Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 富岡市・甘楽郡


富岡市七日市の稲部市五郎種昌の顕彰碑。

稲部市五郎の碑
稲部市五郎種昌の碑は、種昌が地元の医学発展に貢献したとして、昭和6年(1931年)甘楽富岡医師会が建立したもの。(稲部市五郎種昌は「稲部市五郎種昌の墓 -金剛院-」参照)

種昌については「金剛院」の記事でも書いたが、種昌が蘭学の知識(特に薬や医術)を持っており、七日市藩医に獄中から伝授することで、藩内医学が大きく向上したとされる。それは七日市藩(甘楽富岡)内に多数の蘭学医が誕生したことでも分かる。

明治元年(1868年)には恩赦により、種昌の罪は許されている。ちなみに、この碑が建っているのは七日市藩の牢獄跡である。

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富岡市七日市の蛇宮山金剛院慈眼寺。

金剛院 (1)
金剛院 (2)
金剛院 (3)
金剛院は七日市藩前田家の崇敬社である蛇宮神社の別当寺として明応元年(1492年)慈眼上人の開山。

金剛院 (4)
参道にある名号塔。「南無阿弥陀仏」と刻まれている。元禄4年(1691年)の建立で、県内でも最古の名号塔。明治44年(1911年)に七日市の観音堂から金剛院に移されたもの。

金剛院 (5)
境内にある「極楽浄土池」。浄土橋の向こう側に阿弥陀如来を中心に、勢至観音と観音菩薩。橋の手前には9つの蓮があしらわれている。

金剛院 (6)
金剛院 (7)
境内の「水かけ不動尊」と「愛で地蔵」「なかよし地蔵」。余り広くない境内にいろいろある。

金剛院 (8)
稲部市五郎種昌の墓。
種昌は江戸時代末の文政11年(1828年)に発生したシーボルト事件に連座し、幕府から七日市藩に永牢を申し付けられ、天保11年(1840年)に獄死している。

シーボルト事件とは、オランダ商館付きの医師・シーボルトが帰国直前、所持品の中に国外持ち出し禁止の日本地図が見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか数十名が処分された事件。

種昌はオランダ語の通訳で、景保から預かった日本地図をシーボルトのもとに運んだとされる。稲部は荷物の中身を知らなかったとされるが、永牢という厳罰となった。

当時の七日市藩主・前田利和(としよし)が密かに金剛院に葬った。罪人を弔うことは許されない時代であったが、藩主自らが禁を破ったことになる。それは種昌が蘭学(特に薬や医術)の知識を持っており、七日市藩医に獄中から伝授することで、藩内医学向上に貢献したからとされる。

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富岡市星田の三室山伝宗寺。

伝宗寺 (1)
伝宗寺の由緒は不明。

伝宗寺 (2)
伝宗寺 (3)
山門に「DENSOJI TEMPLE」とあった(笑)。外国人の参拝客が来るのだろうか?

伝宗寺 (4)
伝宗寺 (5)
横に広い立派な本堂。

伝宗寺 (6)
伝宗寺 (7)
本堂裏手の「観音坂 人生峠」を登って行くと「平和観音」がある。戦地に散った英霊をお祀りする趣旨が書かれていた。平成10年(1998年)の建立。

伝宗寺 (8)
橋本暮村の墓。
暮村は地元星田地区の出身の童謡詩人。大正14年(1925年)から小野小の教師を務めるかたわら、上毛新聞や全国誌「赤い鳥」に作品を発表し、その素朴な音律性で童謡詩人として声価を得ていた。代表作は「土筆を摘んで」「道忘草」「薬屋さん」など。昭和7年(1932年)25歳の若さで病没している。

大塩湖畔の「いしぶみの丘」には、「土筆を摘んで」の歌碑も建っている。

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富岡市星田の虚空蔵堂。

星田虚空蔵堂 (1)
星田虚空蔵堂 (2)
星田虚空蔵堂 (3)
虚空蔵堂は岩棚の山の中腹にある「満願窟」に包み込まれるように建っている。本尊が何でも願いをい叶えてくれることから「満願虚空蔵菩薩」と呼ばれているので、「満願窟」と言われている。

星田虚空蔵堂 (4)
お堂と岩の隙間から裏側に入ることができる。

星田虚空蔵堂 (5)
堂内に虚空蔵菩薩像は安置されていない。通常は近くの伝宗寺に安置されており、年に1度(例祭:1月第3日曜)お堂に移されご開帳される。

仁寿4年(854年)に慈覚大師が当地を訪れたところ、田んぼの井戸から星が出て、このお堂の場所まで飛び菩薩が現れたと伝えられている。慈覚大師がその菩薩像を彫り、岩窟に安置したという。星田という地名の由来でもある。

