Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 藤岡市・多野郡


藤岡市、神流町、上野村

藤岡市譲原・子宝神社
藤岡市三波川・琴平神社
行基の開基 -堅固山金剛寺-
藤岡市三波川・子育日切地蔵尊
藤岡市三波川・妹ヶ谷不動尊
三波川村の総鎮守 -姥神社-
藤岡市保美濃山・抜鉾神社
藤岡市浄法寺・日枝神社
緑埜屯倉の守護 -御倉御子神社-
日本武尊伝説 -野栗神社-
室町幕府13代将軍・足利義輝の孫が開山? -光源院-
酒井雅楽頭忠清の念持仏 -立石寺-
藤岡市下栗須・稲荷神社
小林重義の守本尊を祀る -大慈悲山千手寺-
平井城の鬼門除け -美国神社-
奈良時代創建の古社 -高山御霊神社-
2つの白狐伝説 -金光寺-
藤岡市立石新田・伊勢島神社
武田信玄奉納の石灯籠(竿石) -御巡部神社-
高山社2代目社長・町田菊次郎の墓 -龍田寺-
神流町・鯉のぼり祭り
藤岡市・日航機事故の碑
藤岡市・清涼山西蓮寺
芦田康国の開基 -龍源寺-
赤穂浪士・神崎与五郎を祀る -与五郎殿-
新田義貞四天王・篠塚伊賀守重廣を祀る -篠塚神社-
芦田康勝の創建 -良信寺-
藤岡市岡之郷・温井熊野神社
藤岡市・無量山光蓮寺
芦田康勝の室・了源院の墓 -天龍寺-
日蓮の聖跡・長源寺跡 -祖師堂-
罔象女神を祀る -水宮神社-
藤岡市・神明山源水寺
藤岡市・天田山水宮寺
藤岡市・瑠璃光山西勝寺
葵御前伝説 -葵八幡宮 その2-
文覚上人の創建? -椿社神社-
藤岡市・小林山寿楽寺
藤岡市小林・大塔寺天満宮
失せ物稲荷 -藤岡市保美・稲荷神社-
藤岡市篠塚・道標付笠石四角塔
神流町・お蝶ヶ穴
石材のみの古墳 -原古墳-
藤岡市下戸塚・水沼神社
藤岡市中栗須・神明宮
藤岡市宮本町・子育て地蔵尊
立派な本殿彫刻 -土生神社-
天保4年の鳥居扁額 -丹生神社-
梶原景時の創建? -万場八幡宮-
255年間土中に埋まっていた銅鑼 -大林寺-
道忠禅師の供養塔 -浄法寺 その2-
藤岡市・高山社情報館
文永銘の板碑 -福持寺-
南毛観音霊場第三番札所 -浄雲寺-
藤岡市譲原・文明の板碑
木地師の墓 その2 -上野村・泉龍寺-
火渡りの護摩行 -中正寺-
木地師の墓 -上野村・宝蔵寺-
土屋山城守高久の墓
月舟宗胡の墨蹟 -東福寺-
二間社造りの本殿 -中山神社-
神流町・岩壺観音堂
丸岩のほとりに鎮座 -神流川鮎神社-
樹齢350年のしだれ桜 -龍松寺-
神流町・阿弥陀三尊画像板碑
弘法大師作の観音様? -藤岡・観音寺-
松井宗直の墓 その2 -光徳寺 その3-
松井宗直の墓 -源性寺-
緑埜精糸社跡
南毛観音霊場第8番札所 -藤岡市・大雲寺-
久しぶりに獅子舞を観た -藤岡市神田・浅間神社-
藤岡市保美・子育て地蔵尊
藤岡市・山崎の古碑(応永の板碑)
藤岡市・平成の道祖神
藤岡市山崎地区の鎮守様 -山崎神社-
藤岡市・天保飢饉の碑
延慶の板碑 -医光寺-
藤岡市東平井・秋葉神社
神流川の合戦の戦死者を祀る -胴塚稲荷神社-
吉良上野介の父・義冬の創建 -龍泉寺-
足腰守護の神仏 -藤岡市高山・子之権現宮-
山内上杉家の守り本尊・薬師如来を祀る -藤岡市高山・薬師堂-
鮎川の両岸に鳥居がある -地守神社-
参道真ん中を国道が横断する神社 -藤岡市白石・飯玉神社-
福島式桑刻機を発明 -福島元七顕彰碑-
高山社2代目社長・町田菊次郎生家
高山遠江守重栄の墓 -興禅院 その2-
高山長五郎の墓 -興禅院-
浅間山の火山灰を集めた丘に鎮座 -藤岡市保美・稲荷神社-
南蛮画・泰西王侯図 -満福寺-
藤岡市体験学習館MAG(マグ)
平井城から移築の山門 -藤岡市・光明寺
ゼロ戦の生みの親・堀越二郎展 -藤岡歴史館-
藤岡市・霊符殿古墳
鬼が投げた石 -鬼石神社-
池泉式鑑賞庭園と言うけど・・・ -永源禅寺-
藤岡・諏訪神社と諏訪古墳
藤岡という地名の由来 -富士浅間神社-
道端に鎮座 -藤岡・平井七地蔵尊-
関東管領・山内上杉顕定の菩提寺 -常光寺-
関東管領・山内上杉氏ゆかりの神社 -藤岡・三嶋神社-
蝸牛石(だいろいし) -仙蔵寺-
藤岡・上杉乳母神社
山内上杉氏累代の墓 -円満寺-
瓦屋根の洋風建築 -旧多野会館-   
舟形石棺が保存されている -宗永寺-
巴御前ゆかりの聖観音 -一行寺-
小さな仏像がたくさん -金井千体仏-
涅槃釈迦像 -清見寺-
菊川英山の墓 -成道寺-
江戸時代の道標 -増信寺-
立派な土塁が残っている -芦田城(藤岡城)址-
算聖・関孝和の墓 -光徳寺 その2-
芦田氏の菩提寺 -光徳寺-
武田家家臣・長井正實の開基 -天陽寺-
神流町・閻魔大王像と奪衣婆像
神流川にゴロ~ン -丸岩-
上野村・全国郷土玩具館
3つの玄関がある旧家 -旧黒澤家住宅-
上野村森林科学館
江戸時代からの景勝地 -三波石峡-
520名の御霊を祀る -慰霊の園-
葵御前を祀る? -葵八幡宮-
藤岡・戸塚神社古墳
藤岡・平地神社古墳
浅間山・天明の大噴火の記録 -千部供養塔-
藤岡市中大塚・縄文時代敷石遺構
藤岡・平井地区1号古墳
藤岡・皇子塚古墳
義民・堀越三右衛門の墓
藤岡譲原・石器時代住居跡
秘仏(?)ご開帳! -虚空蔵堂-
美麗な石室 -伊勢塚古墳-
養蚕群馬の牽引者 -高山長五郎/高山社跡-
藤岡市本郷・埴輪窯跡-
日本三辻のひとつ -土師神社-
伝教大師ゆかりの寺 -浄法寺-
ただの川原? -蛇喰渓谷-
関東一の鍾乳洞 -不二洞-
恐竜の足跡!? -神流町恐竜センター-
珍しい資料館 -譲原・地すべり資料館-
関東管領・山内上杉氏の居城 -平井城址-
藤岡市・白石稲荷山古墳
藤岡市・七輿山古墳
藤岡市・吉良上野介の産湯を汲んだ井戸

