子神社 (13)
社殿は安政2年(1855年)建立。近年建て替えられているようだ。狛犬は平成14年(2002年)の奉納。

御倉御子神社 (14)
御倉御子神社 (15)
鳥居前を通り過ぎ、舗装道を緩やかに上って行くのが「裏参拝道」「女坂」。回り込む感じで境内に入れる。

御倉御子神社 (16)
社殿裏の末社群。

御倉御子神社 (17)
御倉御子神社 (18)
末社群の横からさらに登っていく道があったので行ってみた。しばらく行くと石宮があった。奥の院(奥宮)かな。

参拝するには「表参拝道、男坂」から登っていくのが正道かな。でも「裏参拝道、女坂」なら社殿脇(ちょい下)まで車で行けるよ。でも、道は狭い。

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