ちなみに慈覚大師は入唐八家のひとり。唐に留学した高僧ということ。他には最澄や空海が数えられている。

星田虚空蔵堂 (7)
境内にある名号塔。宝暦13年(1763年)妙善法尼の建立。芝増上寺の大僧正・佑天上人の自筆の名号を刻んでいる。宝暦13年は佑天上人の没後45年目。高さ273cmと大型で、石材は「満願窟」と同じ凝灰岩製。

何でも叶うなら、来年は参拝してみようかな。

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甘楽郡甘楽町天引の笠塔婆。
以前紹介した笠塔婆と同じ天引地区にある。(「甘楽町・天引の笠塔婆と板碑」参照)

笠塔婆 (1)
笠塔婆は地元で産出する天引石(砂岩)で造立されている。総高174cm(基礎高62
cm、塔身高105cm、笠石高7cm)、幅は塔身下部で40.5cm、上部で36.5cm、厚さ21cmの扁平角柱状である。

笠塔婆 (2)
塔身正面を輪郭線で囲み、その中の上部中央の蓮坐上に阿弥陀如来、向かって右下に観音菩薩、左下に勢至菩薩の阿弥陀三尊種子を刻んでいる。その中央下に正安元年(1299年)の銘があり、これは群馬県内で3番目に古い笠塔婆である。

さらに塔身向かって右側面下部に不動明王、左側面に愛染明王の種子が薬研彫りで刻まれている。

平成6年(1994年)に笠塔婆の崩落を防ぐため保存修理等が実施されている。風化を防ぐためには覆屋も付けた方がいいね。

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富岡市下高瀬の鳳来山光厳寺。

光厳寺 (1)
光厳寺の開基は光厳天皇(北朝初代)、開山は永平寺8世・鷹林喜純禅師とされる。

光厳天皇は後醍醐天皇の失脚を受け皇位に就いたが、鎌倉幕府滅亡により復権した後醍醐天皇によりその即位を否定されてしまったため、歴代天皇には含まれず、北朝初代として扱われている。なぜ北朝の光厳天皇が開基しているのか不明である。足利氏とつながりがあるのかな?

光厳寺 (2)
光厳寺 (3)
楼門には毘沙門天(多聞天)と持国天が鎮座している。

光厳寺 (4)
光厳寺 (5)
楼門は2階に登れるようになっており、楼上には釈迦三尊を中心に十六羅漢が安置されていた。

光厳寺 (6)
光厳寺 (7)
石段を登って行くと唐門(四脚門)がある。

光厳寺 (8)
光厳寺 (9)
境内(本堂前)には芝生が植えられていた。

仮面ライダーゴースト (1)
光厳寺は仮面ライダーゴーストの大天空寺のロケ地である。この情報を仕入れたので、わざわざ日曜の朝8時から観ちゃったよ(笑)。

仮面ライダーゴースト (2)
仮面ライダーゴースト (3)
仮面ライダーゴーストに出てくる光厳寺の空撮と本堂。

仮面ライダーゴースト (4)
観てたら見たことあるような光景が。この戦闘シーンは、多分太田市藪塚町の石切場跡だ。(「静寂の廃墟神殿・・・って感じ -太田藪塚・石切場跡-」参照)

仮面ライダーゴースト (5)
ロケ協力に光厳寺と藪塚温泉・ホテルふせじまが出てたので、合ってると思うよ。

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富岡市妙義町菅原の陽雲寺。

陽雲寺 (1)
陽雲寺 (2)
陽雲寺 (3)
陽雲寺は高田氏が天正10年(1582年)に北条氏に従い本拠を高田城に移した際の居館跡といわれる。開基は高田憲頼。

高田氏は源頼政(源三位)の子・盛員を祖とし、甘楽郡菅野荘高野郷に移り住んで高田氏を称している。高田氏は源氏の一族ということになる。盛員は建久元年(1190年)、源頼朝が上洛した際に随行している。

陽雲寺 (4)
本堂裏を流れる沢が水堀跡かもしれない。これ以外には館の遺構らしきものは確認できない。

陽雲寺 (5)
梵鐘を寄付したのはセガサミーホールディングスの会長(兼社長)の里見治(はじめ)氏。

陽雲寺 (6)
高田憲頼の墓。
憲頼は長尾景虎(上杉謙信)に従っていたが、永禄4年(1561年)に武田信玄の軍門に降っている。武田氏滅亡後は北条氏に従っている。その北条氏も天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めによって没落。高田直政(憲頼の孫)は高田城を離れ信濃塩田村に移っている。直政は徳川家康の召し出され、高田氏は旗本として江戸時代を生き残っている。