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藤岡市譲原の子宝神社。

子宝神社 (1)
子宝神社 (2)
子宝神社は譲原地区が旧三波川村から分離し「村」になる時に、三波川村の総鎮守である姥神社から分祀したのが始まり。その際「姥」に対して「子宝」にしたといわれる。
(姥神社は「三波川村の総鎮守 -姥神社-」参照)

譲原村が三波川村から分離したのがいつかは分からなかった。地名の由来は慶長8年(1603年)に当地を関東郡代・伊奈忠次に「譲り渡した」ことからとされる。忠次は現玉村町周辺の新田開発を行ったことでも知られる。

子宝神社 (3)
写真のイメージよりも急な石段。実は一気に上れずに途中休憩したほど。

子宝神社 (4)
子宝神社 (5)
子宝神社 (6)
余り広くない境内に、こじんまりとした社殿が建っている。平成14年(2002年)に改修が行われている。

子宝神社 (7)
子宝神社 (8)
本殿も以前は彩色され、壁画も描かれていたことを想像させる。

子宝神社 (9)
子宝神社 (10)
舞台かな。中には数枚の奉納絵馬が掲げられていた。写真の絵馬には文政(1818~31年)の文字が見える。

子宝神社のご祭神は大穴牟遅神(おおあなむのかみ)である。分祀したという姥神社のご祭神は石凝姥命(いしこりどめのみこと)と異なっている。詳細は分からない。大国主が縁結びの神ともいわれるので、子宝の名からそうなった?

まあ細かいことは別にして、子宝神社って名前は素晴らしいね。

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藤岡市三波川の琴平神社。

三波川琴平神社 (1)
三波川琴平神社は明治21年(1888年)新井岡五郎氏創建の御嶽教神社。同氏は少年期に物乞いの姿で当地に現れた琴平大神から、直々に神技を伝授されたといわれる。現在も新井家が管理している。

三波川に掛かる朱色の欄干が目に付く「瀧乃橋」。

三波川琴平神社 (2)
三波川のかなり上流になるので、川幅も狭い。と言うか沢程度の流れ。

三波川琴平神社 (3)
三波川琴平神社 (4)
明治22年(1889年)には奥の院にあたる雨降山を開山し、山頂付近に御嶽三柱大神を祀り山岳道場としている。

三波川琴平神社 (5)
創建者かと思ったら、創建者のお孫さんらしい。平成元年(1989年)の建像。

三波川琴平神社 (6)
湧き水が引かれていた。

三波川琴平神社 (7)
三波川琴平神社 (8)
二の鳥居以降、ちょっときつめの石段。

三波川琴平神社 (9)
三波川琴平神社 (10)
三波川琴平神社 (11)
社殿の建立年は不詳だが、創建と同時の建立かな。

奥の院のある雨降山は、東西御荷鉾山の東麓にあたる1012.5mの比較的低い山(この辺りでは)でハイカーも多い。5月の山開き時には、火渡り護摩の神事が行われる。

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藤岡市三波川の堅固山金剛寺。

三波川金剛寺 (1)
三波川金剛寺は養老2年(718年)行基の開基と伝わる。天長3年(826年)弘法大師(空海)が教化の道場とした。そのため、平安時代末には醍醐三宝院の中本寺として、末寺39寺を有していたという。創建は御荷鉾山であったが、山崩れなどのため現在地へ移っている。

三波川金剛寺 (2)
山門前の六地蔵。

三波川金剛寺 (3)
三波川金剛寺 (4)
寛文5年(1665年)の火災により堂宇は焼失。宝暦3年(1753年)に再建されている。その後、本堂は昭和24年(1949年)に老朽化により解体。長きに渡り仮本堂だったが、昭和57年(1982年)に現在の本堂を新築建立。

三波川金剛寺 (5)
三波川金剛寺 (6)
境内の不動堂。近年の建立と思われる、本尊は大同2年(807年)弘法大師作と伝わる。

三波川金剛寺 (7)
本堂裏の「十三仏積庭石」というもの。十三仏がいるのかなとと思って一生懸命探したが、写真の1体しか見つけられなかった。

三波川金剛寺 (8)
三波川金剛寺 (9)
三波川金剛寺 (10)
本堂裏山にお堂があり、「厄除 弘法大師」とあった。中には石仏があり、風化していてのっぺりしているが弘法大師像なのかな。

三波川金剛寺 (11)
山門手前の庚申塔群。寛延2年(1749年)、宝暦2年(1752年)の銘が見られる。

三波川金剛寺 (12)
三波川金剛寺 (13)
訪問した時は裏山のヤマツツジが満開で、斜面を赤く染めていた。

ところで、金剛寺には源義経が寄進したとされる鞍と鐙(あぶみ)が寺宝として残されている。吾妻鏡にも義経が金剛寺を宿願所としたと書かれている。義経と三波川地区・金剛寺との関係性はよく分からない。

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藤岡市三波川の子育日切地蔵尊。

三波川 子育日切地蔵 (1)
三波川子育日切地蔵尊の建像年などは不詳だが、古くから子どもを病気などから護り、日限(期限)を切ってお願いすると全快するといわれる。

三波川 子育日切地蔵 (2)
三波川 子育日切地蔵 (3)
地蔵尊は地域の方々が奉納した(と思われる)様々なものを身につけ、石の部分はお顔の一部しか見えない。

三波川 子育日切地蔵 (4)
三波川 子育日切地蔵 (5)
三波川 子育日切地蔵 (6)
庚申塔が多く並んでいる。奥には青面金剛像もあった。

石碑には子どもの夜泣き・かんの虫・夜尿症などから、大人の頭痛・腹痛・肩痛・腰痛などへの効能も書かれていた。さらには、交通安全・無病息災などの諸願が成就するともあり、地域の護り神的な存在のようだ。

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藤岡市三波川の妹ヶ谷不動尊。

妹ヶ谷不動尊 (1)
妹ヶ谷不動尊 (2)
妹ヶ谷不動尊は元禄8年(1695年)江戸小石川無量院4世・快慈がお堂を建て、不動明王像を安置したのが始まりとされる。妹ヶ谷は字名。三波川に掛かる橋を渡って行く。

妹ヶ谷不動尊 (3)
境内入口前に湧き水が引かれていた。きれいな水だったが、飲むのはパス。

妹ヶ谷不動尊 (4)
最後の石段を登ると境内。

妹ヶ谷不動尊 (5)
妹ヶ谷不動尊 (6)
現在の不動堂は明治元年(1868年)の建立。祀られている本尊(不動明王像)は勇尊和尚の作とされる。像高約54cmの純金製というが本当だろうか。

妹ヶ谷不動尊 (7)
妹ヶ谷不動尊 (8)
妹ヶ谷不動尊 (9)
お堂の彫刻は素晴らしい。

妹ヶ谷不動尊 (10)
旧不動堂だろうか。

妹ヶ谷不動尊 (11)
神楽殿かな。

妹ヶ谷不動尊 (12)
妹ヶ谷不動尊 (13)
明治初年に梵鐘が寄進されたが、先の大戦時に供出。現在の梵鐘は昭和21年(1946年)の寄進。

妹ヶ谷不動尊 (14)
比較的新しい不動明王像。

妹ヶ谷不動尊 (15)
松尾芭蕉の句碑(裾山や 虹はくあとの 夕つつじ)。天保年間(1831~45年)の建碑。

妹ヶ谷不動尊 (16)
境内の宝篋印塔。元文3年(1738年)の銘が読み取れた。

妹ヶ谷不動尊 (17)
不動堂に向かって山道を歩いている途中に「不動滝入口」の案内板があったので、帰りに寄ってみた。かなり急な道を下って行く。

妹ヶ谷不動尊 (18)
こじんまりとしているが、よく見ると2段の滝。弘法大師(空海)が巡錫の際に修行した場所との伝承もある。

妹ヶ谷不動尊 (19)
滝壺というほどではないが、そのほとりに仏塔らしきものが見えた。よく見ると石を積んだだけのものだった。宮崎・高千穂などでよく見かけるが、石を積みながら願い事をすると叶うといわれるので、訪れた人が積んだのだろう。

ところで、妹ヶ谷の地名は平家に縁があるとされる。同じ藤岡市の日野地区(妹ヶ谷から山を越えると日野地区)の小柏氏は平維盛の子・維基の末裔とされる(真偽は・・・)。その小柏氏の妹が住んだ所なので「妹ヶ谷」との地名になったといわれる。

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藤岡市三波川の姥神社

姥神社 (1)
姥神社は大同年間(806~10年)の創建と伝わる古社である。祖母大明神と称していたが、宝暦6年(1756年)神祇官領長上・卜部朝臣兼雄から宣旨を受け姥大明神と改称している。

姥神社 (2)
現在の鳥居は昭和5年(1930年)の建立。

姥神社 (3)
姥神社 (4)
社殿の建立年などは不明。

姥神社 (6)
姥神社 (7)
境内社と道祖神。

姥神社のご祭神は石凝姥命(いしこりどめのみこと)。石凝姥命は日本神話に登場する神で、天照大神の岩戸隠れの際に八咫鏡を作ったことで知られる。三波川地区と鏡作部の関係はよく分からないが、旧鬼石町から神流町、秩父市(埼玉県)一帯では、古代の石器・石棒が多く発見されている。これは同地域が青石の産地であるためとされる。

三波川流域は三波石(青石の一種)の産地であるので、古代から祭祀にかかわる石器の産地でもあったのかもしれない。石凝姥命を祀るのはその繋がりからかな。

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藤岡市保美濃山(ほみのやま)の抜鉾神社。

保美濃山抜鉾神社 (1)
保美濃山抜鉾神社 (2)
保美濃山抜鉾神社 (3)
保美濃山抜鉾神社の創建は不詳だが、貫前神社(抜鉾神社)から経津主命の分霊を勧請したものと思う。

保美濃山抜鉾神社 (4)
保美濃山抜鉾神社 (5)
下久保ダムのダム湖・神流湖の岬のような丘上に社殿は建っている。拝殿は正面の軒唐破風の兎の毛通しの裏に、神山和泉守が文政11年(1828年)に建立した旨の墨書銘がある。神山和泉守については分からない。

保美濃山抜鉾神社 (6)
保美濃山抜鉾神社 (7)
拝殿内には絵馬が多数奉納されている。いずれも明治期のもの。

保美濃山抜鉾神社 (8)
保美濃山抜鉾神社 (9)
本殿覆屋の彫刻は、鶴に乗る王子喬仙人と鯉の乗る琴高仙人だろうか。いずれも周(中国)の時代の人とされる。

保美濃山抜鉾神社 (10)
保美濃山抜鉾神社 (11)
境内に敷石住居跡らしき遺構があった。旧鬼石町の文化財を示す標識があった(石棒とある)が、合併後の藤岡市の文化財一覧には見当たらない。石棒自体も見当たらなかった。

ちなみに、御荷鉾山の鬼が投げたという石棒(投石峠のもの)を、村人が担いできて祀ったとの伝説が残っている。「鬼が投げた石」は旧鬼石町(現藤岡市鬼石地区)の名前の由来とされる。(「鬼が投げた石 -鬼石神社-」参照)

保美濃山抜鉾神社 (12)
保美濃山抜鉾神社 (13)
保美濃山抜鉾神社 (14)
南側参道に貞治(1362~67年))、康応(1389年のみ)銘の板碑が2基ある。貞治・康応のいずれも南北朝期の北朝側の元号。その他、無銘の板碑も4基ある。

保美濃山抜鉾神社 (15)
保美濃山抜鉾神社 (16)
昭和43年(1968年)建立の「水没の碑」。揮毫は時の首相・佐藤栄作。昭和43年に完成した下久保ダム・神流湖により、保美濃山地区の大半は水没している。境内から水を湛えた神流湖が見通せる。