陽雲寺 (7)
境内にあったフクロウとカエルの像。不苦労(苦労を運び去り幸運を呼ぶ)と無事帰る(安全祈願や貸したものが返る)の揃い踏み(笑)。

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富岡市妙義町菅原の菅原神社。

菅原神社 (1)
菅原神社は天暦4年(950年)の創建と伝えられ、祭神は菅原道真で神像は道真が25歳の時に自ら彫ったといわれる。

菅原神社 (3)
菅原神社 (4)
細く急な石段を登って行くと神門が見えてくる。

菅原神社 (5)
菅原神社 (6)
本殿は寛政8年(1796年)に落雷で焼失したものを、その後松平氏が文政5年(1822年)に再建したもの。三間社の形式で、屋根は身舎に千鳥破風、向拝軒唐破風が付き、屋根はもともと茅葺であった(現在は銅板葺)。

菅原神社 (7)
菅原神社 (8)
彫刻は細部にまで意匠をこらしており、江戸中期の建築様式を残す。意外と言っては失礼だが、けっこう豪華な彫刻類。

菅原神社 (9)
外部の板壁に彫られた彫刻は妙義神社本殿の影響を受けているとされる。
(妙義神社は「本殿の修理が完了しました -妙義神社 その2-」参照)

菅原神社 (10)
千鳥破風には鬼面の彫刻が付き、他に類例がない。鬼面彫刻の背面には延享4年(1747年)の銘があることから、焼失前の鬼面を再利用したと考えられている。

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甘楽郡下仁田町馬山の不通(とおらず)渓谷。

不通渓谷 (1)
鏑川にかかる不通橋の上流に、20m以上の崖が約500mも続いている。この辺りを不通渓谷というらしい。なぜ不通(とおらず)なのか由来は知らないが、昔は橋もなく河原へも降りられず渡れない(通れない)からかな。

ちなみに、行ったときは橋のたもとで崖が崩れたらしく、本当に不通となっていた。

不通渓谷 (2)
不通渓谷 (3)
不通渓谷 (4)
泥岩や砂岩が露出しており、確かに渓谷っぽい。この付近は下仁田構造帯の中心部で、南蛇井層が広く分布しているらしい。

不通渓谷って全然知らなかったけど、けっこう壮観な眺めだった。紅葉の時期には訪問客も多いという。

不通渓谷 (5)
不通渓谷 (6)
不通橋から下流側を見ると、一転川の流れは穏やかになっている。岸辺の岩の上に鳥が止まっていた。知識がないので種類は分からず。

不通渓谷 (7)
もう少し良い写真が撮れる場所はないかと、ちょっと橋からそれて農道みたいな所に入ってみた。イノシシ用と思われる罠があった以外は逆に渓谷が見えずらいという結果だった。けっこう草にまみれた。

この記事を書くためにいろいろ調べていたら、不通橋は心霊スポットになっているらしい。橋を渡る際に幽霊を目撃したとか、橋の下から携帯の着信音が聞こえたとか、いくつか噂があるらしい。

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甘楽郡下仁田町馬山安楽地の板碑。

安楽地の板碑 (1)
安楽地の板碑 (2)
馬山安楽地のお堂の中にある板碑は、碑高125cmで緑泥片岩に薬研彫りしてあり、種子も蓮座の連弁・蓮実もはっきりしていて美しい。下仁田町内の板碑では一番大きく形態的にも整っている。

この板碑の尊守は阿弥陀三尊で、製作年は貞治7年(1368年)とある。下仁田町では最も古い板碑である。

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富岡市一ノ宮の貫前神社の前にある名もなき公園。

貫前神社前公園 (1)
いろいろ調べたけど、公園の名前は分からず。もしかしたら本当に名前がない?? もしかしたら貫前神社参道の脇にあるので、貫前神社の境内の一部になる? よく分かんないけど、貫前神社に来たついでに、碑がたくさん建っていたので覗いてみた。
(貫前神社は「ゆかりは古し貫前神社 再訪」参照)

貫前神社前公園 (2)
小金澤喜与治翁の胸像。
群馬県コンニャク組合理事長、群馬県養蚕販売農業組合連合会長、蚕糸業界協会長、蚕糸価格審議員などを歴任した方らしい。

貫前神社前公園 (3)
岡部栄信翁 頌徳碑。
岡部栄信は、丹生村村長や群馬県公安委員を務め、大正時代に丹生電気株式会社を中心になり設立し農村開発を行い、戦後は石門心学の著書などを著しているらしい。

貫前神社前公園 (4)
戦利兵器奉納の碑。
全部読めたわけではないが、日露戦争(明治37、8年の役とある)で何か戦利品を得た記念碑? 陸軍大臣 寺内正毅 とある。

貫前神社前公園 (5)
昭和天皇の行幸記念碑。
昭和9年(1932年)に昭和天皇は陸軍特別大演習に行幸された際、貫前神社を参拝している。

貫前神社前公園 (6)
恭仰神恩之碑。ちょっと分からない・・・。

貫前神社前公園 (7)
兜石。兜に似ているから兜石?? これもよく分からない。

ちょっとした遊具もあり、面白い公園(?)だ。

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富岡市一ノ宮の貫前神社。上野国の一之宮である。

上毛かるた紀行「ゆかりは古し貫前神社」で訪れた際(2010年9月)は平成の大修復中で社殿を見ることができなかった。そこで、約5年ぶりに再訪してみた。
(上毛かるた紀行「ゆかりは古し貫前神社」参照)

貫前神社 (1)
貫前神社の創建は安閑天皇元年(531年)、鷺宮(現、安中市の咲前神社)に物部姓磯部氏が経津主神(ふつぬしのかみ)を祀ったのが始まりといわれる。
(「養蚕の神の白いヘビがいる? -咲前神社-」参照)

貫前神社 (2)
総門脇の唐銅製燈籠(一対)は、群馬県をはじめ近県各地の養蚕農家、製糸業者が、その繁栄を願って奉納したもの。慶応2年(1866年)建立。献納者は1544名、献納額は4790両にのぼる。

貫前神社 (3)
貫前神社 (4)
総門から石段を下り楼門にいたる光景(上から見下ろす)は、上毛かるたの絵札にもなっており、群馬県民にはなじみ深い。

楼門は入母屋造り、銅板葺き。元禄11年(1688年)に大修理が加えられ、昭和4年(1929年)には柿板葺きから現在の銅葺きとしている。

貫前神社 (5)
貫前神社 (6)
貫前神社 (7)
現在の社殿は、寛永12年(1635年)徳川家光の命により建立された江戸時代初期の漆塗りで極彩色の造りである。拝殿は入母屋造り、平入、檜皮葺き、正面は唐破風二重重縁、周囲は腰高窓が廻らされている。

本殿は入母屋造り、妻入り、檜皮葺き。明治5年(1872年)以降に屋根の葺き替えが5回、彩色の塗り替えが4回行われ、昭和3年(1928年)に解体修理がなされている。

今回、平成21年(2009年)から5年かけて行われた平成の大修復も終わり、拝殿・本殿とも美しい姿に甦っている。

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富岡市妙義町下高田の高太(たかた)神社。

高太神社 (1)
高太神社 (2)
高太神社は弘仁年間(810~24年)の創建とされる。弘仁と言えば平安時代。その後、長禄2年(1458年)に再建されたと伝えられている。

高太神社 (3)
高太神社 (4)
高太神社 (5)
鳥居をくぐり石段を登ると、直交する形で社殿が建っている。鳥居は北向に建っており、社殿は東向きとなっている。

高太神社 (6)
高太神社 (7)
本殿は覆屋で見えないので、拝殿から覗いてみた。

本殿は身舎(もや)桁行約120cm、身舎梁間130cmで、それに向拝梁間約120cmが付き、軒高約280cmと小さな造りである。春日造りで屋根は向拝に軒唐破風を付け全面こけら葺となっている。また、すべて彩色を施さない木地である。

軒札から寛政5年(1793年)の建立。

高太神社 (8)
ちょっと傷みが激しい神楽殿。軒の上の方に産額が奉納されていた。とはいえ、もうほとんど読めない。調べてみたところ、明治22年(1889年)に関流・矢島喜三郎他の奉納。

神楽殿は、ぼちぼち修復しないとやばいような気がするけど・・・。

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甘楽郡甘楽町福島の天王塚古墳。

天王塚古墳 (1)
天王塚古墳は神明塚とも呼ばれ、全長76mの前方後円墳で、5世紀初頭の築造と推定され、鏑川流域に分布する前方後円墳の中では1番古いものである。

前方部幅39m、高さ7.5m、後円部径約50m、高さ10mで、後円部が前方部より高くなっている。

天王塚古墳 (2)
後円部には舞台のような建物があった。何??

天王塚古墳は彦狭島王の墓という伝承がある。彦狭島王は豊城入彦命の孫。豊城入彦命は崇神天皇の第1皇子で、東国を平定し毛野氏の祖といわれる人物。(彦狭島王は上毛野氏の祖といわれる)

彦狭島王の墓との伝承がある古墳には、三島塚古墳や将軍塚古墳などがある。
 「彦狭島王の墳墓? -三島塚古墳-
 「彦狭島王の墳墓? その2 -将軍塚古墳-

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富岡市田篠のしの塚古墳。

田篠しの塚古墳 (1)
田篠しの塚古墳 (2)
田篠しの塚古墳は現在地から100mほど南西にあったが、国道254号バイパス工事に伴い当地に移築復元されている。もともとは直径19m以上の円墳であったが、移築復元する際、直径14mに縮小されている。

中は盛り土だが表面全体に平たい石を貼った造りになっている。7世紀頃の築造と推定される。

田篠しの塚古墳 (3)
田篠しの塚古墳 (4)
石室はもとのまま復元されている。玄室は幅2m、長さ4.4m、高さ2mで、羨道を含めると7.8mになる。天井石は既になかったが、壁の石は砂岩、結晶片岩、安山岩などで組まれており、一番大きいものは3.7トンの重さがある。