上記の板碑も水没地域から抜鉾神社参道へ移転されたものである。


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藤岡市浄法寺の日枝神社。

浄法寺日枝神社 (1)
浄法寺日枝神社は元応2年(1320年)に当地の引田氏が近江国二宮(日吉大社)の分霊を勧請し、山王大権現として創建されたと伝わる。明治初年に日枝神社と改称。なお、引田氏については分からない。

浄法寺日枝神社 (2)
浄法寺日枝神社 (3)
拝殿は寛保2年(1742年)、本殿は正徳5年(1715年)の建立。以降の改築なども棟札が残っているという。

浄法寺日枝神社 (4)
明治42年(1909年)に合祀された稲荷神社。

浄法寺日枝神社には、常陸国鹿島神宮から伝習したとされる獅子舞が伝わっており、現在も例祭時に奉納されている。

当地は「山王の森」と呼ばれていたが、当然のごとく現在は「森」の面影はまったくない。

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藤岡市浄法寺の御倉御子神社。

御倉御子神社 (1)
御倉御子神社 (2)
御倉御子神社 (3)
御倉御子神社の創建は不詳。日本書紀の安閑天皇2年(536年)の条に、全国26ヶ所に屯倉を設置とあり、その中に上毛野国緑埜の地名が見られること、またご祭神が稲倉魂命(うかのみたまのみこと:穀物・食物の神)であることから、この一帯が緑埜屯倉でその守護のために祀られたと考えられる。

御倉御子神社 (4)
鳥居前の石段脇に「表参拝道」の標識。横には「御倉御子神社男坂」とある。まあ、あまり深く考えずに登り始める。

御倉御子神社 (5)
山あいなので参道は長くはないが、写真のイメージよりもず~っと急坂。しかも中ほどで石段がなくなってしまう。

御倉御子神社 (6)
「自分で道撰び ここより石段がありません。あなたの好きな道を撰び登坂してください。(中略)急な険しい道ですので注意して登ってください。痛いのはあなた持ちですよ!」とのこと。

御倉御子神社 (7)
これが本当にけっこう危ない。足場を選びながら慎重に登る。足が痛い。でも「あなた持ちですよ」と言われているので(苦笑)。

御倉御子神社 (8)
御倉御子神社 (9)
御倉御子神社 (10)
何とか割拝殿にたどり着いたと思ったら、境内から見たら神楽殿だった。御倉御子神社の太々神楽は藤岡下栗須(稲荷神社?)から伝えられたもので、流派は大和流。元は江戸の流れをくんだ当地にて、最初に奉納舞を行ったとされている。

御倉御子神社 (11)
御倉御子神社 (12)
御倉御子神社 (13)
社殿は安政2年(1855年)建立。近年建て替えられているようだ。狛犬は平成14年(2002年)の奉納。

御倉御子神社 (14)
御倉御子神社 (15)
鳥居前を通り過ぎ、舗装道を緩やかに上って行くのが「裏参拝道」「女坂」。回り込む感じで境内に入れる。

御倉御子神社 (16)
社殿裏の末社群。

御倉御子神社 (17)
御倉御子神社 (18)
末社群の横からさらに登っていく道があったので行ってみた。しばらく行くと石宮があった。奥の院(奥宮)かな。

参拝するには「表参拝道、男坂」から登っていくのが正道かな。でも「裏参拝道、女坂」なら社殿脇(ちょい下)まで車で行けるよ。でも、道は狭い。

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藤岡市鬼石の野栗神社。

野栗神社 (1)
野栗神社の創建は不詳だが、次のような伝説が残っている。日本武尊が野栗沢(上野村)から流した弟橘媛の髪の毛が、神流川の屏風岩に漂い着いたとき、神が馬に乗って屏風岩の断崖を駆け上って、ここに鎮座したという。

知っている限りでは、神流川岸に屏風岩という岩はないと思うが、三波石峡に屏風石というのがある。同じく駒足石というものある。何か関係ある?

野栗神社 (2)
灯籠は昭和62年(1987年)の奉納。

野栗神社 (3)
石祠は昭和42年(1967年)の建立。

野栗神社 (4)
野栗神社 (5)
鳥居前には石仏や庚申塔、道祖神などが並んでいる。

群馬県は各地に日本武尊伝説・伝承が残されており、吾妻郡や嬬恋村の由来にもなっている。藤岡市(旧鬼石町)にもあるのね。

神流川は「野栗(上野村)で疫病が流行したとき、野栗神社(現乃久里神社)のご神体である弟橘媛の髪を流したて浄めた」ことから、髪流川、神流川となったといわれる(諸説あり)。

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藤岡市篠塚の義輝山光源院。

光源院 (1)
光源院は木喰覚海上人が篠塚伊賀守重廣の館跡に、万仏の中心である大日如来祀り開山したのが始まりと伝わる。当時は無量山大日寺と言ったが、開山の木喰覚海上人が、実は室町幕府第13代将軍・足利義輝の孫だったため、後に義輝山光源院となっという。光源院は義輝の戒名「光源院融山道圓」からと思われる。

ところで、足利義輝は永禄8年(1565年)に松永久秀、三好三人衆に攻められ殺害されている。記録に残る義輝実子は輝若丸がいるが、3ヶ月で病死したとされる。真偽不明な説では、義高(2男)、義辰(3男)がいたともいわれる。

光源院 (2)
光源院は明治初年に廃寺になっており、現在は「閻魔堂」と呼ばれるお堂があるのみ。なので、正確には「旧光源院」と言った方がいいのかもしれない。地元では光源院よりも「閻魔堂」の名称で呼ばれている。

光源院 (3)
屋根瓦には「足利二つ引」家紋が刻されている。

光源院 (4)
開山塔と呼ばれる木喰覚海上人の墓。木喰覚海上人は高野山で僧となり湯殿山で修行した修験者とされる。天台宗の僧兵に追われ当地に来たといわれる。

光源院 (5)
光源院10世で、中興とされる実相の墓。文政7年(1824年)没。

光源院 (6)
実相墓の隣の墓碑(写真左)は、実相没後の33回忌にあたる安政3年(1856年)に建てられたもの。発起人筆頭に馬庭念流18世・樋口定伊の名がある。学問・仏教の弟子だったようだ。

この墓碑に「当院は覚海義高僧正の剏(はじ)むる所なり」とある。「義高」は義輝の2男とされる義高のことかな。 まあ、義輝の子でも孫でも、そういう謂れが残っているのは、木喰覚海上人が足利氏ゆかりの人だと信じる何かがあったのだろう。