田篠しの塚古墳 (5)
石室からは人の歯や耳飾りが複数発掘されており、5人以上の遺体が納められていたと考えられ、当時の有力氏族の家族墓と推定される。

国道254号バイパスの工事では、他に6基の古墳も発掘調査されたが、しの塚古墳以外は調査後に壊されている。もったいない。

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富岡市上黒岩の平等山遍照寺。

遍照寺
遍照寺は貞和元年(1345年)新田義一の開基といわれる。新田義一は、新田義貞の長男・義顕の子といわれる。義顕は義貞とともに戦い、越前金ヶ崎の戦いで自害している。義顕は自害時20歳であり、子がいてもおかしくない年齢であったが、義一に関しては真偽不明である。

黒岩の大日堂 (1)
黒岩の大日堂 (2)
黒岩の大日堂 (3)
大日堂は遍照寺第一世・西念が貞和4年(1349年)に建立した。山門(楼門)は仁王様が鎮座し2階には鐘がある。

黒岩の大日堂 (4)
楼門は2階へ登れるようになっており、鐘を真近に見ることができる。

黒岩の大日堂 (5)
黒岩の大日堂 (6)
大日如来を安置する大日堂。何度か焼失しているが、安永9年(1790年)に再建されている。

黒岩の大日堂 (7)
黒岩の大日堂 (8)
大日堂の縁の下に潜ると、麻疹(はしか)が軽くすむという霊験があるといわれる。オレはとっくの昔にすんでいるので潜らなかったけどね。

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甘楽郡甘楽町天引の笠塔婆と板碑。

甘楽町・笠塔婆 (1)
笠塔婆とは上部に笠石を載せた卒塔婆で、板碑と同じ意味を持つ供養塔であると考えられる。県内でも20基程が確認されているが、同所にまとまってあるのは珍しい。

甘楽町・笠塔婆 (2)
笠塔婆と板碑は4基とも地元で産する天引砂岩で造られ、笠塔婆は東向き、板碑は南向きに建立されている。高さはみな110cm前後で、すべてに正安4年(1302年)の銘がある。

笠塔婆・板碑の塔身正面には、阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の阿弥陀三尊種子を表す梵字が薬研彫りで刻まれている。また、向かって左から2番目と3番目の笠塔婆には、塔身左右側面に五輪塔発心門を表す梵字も刻まれており、阿弥陀三尊種子と発心門を示す梵字が刻まれている笠塔婆は、県内ではこの2基のみである。

平成6年(1994年)に笠塔婆の崩落を防ぐために保存修理が行われ、覆屋も構築されている。

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甘楽郡甘楽町庭谷の庭谷城址。

庭谷城址 (1)
庭谷城址 (2)
庭谷城址 (3)
庭谷城は、東流する鏑川が大きく屈曲して断崖をつくり、奈免沢と
合流する部分に位置し、鏑川右岸の断崖上に立地する。
鏑川との高低差は約20mある。

規模は東西80m、南北140mあり、東側は断崖、南側は比高差
約15mの奈免沢に面し、北側の3分の1は南側より5mほど低い。

虎口は本丸西側のやや南寄りにあり、追手は本丸より約50~60m
西側にあった。堀は南側と西側にあったが、近年埋められてしまった。

庭谷城址 (4)
庭谷城址 (5)
本丸は40m四方で、土塁がめぐっていた。現在は赤城神社が祀られ
ている。

庭谷城は国峯城の支城で、小幡氏の重臣・庭屋左衛門大夫兼行が
城主だったといわれる。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原
攻めに際し、国峯城とともに落城した。

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甘楽郡甘楽町庭谷の五輪塔群。
庭谷城主・庭屋氏代々の墓石と伝えられている。

庭谷の五輪塔 (1)
6基の五輪塔はいずれも直線的で豪壮な軒型をしており、鎌倉時代末から室町時代初期の特徴がみられる。石材は、向かって1番右・2番目・4番目が鏑川岸に露出する凝灰岩で、その他は天引砂岩である。

向かって右から4番目は建武3年(1336年)、3番目のものは観応元年(1350年)の銘が刻まれている。観応は北朝の元号(南朝は正平)なので、当時は既に北朝の勢力下にあったと考えられる。

古くに移動され窮屈な配置となっていたが、平成12年(2000年)に当所に再移動し、覆屋が架けられた。

庭屋氏についてはよく分からないが、小幡氏の一族のようだ。豊臣秀吉による小田原攻めの時、国峯城と庭谷城の守備をしていたのが、庭谷城主・庭屋左衛門大夫兼行といわれる。

庭谷の五輪塔 (2)
庭谷の五輪塔 (3)
五輪塔群は庭屋氏開基と伝えられる庭谷山慶恩寺の如来堂前にある。本堂は平成2年(1990年)の新築。

庭谷の五輪塔 (4)
庭谷の五輪塔 (5)
如来堂には阿弥陀如来像が鎮座していた。

この五輪塔群は甘楽町の重文に指定されているため、現地に解説板が設置されており、また甘楽町のHPにも解説がある。ところが、その内容が違うのだ。どっちを信用しようかと迷ったが、とりあえず現地解説板の内容を元に書いてある(深い意味はない)。

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富岡市宮崎の宮崎神社。

宮崎神社 (1)
宮崎神社は、元は広鉾神社と言われ、ご祭神は大国主命。明治40年(1907年)に諏訪神社、白山神社とここにあった広鉾神社が合祀され宮崎神社になった。

宮崎神社 (2)
宮崎神社 (3)
宮崎神社 (4)
現在の社殿は、合祀の時に田島の和合神社の社殿を移築したもの。

宮崎神社 (5)
境内の大杉は樹齢は約800年で、樹高約25m、目通り7.6mの巨木。枝張りは東西12m、南北15mで、先端は20m付近で6、7本の太い枝に分かれて樹冠を形成している。富岡市内では貫前神社の藤太杉と同年代とされる。

この大杉があったので、この地に3社を祀ったといわれる。とみおか名木10選に選ばれている。

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富岡市上高瀬の寶琳山薬師寺。

薬師寺 (1)
薬師寺 (2)
薬師寺の創建は不明だが、本堂(薬師堂)は天保3年(1832年)の建造と記された棟札が存在している。

薬師寺 (3)
薬師寺 (4)
薬師堂の様式は江戸時代に長野県諏訪地方で成立した、建築彫刻に重点をおいた大隅流様式の仏堂である。三間×三間の入母屋造に、軒唐破風の向拝一間を備えている。

向拝正面の頭貫上部や繋虹梁、手狭、木鼻、身舎の頭貫といった部分の優れた彫刻は、大隅流様式の特徴を良く伝えている。

昭和51年(1976年)に屋根や背部等の一部が改修されたが、富岡市内の残る数少ない大隅流の社寺建造物として、貴重な存在である。

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富岡市上高瀬の横瀬八幡宮。

横瀬八幡宮 (1)
横瀬八幡宮は慶長18年(1613年)に、この地域の人々によって創建された。貞享3年(1686年)に建て替え、正徳3年(1713年)に修理が行われたことが棟札によって判明している。

横瀬八幡宮 (2)
横瀬八幡宮 (3)
社殿は一間社流造りの構造で、屋根は古くは檜皮葺であった。絵様、彫刻、蟇股の形式など質素で、落ち着いた意匠をあらわしているなど、室町時代末期から桃山時代の様式を伝えてる。

群馬県で現存する一間社流造りの社殿は、類例も少なく貴重なものである。

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甘楽郡下仁田町南野牧の荒船風穴。
荒船風穴は「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録された構成遺産のひとつ。

荒船風穴 (1)
荒船風穴 (2)
荒船風穴は明治から昭和初期にかけて、天然の冷風を使用して蚕種を貯蔵した施設。

荒船風穴 (3)
荒船風穴 (4)
明治38年(1905年)、地元の養蚕農家の庭屋静太郎により建設された。日本で最大規模を誇る貯蔵施設として運営され、日本全国を相手に事業を展開していたという。

荒船風穴 (6)
荒船風穴 (7)
荒船風穴 (8)
現在でも操業当時と変わらぬ冷風環境が維持され、肌を通じて史跡を体感することができる。夏に行けば、冷気が霧状に見える(らしい)。

荒船風穴 (9)
操業当時を復元したジオラマ。現在残る石積みの上に覆屋を設置し、中は3室構造になっていた。

養蚕貯蔵技術の革新によって、蚕の優良品種の開発とその普及に重要な役割を果たしたことが評価され、荒船風穴が世界遺産に登録されたことは大変喜ばしいことだ。

ただ、お気軽に行ける場所じゃないね・・・。

荒船風穴 (10)
いつもは遠くからボンヤリ眺めている荒船山が、こんな近くに。

荒船風穴 (11)
細い山道をクネクネ登って行き、やっと着いた駐車場からは急な坂道を800mほど下る。ということは帰りは上り。下りは足にきつい。上りは純粋に疲れる。良い天気だったので、汗びっしょりになった。