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藤岡市立石の若宮山立石寺。

立石寺 (1)
立石寺 (2)
立石寺は大永2年(1522年)東林上人の開山。寛文8年(1669年)に前橋藩主・酒井雅楽頭忠清の祈願寺となっている。

天明3年(1783年)に堂宇を焼失、本堂は文政4年(1821年)の再建。平成4年(1992年)に屋根の葺替えを行っている。地蔵殿堂の扁額がかかるが、何だろう。本尊は薬師如来のはずだが。

立石寺 (3)
鐘楼は慶応元年(1865年)の再建。梵鐘はない。先の大戦で供出し、そのままなのかな。

立石寺 (4)
六地蔵は比較的新しい。

立石寺 (5)
双体道祖神。 平成8年(1996年)檀家の方の奉納。

立石寺 (6)
大正2年(1913年)建立の宝塔。

立石寺 (7)
立石寺には多数の仏像が安置されており、その内4体が藤岡市の重文に指定されている。指定仏像が安置されている宝物殿らしき建屋。

4体は、薬師如来立像(像高56.5cm、製造年代は室町時代と江戸時代初期の2説ある)、阿弥陀如来立像(像高77.5cm、鎌倉時代)、十一面観音立像(像高70cm、鎌倉時代)、不動明王像(像高98cm、鎌倉時代)。

本尊でもある薬師如来立像は酒井忠清の念持仏である。念持仏とは、個人が身辺に置き私的に礼拝する仏像のこと。また、不動明王立像の背面裾には「立石寺」の墨書があるみたいだが、後世の追加だと思う。不動明王像の製造年代と立石寺の創建と年代が合わないので。

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藤岡市下栗須の稲荷神社。

下栗須稲荷神社 (1)
下栗須稲荷神社 (2)
下栗須稲荷神社は文暦元年(1234~35年)の創建と伝わる。その後荒廃していたが、当地の豪族・金山図書之助が伊勢外宮から分霊として神鏡を受け再興したという。

下栗須稲荷神社 (3)
下栗須稲荷神社 (4)
下栗須稲荷神社 (5)
下栗須稲荷神社 (6)
社殿は天正16年(1588年)焼失、宝暦2年(1752年)に再建されている。これが現在の社殿とされる。最近では、平成4年(1992年)に改修されている。

下栗須稲荷神社 (7)
神楽殿。比較的新しい。

下栗須稲荷神社 (8)
下栗須稲荷神社 (9)
社殿右に境内社の諏訪神社。左には他の境内社(末社)がまとめられている。

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藤岡市中大塚の大慈悲山千手寺。

千手寺 (1)
千手寺 (2)
千手寺は小林五郎左衛門尉重義の守本尊である千手観音像(約5cm余り)を、重義の死後に木像の胎内に納め、小堂を作り安置したのが始まり。その後、貞享5年(1688年)法印快照を住職として招き、寺院として整備が進んだ。

千手観音像は聖徳太子の作といわれるが、大正12年(1923年)の調査で、実は不動明王像と判明(年代不詳)。小さい像なので、見間違ったのだろうけど・・・。守本尊を納めた木像は、千手観音なのかな?

山門は相当老朽化しており、倒壊を心配するほどの状況。扁額も、こういうデザインと言うより、ムシに喰われたと思われる。

千手寺 (3)
千手寺 (4)
千手寺 (5)
山門をくぐるとすぐに観音堂。千手寺は南毛霊場多野藤岡三十三観音の第7番札所。堂内を覗くと厨子が見えた。ただ中はホコリまみれで、観音霊場の面影はない。観音様もどんな状況になっていることかと心配してしまう。

千手寺 (6)
本堂も老朽化が進んでいる。無住とは言え、山門・観音堂含めもう少し手当をした方がいいのでは。

千手寺 (7)
元文2年(1737年)建立の宝篋印塔。

千手寺 (8)
境内の小林家の歴史を記した碑。

小林重義は秩父平氏の出で、小林氏は高山氏の分家にあたる。天文10年(1541年)関東管領・上杉憲政の信濃出兵時に討死。子孫は当地に土着している。小林家は代々名主などを務め、近年では村長や県会議員を輩出している。

千手寺 (9)
千手寺 (10)
千手寺 (11)
千手寺を囲むように土塁・空堀がきれいに残っており、昔はすごいお寺だったのかなぁと思ったら、ここは小林家の居館・中大塚城の遺構だった。それにしても、ここまできれいに遺構が残っている城郭(居館)跡には、めったにお目にかかれない。千手寺の北西が主郭(本丸)で、そこには現在も小林家の住居がある。

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藤岡市緑埜の美国神社。

美国神社 (1)
美国神社 (2)
美国神社は加賀国(現石川県南部)の白山比咩神社を勧請し、白山神社として創建した。明治43年(1910年)に飯玉神社を合祀したときに美国神社と改称している。武家に深く信仰され、平井城の鬼門除けであったと伝えられている。そのため、創建年は不詳だが室町時代以前より当地の鎮守を兼ねていたと思われる。

美国神社 (3)
参道には多数の道祖神が並んでいる。これは当地の堀口伝兵衛貞明が万延元年(1860年)に発願し、自分の屋敷周辺の路傍に建てたもの。明治に入り道路に建てることが禁止されたため、美国神社などに移している。49基が現存しているが、そのうち45基が美国神社に置かれている。

美国神社 (4)
美国神社 (5)
美国神社 (6)
社殿は天保14年(1843年)の再建。緑埜が生んだ女流画家・斎藤香玉の母・こうが寄進している。平成8年(1996年)に屋根の修復を行っている。

美国神社 (7)
修復前の屋根に乗っていた(と思われる)瓦が置いてあった。飾るわけでもなく、奉納するわけでもなく、ただ置いてある。

美国神社 (8)
拝殿の天井格子絵は斎藤香玉の手によるといわれる。天井絵には「椿山」の名も見える。椿椿山(つばきちんざん)のことで、香玉の師匠。母が寄進した拝殿に、娘が師匠とともに絵を供したことになる。

美国神社 (9)
社殿裏の一段高いところに石祠があった。昭和27年(1952年)の建立。奥の院? ただ、この石祠は社殿と逆を向いている(北向)。あと、ここは古墳かな。社殿も参道から一段高いし。

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藤岡市高山の御霊神社。

御霊神社 (1)
高山御霊神社は天平5年(733年)の勧請と伝わる。上野国神名帳記載の緑埜郡荒御玉明神とされ、約1300年の歴史を誇る古社である。

御霊神社 (2)
三名川にかかる五料橋がご神橋のような感じ。

御霊神社 (3)
御霊神社 (4)
一ノ鳥居は昭和59年(1984年)の建立。鳥居前や参道に置かれている石は何だろう。何かの謂れがある?