荒船風穴 (12)
途中には「熊出没注意」の看板。下仁田町のHPには、熊に出会ってしまった時の注意事項が書いてある。

荒船風穴 (13)
休憩用のベンチが数か所にある。

あと、風穴周りでは携帯電話は繋がらないので、そのつもりで。

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富岡市一ノ宮の尾崎山光明院阿弥陀寺。

光明院 (1)
光明院 (2)
光明院 (3)
光明院は貫前神社の別当寺であった。

光明院 (4)
山門脇に「群馬自由民権の碑」が建っている。当時(明治17年:1884年)の住職・日々遜が自由民権運動の活動家であったため、3月の演説会に1000人の群衆が集まるなど、5月の群馬事件の発端となったから。(但し、人数は数十人から200人、1000人と諸説ある)

群馬事件というのは、自由党急進派と農民による自由民権運動の激化事件。自由党の急進派が農民の不満を利用し政府転覆を計画したものである。

ただ、結局は丹生村(現富岡市上丹生)の岡部為作邸を打ち壊した程度で終息した。
(岡部家は「地方商人の家宝(?) -岡部温故館-」参照)

農民の困窮からくる不満を利用し、自らの野望を達成しようとする手段はオレ的にはまったく受け入れられない。現在この手法は左翼に受け継がれており、住民の行政に対する反対運動が起こると、どこからともなく左翼活動家が現れて、その活動自体を乗っ取って行き、いつの間にかイデオロギー闘争に化けてしまうのだ。

古くは三里塚(成田)、最近では沖縄の基地問題などは典型である。住民たちの純粋な不満の解消は置き去りにされ、政治闘争化してしまうことになる。なので、現実的な対策がとられず、結局住民たちの不満は最後まで解消されない。

光明院 (5)
碑文もきれいごとしか書いてない。まあ、あからさまなことは書けないのは、分かっているけど・・・。

*決して自由民権運動全体を否定するものではないので誤解なきよう

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富岡市一ノ宮の堂山稲荷古墳。

堂山稲荷古墳 (1)
堂山稲荷古墳 (2)
堂山稲荷古墳は全長約50mの前方後円墳。すぐ脇を通っている上信電鉄の線路で削平されていたり、梅の植林や公園化のため変形をしているが、前方部幅38m、高さ5.5m、後円部径30m、高さ6.5mの規模となっている。築造年代は6世紀頃と推定される。

平成2年(1990年)の発掘調査で、墳丘の北側に2重の周堀が確認されている。また、墳丘面には葺石や埴輪も確認されており、埴輪については円筒埴輪以外に器材や人物などの形象埴輪も存在している。

堂山稲荷古墳 (3)
堂山稲荷古墳 (4)
墳丘上には堂山稲荷神社が鎮座している。

一ノ宮地区は鏑川の段丘にあたり、数多くの古墳が点在しているが、原型を留めているものは少ない。堂山稲荷古墳はその中でも保存状態が良く、貴重な存在である。

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富岡市七日市の前田家御宝塔。

前田家御宝塔 (1)
七日市藩の10代藩主・前田利和(としよし)が、初代藩主・利孝の二百回忌にあたり、天保10年(1837年)に建立した元祖廟。現在、御宝塔と呼ばれている宝篋印塔が残されている。

前田家御宝塔 (2)
前田家御宝塔 (3)
宝篋印塔は、高さは4.5m、基礎の幅と奥行は94cmあり、利孝の諡(おくりな)と生年月日、梅鉢の家紋が刻まれている。また、基礎の左側面から裏面・右側面にかけて利孝の実績を後世に伝える銘文が記されている。

前田家御宝塔 (4)
前田家御宝塔 (5)
元祖廟のあるこの丘は「七日市7号古墳」と呼ばれ、古墳時代後期に築造された直径30mの円墳である。

七日市藩陣屋(現、富岡高校)の西辺の石垣に当たる場所で、蛇宮神社のすぐ西になる。

七日市藩前田家関連
県立富岡高校内にあります -七日市藩陣屋跡-
七日市前田家の崇敬社 -蛇宮神社-
七日市藩主の菩提寺 -長学寺-
前田利家側室・明運尼の墓 -永心寺-

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富岡市一ノ宮の社会教育館。
貫前神社の東となりにある。

富岡市社会教育館 (1)
富岡市社会教育館 (2)
富岡市社会教育館は、昭和11年(1934年)「東国敬神道場」として建築された近代和風の建物である。

富岡市社会教育館 (3)
富岡市社会教育館 (4)
富岡市社会教育館 (5)
昭和9年(1932年)に行われた陸軍特別大演習に昭和天皇が行幸され、貫前神社を参拝された。これをきっかけに県民運動が起こり建設の運びとなった。

富岡市社会教育館 (6)
富岡市社会教育館 (7)
富岡市社会教育館 (8)
富岡市社会教育館 (9)
建設後は群馬県に移管され、県民一般の精神修養の場となった。戦後は「群馬県公民会館」や「群馬県立社会教育館」と改称され、宿泊型の教育施設として県民に利用されてきた。平成17年(2005年)に富岡市に移管されている。