御霊神社 (5)
御霊神社 (6)
石段を登ると二ノの鳥居と社殿。二ノの鳥居も昭和59年の建立。一ノ鳥居に比べると新しく見えるけど。狛犬は昭和10年(1935年)の奉納。日露戦争30年を記念し、従軍された方が奉納したようだ。

御霊神社 (7)
御霊神社 (9)
社殿は兵火で度々焼失し、現在のものは寛政4年(1792年)の再建。大正7年(1918年)、昭和59年に改築・改修されている。

高山御霊神社のご祭神は磐余彦命(神武天皇)だが、鎌倉権五郎を祀るとの伝承もある。鎌倉権五郎が当地の黍(きび)畑で眼を射られたことから、御霊神社の氏子は一切黍を作らず、もし黍を作ればその家は絶えるといわれている。藤岡市高山と鎌倉権五郎の接点はよく分からない。(鎌倉権五郎に関しては「鎌倉権五郎景正を祀る -五郎神社-」参照)


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藤岡市藤岡の白狐山金光寺。

金光寺 (1)
金光寺は正平年間(1346~70年)に釈光全の開基で佐久(信州)に創建。嘉吉年間(1441~44年)に芦田光徳が鎮守寺としている。ちなみに、光徳から芦田姓を名乗ったともいわれる(それまでは依田氏)。その後、天正18年(1590年)に芦田康勝が藤岡に3万石を得て移封された際に、金光寺も藤岡に遷ってきている。

金光寺 (2)
まったく見えなくなっているが、関流八伝・岸幸太郎充豊が奉納した算額。

金光寺 (3)
金光寺 (4)
境内の稲荷社は「鮭塚稲荷」と呼ばれる。伝教大師(最澄)が東国巡教の際に「鮭塚の原」といわれていた場所で、一夜の宿を借りた庵が翌日には跡形もなくなっており、小さな祠があるのみであった。庵主は白狐の化身であると悟った大師は祠を「鮭塚の原稲荷大明神」として祀ったという。

金光寺 (5)
金光寺 (6)
稲荷社の隣には薬師堂がある。薬師如来像は厨子内のようだ。建仁2年(1202年)頃、白狐のお告げで薬師如来石像を作り礼拝、一宇を建立し白狐山金光寺としたとの伝説がある。

薬師如来石像は像高115cm、重さ562kgもある。現在は木造薬師如来像が本尊になっており、石像は元本尊。近年、現在の本堂を新築した際に薬師堂となり小さくなってしまったが、元々は本堂だったという。

2つの白狐伝説が「白狐山」という山号の由来のようだ。2つの伝承がどうリンクするのか分からないけど。

金光寺 (7)
金光寺 (8)
本堂にかかる扁額は「不動尊」と「成田山」の2枚。明治16年(1883年)に成田山新勝寺から不動尊(明王)を勧請。今では新勝寺ゆかりの「藤岡成田山」として節分大祭を毎年行っている。有名人が豆まきに来るなら、見に行くのだが・・・。

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藤岡市立石新田の伊勢島神社。

伊勢島神社 (1)
伊勢島神社 (2)
伊勢島神社は明治42年(1909年)稲荷社に神明宮が合併し、伊勢島神社となっている。元の稲荷社、神明宮の由緒は不明。なお、伊勢島は立石新田の古い村名である。

伊勢島神社 (3)
伊勢島神社 (4)
伊勢島神社 (5)
社殿の建立年代は分からないが、合併時(明治42年)の新築かな。拝殿前の白狐は昭和10年(1935年)の奉納。

伊勢島神社 (6)
ご神木の大ケヤキ。

伊勢島神社の旧社(稲荷社・神明宮)は旧中山道に面しており、元神明宮だった場所は大木が鬱蒼としており「お伊勢の森」と呼ばれ、中山道を旅する人々の憩う場所だったという。現在は木々も伐採され、周りは宅地化、田畑化している。


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藤岡市矢場の御巡部(みくるべ)神社。

御巡部神社 (1)
御巡部神社 (2)
御巡部神社の創建年は不詳だが、出雲大社の分霊を勧請し大国社として創建された。その後、御括部(みくりべ)大明神となり、享保12年(1727年)に御巡部大明神と改称している。

御括部・御巡部はの御厨戸(みくりべ)から変じた名称と思われる。御厨(みくり)とは古代・中世、皇室や伊勢神宮などへの神饌の料を作付け・献納するために設けられ所領。

御巡部神社 (3)
灯籠は大正14年(1925年)の奉納。

御巡部神社 (4)
御巡部神社 (5)
御巡部神社 (6)
御巡部神社 (7)
拝殿の扁額が「大黒天」となっているのは珍しい。ご祭神は「大国主神」で、平安時代以降「大黒天」と同一神とされてる。

御巡部神社 (8)
御巡部神社 (9)
社殿脇に道しるべがあった。「左 高崎 吉井 富岡」「右 児玉 鬼石 秩父」とある。方向的に、社殿の後ろ側を道が通っていたことになる。それとも、社前にあったものを奥に移した?

御巡部神社 (10)
境内のサカキは樹高12m、目通り1.05m、根回り1.63mで、樹齢は約400年と推定される。

御巡部神社 (11)
御巡部神社 (12)
御巡部神社 (13)
武田信玄が永禄6年(1563年)に奉納したとされる石灯籠の残骸。竿石に「永禄六年癸亥三月建之武田信玄」と刻まれている(らしい)。立てられている竿石には文字は見えず、横になっている竿石には「奉」らしき文字が見えた。

永禄年間(1558~70年)、武田信玄は箕輪城を中心とした西上州を盛んに攻略しているので、藤岡市に奉納物があってもおかしくはない。すぐ隣の高崎市吉井町には、武田信玄が築いたとされる陣城跡もある。(「武田信玄の陣城跡 -天久沢観音堂-」参照)

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藤岡市本郷の喜雲山龍田寺。

龍田寺 (1)
龍田寺は天正19年(1591年)依田呂郷が父・守芳の菩提を弔うために開基・創建した。開山は信州・信広寺第4世・大岫全察。

依田氏は同年に藤岡城主となっているが、嫡流のみ芦田氏を称して傍流は依田氏で通している。守芳・呂郷父子についてはよく分からないが、芦田50騎に依田姓が8騎いるので、傍流依田氏の家系と考えられる。