日本の伝統的な建築要素を各所に採用し、和風を強調した見事な建築で、昭和初期の時代背景をうかがい知る貴重な建築物である。

富岡市社会教育館 (10)
それにしても規模が大きい。長い廊下が趣きを増幅しているように感じた。

平成20年(2008年)には国の登録有形文化財に指定されている。

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甘楽郡甘楽町大字白倉の甘楽古代館。

甘楽古代館には2011年に1度行ったんだけど、土日・祭日が休館日だって知らなくて(行ったのは土曜日)、見学できなかったんだよね。
(「土日・祭日は休館って・・・ -甘楽古代館-」参照)

まあ、平日にわざわざ行くこともないな、って感じだったんだけど、富岡市(甘楽町の隣)に行く用事があったことと、その後時間が空いたので寄ってみた。

甘楽古代館 (1)
甘楽古代館 (2)
木造倉庫建築を代表する東大寺の正倉院を思わせる外装(という振れ込み)。

甘楽古代館 (3)
甘楽古代館 (5)
甘楽古代館 (4)
甘楽古代館 (6)
甘楽古代館 (7)
旧石器時代(約1万年前)から鎌倉時代(約700年前)までの石器、土器や埴輪などの出土品が展示されている。

展示物もけっこう多く、それなりに見られた。

ただ、発掘した遺跡や古墳のほとんどは残ってないようだ。現在は、ゴルフ場、特養老人ホーム、福祉センター、体育館に陸上競技場などに、その姿を変えている。

まあ甘楽町に限ったことではないが、なかなか遺跡や古墳を残すのは、よほどのこと(世紀の大発見!)がないと、難しいということだね。

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富岡市妙義町妙義の妙義神社。

2007年(平成19年)9月の台風により本殿の裏山が崩れ、長期にわたり本社の見学できなかったが、昨年12月に修理が完了、参拝可能となったので再訪した。
(「本殿は修理中でした・・・ -妙義神社-」参照)

妙義神社 (1)
妙義神社 (2)
妙義山の主峰、白雲山の中腹にある。創建は宣化天皇2年(537年)といわれる。

妙義神社 (3)
総門。安永2年(1773年)の建造で、高さ12m。切妻造りの八脚門。なんで仁王様がいるかというと、もとは白雲山石塔寺の仁王門だったから。

妙義神社 (4)
前回はこの石段から上へ行けなかったんだよね。迂回路もあるんだけど、意地で石段(165段)を登る。

この石段は、2005年(平成17年)のNHK大河ドラマ「義経」で、鞍馬山の撮影が行われたことで有名。義経になったつもりで、駆け上がったのさ(ということにしておく)。

妙義神社 (5)
宝暦6年(1756年)の唐門。いろんな装飾が施されている。

妙義神社 (6)
妙義神社 (7)

妙義神社 (9)

妙義神社 (10)
本殿・幣殿・拝殿は代表的な権現造り。本殿は・拝殿はともに黒漆塗銅茸入母屋造りであり、拝殿は正面に千鳥破風をおき、その前に唐破風の向拝屋根を張り出している。

妙義神社 (8)
再建したのでは?と思うような「金ピカ」。柱の龍(獅子?)の金箔がすごくて・・・。光っちゃって細部がよく分かんない。羽目板壁の鳳凰は立派だった。

2010年(平成22年)8月以来、やっと参拝できた。

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甘楽郡南牧村大塩沢の黒瀧山不動寺。

黒瀧山不動寺 (1)
黒瀧山不動寺 (2)
黒瀧山不動寺 (3)
不動寺は約1300年前(奈良時代)に、行基が自ら彫刻した不動明王を安置し、一堂をもうけたのが始まりといわれる。その後は山岳信仰の山として栄え、延宝3年(1675年)潮音禅師が中興開山し、現在の姿になった。

黒瀧山不動寺 (4)
黒瀧山不動寺 (5)
不動堂の裏には、龍神の滝がある。落差は約20m。不動明王が滝に打たれている。

黒瀧山不動寺 (6)
龍神の滝は、裏側に行ける。横から見たら、不動明王は滝に打たれてなかった(笑)。

黒瀧山不動寺 (7)
開山堂は延宝5年(1677年)の建立だが、火災等により安政5年(1858年)の再建。中には潮音禅師の寿像などがある。

黒瀧山不動寺 (8)
すきまから写真を撮ったら、何かの像が写っていた。潮音禅師像??

黒瀧山不動寺 (9)
戦艦陸奥の羅針盤が合鋳されている梵鐘。和尚さんが「見事な音がするから、撞いてい行け」と言うので撞いてみたら、これが本当に素晴らしい音。しかもけっこう長い時間響いていた。

黒瀧山不動寺 (10)
標高870mの黒瀧山に建っているが、これがけっこう登って行く。駐車場に車を停めて、お寺までの最後の数百mの登り(歩き)が非常にきつい。

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