山門は平成27年(2015年)に改修されている。

龍田寺 (2)
本堂は万延元年(1860年)に火災で焼失、元治元年(1864年)に再建されている。現在の本堂を見ると、もう少し新しそうである。

龍田寺 (3)
本堂裏には位牌堂がある。立派な位牌堂である。

龍田寺 (4)
境内の宝篋印塔には宝暦8年(1758年)の銘があった。

町田菊次郎
町田菊次郎は地元本郷の出身で、高山長五郎の清温育の講義を聴き興味を持ち、明治8年(1875年)に入門。明治19年(1886年)高山社2代目社長に就任。明治34年(1901年)には高山社蚕業学校を設立するなど、養蚕の担い手育成に務めた。大正6年(1917年)66歳で死去。

町田菊次郎の墓 (1)
町田菊次郎の墓 (2)
町田家墓所内の菊次郎の墓。左右の側面・裏面の3面には、菊次郎の経歴や業績がびっちり刻まれている。

関連
 「高山社2代目社長・町田菊次郎生家

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多野郡神流町万場の神流川河川敷で開催された「鯉のぼり祭り」。

神流町 鯉のぼり祭り
神流町の「鯉のぼり祭り」は、毎年5月連休に開催される。今年は5月1日から5日まで開催された。約800匹の鯉のぼりが神流川の両岸に張られたワイヤーに掲げられる。また、日替わりで色んなゲストがやってきて、イベント(歌謡・漫才・マジック・キャラクターショーなど)が行われる

と、いかにもお祭りに行ってきたかのように書いているが、行ったのはお祭り終了後。実は、鯉のぼりは5日のお祭り終了後も掲げられており、撤収は翌週(12日)。

お祭り終了後なら駐車場も無料のうえ人も少ない。それでいて鯉のぼりは普通に見られる。一石三鳥なのだ。

神流町 鯉のぼり (1)
神流町 鯉のぼり (2)
神流町 鯉のぼり (3)
神流町 鯉のぼり (4)
神流町 鯉のぼり (5)
でも、鯉のぼりをただ見るだけでは味気ないのも確か。お祭りの雰囲気が味わえない寂しさも・・・。あかぎ団のコンサートは見たかったかな。

駐車場代はまったく惜しくないんだけど、道路の渋滞や人混み(混雑)がどうも苦手なので。とは言え、来年はお祭り期間中に行ってみようかな。

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藤岡市藤岡の日航機事故の碑。

日航機事故の碑 (1)
昭和60年(1985年)に発生したJAL123便墜落事故に際し、救助活動に尽力した自衛隊・警察・消防関係者、検視作業に尽力した医師・歯科医師・看護師、ご遺族の支援などのサポート活動を行った藤岡市民を中心とする各種団体を顕彰するため、昭和61年(1986年)建碑された。

日航機事故の碑 (2)
碑の名称は「日航機墜落事故遭難者遺体安置の場所」。碑が建っているのは旧藤岡市役所である藤岡公民館の片隅。道を挟んで南側の現在藤岡市民ホールになっているところが、ご遺体安置所であった旧藤岡市民体育館。

ご遺族に付き添った有志らで作る「ふじおか ・おすたか・ふれあいの会」や藤岡婦人会のメンバーらが毎年碑の清掃を行い、事故を語り継いできた。

碑にも書かれているが、二度とのこような惨事が起こらないことを切に願う。

関連
 「520名の御霊を祀る -慰霊の園-

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藤岡市藤岡の清涼山西蓮寺。

西蓮寺 (1)
西蓮寺は明治10年(1877年)浄土真宗の説教所として創建。明治13年(1880年)に西蓮寺となる。山門は平成11年(1999年)の新築。

西蓮寺 (2)
西蓮寺 (3)
説教所開設時から仮堂宇であったが、明治41年(1908年)に現在の本堂を建立している。なお本尊は阿弥陀如来で、仏像は本山(西本願寺)から下賜されている。

西蓮寺 (4)
鐘楼堂は平成11年(1999年)の建立。

西蓮寺 (5)
水琴窟があった。水琴窟は地中の空洞内に水滴を落下させ、その際の音を反響させる装置。浄土真宗的には、浄土にある七宝でできた池は8つの徳の水で溢れているということから、それに絡めた水琴窟だと思う。

西蓮寺 (6)
西蓮寺 (7)
境内の太子堂は明治29年(1896年)の建立。地元の瓦業者が共有していた聖徳太子木像を祀る。聖徳太子がものつくりの発展に寄与したとされることから、職人(工)の間で聖徳太子信仰(太子講)が広まっていた。

西蓮寺 (8)
親鸞像。群馬県と浄土真宗の関係は、初代県令・楫取素彦夫妻から始まる。群馬に来た夫人の寿が、当時浄土真宗の寺院がほとんどないことを嘆き、時の宗主・明如に説教所の開設を要請し、開教使が派遣されたことによる。これにより、前橋には清光寺が創建されている。
(「楫取素彦・寿夫妻の発願 -清光寺-」参照)

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藤岡市藤岡の嶺岳山龍源寺。

龍源寺 (1)
龍源寺は天正年間(1573~93年)に芦田(依田)康国の開基、勝巌元雄の開山と伝わる。芦田氏の菩提寺である光徳寺(藤岡市)に残る康国の位牌に「康國院殿嶺岳良雪大居士」(戒名)とあるので、そこから山号をとっているようだ。
(光徳寺は「芦田氏の菩提寺 -光徳寺-」参照)

龍源寺 (2)
現在の本堂は文化12年(1815年)の再建。

龍源寺 (3)
龍源寺 (4)
瓦(鬼瓦)があったが、旧屋根瓦だろうか? 家紋は松平氏の「三つ葉葵」。康国の父・信蕃の功績により、康国は松平姓を得ている(依田松平氏と称する場合もある)。

龍源寺 (5)
龍源寺 (6)
五仏堂というのがある。「米山薬師」「平六稲荷」「聖徳太子」「不動明王」「弁財天」を祀っているようだ。こらの繋がりはよく分からない。

龍源寺 (7)
堂前の薬師如来坐像。「越後国 米山寺」とあった。調べてみると、米山寺は廃寺になっているようなので、龍源寺に遷された? ただ、龍源寺と米山寺との関係はまったく分からない(宗派も違うようだし)。

龍源寺 (8)
本堂前の巨石。何だろう?

芦田康国は天正18年(1590年)、豊臣秀吉の北条攻めの際、石倉城で討死している。当時の康国の所領は小諸(長野県)であり、藤岡に移るのは弟・康勝である。康国の開基って由緒はどうなんだろう。康国が開基の龍源寺を康勝が小諸から遷した、もしくは康勝が康国の菩提を弔うために創建した、といったところかな。

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藤岡市篠塚の与五郎殿。
前回紹介した篠塚神社の境内社である。
(「新田義貞四天王・篠塚伊賀守重廣を祀る -篠塚神社-」参照)

与五郎殿 (1)
与五郎殿 (2)
元赤穂藩士・神崎則休(通称与五郎)を祀る。由緒などは不詳。現在の祠は平成12年(2000年)の建立。

一般的には、与五郎は美作藩(現岡山県東北部)・森家家臣で、浪人後赤穂浅野家に仕官。浅野内匠頭の刃傷・改易後、吉良邸に討ち入りした47士のひとり。

当地に伝わる話は、与五郎は幼児期に中村(現藤岡市中)の農家に里子に来た。成長して赤穂藩浅野家に仕えたが、浅野家改易後は浪人となり里親の家に寄寓していた。そして元禄15年(1703年)吉良邸に討ち入り、本懐を遂げたという。

浪人となり中村で時を待っている際、中村の名主から娘との縁談を勧められだが、頑として受け入れなかったという逸話もある。

どういう経緯で当地に神崎与五郎の伝説が残っており、さらには祭神として祀られているのかまったく不明だ。しかも、なぜ里子に来たという旧中村ではなく、隣の旧篠塚村なのか。

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藤岡市篠塚の篠塚神社。

篠塚神社 (1)
篠塚神社は元は伊賀明神といい由緒などは不詳だが、新田義貞四天王・篠塚伊賀守重廣を祀っている。明治44年(1911年)に山名八幡宮に合祀されたが、第2次大戦後に分社という形で旧地に篠塚神社として勧請されている。

重廣は武蔵国出身で、畠山重忠6世の孫を自称していた。当地(篠塚地区)に居住していたといわれる。

篠塚神社 (2)
篠塚神社 (3)
篠塚神社 (4)
質素な社殿。周りは畑になっていて境内も非常に狭い。思っていた以上にこじんまりとしていた。

篠塚神社 (5)
重廣が武を練ったといわれる「手玉石」があるということだったが、巨石があるのみ。ちょっとイメージと違うが、これなのかなぁ。

篠塚伊賀守重廣
重廣は6尺5寸、今で言うと195cmの大男で、4尺3寸(129cm)の太刀や8尺(240cm)の金棒を使いこなす怪力の持ち主であったとされる。碇石という長さ245cm、重さ400kgの石を担いだと伝えられているので、境内の巨石を鍛錬に使ったとしても不思議ではないかな。

関連
 「新田義貞四天王・篠塚伊賀守重廣の菩提寺 -邑楽町・大信寺-

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藤岡市藤岡の士峰山良信寺。

良信寺 (1)
良信寺は天正19年(1591年)芦田(藤岡)城主・芦田(依田)康勝が、祖父・信守の菩提を弔うため創建した。寺名は信守の法名・昌林院殿月桂良信大居士から。

良信寺 (2)
良信寺 (3)
山門は平成23年(2011年)の建立。

良信寺 (4)
本堂は明和8年(1771年)のに火災により焼失、寛政3年(1791年)に再建。その後の改修に関しては、境内に碑があったが読めなかった。

良信寺 (5)
群馬県立藤岡高創立の碑。良信寺を仮校舎として明治30年(1897年)に藤岡高校(当時は群馬県尋常中学校多野分校)が創立された。藤岡高は良信寺からわずかの所にあった。現在は藤岡女子高と統合し藤岡中央校となり、別の場所に移転している。

ついでだが、藤岡高卒業生には元BOOWYの氷室京介やBUCK-TICKの櫻井敦司、今井寿、星野英彦らがいる。

良信寺 (6)
村上鬼城の句碑があった。「うら枯や 御門さしたる 良信寺」。昭和30年(1955年)の建碑。

良信寺 (7)
良信寺 (8)
良信寺 (9)
芦田康勝が奉納した不動尊が安置されていたと思われる不動堂。芦田厄除け不動と呼ばれていた。現在、不動尊は本堂内に安置されている。不動尊を本堂へ移した後、延命地蔵が祀られていたとあるが、現在は何もおられないようだ。

最初の写真に「園児に注意!」との案内板が写っているが、保育園を経営しており境内のど真ん中は保育園のグランドになっている。山門から入ると柵があり、本堂に向かうには柵を越える(またぐ)必要があり、いかにも不法侵入者っぽくなる。通常の入口は別にあるのだが、気づかなかった。

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藤岡市岡之郷の温井熊野神社。

温井熊野神社 (1)
温井熊野神社 (2)
温井熊野神社は応永19年(1412年)頃、熊野権現として創建されたと考えられる。熊野神社となったのは江戸時代末の天保14年(1843年)。

温井熊野神社 (3)
社殿はなく石祠のみだが、合祀されてる各社が整然と並んでいる。熊野神社の祠は寛文7年(1667年)の建立。

温井熊野神社 (4)
境内は平成9年(1997年)に整備されており、どれか分からなかったが応永19年銘の宝塔があるらしい。

創建以来、地域住民の崇敬厚く今日に至っている。

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藤岡市岡之郷の無量山光蓮寺。

光蓮寺 (1)
光蓮寺は正保元年(1645年)僧・大徳の開基と伝わる。

光蓮寺 (2)
光蓮寺 (3)
山門、本堂の建立年などは分からない。

光蓮寺 (4)
山門前の六地蔵は昭和63年(1988年)建像。

光蓮寺 (5)
同じく山門前の文殊菩薩像。まだ新しそうだが、文殊菩薩と言うと釈迦如来の脇侍(左脇侍、右脇は普賢菩薩)のイメージが強いが、最近は独尊として祀らるケースを多く見かける。文殊菩薩の「智慧」から、学業成就のご利益があるとされるからかな。

光蓮寺 (6)
境内に碑が並んでいるよう見えたが、すべて英霊のお墓であった。先の大戦で散った英霊を、墓地ではなく境内で慰霊している。先の大戦に関していろいろ意見もあるかと思うが、祖国のために散った英霊には感謝しかない。

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